第6話
ゴールデンウィーク中、毎日叉神――麻璃と会った。最初の二、三日は若干の恐怖が残っていたものの、あの日以来麻璃が瞳を赤く燃やすことはなく、次第に学校で接していたときと同じように気楽になっていった。
一部の教科から課されていた宿題や予習をするために町の図書館へ出かけたり、公園で花を見たり、麻璃の買い物に付き合ったり、映画を見に行ったり。二人を殺した、などと言っていた日が嘘に思えるくらい、俺たちは学生らしく、恋人らしく休日を過ごしていた。正直、デートの場所や話題の選択は不器用でヘタクソだったと思う。それでも麻璃はいつも楽しそうに、俺の大好きな笑顔を見せてくれた。彼女からも提案や相談をしてくれるし、一緒に関係を作っている実感がして幸せだった。
そんなある日のこと。ゴールデンウィーク最終日の夕方、デートを終えて家に帰ったら、両親にくだらない詮索をされた。外出が増えた俺を不自然に思ったらしい。彼女ができたのか、女と問題を起こすな、遠出は許さんぞ、とか。ぎゃーぎゃー騒ぎ立てる両親に『彰と遊んでるか、学校の勉強会に出てる』と答えて、二階にある自分の部屋へと逃げ込んだ。傷んだこげ茶色の扉を静かに閉めて、舌打ちをする。
「ったく」
麻璃との関係は両親に話していない。両親が女性関係にうるさいからだった。俺には歳の離れた兄が一人いて、その兄が学生時代にやたらとモテた。家に連れ込む女は日替わり、自宅にかかってくる電話はほとんど兄目当ての女から。長電話で電話代が膨大な金額になって、父親とケンカすることもあった。そういう兄がいたせいか、弟の俺には遠出を許さず、彰と遊びに出かけるときもしっかり説明しないと面倒なことになってしまう。麻璃と出かける日は彰に根回しをして『一緒に遊んでいる』と口裏を合わせてもらっている。友の恋路のためならば、と喜んで引き受けてくれる彰は本当にイケメンだ。
「面倒な親だよ、くそっ」
真っ白な蛍光灯の光が、ちらかった俺の部屋をまぶしく照らす。水色のシーツに包まれたベッドに、服も着替えないまま倒れ込んだ。ベッドの心地よさに目を閉じたら、麻璃の笑顔と握った手の感触を思い出して、胸の中がぐっと締めつけられた。
いつまで内緒にしていられるだろうか。両親が麻璃の存在を知ったら、言葉をたくさん重ねて俺を追い詰め、麻璃と引き離そうとするに違いない。今は上京して実家にいない兄も、麻璃を知ったら何かちょっかいを出してくるかもしれない。兄は俺より背も体格も大きくて、口論も含めてケンカなんて一度も勝ったことがなかった。大切な麻璃を何としても守らなくてはいけないのに、両親もけん制できず、兄にも弱気でいる。俺はなんて情けないやつなのだろう。
麻璃への愛しさで締めつけられていた胸に、暗い靄が広がっていく。
「麻璃……」
いつか感じた胸糞悪さと似た痛みに、ベッドのシーツを握りしめた。救いを乞うように愛する人の名前を呼んだそのとき、ポケットに入れていたスマートフォンが小刻みに振動した。ぼんやりしながら取り出して画面を確認する。
画面の表示は『叉神麻璃』だった。
鳥肌が立って一気に目が覚めた。慌てて身体を起こして、緑色の応答ボタンを押す。スマートフォンを耳に当てたら、一呼吸置いて返事をした。
「も、もしもし」
『お呼びですか?』
開口一番、驚かされた。ああ、呼んだとも。
今日のデートでもたくさん耳にした可愛い声。愛しい人の声は、何度聴いても心地よく、心が洗われるようだった。声を聴いたら、胸に広がった黒い靄を吐き出すように深いため息が漏れた。
「……助かったよ」
『くすっ。伴侶として当然のことです』
麻璃と一緒に過ごす時間が増えて、俺は少しずつ彼女の不思議なところを受け入れるようになっていた。悩んでいるとき、口にしていないのにすぐ気がついて励ましてくれること。こうして離れていても、俺の痛みを感じて連絡してくれること。盗撮されているのではないかと思うほど奇妙なのに、心から愛おしくてたまらなかった。悪魔の子というくらいだ、人の思考なんて、簡単に見透かしているのかもしれない。
「なあ。麻璃の両親は、俺たちが付き合ってることを知ってるのか?」
麻璃から電話をかけてきたくらいだから、俺が両親に詮索されて不安になっていることは承知だろう。特別な前置きはせずに、麻璃の両親はどうなのかと思って聞いてみた。
