第5話

 駅へ向かうにつれて、道路沿いに建つ建物や店舗の数が増えてくる。少し早めの下校で、帰り道も違う景色に見えた。あんな事故もなく、叉神に恐怖を覚えなければ、心から喜べただろう。事故が起こったこと、引き起こしたのが叉神ではないかと疑ったこと、それを認める叉神に自分の身を確保されている恐怖。そして、燃える二人を救うために行動できなかった事実が、大きな重圧となってのしかかってくる。重圧は強くなるばかりで、罪悪感と恐怖に押しつぶされてしまいそうだった。


 叉神は二人を殺したと言った。ガスバーナーに触れていないのに、どうやって火をつけたのか。竹井がガスの元栓を開け閉めしていたが、バーナーは田中が持っていて、彼女はバーナー側の栓を開けていなかった。仮にどこからかガスが漏れていたとしても、あれだけ強い勢いの炎を床に倒れ込むタイミングで生み出すなんてできるのか。二人の燃え上がり方だって尋常じゃない。油をかけられたように強い勢いで燃え上がっていた。


 本当に、叉神が殺したと言えるのか。バーナーに触れず、火種もなく点火して、更に窓から二人を突き落すなんて、できるわけがない。あのとき叉神は俺の下にいた。俺を見て誘惑していたんだ。

 あのとき、一体、何が起きたんだ。


「響志郎くん? 響志郎くん、大丈夫ですか? 具合でも悪いのですか?」


 一生懸命考えていたら、顔に出てしまったらしい。心配そうに俺を見上げてくる叉神は、道化師の笑顔じゃなかった。何も知らずに想いを寄せていたときと同じ美しさ。柔らかくて優しくて、可愛らしいその仕草。

 今となっては、その美しさすら疑うばかりだった。


「……本当に、お前がやったのか?」

「はい?」

「本当にお前がやったのか聞いてるんだ!」


 駅前の開けた広場に出たところで、叉神の手を振りほどいて向き合った。叉神は俺に手を伸ばしかけたまま、目を丸くしてその場に立ち尽くした。


「俺はバカだから、お前がどうやって火をつけて突き落したのかは分からない。でも、でもな、本当にお前がやったんだとしたら、どうしてあんなにむごいことを! あそこまでしなくちゃいけない理由があったのかよ!?」


 処理しきれない恐怖と不安と罪悪感。我慢が振り切れて、早口でまくしたてた。

 その身を炎に焼かれて、更に窓から落ちて死ぬこと。事故が起こる直前、あの二人は俺をバカにするようなことを言っていた。でも、だからといってあそこまでする必要があったのか。


「自己紹介のときに名前を笑われて、悔しかったよ。今日だって、俺のことをキモいとか言ってて、ムカついたさ! でも、それでもやっちゃいけないんだよ。それは絶対に選択しちゃいけないことなんだ……!」


 事故の瞬間が思い出される。

 二人が炎に包まれ、悲痛な叫びを上げていたあのとき、叉神は満面の笑みで両腕をつかみ、助けに行かせなかった。一番近くにいたのに、助けるための行動を何も起こせないまま、彼女たちは窓から落ちてその命を終えてしまった。吐き気がするほどの罪悪感に、胸が、胃が、痛くて痛くて仕方がなかった。むかむかと気持ち悪くて、胸のネクタイとワイシャツを一緒に握りしめていた。


「答えろ、叉神。二人を殺した方法と理由を。そして、俺を助けに行かせなかった理由を。お前の答えを聞けば、この胸糞悪さも、軽くなるかもしれない……」


 気を緩めれば吐いてしまいそうだ。事故が起きたことで、俺はすっかり混乱している。叉神への疑念と恐怖も加わって、自分自身がめちゃくちゃになりそうだった。

 黒髪の美しい女は、俺に伸ばしかけた手を胸元で結んで微笑んだ。白い顔に浮かぶ瞳は、事故のときに見たものと同じ、鮮やかな血の色をしていた。


「最初に、殺した理由から答えます。響志郎くんが大好きだから、殺しました」

「な、何だって?」

「響志郎くんが大好きだから、邪魔な二人を殺したのです」


 二度、繰り返されたその言葉。叉神は胸元に戻した手をもう一度俺に伸ばして、手のひらを俺の胸に当ててきた。息を吸って、目を閉じる。すると、強烈に胸を焼きつけていた痛みと吐き気が、嘘のようにさっぱり消えてなくなってしまった。


