第3話

 四月もあっという間で、大型連休のゴールデンウィークが目の前に迫っていた。連休前最後の授業は生物。叉神を遊びに誘うほどの度胸がない俺は、せめて連休前にたくさん話をしようと、イケメン彰を置いて先に化学室にやって来た。叉神は移動教室のとき、早めに移動して読書をしていることが多い。予想通り、この日も化学室でハードカバーの本を広げていた。


「よう。読書中か」


 声を掛けながら座ると、白い顔が上がって柔らかく微笑んだ。この笑顔。最高だ。


「響志郎くん。今日は早いですね」


 いつもは彰と一緒にダラダラと移動しているから仕方ない。言葉では答えず、肩をすくめて返答とした。小さく笑って、叉神が本にしおりを挟んで閉じた。


「あ、悪い。読書を中断させるつもりはなかったんだ」

「気にしないでください。明日から連休ですし、家でゆっくり読めますから」


 化学室には他の生徒も数名来ていたが、叉神と絡む様子はない。遠慮せず叉神を独占できそうだな。

 授業開始までの短い時間、しっかり彼女と話をした。俺は彰みたいに器用じゃないし、イケメンでもない。それでも、一目惚れした女性に少しでも歩み寄れるよう、精一杯話題を振って話し続けた。俺のことも知ってもらいたいけど、それは後回しにして、まずは叉神のことを知ろうと頑張った。不器用なりに努力して、ずかずかと質問ばかりはせず、しかし話が途切れないように。しばらく話していたら、話題が落ち着いたところで叉神が小さく笑った。


「くすっ。響志郎くん、今日は何だかおしゃべりさんですね」


 肩を震わせて、明るい笑顔を浮かべる。少女らしいころころとした笑い声がその笑顔にぴったりだ。本当に可愛い。しかし、叉神の言うとおり、普段に比べたら不自然なくらい話しすぎてしまった。指摘された俺は慌てて身を引いた。


「あぁ、いや……。悪い、うっとうしかったか」


 声のトーンを下げて頭をかいた。

 やっちまった。

 昔から俺は肝心なところで失敗をする。何事もやり過ぎてはいけないと頭では分かっているのに、いざこうして盛り上がると何も見えなくなってしまう。化学室には既に他の生徒たちが集まり始めていた。興奮して声も大きくなっていたかもしれないし、クラスメイトたちに『満月が必死になっている』と噂されても仕方ない状況だ。

 悲観して肩を落とすと、膝の上に乗せていた左手にほんのり冷たい何かが触れた。


「えっ」


 叉神の指先だった。

 遠慮するように、本当に指先だけ。お互いの指先だけが机の下で触れ合っていた。


「そんなこと、ないですよ。……とても、嬉しいです」


 白い頬を赤くしながらうつむき、消えてしまいそうなほどの小声でそう言った。

 叉神麻璃は入学早々、クラスメイトたちの心をつかんだ美少女だ。一見地味で人見知りしそうに思えるが、話してみれば人当たりもよくて、クラスメイトだけでなく、違うクラスの生徒とも仲良くしているという。更に、二年や三年の先輩たちもお近づきになろうとしているとか。

 そんな叉神が俺の指に触れてくれた。


「叉神……」


 もしかしたら。

 もしかしたら、俺の恋は叶うかもしれない。


 どうする。告白するか!?

 いや、でも、こんな場所で告白なんて。

 そもそも他の連中もいるし……。


 落ち着け。

 いきなり告白するのはせっかちだ。ここはゴールデンウィーク中に会えるように約束を取りつけよう。もし断られてしまったら、そのときは連絡先の交換を提案してみよう。告白はその後だ。

 触れ合う指先を見つめたまま、震える声で言葉を吐き出した。


「あ、な、なぁ。もしよかったらさ」


 緊張で胸が鳴って、口の中が渇いていた。声だけでなく、触れている指も震えていて情けない。俺の問いかけに、叉神が小さく返事をして顔を上げた。次の言葉を素直に待つように、女神の丸い瞳がこちらを見上げている。


「ゴールデンウィークに――」


 言いかけたとき、背後から騒がしい大声が二人分聞こえてきた。俺の名前を笑った女子生徒二人がやってきたらしい。彼女たちは俺と叉神の真向かいに座った途端、先程までの大声を消し、顔を寄せ合いながらひそひそと秘めた会話を始めた。

 竹井と田中の視線が二度、俺に向いて逸らされる。


「……くっ」


 ダメだ。こいつらの前で叉神をデートに誘う度胸なんて、ない。


「響志郎くん……」


 隣の女神が俺の言葉を求めて見上げてくる。

 こいつらの前で叉神を遊びに誘おうものなら、どんな尾ひれをつけて噂をされるか分かったもんじゃない。せっかく人気者になった叉神ですら、俺に関わったことで印象が悪くなるかもしれない。俺は押し黙って、叉神からも、正面に座る二人からも視線を外してうつむいた。机の下で触れ合う、指先の感触だけ強く意識して、自分の不甲斐なさを苦々しく噛みしめた。


