第6話 父親の焦燥

 世知辛い世の中を生きていくならば、大なり小なり、ストレスは溜って来る。

 人間社会から隔絶された山奥なんかで、仙人のような暮らしをしていれば別だが、人間社会にどっぷりと浸かって生活していくならば、対人関係にも疲れてくるというのは避けがたい現実だ。

 そういう人生を過ごしていくと、「殺してやりたい」とは決して思わないけれど、「こんちくしょう」と思う相手が幾人かは出現するものである。

 そんなプチな怨みを抱いて日々を過ごす人間は、思っている以上に多いらしく、そのプチな怨みを晴らしてくれる篤志家が現れたのだ。

 人呼んで、筆殺仕事人。

 普段は、世間のありふれた人々と同じ生活を送りながら、しかし、それは世間を憚る表の顔であって、裏稼業は依頼人に変わって成敗してくれるのだ。

 ただ、成敗してくれるのは、現実世界ではなく、小説という仮想空間の中での話ではあったが・・・・・・。

 その筆殺仕事人。本人は歴としたペンネームを騙っていたが、噂が噂を呼び、いつしか、投稿サイトにおいて、『鐘木(べるぎ)もんど』と呼ばれるようになった。


 私は、地方都市で雑貨商を個人で営んでいる。

 一応の肩書は社長だが、正社員は社長の私だけで、あとは30歳代半ばの男性アルバイトが1人だけの小さな雑貨店である。

 そんなに客は来ないが、倒産しない程度には客が来る。コンビニエンス・ストアを少し暇にした程度とイメージしてもらえば良い。

 コンビニとの違いは、24時間営業ではないこと。午前10時に店を開け、夜の8時頃に店を閉める。

 深夜に雑貨を買いたがる客はいない。少なくとも、この街にはいない。

 だから、アルバイトが1人いれば十分である。

 アルバイトの都合が付かず、私自身も商品の仕入れで外出しなければならない時は、妻がピンチヒッターで店番をする。


 私ら夫婦には娘が1人いる。

 晩婚化が叫ばれて久しいが、御多聞に漏れず、私らの娘も30歳を過ぎたのに独身である。

 誰か男と交際している気配もない。大都会の東京でキャリアウーマンとして自活しているならば、親としても少しは安心なのだが、そこは職の少ない地方都市。

 娘は「自分に合った仕事に巡り合わない」と言っては、転職を繰り返している。

 一方のアルバイトの男。

 馬鹿が付くほど従順な男で、私の指示通りに働く。不平不満は一言も漏らさない。

 田圃で鋤を牽く家畜のように黙々と働く。野心というのが無いのだろう。そうでなければ、30歳代半ばまで、小さな雑貨店でのアルバイトの身に甘んじるわけがない。

 親としては、いっその事、アルバイトの男を婿養子に取り、この雑貨商を継がせようかとも思う。

 娘とは年齢も釣り合うし、この男であれば浮気なんかで家庭を壊す恐れも皆無だ。

 これまで通り、黙々と家業を続けて行くだろう。

 ところが、この男を恋愛対象として、娘の方は全く考えていない。

 まして、結婚なんて・・・・・・とんでも無い。

 アルバイトの男の方はと言えば、何を考えているか、サッパリ分からない。

 私が娘との結婚話を口にすれば、恐らく直ぐに「分かりました」と返事をするはずだ。

 男が何を分かったのか、こっちには皆目見当が付かないが、10年以上も一緒に働いているので、そんな主体性の無いところだけは熟知している。

 娘の将来にとって何が最善なのか?

