制服(仮)

@ryoanji

第1話

「つくづく中尉は軍人向きじゃありませんな」

 曹長はくちさかなく、いつも中尉にそう言う。中尉はそのたびに、目と口の端だけで静かに笑う。

「陸軍大学を受けて欲しいのは山々だが、お前はじいさんに似とるからな」

 中尉の父は、中尉が休暇で帰省するたび、いつもそう言う。中尉はそのたびに、曹長のときと同じく目と口の端だけで静かにう。

「兄さんは本が好きなんだから、そのまま物書きにでもなったらよかったのに。父さんに逆らわずに軍に入っちゃったばっかりに、出せない大声を出して兵隊さんに号令しなきゃならなくなった

のよ」

 中尉の妹は、いつもの父の説教の後で近寄ってきて、いつもそう言う。中尉はそのたびに、父のときと同じく目と口の端だけで静かに笑う。

 ただ妹のときだけは、心の中で「それは違うんだ」とつぶやいている。


 たしかに中尉は昔から書を読むのも書くのも好きで、小さい頃に街のコンクールで大人に交じって入賞したこともある。やさしげな話し言葉で書いたその短めの受賞作は、審査員の粋な計らいで少年だった中尉の手元に返却され、青年になった中尉の宿舎の机の中に大切にしまわれいる。長年続く軍人一家のプライドをもつ父は、子の栄誉を柔弱としか思えず、苦々しい顔をしていた。そして中尉自身、物書きの道をぼんやりと思い描いたこともあるが、ちょうど士官学校を受験できる年に、そのときちまたではやった流行作家の随筆を何とはなしに読んで、突然軍人を志してしまった。

 その随筆はまるで檄文のような内容で、じぶんがいかに国を愛しているか、国を愛することがいかにすばらしいか、そしてその愛を我が行動で形にするのがいかに美しいことかを、悲痛かつ勇壮に書き綴ったものだった。ちょうど四方を他国に囲まれた中尉の国が他国の圧迫を受け、屈辱的な思いを国民が受けているときで、とくに若者を中心に「読まずんば人非人なり」と言われるくらいの勢いで広く読まれていた。今思えば軽薄な内容の随筆だったと中尉は思っているが、ともかく当時はその熱にうかされてしまった。ちょうどそのとき、陸軍中佐だった父が予備役に編入された。

 街に駐屯する連隊の司令部スタッフだった父は、軍事において積極策を主張し、ことあるごとに軍中央に自説を上申書にして書き送っていた。それを疎まれての処置だと、誰にも、そして父にもが知れた。随筆の読了直後で興奮した少年は、泣きながら酒をあおる父に「おれの仇をとってくれ。じいさんも銃より本が好きな軍人はいらんとか言われて定年まで勤められなかった。じいさんと、おれの仇を取ってくれ」と、ある晩切々と乞われた。中尉は、父の乞いに応じたような格好でその年、士官学校を受験して無事合格した。


 これは似合わないな、と中尉が思ったのは、入学式の朝にはじめて制服に袖を通した自分の姿を鏡で見たときだ。軍服を簡略化したような士官学校の制服は、ほっそりした文学少年そのままの趣だった当時の中尉には、絶望的に似合わなかった。ともかくなんとか、中尉は士官学校を中くらいの成績で卒業し、任地である国境の村に赴任した。境である山の向こうから隣国の圧迫を日々受けつつも、実際に戦闘が発生することなく時がすぎ、彼はその地で中尉に昇進し、今にいたる。


「いらっしゃい。あら中尉さん」

 中尉が店に入るや、その奥で布地や服に囲まれてミシンに向き合ってた仕立て屋の娘が、店の奥から親しげに声をかける。自分以外にも中尉の階級を持つものはたくさんいるので、本当に自分は顔を覚えられているのだろうかと、中尉はいつも不思議に思う。

 娘はいつもの、袖は七部丈くらい、襟ぐりの深い白の細身のブラウスにくるぶしまであるたっぷりしたシルエットの朱色のスカートに濃い象牙色のエプロンという姿で、ぱたぱたとカウンターに駆け寄る。体の線が感じられる上半身と、深い慎みすら感じる下半身の対比と、彼女自身の朗らかな笑顔に、安らぎ以上の感覚を抱く若手将校は多い。