「キモくない?」

「狙ってるんだよ……」


 ひそひそと交わされる、無情な言葉。言葉につられるように顔が持ち上がった。俺が動いた瞬間、正面に座る例の女子二人がまた目を逸らすのが見えた。


 ああ、やっぱり。

 俺、バカにされてるんだな。


 机の下で触れ合っていた指先を手放した。少し首を傾けて、隣に座る叉神を見て首を横に振る。丸い瞳は寂しそうに俺を見つめた後、正面に座る二人へ向けられた。

 白い横顔がマネキンのように動きを止める。


「今のは、誰に対しての言葉ですか」


 マネキンが発した声は俺たちの机を凍りつかせた。耳の裏から背中にかけて、湿った寒気が浮かんで留まる。生徒たちでひしめく化学室から音が消え、俺たちの座る机だけが足元から沸き上がる冷気に包まれていく。上から押さえつけられるような、不自然な圧迫感と、不気味な寒さが消えてくれない。叉神の『ソレ』は俺に向けられていないはずなのに、口が渇いて顎が震えた。二人は会話を止めて、白々しい笑顔を叉神へ向ける。気まずそうにしながら応答したのは竹井だった。


「な、何? どうしたの、叉神さん」

「先程の言葉は誰に向けられたものなのかと聞いています」


 寂しそうに俺を見ていた瞳は光を失い、深い闇が続く丸い空洞になっていた。いつも可愛くて触りたくなる横顔が妙に青白く見える。一方で、竹井と田中は分かりやすく目を見開き、言葉を詰まらせた。


「い、いや、ちょっと待って。叉神さんには関係なくない?」


 田中がへらへらと笑いながら竹井に続いた。腹は立つが、なかなかいい返し方だ。叉神は臆することなく、すうっと深呼吸をして同じ問いを繰り返した。

 耳鳴りがした。


「誰に向けられたものなのか教えてください」


 深い闇をたたえる瞳に光は戻らない。瞬きはせず、傷ついたCDみたいに同じ調子の声で同じ問いかけをする。キィーン、と左耳に耳鳴りがフェードインして、左半身を見えない冷水がなぞっていった。田中は首を横に振って、竹井の顔をうかがいながら乾いた笑い声を漏らした。


「えぇ、意味分かんないんだけど。何で叉神さんが怒ってるわけ?」

「だ、だよね。叉神さんのことじゃないし、別に」


 そうだろうよ。叉神じゃなくて俺のことだもんな。

 気まずくて胃が痛む。酸っぱいものがこみ上げてきそうだ。


「分かりました」


 マネキンと化した女神の返事はやはり棒読みで希薄だった。光の加減なのか、やっと瞬きをした叉神の瞳が赤く見えた。

 張り詰めた冷気は消えない。耳鳴りと共に俺の表皮を不快に湿らせる。叉神が二人に敵視を向けた気まずさもそうだが、それ以上に、左から迫りくる何かに肉体が粟立つのをやめなかった。


「こ、これってさぁ、生物で使うことあるのかな?」


 気まずい空気をどうにかしようと思ったのか、正面に座る田中がごまかすように机から伸びるガスバーナーを強めに引っ張った。黒いガス栓からつながるオレンジのゴムパイプが一瞬伸びきってピンと張る。竹井も空気を読んだのか、ひそめていた声をわざとらしく大きくしてガス栓を開いたり閉じたりし始めた。


「ないんじゃない? 生物じゃ実験しなさそうだし」


 叉神は二人から視線を外し、バーナーを瞳の端で見下ろしながら唇を結んでいた。

 火種がないとはいえ、ガス栓をいじりながらバーナーを引っ張るなんて、見ていて危なっかしい。注意しようにも気まずくて言葉が出ない。どうしたものか。

 もやもやと考え込んでいたら、叉神が突然俺の左腕を強く握ってきた。細い指の感触が制服の上から骨に伝わるほど力が込められていた。

 何事かと声をかける暇もなく、ものすごい力で腕を引かれて椅子から床へ二人で転げ落ちた。叉神は自分が下になるように床へ倒れて、俺は叉神に覆いかぶさる形になった。俺の下に倒れた叉神と目が合う。

 目を見開いて口元が弓なりに歪んでいる。


 彼女は、道化師のそれらしく笑っていた。


 その瞬間。


 短い破裂音と共に、背後から耳を貫く二つの叫び声が聞こえた。


 振り返る。


 何が起こっているのか、すぐに理解することができなかった。


 炎がある。人型に燃える炎が二つ。

 バタバタと、踊っている。


「な――」


 机の上にあるガスバーナーが女子二人の方へ倒れて、橙色の炎が巨大な蛇のように伸びて襲い掛かっていた。炎は真新しいブレザーとスカートを容赦なく燃え上がらせ、彼女たちの肌までも包み込んで焼き尽くそうとしていた。授業開始前になって集まっていた他の生徒たちも、火だるまになった二人を見て悲鳴を上げている。


「やべぇ!」


 何とかしないと!

 立ち上がろうとしたら、俺の下で倒れる叉神に両腕を捕らえられた。なぜか、彼女のお下げがほどけて黒髪が艶やかに床に広がっている。叉神は俺を見つめたまま、狂った笑顔を貼りつけて拒んだ。


「ダメ」

「お、おい! 火を消さないと、二人が!」

「すぐ終わらせますから」


 叉神の黒目が、一瞬、真っ赤に瞬いた。

 背後でガラスが割れる音がして、叫び声が短く遠のいた。そして、何か重たいものが落ちる音と、違う悲鳴。クラスメイトたちがざわめきながら窓の方へ走っていくのが見えた。


「好きよ、響志郎くん」


 狂った笑顔を消し、叉神はうっとりと、艶やかに微笑んでいた。

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