「オリエンテーションの日。自己紹介が終わった後、たくさんの方から眼差しをいただきました。ご自分に向けられる視線を意識して感じたことはありますか?」


 俺の胸から手を放して、瞼を開く。瞳は黒。元に戻っていた。


「あの日、たくさんの方から視線をいただく中で、響志郎くんの視線だけが違って感じたのです」


 自己紹介を終えた後の休み時間。彰と話をしながら叉神に目を向けたとき、何度も何度も目が合った。彼女はあのときから俺に意識を向けるようになったという。


「……目は口程に物を言うと聞きます。あなたの眼差しが心地よくて、何度も目を合わせてしまいました。響志郎くんなら、私を受け止めてくれるかもしれない。そう思ったら、あなたが欲しくてたまらなくなりました」


 俺を見上げる潤んだ丸い瞳。白い頬には紅が添えられている。今の叉神は年相応の可愛らしい少女だった。この少女が狂笑や妖艶な笑みを浮かべていたとは思えない。


「私を可愛いと言ってくれたこと。いろんなお話をして楽しませてくれたこと。いつも清潔にしていらっしゃいましたし、とても素敵な人だって胸が鳴りました。今日も、一生懸命お話をしてくれて、ゴールデンウィークに出かけようって言おうとしてくれて……。本当に、嬉しかった」


 それなのに。


 低い声でつぶやく。右手が強く握りしめられ、震えていた。


「満月はダサい、キモい、叉神さんを狙っている……。あいつらは口を開けば響志郎くんの陰口ばっかり。響志郎くんが直接あいつらに何かをしたわけでもないのに、一方的にバカにしていたのが許せなかった」


 黒く戻った瞳がまた、鮮やかに赤く染まった。俺を見上げる血の瞳は、明確な憤怒の色として煮えたぎっている。向き合う俺自身も息を呑むほどだった。


「だから殺しました」


 冗談だろ。


 俺のことをバカにするあいつらが憎くて、殺しただと?

 叉神の言葉は俺の理解できない情報として脳みそに流れ込んで、地に立つ両足から力を抜いてしまった。俺はすぐ近くにあったベンチに倒れ込むようにして座り、ぐったりとうなだれた。うつむく目の前に、叉神のローファーが霞んで見えた。


「二つ目、響志郎くんを助けに行かせなかった理由です。大好きな人にやけどを負わせるわけにはいきませんから引き留めました。三つ目、あの二人を殺した方法ですが……」


 そこで、可愛い声が止まった。疲れて重たくなった頭をのっそり上げて、俺の前に立つ少女へ目をやる。


「私は――」


 彼女の言葉を待った。

 紺色の真新しいブレザーと胸元で結ばれた赤いリボン、同じく赤いチェック柄のスカートからはまぶしい白い脚が伸びている。三つ編みお下げをほどいた黒髪が肩の後ろへ流れて、西日を受けてキラキラと輝いていた。長くてきれいなまつ毛、青白い顔に浮かぶ、真っ赤な瞳。神秘的でぶっ飛ぶくらいの美少女。想いを寄せる美しい人。


「――私は、悪魔の子ですから」


 目を見開いて、くいっと唇の両端が持ち上がった。再び見せられた狂人の笑顔に、言葉を発することができなかった。


 考えてもみろ。


 移動教室での席順。必ず叉神が隣になっていた。あのとき、叉神は自分が怖がられているのではないかと俺に聞いてきただろう。


 今回の事故。すぐ終わらせると言って、叉神の目が血の色に瞬き、二人は言葉通りにその命を終えることになった。


 ついさっき。不安と恐怖と罪悪感で胸や胃が痛み、吐きそうになっていたのに、叉神が手を触れただけでそれが治ってしまった。


 これらのことが、悪魔の子だからこそできることだとしたら。

 自ら手を触れずに、手を汚さずに誰かを殺すことができ、誰かの痛みや傷を癒すことができるのだとしたら。叉神が人の理解を超越する場所に存在しているとしたら。


「響志郎くんなら、分かってくれますね」


 選択肢が『イエス』一択のみの問いかけに絶望した。


 初めて君を見たとき、その女性らしいシルエットに胸が鳴ったんだ。言葉を詰まらせながら自己紹介をする姿も、話をするときに見せてくれた柔らかくて優しい笑顔も、秘めていた恋心を締めつける可愛らしい声も、すべてが愛おしくてたまらなかった。入学してまだ数週間、叉神と親しくなった日々は、どんなつらいことも乗り越えられそうなほど煌びやかで、輝かしいものだった。