 ここ数年、それを考える日々が続いている。

 私らが娘に遺せるのは、この雑貨店だけである。

 これは結構ストレスが溜ってしまう。

 だから、ネット上で、『鐘木もんど』を探し回った。

 最近は、恨みを晴らしてやりたい相手がいなくても作品を書いてくれる、という風聞が立っていたからだ。


 そして、依頼に応えて執筆してもらった作品が、『藩王と水牛』という作品である。


『これから話す物語は、16世紀のインドでの物語である。

 当時、インド最後にして最大のイスラム教国、ムガール帝国がインド全域を治めていた。

 賢明なる3代皇帝アクバルは、土着の仏教徒、ヒンズー教徒を迫害することなく、宗教的には融和的な治世を敷き、平和を享受していた。

 乾燥した気候のインド亜大陸では畑に直撒きの陸稲を栽培することが多かったが、インド東部、今のバングラディッシュ国のある地域では、降雨にも恵まれ、ベンガル湾にインダス川が注ぐ広大な川洲が広がっていた。

 水稲の栽培に適した肥沃な土地であり、見渡す限りに水田が広がっていたのだった。

 その水田では、春になると、農夫が水牛に鋤を牽かせて田圃を鋤き、腰を屈めては苗を植え付ける田植え風景が見られるようになる。

 秋になれば稲穂は頭を垂れ下げ、毎年の収穫は豊穣であった。

 国は豊かであり、民も飢える事は無い。長閑で安寧な暮しが何十年と続いていた。


 そんな地方を治める藩王は、代々続く土着のヒンズー教徒であったが、優しい気性をした民想いの藩王であった。

 慈しみの対象は、民に限らず、家畜にまで向けられていた。

 そんな藩王が田圃の畔に座り、鋤を牽かされる水牛に向かって、話し掛ける。

「水牛よ。お前は本当に働き者だなあ。

 陽が昇ると同時に鋤を牽き、陽が沈むまで田圃で働き詰めだ。

 この地方が豊かで入られるのも、お前達、水牛のお陰だ。感謝しているぞ」

 水牛は、藩王のお褒めの言葉に、ウムォーと鳴いた。

「だが、農夫の指示通りに働くのでは、創造性を感じられないだろう。

 重労働な上に、働き甲斐も無いとなれば、余計に疲れるだろう。

 いっその事、お前自身の判断で田圃を鋤いたら良いのではないか?

 そうすれば、農夫も田圃作業から解放され、楽をできる。みんなが幸せになる」

 水牛は、藩王の提案に、ウムォーと鳴いた。

 農夫も、手を打ち、藩王の提案に賛同した。

 ところが、水牛は賢くなかった。

 いざ田圃作業を一任されると、何をすればよいのか、皆目見当が付かない。

 水牛は田圃の真中で座り込んでしまった。農作業も止まる。

 これでは埒が明かないと、農夫が復帰し、水牛に鞭を入れ始めた。


「水牛よ。

 働き者のお前の事だから、農夫が居なくても出来ると思ったが、それは私の間違いであった。

 所詮、お前は頭の悪い家畜。人間の指図が無いと使い物にならないのだなあ。

 だが、少しは肉体労働を軽減してやれるかもしれぬ。期待してくれ」

 水牛は、藩王の慰めの言葉に、ウムォーと鳴いた。

 藩王は城下町に戻ると、路地に寝そべっている牛に話し掛けた。

「牛よ。

 我が藩王国の民はヒンズー教徒だから、神聖なる動物であるお前は一日中働きもしない。

 一方で、姿が似ている水牛は、田圃で一日中働き詰めだ。

 ヒンズー教では、水牛は聖獣ではないから仕方がないが、何だか不公平だと思わぬか?