『はい、付き合い始めた日に話しました。私の家族は響志郎くんに会いたいって、大歓迎ですよ。どうか、心配しないでくださいね』
「そうか……。うん、それを聞いて安心したよ」
俺たちはお互いの家族には会っていない。俺の両親はやかましくて気が滅入るばかりだが、麻璃の両親は歓迎していると聞いて、沈んだ気分もずいぶん軽くなった。
『ご両親やお兄様との関係が上手くいかないのですね。遠慮しないで話してみてください。麻璃は、響志郎くんの力になりたいです』
ほらね。やはり、何も話していないのにすぐに俺を見透かしてしまう。思っていることだけでなく、悩んでいることも詳しく見抜いてしまうのだ。悪魔の子を自称する麻璃は、何か特別なもの、そう、かつて俺が憧れたヒーローの力みたいなものを持っているのではないかと、真剣に思うようになっていた。移動教室での席が隣同士になったのも、俺たちが結ばれるきっかけになった事故も、麻璃の持つ力が導いたものなのだと。
事故についてはもう追求しないけどね。
「ありがとう。俺って、昔から弱くてさ。兄貴には毎日のようにいじめられて泣かされっぱなしだったし、両親からもいろいろと制限されちゃっててね。ときどき、このまま大人になったら、俺、どうなるのかなって、不安になるんだ」
幼い頃から我が家は少しおかしいのではないかと疑問に思うことがあった。遊んでいいのは彰だけで、両親だけでなく、今は亡き祖父母も他の友達を信用しなかった。特に極端だったのが、ある友達の家で焼き芋をするという話になったときだ。友達の親がしっかり見てくれているのにも関わらず、心配した俺の両親が迎えに来て無理やり帰らされたことがあった。幼い子供だったとはいえ、友達やその親に申し訳ないことをしてしまったと、今も悲しい思い出として記憶している。
また、中学校の頃にも恥をかいた思い出がある。三年生の夏休みに、担任の先生が思い出を作ろうと花火大会を企画してくれた。夕方の早い時間から行い、遅くならないうちに解散する旨を事前に連絡しておいたのにも関わらず、心配だからと言って両親揃って学校まで見に来たのだった。クラスの中で親が来たのは俺一人だけ。ある女子生徒に『響志郎の家って過保護だね』と笑われて、心底悔しい思いをしたものだ。
それから、兄にされたこと。
虫の居所が悪いときや兄が両親に叱られた後で、必ず俺のところに来て殴り、蹴り飛ばし、棒で叩きつけて、物を投げた。
それだけじゃない。
最悪の思い出が、小学校三年生の頃にあった。
俺と友達数名、そして当時片想いをしていた女子と一緒に下校していたとき、中学生だった兄がクラスメイトを数名連れて突然現れ、何もしていないのに俺に襲い掛かってきた。友達や片想いの女の子の前で素っ裸にさせられ、殴られ、泥まみれにされ、大切に使っていたランドセルは何度も踏みつけられて、わずか数分で見るも無残な姿にされてしまった。
兄も、兄のクラスメイトたちも、無抵抗に虐げられ続ける俺を見て、ただ腹を抱えて笑っていた。俺はあいつに対して何一つ不都合なことをしていないのに、生意気な弟に兄の力を見せてやるのだと、理不尽な敵意と暴力を振りかざしてきたのだった。
その場に居合わせた友達も女の子も突然のことに恐怖して逃げてしまい、兄が充足して去った後、俺は一人泣きながら家に帰ることになった。両親に話してもただの兄弟げんかだろうと済まされ、翌日から片想いをしていた女の子は俺を避けるようになった。
そこから小学校を卒業するまでの三年間、俺がどれほど悲しくて寂しい思いをして過ごしていたのか、両親と兄は知らないだろう。
我が家は異常だ。絶対、狂っている。
『響志郎くん? 大丈夫ですか?』
最悪の記憶を消すために、霞ませるために、今すぐ麻璃を抱きしめたかった。
この過去だけは、麻璃に話せそうもない。
「あ、ああ。話してたら、いろいろ思い出しちゃって」
なるべく話さないようにしていた、みじめでくだらない過去の一部。でも、そんな過去を通して不安に思うことがある。俺はこのまま大人になっても、両親に縛られ続け、兄に恐怖しながら生きていくのだろうかと。
俺は学ぶべきことを学ばずに生きている気がして、不安だった。
「まだ高校一年生、じゃない。もう、高校一年生なんだ。あと数年で俺たちは社会人になる。社会人になったとき、弱いままの俺でいたくない。だから、強くなりたいって、変わらなくちゃいけないって思うんだ……」
