エピローグ




「はっはっ……」


 空には、青空が一杯に広がっている。春の日は温かく、辺りを照らしている。今日も、なかなか暖かくなるらしい。こんな中で走っていたら、確実に汗を掻いてしまう。だが純一郎には、走らなければならない理由があった。


「まさか、入学式の日に……寝坊するだなんて……!」


 うっかり親子して寝過してしまう。そんな日もあるらしい。


(しかし……走りにくいな……!)


 それもそのはずである。少年の右手には、未だギプスが着けられている。右手を振って走れないのだ。体の痛みは大分良くなったが、骨折だけは如何ともしがたい。こんな体なので、本当は母親に車で高校まで送ってもらう予定だった。勿論、高校生にもなって親に送迎してもらうだなんて恥ずかしい限りなのだが、この体では自転車に乗るにも危ない。ギプスの取れる今週中だけは、恥を忍んで送ってもらおうと思っていたが、母もすぐにパートに出なければ間にあわないとのこと。そのため純一郎は自らの足で、歩けば一時間はかかる隣町まで行くしかなく、今は通学路の住宅街をなんとか走っている所であった。


「はぁっ……はぁっ……! あー……どうせもう間にあいもしないんだし、歩いて行くか……」


 道のりの半分は過ぎた位の地点で、少年は歩きだした。


 アレから結局、少年は少女に会いに行かなかった。というよりは、行けなかったと言う方が正しい。流石に三日も家を空けて、怪我して病院送りにされたのだ。母親から、怪我が治るまで、外出禁止令が言い渡されてしまったのである。


(……まぁ、色々考えたかったしな。丁度良かったって言えば、丁度良かった)


 時刻は午前九時。もうとっくに入学式は始まっているだろう。過保護な家であったり、行事を大切にするタイプであったならば、今日という日に遅刻だなんてありえなかったはずだ。しかし、純一郎も母親も、そういったことに執着しないタイプであったのが災いしたらしい。


 辺りには、人の姿が時折見受けられる程度である。だがこの活気の無さが、返って思考をするには丁度良い。


 少年が寝坊したのには、きちんと訳がある。昨晩、結局遅くまで悩んでいたのだ。


(……昨日は考えがまとまらなかったけど……どうするべきか)


 少女にもう一度、会いに行くべきかどうか。勿論、春菜に会いたい――そういう気持ちはある。だが、自分が会いに行ったとて、何が出来るというのだろうか。


(あれ以来、何のおかしなことは起こって無いけど……いや、それはいいことなんだけど。あの亡霊を封印したせいで、魔物ももう見えないかもしれないし……だったら、何の役にもたたないよな、俺……)


 そう思っている間に、鳥居が少年の視野に入った。そして、石段の前で一度立ち止まり、その上を見上げる。


(姫様は、いないか。見えれば、ちょっとは会うための言い訳にもなったんだけどな……)


 だが、件の姫君は昼過ぎにならないと起きださないということを思い出した。町は既に動き始めているが、神様は未だに布団の中で惰眠を貪っているのだろう。しかし、なんだか居てくれないと、あの三日間のことが夢か幻でもあったかのような――。


 だが、アレは実際にあったことだ。少年は左手に持った鞄に視線を落とす。その中には、五日前に借りて、外出できない憂さを晴らすために読了された本が入っている。


(でも、そうだよな……そんなに難しく考えなくっても、いいんだろうな)


 最初は文字ばかり追うのが大変だった。次第に、文の世界が眼の前に現れるようになった。知らない言葉も多く、きちんと読みこめたとは言えないだろう。それでも今の自分なりに、本の世界を体験することはできた。そしてその世界を、誰かと共有したいという思いが、今確かに胸にある。きっと、それだけでいいのだ。


 少年は視線を前に、自分が向かうべき道を歩み出した。もう五分も歩けば、これから自分が三年間通うべき学び舎へと到達する。改めて新しい部活に入って頑張るのもいいだろうし、頑張りきれなかった受験勉強のリベンジのため、勉学に精を出すのもいいだろう。なんだったらバイトでもして、長期休みには旅に出るのもいいかもしれない。少しだけ大人になった両の目で、眼前に広がる無限の可能性を見つめて、少年は歩みを進める。