 対して中尉は、緑がかった灰色のラシャの布地を主とし、濃い同系色の詰め襟の左右に、階級章を兼ねる赤い肩章、下に金のボタンを5つ並べ、腰を茶の革ベルトで引き締めて、ズボンと茶の革ブーツ、左の腰には黒鞘に金の護拳のサーベルを下げ、鉢巻部分が赤く目ひさしが黒くつややかな制帽、という出で立ちだった。当然ほかのすべての将校とほとんど同じ格好なのだが、皆が太ももが外に膨らんだ乗馬ズボンを好むところを、中尉はストレートにしているところが違う。なおこれは軍では野戦服と呼ばれる軍装だが、中尉はあと同形色の冬用礼服しか持っていなかった。ほかのほとんどの将校は夏の外出用に白い軍服と、この村ではほとんど着る機会がないがパーティ用の夜会服も持っている。

 中尉の国の軍では他のほとんどの国と同様、将校以上の制服は現物ではなく、被服費の名目で給料加算の形で支給される。村に一軒しかない仕立て屋は、訓練で痛んだ部分の補修を頼むにも、詰め襟を高くしたり腰を細くしぼったりと言った軍中央の若手将校間でのつどつどの流用にあわせた直しにも、老夫婦と、年わかい娘の3人で切り盛りされるこの仕立て屋は早く正確に対応してくれて、中尉の所属する部隊の若い将校たちが、娘との会話以外の目的でも足しげく出入りする所だった。

「ごめんなさい、きょうは私だけなの。あの二人は師団長閣下のところに行ってて」

 娘が言うには、老夫婦の方はここから列車で1時間ほどの街にある、中尉の部隊が所属する師団の司令部庁舎に出かけているとのことだった。師団長はかつてこの村に永く赴任しており、この仕立て屋がそのときからのなじみで、街の仕立て屋よりもここを気に入っていた。今日は、師団長が新しい礼服をしつらえるための採寸なのだそうだ。ごめんなさい、と娘が詫びたのは、夫婦より未熟で技量の劣る自分で申し訳ない、という意味らしかった。中尉は目と口の端だけで静かに笑いながら、丁寧に紙で包んで持ってきた替えの野戦服を差し出して、袖にほつれがでてきたことを娘に伝えた。

「軍人さんって、こんなところがほつれるのね」

 包み紙をほどいて袖を見た娘が笑った。さいきん報告書を書く機会が多い旨を中尉は伝えた。規則でないのを良いことに、中尉はタイプライターをいっさい使わなかった。夢中で字を書いているうちに、机と袖がこすれてしまったのだった。

「へえ、そういうお仕事もあるのね。兵隊さんは銃を持ってわーって走り出すだけだと思うけど、中尉さんにもなると、それだけじゃだめなのね」

 ほつれた部分を、娘は人差し指でなぞる。細め、といった指の先には飾り気のない華奢な爪が健康的なつややかさを帯びていた。美しい指だと中尉は思う。


 字は、紙上での大きさや筆圧による微妙な凹凸、筆早による線のかすれ具合もふくめて字であると中尉は思っていて、もちろんそれは同僚のほとんど誰も首肯しない中尉だけのこだわりだった。ただ曹長だけが、

「そうかもしれませんな。自分は読み書きするので精一杯ですが、わかる気がしますよ、中尉の感覚は」

とかつて言ってくれたことがある。もちろんその後には「つくづく中尉は軍人向きじゃありませんな」と豊かな虎ひげをふるわせて笑うのだが。

 仕立て屋の娘に袖の直しを頼んだ後、中尉はそんな曹長を連れ立って中隊長の執務室に出頭した。中隊長は起立しており、来客用の椅子には、参謀であることを示す金の飾り緒を胸の右に垂らしたやせた男が、世のすべてを厭うような苦みばしった顔で煙草を吸いながら座っていた。中尉が出頭を報告するやいなや、参謀は言った。

「将校2名と言ったはずだが?中隊長」

「我が隊で、おっしゃる任務に就けるのは将校はこの中尉しかおりませんでしたので、もう1名の人選は私の判断で中尉に任せました。曹長を選んだのは中尉ですが、彼は機転がきき人情にも聡く、よく部下をまとめて中尉を補佐しております。自分が中尉でも、彼を選びます」

「中尉を選んだのは?」

「軍に入る前から読書家で、各種の思想に通じております。また常にもの静かで軽薄な所なく、よく機密を守ります」

 よどみなく答える中隊長ではなく、じりじりと火がともるその先を見つめながら、参謀はゆっくり煙草を一口吸って、同じくゆっくり吐き出す。曹長は参謀のこの横柄さに憤りを感じ「中隊長と一つしか階級が変わらないたかだか少佐が、参謀だからってなんです、ありゃあ」と後から中尉に吐露したものだが、ともかくこのときは、つゆもそれを表に出さず、そういうことをあまり気にしない中尉や、部下に等しく頼られている生真面目な中隊長と同じく、曹長も直立していた。横柄で厭世的な参謀少佐は、結局かれらを直立させたそのままで、ゆっくり一本煙草を吸い終わってから、「では」と告げて立ち上がった。

