第7話
麻璃との新しい学校生活が始まり、数週が過ぎた。ゴールデンウィークはとうに過ぎ去り、気がつけば高校に進学してから二か月が経とうとしていた。日ごと、肌に触れる空気は熱と湿気を帯びて、周囲からは梅雨を嘆く声が上がっている。化学室で起きた事故については話題も減り、クラスメイトたちも落ち着きを取り戻していた。あの女子たちが使っていた机には一時期花瓶が置かれていたが、今はもう撤去されている。梅雨を迎えて夏へ移ろうとしている季節なのに、主を失った机の周りはひんやりとしていて、不自然に冷えた空気が漂っていた。
六月も半ばに入った日の昼休み、彰と一緒に教室で昼食をとりながら夏休みの計画を話していた。学校にいる間はなるべく友人たちとの時間を優先するようにしている。麻璃とは移動教室の授業で隣同士だし、日中一緒にいられなくても、放課後にゆっくり時間がとれるからだ。これには麻璃も同意している。『響志郎くんとずっと一緒にいたいですけれど、それで友人関係をおろそかにしてはいけませんよね』と照れくさそうに笑っていたっけ。本当に可愛くてたまらない。
「ミスターフルムーン。今年の夏は海へ行かないか。ダブルデートってやつよ」
恋が叶った俺は、イケメン野郎こと彰にこういう話題を振られることが多くなった。幼い頃から仲良くしている俺の恋が叶ったことを喜んでくれているのか、自分の彼女も巻き込んで大いに盛り上がって遊びたいらしい。
「嬉しいお誘いだけどさ。満月家は三浦家ほど裕福じゃないし、自由もないのよ」
彰の家は両親が医者だ。毎日多忙な中でも家族関係は上手くいっているらしくて、彰もこんな社交的で心優しいイケメンに育っている。我が家も両親が共働きをしているが、家計が火の車なようで、ほぼ毎日金がないと父親の嘆きを聞いている始末だ。我が家の家計がどんなことになっているのか聞いても『子供がそんなことに口を出すな』と父親に怒鳴られてしまう。そんな家庭の事情もあって、支出になる部活や遊びは許されなくても、収入になるアルバイトの許可は下りている。近いうちにアルバイトを始めて、麻璃とのデート代は自分で何とかしなくては。
「それにさ、いくら彰と一緒でも、海に行くなんて遠出を許すわけがない。ウチの両親を知らないわけじゃないだろ?」
肩をすくめると、イケメンが残念そうに息をついた。眉間にしわを寄せて、渋い顔をしながら二度うなずく。
「そうだったな……。中三の花火大会ですら、様子を見に来るくらいだ。無理やり連れて行ったり、黙って出かけたりすれば、それこそ本当に外出禁止になるか。そうなれば、せっかく結ばれた叉神ちゃんとも会えなくなる」
「そういうこと。ただでさえ、彼女ができたんじゃないかって怪しまれてるんだ。余計な抵抗をして麻璃との時間を失いたくない」
「ああ、友よ。よく分かるぞ。俺もハニーとの時間を奪われたら発狂してしまう」
今はまだ、遠出はできなくとも近場の外出はできる。両親に内緒とはいえ、麻璃と会うことも何とかできているのだ。強引な行動を起こして状況を悪くするより、両親の顔色をうかがって慎重になるべきだろう。
食事を終えたイケメンが飲み干したカフェオレの紙パックを握りつぶした。
「……まったく。言っちゃ悪いが、ご両親といい兄上といい、お前の家族は曲者ぞろいだな。お前だけはまともでいてくれ、友よ」
「努力しよう」
苦笑いで返したら、イケメンも疲れたような、呆れたような笑顔を見せた。
帰り道。空は雨を降らせず、よく晴れていた。梅雨の時期に晴れると蒸し暑くて疲れてしまうものだが、麻璃と一緒ならそんな蒸し暑さも気にならなかった。俺と麻璃は仲睦まじく手を繋ぎ、駅へ向かっていた。初めて一緒に帰ったときは疑念や恐怖だらけだったのに、今はもう、麻璃への恐怖は一切なく、愛しさでいっぱいだった。改めて俺は、麻璃のことが大好きなんだと思った。麻璃との話に花を咲かせながら、幹線道路に沿って南へ歩いていく。傾いた西日が隣を歩くお下げの美人を鮮やかに染めていた。
「まあ。海ですか?」
「そうなんだよ。彰が誘ってくれたんだけど、俺の両親がオーケー出すわけないし、情けないことに先立つものもなくてね。あ~あ、麻璃の水着姿、見たかったなぁ」
「み、水着っ!? 変なこと想像しないでくださいっ!」
顔を真っ赤にした麻璃に腕を叩かれる。隙があれば誘惑してくるのに、こういうときはしっかり照れるとかずるいぞ。付き合う前に俺を恐怖に追い込んだ少女とは思えない。
本当に、幸せだった。
あの事故のとき、麻璃のことを恐ろしく思った。でも、あの日以来、麻璃はそんな様子を一切見せていない。何もなければ、俺たちは普通に過ごすことができるのだ。もしも両親と素直に向き合うことができて、最高の彼女ができたと紹介することができれば、どれだけ幸せなことだろうか。家族で笑い合いながら過ごすこともできるだろうに。
「私も、響志郎くんとたくさんの場所に出かけたいです」
ふと、西へ傾く太陽へ視線を投げながら、麻璃がつぶやいた。
「遠くても近くてもいいから、心穏やかな時間を一緒に過ごしたいです……」
寂しそうに、光を失いつつある太陽を見つめる。
麻璃と一緒にいる時間は何よりも幸せだ。でも、幸せに感じている心の片隅には、いつも両親や兄へ対する恐怖が淀んでいた。同じ時間を過ごしているのに、心のすべてを麻璃に向けることができない。麻璃も俺の悩みを知り、気を遣ってくれているものの、一緒にいるときくらいは忘れてほしいのかもしれない。麻璃の言う『心穏やかな時間』とは、そういうことだと思った。
幹線道路から商店街へ向かう狭い路地に入る。誰も歩いていないのをしっかり確認して、麻璃を思い切り抱き寄せた。小さく声を上げて、麻璃が腕の中におさまる。愛する恋人の甘い香りを吸い込んだら、安心してほうっと息が漏れた。
「ごめんな、麻璃。こんなに好きなのに、俺ってやつは、本当に情けない」
俺の胸に顔をうずめながら首を横に振る。
そっと腕を離すと、潤んだ瞳が俺を見上げてきた。
「自分を責めないでください。すべて私に任せてくださいと言ったでしょう?」
背伸びをして、麻璃の唇がふわりと俺に触れる。短いキスを交わして、もう一度手を繋ぎ直した。
「今日はちょうどいい日かもしれません」
「えっ? 何かあるのか?」
今日は何の日だっただろう。祝日でも何でもないし、ただの平日だ。学校で行事もなかった。聞いてみたら、麻璃が首を傾げて微笑んだ。
「くすっ。大丈夫、麻璃はあなたの味方ですよ」
握り直した愛しい恋人の手は、先程よりも力がこもっていた。
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