第4話

 ゴールデンウィーク前最後の授業は、凄惨な事故で幕を下ろした。竹井と田中はガスバーナーの炎に焼かれ、窓ガラスを突き破って二階から転落、打ちどころが悪く、そのまま亡くなった。警察と消防の人が同じ机に座っていた俺と叉神に事情を聞いてきたが、どうしてガスに引火したのか、どうして激しい燃え方をしたのかは分からず、調べている人たちもずっと首を捻っていた。もしもあのとき、叉神を振り切って彼女たちの火を消していたら、二人とも生きていただろうか。

 それから、もう一つ。

 燃え上がる二人を前に、不自然なほど落ち着いていた叉神が気になった。炎が出ることを知っているかのように俺の腕を引き、床に倒れた後は『すぐ終わらせる』と、確かに口にしていた。聞き間違えるはずがない。

 あれは一体何だったのか。


『好きよ、響志郎くん』


 床に倒れた叉神が浮かべた妖艶な笑み、めまいがするほど甘い言葉を思い出す。二人が炎に焼かれているときに、あいつは俺を誘惑してきた。

 まともじゃない。

 でも、ますます叉神が愛しくなって、切なくなってしまうのはなぜだ。

 事故のせいでほとんどの生徒は帰宅させられていたが、一部の生徒は教室に残ってあの惨劇を映画やドラマを観たように興奮して語っていた。事情の説明が済んで教室に戻った後、俺は考えをまとめられず、ただ、炎に苦しむ二人を前に何もしなかった自分に参っていた。


「お前が無事で安心したぞ。これを飲むといい」


 彰が俺の机ににペットボトルのミネラルウォーターを置く。水を目にした瞬間、口の中と喉に猛烈な渇きを感じた。買ってきたばかりなのか、手に取るとよく冷えていて気持ちよかった。イケメンに礼を言ったら、栓を開けて冷たい水を一気に口へ流し込んだ。

 目の前で人が燃える。そんな場面に遭遇して冷静でいられるはずがない。喉を潤す冷水は、記憶に焼きついた炎の勢いをも弱めてくれる気がした。


「ふう……」


 栓をして深いため息をつく。目が覚めるようだった。


「落ち着いたか」

「……少しは」


 無理もない、と彰が渋い顔をする。


「不謹慎に騒いでいるやつもいるが、俺としてはあの二人を弔い、お前と叉神ちゃんの無事を喜ぼうと思う。お前は女神を守った英雄だ。お前が守らなければ、叉神ちゃんまで燃えていたかもしれない。……状況が状況だったんだ、自分を責めるんじゃないぞ」


 そう言って、彰が俺の肩を強めに叩いた。俺の心境を察して励ましてくれるとは、彰は本当にイケメンだ。他の男子も俺の近くに集まってきて『すごいやつだ』、『ヒーローみたいじゃん』と騒ぎ立ててきたが、彰の気遣いとは違い、好奇心や面白半分からきている薄っぺらい言葉にしか聞こえなかった。

 そもそも、俺は火がつくところを見てから叉神をかばったんじゃない。あれは叉神が俺の腕を引いて倒れたからそう見えただけだ。


 でも、その真実を口にすることができなかった。

 そうしなければ、あの二人を見殺しにした重圧で壊れてしまいそうだった。


 叉神麻璃。あのとき、どうして俺を行かせなかった。どうして俺を引き留めた。


 どうして俺を、誘惑した。


「水、ありがとな。もらってくよ」


 まだ冷えたままのボトルを通学鞄に入れて席を立つ。答えの出ない問いかけを自分に投げ続けたところで意味がない。今日はもう、素直に帰ろう。


「帰るのか?」

「ああ……。何か、疲れちまったし、助けた女神も帰っちまったみたいだしな」


 教室に叉神麻璃の姿はない。叉神に話を聞こうにも、ゴールデンウィークに会う約束もできず、連絡先も交換していない。このまま、あの事故のことは忘れて休日を過ごせばいいだろうか。叉神とも距離を置いて、二人を助けなかった真実を記憶の向こうに消し去ってしまえばいいだろうか。どちらにしろ、今日は帰って休みたい。何もかも忘れて、難しいことは考えずに眠りたいと思った。


「お前も早く帰って休むといい。俺もハニーと帰ることにする」

「気をつけて帰れよ」

「お互いにな」


 他の連中はもうしばらく残って話をしていく様子だった。隙があれば現場の野次馬でもするつもりなのだろう。廊下に出たら、北校舎の方へは目を向けずにまっすぐ昇降口を目指した。