「彼らにやらせたまえ。委細は先ほどの通りに」

 はっ、と中隊長は答えて、机の電話機でとなりの中隊将校室から副官的な立場の少尉を呼んだ。すぐノックして参上した少尉に誘われて、参謀少佐は出て行った。そこは将校用なのかね少尉、ここは小さな村でして帝都のようなレストランではありませんが良い席をとってあります少佐殿、大隊長以外は、駅長と副村長がご一緒です、田舎だな。彼らは歩きながらそのような会話をしていた。たっぷり時間をかけて参謀少佐を見送った後、中隊長は中尉を曹長に向き直った。

「参謀本部からご出張だ。国境の隊をまわっておられる。ああ、すわってよい」

 言いながら中隊長も自分の机のむこうの椅子に座る。

「昨今、さまざまな思想言説が市民を惑わし、世情を不安にしておる。我が国の外交を弱腰と非難するもの、所得の分配を求め我が国体の変革と畏れ多くも帝室にまで害をなさんと企む輩。どちらも、我が国を揺るがすものであることは同じだ」

 この小さな村ではあまりみないが、帝都では両派が街頭で人を集め騒いだり、その場で喧嘩を始めたり、あるいは官憲に団結して襲いかかったりすると聞く。

「それ自体は内務省の思想局と警察が取り締まるべきものだが、こと隣国の軍事圧迫もさかんな昨今、国境付近での騒擾は守備兵力もその鎮圧にさかれ、かつ軍事介入の口実にもなりえる。つまり昨今の情勢は国防上の課題でもある」

 認識については中尉のものではなく、参謀本部のものだろう。

「そこで、それを未然に防ぐべく、中尉と曹長には当村における各種思想の浸透のぐあいを調査してもらいたい。重要とおぼしき人物がいれば接触してもかまわん。」

 国家の密偵が勇気と知略で八面六臂の活躍をするたぐいの流行小説をいくつか中尉は思い出した。もちろんこの任務は、そんな華やかなことにはなるまいが。

「必要な費用はどうなりますか」

「やはり曹長は聡いな。さきにいくらかまとめて渡す。足りなくなればつど私に直接申し出よ」

「専従ですかな」

「もし当村に各思想の運動員が潜伏していた場合、専従もしくは無任所の人員がいれば、軍が調査していることに感づかれるおそれもある。勤務超過するが、今と兼任せよ」

「では手当をいただきたく」

「もちろんだ。だが、彼らも帳簿や給与明細までは見んだろうが、兼任と同じ理由で正式な手当にはできん。そのぶんは先の『必要な費用』と同じく、私から直接手渡す」

「委細承知いたしました、微力を尽くします」

 勇躍、という言葉がぴったりの勢いで、曹長は言った。むろん軍隊なので命令である以上、諾以外の返事はないのだが。次いで中尉は、報告の体裁について問うた。

「つど私に口頭で報告せよ。絶対に書面にはするな。ああそれと」

 中隊長は机の施錠された引き出しを開けて、一冊の薄っぺらい本を取り出した。

「帝都の諜報学校の教科書だ。本来なら直接そこで学ぶべきところだが、いまはこれで手法を学べ」

 曹長はおもわず苦笑した。中隊長は生真面目だが、部下のそう言う態度をとがめることはなかった。

「この件、形式的には大隊長の命であり、参謀本部の横槍ではない。あと大隊副官がこのことを知っておるが、大隊長も副官も、誰が実際に従事するかは知らん。貴様らも彼らに自分が従事していることを言ってはならん。もちろん他にも、いっさい他言無用である。以上、さがってよい」


 この極秘任務を遂行するにあたって中尉がまずしたことは、仕立て屋に行く事だった。

「あら?まあ、いらっしゃい」

 娘がいつもどおり朗らかに迎えてくれつつも、やや疑問の顔をしたのは、中尉の来店がきょう2回目だったからだ。忘れ物かしら? と問う娘に、中尉は背広を仕立てて欲しいことを告げた。