 でも、そんな彼女は悪魔の子で、俺のために人を殺したと言ったんだ。

――違う。叉神は手を出していない。それは俺も確認しているじゃないか。


 でも、殺したと言った。彼女自身が認めたんだ。

――証拠はないだろ。あれは事故だ。


 でも、絶対に選択しちゃいけないことだとか、きれいごとも言ったじゃないか。

――でも。でも。でも。


「叉神」


 結局、叉神に問いかけて答えを聞いても、消化することができなかった。

 愛しい人の名前をつぶやいて、両手で顔を押さえてうつむいた。


「はい。麻璃はここにいますよ」


 空気が揺れて、また、ベリーの香りが舞い上がる。柔らかい温もりが左隣に座って、俺の肩にそっと手を添えた。


「分からないんだ……。俺、叉神が好きだ。叉神も俺のことを好きだって言ってくれて、嬉しいのに、俺、怖くて、不安で、どうしたらいいか、分からないんだ」


 ぐちゃぐちゃだった。

 叉神がどうやって火をつけて窓から突き落したのかなんてどうでもいい。悪魔だろうが、人間だろうが、神様だろうが、何でもよかった。


 好きな人が、俺のために、人を殺した。


 ただ、答えの出ない不安と恐怖に悩み続けるのが苦しくて、楽になりたかった。


「響志郎くん」


 優しく俺の名を呼び、彼女の細い手が背中をゆっくり撫でていく。想いを寄せる人に触れられること。不安と恐怖に疲れ果てた今は、震え上がるほどに幸福だった。


「私も響志郎くんを愛しています。だから、そのまま私を愛してください」


 覆っていた両手を外して、左隣の温もりを認める。

 瞳は赤く、でも、彼女が浮かべる笑顔は俺の大好きな、あの笑顔だった。


「すべて、私に任せてください。私に委ねてください。私だけを欲してください。何があっても、私が響志郎くんを守ります」


 まるで暗示をかけるように甘く囁かれる。撫でていた背中から手を離し、細くて白い指先が俺の両手を包み込んだ。柔らかくて、気持ちがいい。ぞわぞわと全身を沸かせる彼女の感触は後ろめたい快感だった。


「あれは、事故です」

「……事故」

「そう。不幸な事故です」


 叉神の顔が、ゆっくり、ゆっくり近づいてくる。

 彼女の赤い瞳が見ているのは俺の目じゃない。

 俺の、唇だ。


「そして、私たちは……。不幸な事故を経て結ばれた、恋人同士になる……」


 何も返事を言えないまま、叉神の柔らかい唇に口を塞がれた。心臓が身体を揺らし、胸を突き破りそうな勢いで鼓動する。両手を包んでいた細い指が俺の指に絡められる。応えるように、指に力を入れて握り返した。


 俺を、恋人として受け入れてくれたのだと思った。


 車の往来する音は聞こえても、俺たちの周りを歩く人はいない。叉神の感触を気兼ねなく感じられるのは嬉しかった。あの二人が燃えて転落死したことが、叉神の甘い香りと柔らかい唇でにじみ、霞んで、消えていく。

 柔らかい感触がそっと離れて、妖しく微笑んだ。


「……私が欲しいのでしょう」


 生唾を飲み込んだ。


 叉神麻璃は、悪魔の子。

 悪魔は美しい容姿と甘い言葉で人を惑わすとも言う。悪魔が提示するものはいつも魅力的なものばかりだ。考えてみれば、俺は初めて叉神を見たときからずっと、彼女に目を奪われている。あのときから今まで、悪魔の魅力にやられていたのか。


「よろしいですね?」


 悪魔の囁きに、黙ってうなずく。

 もう、あの二人に対する罪悪感は残っていなかった。

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