 西へ傾きつつある日差しが灰色の昇降口を明るく照らしていた。同じく下校しようとしている生徒たちからも事故の話題が聞こえてくる。うんざりだ、さっさと帰ろう。靴箱から入学祝いで買ってもらった白いスニーカーを出して足を突っ込む。上履きを靴箱に放り込み、足早に昇降口を出た。昇降口と向かい合うグラウンドに生徒の姿は見られない。先生方もあんな事故の後にのんびりと授業や部活なんてやらないだろう。


「…………」


 グラウンドを見て考えていたら、急に背中が粟立って立ち止まった。

 背中が寒い。いや、暖かいのに、震えるのだ。両足がアスファルトに杭を打ち込まれたように動かない。心臓の鼓動が加速して、加速した鼓動が身体を揺らす。まずい。振り返るなと、心臓が言っている。そうは言っても両足が動かない。


 それなら引きちぎってでも走れ!


 走りたくても動けないんだ!


 息が上がってきた。周りに生徒はいない。何もいないはずなのに、背中に近づく何かに怯えている。まだ明るい時間、グラウンドのそばを走る車の音も、学び舎から聞こえる声も、背後に迫るそれに沈黙してしまった。

 ざっ、とアスファルトを踏みしめる音を背中で聞いた。

 そこにいる。

 化学室で見た叉神の狂笑が浮かぶ。

 振り返るな。でも、後ろを確認したい。確認して安心したい。

 はっ、はっ、はっ、と、自分の呼吸を三回聞いて、振り返った。

 振り返った瞬間、左手首をつかまれて叫び声を上げてしまった。手首の関節が軋み、痛みすら感じるつかみ方に喉が詰まる。

 そこに立っていたのは、叉神麻璃だった。


「一緒に帰りましょう」


 三つ編みお下げはほどけたまま、口元を弓なりに曲げて目を見開いた、あの笑顔だった。

 事故を通して、叉神に対して不信感や恐怖が何度も浮かんだ。でも、彼女が引き起こしたという証拠は何一つない。叉神がバーナーに触れていないのは俺も確認しているし、火種も持っていなかった。狙って炎を起こすことなんてできるはずがない。この疑念や恐怖はまだ心にしまっておくべきだ。

 狂った笑顔から自分の身を守るためにも。


「お、おどかすなよ!」

「失礼しました。ではこうします」


 そう言って、叉神はいわゆる恋人つなぎで優しく手を握ってきた。明らかに最初とは握る力が違う。胸の中にしまった疑念が、消し損ねた暖炉の炭みたいにくすぶり始めた。一目惚れして想いを寄せた美少女と手を繋いで歩いているというのに、どうしてこんなにも怯えて、不安に思わなくてはいけないのか。喜び、恐怖、不安と、落胆。様々な感情が俺の胸に浮かび、かき乱していった。

 校門をくぐり、学校前に伸びる太い幹線道路を西へ歩いていく。事故の衝撃と叉神へ抱く疑念で頭が混乱し、何一つ話題を振ることができなかった。道路を走る車の音を黙って聞きながら歩くこと数分、最初に沈黙を破ったのは叉神だった。


「私が二人を殺しました」


 心臓が一度、大きく鼓動して脂汗が噴き出た。俺の心を見透かしている。思わず足を止めて、隣を歩く叉神を見た。彼女はまだ、道化師の笑みを崩していない。

 ゾッとした。

 どうして、笑っていられるんだ。


「何を、言ってるんだ」


 声が震えた。叉神が俺に一歩近づいて、上目遣いで見上げてくる。甘いベリーの香りが強くなって、恐怖や疑念がぼやけそうになった。背伸びをして、顔をゆっくり俺の耳元へ近づける。


「分かっているくせに」


 耳を震わせる低い囁きと吐息。耐えきれず、目を逸らしてしまった。クスクスと小さな笑い声が目の前で弾ける。


「響志郎くんったら、可愛い人」


 私は電車に乗らなくてはいけないので、駅へ行きましょう?

 返事はせずとも、ただ叉神の言葉に従って、南へある駅へ向かった。俺の家へは多少遠回りになるが、この状況で叉神の提案を断れば何かされそうだ。自分の生命を生き永らえさせるためにも、素直に叉神の言うことを聞くべきだと思った。

 繋いだ手は、汗でじっとりと湿っていた。

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