「お洒落に目覚めたの?軍服しかもってなかった中尉さんがどういう風の吹き回しかしら」

 親戚の結婚式にでるためだ、と中尉は言い繕った。民間人の私的な祝いであれば、軍服で参列しない軍人も多かった。それはそれは、当店にご用命くださり、ありがとうございます。娘はめずらしく礼儀正しく礼を言ってから、

「じゃあさっそく採寸させてもらうね。ああその前に、お茶はいかがかしら。ちょうどお湯を沸かしてるところだったの」

 と、店の奥に中尉をいざなった。断る理由もなく、中尉もいざなわれるまま奥へ進む。そういえばカウンターを超えたことはなかったので、心なしか緊張してしまう。様々な色・種類の大量の糸が壁の棚一面に並んだ狭く薄暗い廊下を数歩あるいて抜けると、正面の壁に大きく空けられた窓から陽光が溢れる仕事部屋になっていて、そのほとんどは、中心に置かれた大人が数人寝転べそうな巨大な裁縫台に占められている。その裁縫台のかたわらの小さな椅子を中尉にすすめ、ちょっとまっててね、と告げて娘は台所に入っていった。

 廊下からみて左の壁際の、カウンターまで見渡せる位置には、裁縫台から追い立てられるようにミシンが置いてある。アイロン台も幾つか、折りたたんでその壁に立てかけられていて、ミシンのさらに奥が、台所につながっている。右の壁は棚になっていて、木の芯に巻かれた、これまた様々な色・種類の大量の布と、顧客のリストらしき紙の束がこれまた大量に積んであった。そんな仕事部屋を、大量の繊維の香りと、豊かに差し込む陽光がつくる穏やかな空間をじっくり見回しながら、中尉はどうもおちつかない気持ちであった。しゅん、しゅん、しゅん、しゅん。湯の湧く音が聞こえる。娘がカップや茶葉を用意しているらしいかすかな物音が、そこに重なる。そういうものなのだな、と中尉は一人で苦笑するが、誰に対して照れを隠せば良いのか、中尉自身もわからなかった。ちょうど陽光は西日に遷りつつあり、これがまた中尉にはまぶしい。


「つくづく中尉は軍人向きじゃありませんな」

 改めて曹長は、万感の思いを込めて言い放った。中尉の麻のざっくりした質感の象牙色の背広に紅のネクタイは、曹長の見る限り、ふだんの野戦服よりは遥かに似合っていたからだ。上の下の資本家の次男坊のような、と中尉はその姿を上限した。かくいう曹長は、自分の私服をそのまま着ていて、つつましい自作農のような出で立ちだった。これはこれで似合っているなと中尉は思う。背広が仕上がるまで、情報収集は曹長にまかせっきりにして、中尉はひたすら新聞や書籍の読破に当ててていた。今日は曹長が当たりをつけた集会に、民間人の体で参加するてはずになっていて、通常勤務を終えた夕方にお互い別々に宿舎を出て、役場で待ち合わせた。ま、いきましょうか。そういって曹長はすたすたと歩き出した。

 ややあって小さなビアホールに入る。普段は給仕のあかるい女性が迎えてくれそうな入り口は、ハンチング帽をかぶったいかつい中年男性が来場者をじろりとにらみつつ、この日だけの入場料を取っていた。中からは、陽気でリズムを強調した軽やかな音楽が聞こえる。演奏会という格好らしかった。

「よお兄弟。この前言ってた甥だよ」

 ハンチング帽に曹長は言って紙幣を渡す。甥か、と中尉は思った。そういうことになっているらしい。

「先生は来てるんかい?」

 まだだ、とハンチング帽はぶっきらぼうに答えて紙幣を受け取る。そうかい、楽しみにしてるぜ。曹長はそう言って店にはいる。やはり中尉はひょこひょことついていく。3席空いているところに二人は陣取り、やっと出迎えてくれた給仕の若い女性にビールを頼む。

「今日は帝都から、こいつらの指導者が来るんだそうです」

 曹長は、これはもちろん小声で、中尉に告げた。

「ところでまだ報告しとらんでしたが、どっちだとおもいます。こいつら」

 にやにやしながら曹長は問う。そういえば確認してなかったな、と中尉は自分の迂闊、というか鷹揚にすぎたことに気づいた。将に将たる器とは中尉のことかもしれませんなあ、とこれもよく曹長が言うのだが、これは中尉のその点を柔らかく諭す表現であった。

 ともかく中尉が店内を見回すと、農夫や職人、工場労働者とおぼしき客が多い。音楽の演奏者たちも小綺麗な格好をしているが、やはり資産家には見えない。革命を志す方だな、と中尉が答えると、曹長はにっと笑った。