このまま兄の恐怖に怯え、両親の束縛を受け入れ続ければ、俺自身が決断や選択、挑戦する勇気を失って、人生と戦えなくなる。失敗や挫折を経験したとき、立ち直れないまま押しつぶされてしまうことだろう。
俺を笑った女子二人が燃えたときみたいに、な。
『強くなりたい、ですか……。やはり、響志郎くんは素敵です……』
うっとりと、甘くとろけた声が耳元で囁かれる。こんな反応が返ってくるとは思わなくて、返事に困った。
「い、いや、そんなことは――」
『でも、変わろうとしているあなたを認めてくれる方はいるのですか?』
とろけた声が一転、低く震えた。
麻璃を怒らせてしまったのか。額に汗がにじんで顔が熱くなった。
『その心意気を否定するつもりはありません。しかし、あなたがどれだけ変わろうとしてもあざ笑う人がいる。認めずに突き放す人がいる。私が殺した二人と同類の痴れ者がいるのです』
麻璃は言う。
人間社会はやり直しがきかない、後戻りのできない一方通行の道なのだと。
ある少女は学校でクラスメイトとケンカをした。先生が仲介して仲直りをし、関係を修復しようとしたが、相手方が猜疑心を抱き続けて少女を信用せず、結局、卒業式まで口をきかなかったという。
ある男性は会社でトラブルを起こした。上司は職場環境を改善してトラブル対策を講じ、男性も心底反省して心を入れ替え、業務に励んだ。しかし、同僚は男性の反省を認めずに突き放し、男性は自ら命を絶ってしまった。
誠意をもって自分を変えようと努力しても、それを受け入れてくれる、認めてくれる人がいなければ、いつまで経っても変化は訪れない。変化とは、自分だけで決めるものではなく、相手が認識して初めて変化と呼べる代物になるという。麻璃は俺の心意気を否定しない。彼女が案じているのは、麻璃以外に俺の心意気を理解してくれる人が周囲にいるのかということだった。
『ご両親やお兄様は、響志郎くんの変化を客観的に見守り、認めてくださいますか? 道を誤ったとき、迷ったとき、支えてくれるような方々ですか? 手を引いてくれるような方々ですか? 信念も心意気も持たない、体裁しか考えない痴れ者でしょう』
「…………」
麻璃は俺の家族に対して辛辣なダメ出しをしている。家族を悪く言うように話した俺もいけないと思うが、ここまで家族を否定されても、フォローする言葉が何一つとして出てこなかった。反論できないということは、俺が両親と兄を信用していない何よりの証明だ。
『ご家族は響志郎くんを愛していない。むしろ、家族同士で軽蔑し合っている。響志郎くんの心を救えるのは本当に愛している私だけ。麻璃しかいません』
「麻璃……」
『付き合うときに私が申し上げたこと、覚えていますか?』
忘れるはずがないとうなずいた。
――すべて、私に任せてください。私に委ねてください。私だけを欲してください。
――何があっても、私が響志郎くんを守ります。
「うくっ」
頭を叩かれたように、急に意識がぼやけた。頭の中で麻璃の声が繰り返されて、麻璃の匂いや柔らかい感触がよみがえってくる。愛おしさがもっと、もっと胸にこみ上げてきて、切なくてたまらない。麻璃に触れたい。両腕が、愛しい麻璃を求めて震えている。
『必要があれば、ご家族のみなさまにご挨拶をしに行きましょう』
それはすなわち、これ以上俺を苦しめるようであれば、麻璃は俺を守るために家族へ制裁を下すという意味に聞こえた。
状況によっては『家族を殺す』と宣言したのだ。
『よろしいですね?』
「ああ、分かった……」
家族を殺すと言われているのに、麻璃を止めなかった。
止める必要も感じなかった。
俺には麻璃さえいればそれでいい。
『あ、そうそう、卒業式まで口をきかなかった生徒の話ですが、続きがあるのです』
「うん? もしかして、卒業式の後に仲直りできたのか?」
問いかけに、愛しい恋人がころころと笑った。
『いいえ。相手の子は卒業式の直後、車に轢かれて亡くなりました』
もう二度と、仲直りなんてできませんよ。
顔の見えない麻璃の瞳が、電話の向こうで赤く燃えているような気がした。
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