 少しは働いてみては、どうか?」

 だが、牛は藩王の問い掛けを無視した。

 クチャクチャと草を食み、それを飲み込んでは吐き戻す、反芻行為を繰り返している。

 働きもせずにいたが、周囲の人間が餌を与えてくれる。

 そんな極楽の様な暮らしを放棄するなんて、牛には考えられない。

 牛にとって、藩王の指摘は五月蠅い戯言だった。

「水牛よ。済まんが、お前の重労働を軽くしてやることはできない。

 牛に助太刀を頼んだが、無視されてしまった」

 水牛は、藩王の謝罪の言葉に、ウムォーと鳴いた。


 時は下り、ムガール帝国は6代皇帝アウラングゼーブの治世となった。

 6代皇帝は宗教融和的な治世を転換し、イスラム教への改宗を民に薦めた。

 少なくとも、牛を神聖視する風習は打ち壊された。

 件の藩王国でも、変化が現れた。

 豚が神聖視されるようになり、牛は農作業に使役する家畜の位置付けとなった。

 これまで何代もの永きに渡って怠惰な暮らしをしてきた牛が、使い物になるはずがない。

 しかも、家畜の使役が必要な場所には、水牛がいる。

 自ずと、牛は食肉の対象となった。

 イスラム教徒が牛を切り刻む光景を目にしたヒンズー教徒は、忸怩たる思いを募らせてはいたが、時の権力者に歯向かっても仕方ないので、見て見ぬ振りをしていた。

「今まで苦労したけど、牛と違って、水牛は屠殺される恐れが無い。良かった、良かった」

 そう呟くと、水牛は、牛の境遇を憐れんで、ウムォーと鳴いた。


 ところが、時代の流れは止まることを知らない。

 6代皇帝のイスラム政策は激しさを増し、イスラム教への改宗を民に迫るようになった。

 改宗を拒んだ民は弾圧された。だから、ヒンズー教徒は、隣国に逃げるようになった。

 逃亡した農夫達の穴を埋めるために、インド亜大陸から新たな農夫が送り込まれたが、彼らは農作業に馬を遣っていた。

 ムガール帝国の建国母体は、アラブの行商人と中央アジアの遊牧民だったので、使用する家畜は馬か駱駝。

 水牛の扱いには慣れていない。

 此の藩王国に入植する際にも、馬に乗って来た。

 その馬をそのまま農作業に投入するのが、素直な選択だった。

 困ったのは水牛だ。

 田圃で指図してくれる農夫が居なくなれば、水牛は無用の長物となってしまう。

 実際、牛の後を追う様に、水牛もイスラム教徒達の胃袋に収まった。


 その後、インドは300年以上もの間、イギリスの植民地となる。

 キリスト教徒のイギリス人にとっては、イスラム教徒もヒンズー教徒も同じく蛮族であり、同じように冷遇された。

 言い換えると、揺り戻しも起きなかった。今のバングラディッシュ国のある地域に、ヒンズー教徒が大挙して戻ることもなかった。

 しかも、植民地となったインドでは、産業革命を迎えたイギリスの紡績産業に原料を供給するために、綿花栽培が奨励された。

 また、中国の清国を阿片漬けにするために、芥子の栽培が奨励された。

 いずれも泥濘んだ土地は、栽培に適さない。

 だから、水牛の活躍の場が回復することは、二度と無かった』


 童話チックな語り口調で紡がれる短篇は、全部が史実だとは思えなかったが、中々に説得力が有る。

 だが、そんな表面的な事はさておき、鐘木もんど先生が私に伝えたいメッセージは明快だ。

 どう時代が変化するのか、それを予測することなんて不可能だ。

 どんな変化が襲って来ても、それを乗り切るためには、自分の頭で考える人間じゃないと駄目だという事だ。

 鐘木もんど先生のメッセージは、尤もな内容だった。

 翻って、私の悩みを吟味してみるに、アルバイトの男は、この短篇に登場する水牛そっくりだ。

 そんな男に娘を託すのは、極めて危険だと思う。

 私の雑貨商の商売だって、未来永劫、安泰だとは思えない。いずれかの時期に、時代の波が押し寄せるだろう。

 柔軟に対処できる男でないと、家業を任せることはできない。

 一方の娘の将来だって、そんな盤石でもない家業に縛り付けるのは、親の身勝手というものだ。

 イザとなれば、店舗を売り払って生活資金の足しにする。そのくらいの割り切りが必要だろう。時代の変化にも柔軟に対応できる。

 そう考えを改めると、父親としても、気が楽になる。

 娘が好きな男を見付けるまで、気長に待つとしよう。少なくとも、好きでもない男との縁談を親が進めるのは、お門違いだ。

 ただ、そんな風に考えを巡らす人間は私だけだろう。

 なにせ、私だけのために生まれてきた作品なのだから。

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