「逆ですよ。愛国心をこじらせちまったやつらです」

 自分が見聞きした範囲でだが、という前提を置いて中尉が解説するには、庶民は素朴に帝室と国家の栄誉を信望しているものが多く、彼の言う「こじらせた」人々は、政治を担う宰相や大臣、立法府議員たちを、私利私欲で国政を壟断する寄生虫と見なしているらしかった。対して革命を志向するものは実は小資本家や末端貴族の子息に多く、彼らは不労所得を得ている自分自身への罪悪感を感じている、とのことだった。本好きで、本を買う金にもこまらず、ちょっとナイーブな奴らです、ちょうど中尉のようなね、と曹長が例えたのは3杯目のビールをおかわりしたころだった。

 突然、店内に歓声が起こった。先生!先生だ!みな口々に叫び、店の入り口に駆け寄る。先生なる人物の移動に従って、人の固まりはゆっくりと店の奥に動いていく。音楽はいつのまにか、入場にふさわしい勇壮なものにかわっていた。テーブルをいくつか集めた急ごしらえの演説台に、先生なる人物がゆっくり登壇する。濃いカーキの背広を着て、穏やかな微笑みを浮かべていたが、その顔を見て中尉と曹長は息をのんだ。

 彼はまさしく、先日の参謀少佐であった。

「ちょっと飲み込みづらいことになってきましたな」

 曹長がささやく。中尉も同感だった。ともかく様子を見よう、と中尉も答えるがお互いそれ以外のことは思いつかない。 参謀少佐は今の内閣の弱腰、隣国の横暴、帝室の威光と尊厳、国民の団結の必要性などを、ときに勇ましく、切々と、そして長々と皆に説き、その最後を「敢然起つべきときはいずれきたる。その日、我らの鉄拳で君側の奸は完膚なきまで叩き潰されるであろう。帝国万歳!」と結んだ。万歳!万歳!聴衆の熱気はますます高まる。

 この村がまったく平穏であるという自分の認識が、おおきく現実と乖離していたことを、中尉は知った。ここまでとは思いませんでしたな、と曹長も言う。噂に聞く帝都の様子と、ちっとも変わらない。演説を終えた参謀少佐は台をおり、差し出された水を飲みタオルで顔を拭くと、すぐに席を回って短く挨拶や歓談をしだした。中隊長室での横柄さや世を厭う目つきは、どこかに行ってしまったようだった。客がみな参謀中佐や、その演説の感想の交換に夢中になっているのを見回して、中尉は曹長に、これまでの調査でわかったことを小声で、しかし念のため世間話のように、そして甥が叔父に話しかけるように、聞いた。

「驚いたろ、村人のどこまでかはオレもまだ知らんが、役人も先生のお説に感じ入ってるやつが多いんだ。今日は出張で来られなかったそうだが、役所の出納長と警察署のお偉いさんも何人か、先生が来るたびに聞きにくるそうだ。革命なんてのに感化されちまった若い奴らもちょこちょこいるが、この村では先生についてくって奴の方がはるかにおおいぜ、きっと」

 伯父はそのように甥に報告し、「国のために働いてるってことでは、庶民より役人の方が、先生の説くことは共感しやすいかもしれないな」と、今後の重点調査対象の提案を付け加えた。

「はじめまして、ですな」

 突然話しかけられた。いつのまにか顔をつき合わせて周りを見ていなかった二人が驚いて振り向くと、「先生」がにこやかに手を差し出してきた。はいそうです、と笑顔で立ち上がってまず握手に応じたのは曹長だった。

「みなの顔を知ってるんで?」

「ええ。国を愛する人たちはみな、覚えずにはいられない良い顔をしておられますので」

 こういう物言いを無邪気に喜ぶ精神が中尉には信じられなかったが、ともかく彼も立ち上がった。甥です、という曹長の紹介に続いて挨拶する。そういうことなのですね、と参謀少佐は笑顔のままで、きちんと目を合わせて応じる。

「先生どうでしょう、お忙しいとは思いますが、良ければ新参の私らに改めて、時勢や取るべき道を教えてくれませんでしょうか」

「ええ、もちろん。今日はここで宿をとりますから時間はいくらでもあります。せっかくなのでゆっくりお話ししたい。どこかもうすこし、静かな席はないかな」

 と参謀少佐は見渡して、召使いのようにかしづいていた聴衆に「あちらはどうです」と示された、隅のこじんまりしたテーブルに三人は移動した。

 店内を背にする向きに参謀少佐は座り、背広の内から煙草を取り出す。ゆっくりと火をつけてゆっくりと一口吸い、ゆっくりと吐き出す。いつしか彼は、あのときのように世を厭う目つきに戻っていた。視線は灰皿に固定されている。どういうことです?と曹長が問う。もう一口、参謀少佐はゆっくりと煙草を吸ってゆっくりと吐き出す。濃い煙が立ちこめる。