 たったひとつ言えることは、何か一つでもいいから頑張ろうということ。そして、その一つは、既に少年の中で固まりつつある。






 学校に着くと、眼前には散った花の絨毯が広がっているのが視えた。今年は暖かかったせいであろう。見上げると、既に桜の木は枝の先に緑を付けていて、所々に花が残っているのみであった。だがその緑と白が、今日の青い空には何とも相応しいように見えた。

 既に体育館の方には、人の気配は無い。入学式はとうに終わり、ホームルームが始まっているのようだ。純一郎はどこへ行けばいいのか途方に暮れたが、意を決して職員室へと向かい(これを探すのにも結構時間がかかった)、ハレの日に大失態を犯したことに対する大人のちょっと冷たい目線に耐えながら、なんとか自分の向かうべき教室の前まで辿り着いた。1年F組という板が、扉の上に掲げられている。


 純一郎は、自由の利く左手を扉の取っ手におき、数秒悩んだ。中からは何やら若い声が聞こえてくる。恐らく、生徒たちが自己紹介でもしているのだろう。


(……ここで入っていったら、トンデモないインパクトの自己紹介になってしまわないだろうか?)


 入学式の日に重役出勤して来る生徒。しかも、手にはギプスを着けている。そのため、卸し立ての学ランも、肩からかけるような形になっている。仮に自分が中に居る生徒の立場でこんな奴を見たら、こいつとは関わらないようにしようと思うはず。それも、絶対に即断だ。別に髪を染めているわけでもなければ、変にチャラチャラとアクセサリーを付けているわけでもない。だが、それを差し引いても、不良と判断されてしまうのは想像に難くない。


(あー……でもまぁ、自分が寝過したのがわりぃんだしな)


 嫌なことから逃げるのは簡単だ。だが、しでかしてしまったのが自分ならば、責任を取るのも自分なのだろう。覚悟を決めて、少年は教室の引き戸を勢いよく開けた。


 教室の中に、ちょっとしたどよめきが起こる。皆が、純一郎の方を向いている。きっと今頃、純一郎が予想した通りのことを考えているに違いない。だが、このままでは埒が明かない。そう、何か言わなければならない。


「……霧生市立第二中学校から来ました、上野純一郎です! 初日から寝坊して、すいませんでした! どうかこれから、よろしくお願いします!」


 ハッキリと言いきった。中途半端に言ったら、気も晴れなかっただろう。教室からは所々で、小さな笑いが起きている。


(……どうやら、当面は変な奴、位の評価で収まりそうかな?)


 少しスッとした気持ちで、少年は教室を見まわした。すると、本来は彼女の番であったのだろう、一人の少女が立ち上がったまま、純一郎の方を向いているのが視えた。


「あっ……え?」


 純一郎から、驚きの声が漏れる。その少女の顔に、見おぼえがあったのだ。彼女もまた、驚いた表情をしていたが、少しして後、驚きは笑顔に変わる。それはこの五日間、少年がずっと求めていた笑顔である。


 少し開いている窓から、穏やかな風が差し込んでくる。その風に、少女の肩まで伸びた髪がふわりと踊る。印象的な青いリボンを胸に乗せた黒いセーラー服が、少女の清楚さになんとも似合っている。立ちあがったままの少女は、視線を少年に向けたまま、少年の自己紹介に答えてくれた。


「霧生市立第五中学校から来ました、水上春菜です。私の方こそ、よろしくお願いしますね」




 この五日間でなんとか読破した一冊の本は、ある日孤独な少女が一人の冴えない少年と出会い、様々な冒険をする話であった。現実の世界には、そんな冒険譚などないかもしれない。だが頁をめくるあのワクワクする気持ちは、きっとこれからも続いていく。





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霧生市所属神祇官水上春菜 五島七夫 @5oz7

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