第8話

 麻璃を駅まで送った後、寄り道せずに帰宅した。駅から北へ少し戻って、幹線道路を西へ逸れる。この道は近隣の観光地へ向かうために用いられる道路でもあるから、道幅も広く、交通量も多い。そんな道路の脇に、我が満月家の家は建っている。ベージュ色の寸胴に色あせた紅色の屋根をかぶせた二階建ての家。砂利の敷かれた駐車場にはもう、白いステーションワゴンと赤い軽自動車が停まっていた。


「やれやれ……」


 両親ともに帰宅済みらしい。住み慣れた我が家なのに、帰宅するたびにどうしてこんなにも気を遣わなくてはいけないのか。深いため息をつきながら、合鍵を使って薄茶色の玄関扉を開けた。


「ただいま~」


 狭い玄関にスニーカーを脱ぎ捨てて家に上がる。ガラステーブルが置いてあるリビングに顔を出して、もう一度『ただいま』を言いかけて、息が止まった。


 ガラステーブルを囲うようにして、頭の禿げた父と太った母、そして、背の高い筋肉質の兄がクッションに座っていた。三人とも揃って不機嫌そうにして、眉を寄せて俺を見上げている。


「お前、ちょっとそこに座れ」


 兄がガラステーブルの脇に敷かれた丸いクッションを指差した。上京していたはずの兄が事前連絡もなしに帰省しているなんて、今まであり得なかったことだ。胸を圧迫してくるこの空気、何かよくないことを言われるのは容易に想像できる。


 ひとまず、言うことを聞いて様子を見よう。


 黙って通学鞄を床へ置き、テーブルから少しクッションを離して腰を下ろした。俺が座ったのを確認して、兄が口の端を持ち上げた。彼の手から、ガラステーブルに何かが投げ捨てられる。甲高い音を立てながら、テーブルの上を銀色の細長いものが転がった。


――ボイスレコーダー?


 兄がその中心にあるボタンを押した瞬間、全身に冷たい痺れが走り抜けた。


『俺って、昔から弱くてさ。兄貴には毎日のようにいじめられて泣かされっぱなしだったし、両親からもいろいろと制限されちゃっててね。ときどき、このまま大人になったら、俺、どうなるのかなって、不安になるんだ』


 レコーダーから発せられた声は俺のもの。ゴールデンウィーク最終日に、麻璃と電話で話したときのものだった。父が腕を組んでそっぽを向き、母がため息をつく。兄は口元を歪ませて、鼻で笑いながらもう一度レコーダーのボタンを押して、俺の声を止めた。


「高校に進学してからお前の様子がおかしいらしくて、母ちゃんが録音したんだと」


 太った母は俺の視線から逃げるように顔を逸らした。

 息子の会話をレコーダーで盗聴するなんて正気じゃない。どうしたら盗聴しようなんて気になるのか、親の狂気を理解できなかった。


「彼女に家族をこき下ろすようなこと言って、同情でもしてもらいたいのか?」


 衝撃と恐怖に口の中が渇く。梅雨の湿気も相まって、制服の下に嫌な汗をかいた。


 あの日、麻璃と交わした電話の内容はすべて録音されていたのだ。両親は俺に彼女ができたことを既に知っていて、苦手な兄まで呼んで俺を非難する場を設けたらしい。兄が学生時代のときは散々衝突していたくせに、こういうときには兄を使う。どんな方法を使ってでも俺に制裁を加えたいのか。


「親のすねをかじって生きてるくせに、何が両親に制限されてるだよ。おまけに俺にいじめられたとか、そんなことした記憶ないんだけど」


 記憶にないだと?

 お前が何か悪さをして両親に叱られた後、幼い俺を殴り、蹴り、棒で打って虐げ続けた過去は決して忘れない。一度や二度じゃない、虫の居所が悪ければすぐに俺を罵倒し、暴力を振るったくせに、記憶にないだと?


 幼い俺に意味不明な暴力を振りかざし、自分の力を示す道具にしていた日々。

 まだ幼く、抵抗できない弟に何をしたのか、記憶にないというのか!


 やり切れない悔しさに、強く歯を食いしばった。

 両親だって、俺が兄からいじめられていたことを認めようとしない。ただの兄弟げんかだと取り合わなかった。俺が幼いあの日、どれほど苦しんでいたかも知らないまま、自分たちの体裁が危うくなったらこうして一方的に責めるのか。


「親父や母ちゃんとも話したけどさ、とりあえずお前、家を出ろ。そうすりゃ、束縛されなくていいじゃん」

「な、何だと!?」

「何だとじゃねぇよ。親が気に食わないなら出ていけばいいっつってんの。どっちにしろ、俺が長男だし、家は俺がもらう。それから、お互い見てる前で連絡先も削除しようぜ。家出た後に泣きつかれても困るからな。別にお前が首吊ったって、ああ、やっぱり死んだか~、くらいで悲しまないから」


 俺が麻璃に電話で話をしたことは、そこまで罪深いことだったのか?

 家族関係で悩んでいる、それを恋人に相談することは、そこまで罪なことなのか?


 兄から言い渡された恐ろしい提案を前に、俺は頭が真っ白になった。しかも、これだけ恐ろしいことを言っているというのに、両親は何も言わない。これは無言の肯定。両親は、俺を放り出すつもりでいるのだ。

 黙っていた父親が、俺をにらみつけてきた。


「自殺なんてするなよ。……我が家が笑いものになるからな」

「ま、そうだな。親父たちと話し合った結果がこんな感じだ。もう二度と口きかないだろうから、何か言いたいことがあるなら言えよ。最後に聞いといてやるわ」


 これが。

 これが親か。兄弟か。

 これが、血の繋がった家族なのか。


 息子の会話を盗聴し、気に食わないことを家族全員で責めて追い込む。幼い頃から俺をいじめ続けた兄と、束縛し続けてきた両親の言葉。それは、暴力を振るわれる以上に俺の身体と心を切り刻んで、打ちのめし、砕いてきた。ぼろぼろになった心からは深い慟哭と絶望が姿を現して、どこまでも深い、先の見えない暗闇に落ちていく感覚がした。


 もう何も、言葉にすることができなかった。


「お前は所詮その程度なんだよ。親に甘えてんだから黙ってろ、ガキ」


 理不尽な暴力をぶつけ続けた兄。俺を縛り続けてきた両親。

 何て自分勝手なやつらなんだ。


 一か八か、泣き喚いてみるか?

 一か八か、暴れてみるか?


 家族が俺と縁を切ると言うのなら、もう、何をしたって構わないだろう。


 そうだ。

 それならいっそ。


 うつむいて、両手を強く握りしめる。深い絶望を通り越したとき、凍えそうな殺意が頭の中を飛び回って、俺の思考を痺れさせた。


 みんな。


 みんな、殺してやる。


 殺意で思考が麻痺した、そのときだった。


「それでこそ、私の旦那様です」


 心を埋め尽くす暗闇に声が響き、まぶしい光が差した。


 聞き間違えるはずもない。うつむいていた顔を上げて、リビングの扉を見た。

 艶やかな黒髪を後ろに流して、瞳を赤く燃やす青白い少女。


 叉神、麻璃。


 悪魔の子が、そこにいた。

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