「このことは中隊長には言うな。私自身もこのような形で、調査に従事しておるのだ」

「なぜです?」

 ふふん、と参謀少佐は鼻だけで笑って、「我が軍は情報収集とその分析を、ながく軽んじてきた」と、関係なさそうなところから、彼は話を始めた。

「それに危機を感じていた私を含む参謀本部の一派の尽力で、ついに軍も諜報学校を、やっと数年前に設立した。私はそこの教官に収まった。だがまだ有能な諜報員は育たず、軍も諜報を軽んじ続けている。我々自身が、諜報の有効性を確たる形で証明する必要があるのだ。だから参謀本部に諜報班ができたときに出戻りを希望し、容れられた」

「なぜ『先生』なので?」

「愛国思想の主流派も、同思想の別派の指導者が軍の諜報員とは、よもや思うまい。一人ではじめて民衆を煽動するのは大変だったが、時を見て人数を引き連れて合流すれば、私はそのまま主流派の幹部だ。情報収集が容易になるだけでなく、ある程度だが運動のコントロールすら可能になる」

 それきり、かれは何も話さずゆっくりと煙草を吸い続けた。中佐も曹長も、だまってそれを見つめていた。火が根元まで届いた煙草を灰皿に押し付けて、参謀少佐は立ち上がった。世を厭う方の目では初めて、二人と目を交互にあわせて

「この短期間でこの場への潜入まで果たした君らは、見込みがある。覚えておこう」

 と告げて、聴衆の喧噪に戻っていった。


 初夏。青々とした晴れる空の下、緑が鮮やかな芝生の上で、白一色の制服の一団が談笑していた。白い上衣は詰め襟で金ボタンが5つ付され、白ズボンに白い靴。軍帽の鉢巻き部部分と肩章だけが黒い。鉢巻きの中心には国花が、肩章には階級を表す線や星が、それぞれ金色で乗る。海軍の将校夏用勤務服である。そこへ、緑がかった灰色で身を固めた陸軍将校たちが歩み寄り、お互い同じタイミングで敬礼をする。両方みな白手袋で、遠目には敬礼が美しく映える。海軍式の敬礼は、狭い艦内でも容易なように陸軍のそれより脇を締めるが、そこまでは中尉の居る位置からはわからない。

 中尉は、今日は野戦服で、手を後ろに組んで立ち、将校たちの邂逅をやや離れた丘から見つめていた。その後ろには中尉の指揮する小隊が武装して整列しており、曹長が列の一歩前に直立している。中尉の小隊の右側に1分ほど走った場所には、丁寧にも騎兵小隊まで同じく整列している。どこから引っ張りだしてきたのか、黒い肋骨服に白いズボン、黒ブーツに黒い熊毛帽という、まだ一応正式だが既に旧式でもある出で立ちで、彼らはそれぞれ鹿毛や河原毛、青毛などの馬にまたがっていた。

 将校たちはお互い、参謀も参加しており、ぽつぽつと金の飾り緒が白や緑がかった灰色の胸に揺れる。やや汗ばむ気温だが、そよ風が心地よい。三枚翼の最新式の飛行機は、将校たちから風上の方にやや離れた所に翼を休めていた。これから海軍が試験導入した外国の飛行機を、陸軍関係者に披露するのだ。国境近くとはいえ、平時の内地の行事を、我が精悍さを見せつけるように大隊あげて武装して警備するのは、披露を願い出た陸軍側のプライドの問題らしかった。

 ややあって、黒塗りの車が3台ほど到着する。陸海軍の将軍や提督たちだ。提督はほかの海軍将校と階級章以外はまったく差のない出で立ちだが、将軍は通常の陸軍将校が胴より濃い色にしてある詰め襟が赤いラシャになっていて、そこに仰々しい金の階級章をのせ、ズボン横にも赤線を二本入れている。同じ国の軍隊で、こうも違うものなのだな、と中尉はふしぎな興味を抱いていた。

 芝生の少し離れたところには、白いテーブルクロスをかけた長テーブルと椅子が設置されてあり、テーブルの上には花も飾ってある。飛行機のデモンストレーションのあとは、そのままここで昼食会になるのだ。「今日は長いですな」曹長が兵たちに聞こえぬように、中尉にささやいた。

 飛行機の周りにいた整備員たちが慌ただしく動き始めた。飛行機のプロペラが回転を始める。低いエンジン音はすぐにやかましくなり、乗り込んだパイロットたちが整備員に手で合図する。馬のいななく声、足踏みする音が聞こえた。軍馬は爆発音や時の声など戦闘騒音にはおびえぬよう訓練されているが、やはり聞いたことがない音には敏感になるようだ。飛行機はゆっくりと動き出し、たちまちその滑走は加速する。まず1機、次に2機ほぼ同時に、ふわりと浮かびそのまま空を目指す。ちょうど騎兵の真上をかすめる進路で、すれちがいざまに馬たちは、騎兵の制御を離れ駆け出したり立ち上がったりして、海軍からはユーモラスな、陸軍からはぶざまきわまりない反応で飛行機を見送った。

 飛行機は上空でおのおの宙返りや急降下で個人技を見せつけたり、そのまま一糸乱れぬ編隊行動をとったりと、見事な機動を次々と披露する。それを見て小声で話し合ったり呆然とする陸軍将校たちを、海軍将校たちが勝ち誇った目で楽しんでいることは、遠目にも中尉に知れた。

 そして、地上すれすれまで降下したあと、さらなる曲芸を行おうと急上昇していた一機が、期待たかまる皆の注目を独り占めにした瞬間に。

 爆発した。

 駆け足、進め。中尉より一瞬早く、曹長が叫んだ。すでに落ち着きを取り戻していた騎兵小隊も今度は整然かつ猛然と、こちらも将校たちの所に駆け出す。残った2機の飛行機は対空砲火をさけるように急いで高度を落とす。将校たちはサーベルや拳銃を抜いて、副官に車へ誘導される将軍、提督を守るように囲む。そこへまず騎兵、次に中尉ら歩兵がつぎつぎ到着し、さらにその外周で臨時の円陣を組む。テーブル近くで昼食の準備をしていたコックや給仕たちは我先に逃げ出し、食器やグラス、フライパンが割れたりひっくりかえったりする。警備責任者である連隊長が、騎兵たちに周囲の偵察を、中尉に車の警備を短く命じた。はじけるように騎兵は駆け出し、中尉は小隊をつれて車の方に駆け出す。車からは、いちど乗り込んだ将軍たちがあわてておりるところだった。車にも爆弾が仕掛けられるかもしれん、と、ある参謀が叫んだからだ。このとき彼だけが、この事件が爆弾テロであると直感だが断定していた。

「貴様の部隊は閣下らを守って村へ」その参謀は、権限外だが中尉に命じた。中尉はその通りにした。そして車も、一台が爆発した。

 中尉は曹長に先頭に立つように、兵には姿勢を低くして走るように命じた。自身は後ろを振り返りながら、最後尾を駆ける。

 10分走ったのち1時間ほど早足で歩いて、中尉の小隊と将軍たちは村についた。将軍たちはさすがに高位にあるものの矜持か、それぞれ初老の体でありながら、その間休息を命じることはなかった。それきり爆発はなかったが残りの車と飛行機にも爆弾はしかけられていたこと、それらはすべて時限信管の不具合で爆発しなかったこと、死者は爆発した機のパイロット1名だけだったことを、中尉はその晩に知った。


 陽に灼かれるかのような暑さの昼下がり、中尉はあの麻の背広を小脇にかかえて、そう呼ぶには大げさすぎる村の大通りを、汗をふきふき歩いていた。大通りに面した石造りの村役場は、それ自体が蓄熱した熱気を惜しげなくあたりに充満させ、申し訳程度にこれまた石で舗装された大通りはまじめに陽光をこの一帯に照り返させていた。役場の前にはちいさな噴水があって、涼を求めた村人がその脇のベンチで休んでいたり、子供たちが水を浴びて笑い合ったりしている。そう言う光景を横目で見ながら、中尉はこれまた村に1軒しかないカフェを目指している。空は憎らしいほど晴れ渡っている。カフェは、ちょうど大通りの石畳が終わるところに、ぽつんとあった。

 客は誰もいない。テラス、というか単に道路を占拠してテーブルと椅子が置かれているところに座り、サイダーを頼む。緑の日よけも遠慮なくこの歩道まで張り出しているが、中尉にはむしろもちろん、ありがたかった。腕時計は14時10分をさしていた。ややあって、ほかの全席が空いているにも関わらず、若者が中尉の前に座った。品定めするように若者は中尉の頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺めて、こう言った。

「あんた、ほんとに軍人かい?」

 苦く笑って中尉はそうだと告げた。

「見えないなあ。オレ、人を見る目はあるんだがなあ」

 だからまず自分のような人間に会うのは彼なのだろうな、と考えながら、中尉は自身の本物の軍人手帳を差し出した。軍人の心得と関係法規条文の抜粋、身分証と軍内での履歴が書かれたものだ。若者は、粗雑な手つきで手帳をぱらぱらとめくって、了解だ、ありがとう、という言葉を添えて中尉に返した。

「じっさい軍人の同志もいるんだが、いちおうあんたのことを教えてくれないかな」

 問われて中尉は、生家は裕福だったがその使用人の暮らし向きの不自由さに小さい頃から疑問を持っていたこと、いまの自分の部隊の兵は貧農や労働者の子息がほとんどで、ごく少ない給料のほとんど仕送りにまわすものが多いこと、かれらの身の上話を聞くうちに、社会の不公平をどうにかすべきと強く感じたこと、などを手短かに述べた。ただし生家のことは嘘で、兵のことや自分が感じたことは誇張だ。了解だ、ありがとう、と若者はさっきと同じことを言った。

「さっそくだが協力してほしいことがある。詳しく話したいが、ここは一目につくから移動しよう。あてがある」

 学生は伝票を中尉に差し出して立ち上がった。中尉がまったく不自然さを感じない鮮やかさだった。たしかに給与所得があるぶん、この学生よりは自分は裕福だな、と妙な納得さえしてしまう。ややあって、この仕事を後からふりかえって、より困難な場面がいくつかあった他と比べても最も当惑したと思えることに事態となる。ここだと言って学生が立ち止まった1軒の店。彼が言った「あて」、それはあの仕立て屋だった。


「心強いわ。これからもよろしくね」

 学生に紹介されて、明らかな戸惑いを見せた娘は、やがていつもの朗らかな表情でそう言った。へえ、ここの客だったのか、あんたも詰め襟高くしたり、腰を思い切り細くしたり、あんな変な軍服を着てるのかい、意外だなあ。学生は無邪気におもしろがっている。彼の家がある帝都では、若手将校たちの服装の流行がかなりエッジーになっていて、民間人には珍妙にすら見えるものになっていた。

「親父さんたちは」

「今日も街よ。師団長に仕立てた服を届けに行ってる。たぶんきょうは帰らないと思う」

 師団長に閣下をつけなかった。こだわりか配慮か、ともかくそういう使い分けはできる娘だったようだ。「軍人さんと少し話す、いいか?」「いつもどおり奥をつかって。お茶、いれてくるね」「酒は」「それもいつもどおりね。じゃあお茶とお酒を持ってくる」ふたりはそうも頻繁にあっているのだとおもうと、中尉は残念な気持ちを覚える。ともかく奥に入り、あの裁縫台のかたわらに座る。

「慣れてるな、さすが常連さんだ」

 その言葉はなにかの牽制に聞こえた。向かい合って学生も座る。

「近くの野っ原のボヤのニュースあったろ。あれ、ほんとはなんだか知ってるか?」

 その場に居たから知っている、と中尉は答えた。可能な限り、嘘はやめておいた方がよいと判断したからだ。

「話が早いな。じゃあ、爆弾を仕掛けたのは?」

 これには、もちろん犯人は知らない、憲兵と警察が探しまわってると聞いている、と答える。これも、その通りだった。だがそれを聞いて学生は笑った。

「見つからんさ、見つかる訳がない。なにせ仕掛けた奴は軍の参謀だからな。誰とは今は言えんが」

 なぜそれを、今日あったばかりの自分に教えるのか。

「その参謀は軍の通信や報告をすべて見聞きできる立場にある。もしあんたが帰って上官にこのことを報告したら、すぐにあんたはなにかの罪状で憲兵に捕まるようになっている。これはいわば、呪いさ。あんたが裏切らないようにするための。そんな神様みたいなことができるかって?オレは止めないから、試してみたらいい。ホントかウソは、あんた自身が確かめることができるよ」

 わかったよ、と告げて中尉は考え込む。我が軍の参謀には、神様みたいに耳と手が発達した奴がいるらしい。スパイを命じた参謀少佐も、このまえのテロで勘が冴えた参謀もいるし、人材が豊富なのか我が軍の参謀教育が独特なのか、まあ多士済々といったところか。

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