諸君、わたしは今誘拐されている

依田一馬

諸君、わたしは今誘拐されている

 諸君、わたしは今誘拐されている。


 わたしの両腕は背中に回され、ひも状のなにかできつく縛られていた。少しでも手を動かそうとすると、そのざらざらとした感触により、手首がまるで抉られるように痛む。この感触は知っている。小学生時代に強制的にやらされた、運動会競技に用いられるアレだ。長くて、土っぽくて、それから太いアレ。つまり、縄だ。


 場所はどこだろう。薄暗いのでよく分からないが、その埃っぽさと床に散らばっている塗装のはげたブリキ人形の数々から察するに、廃園となってしまった遊園地、だろうか。少なくとも普段わたしが暮らしている街に、そんなものは存在しない。そもそも遊園地がない。県内――それも、だいぶ県北の方に心霊スポットとして有名な廃墟があるらしいが、もしやそこか? うげーっ、信じられない。わたしは幽霊とか言う非科学的なものはこれっぽっちも信じていないが、まったく気にしないと豪語できるほど神経は図太くない。


 話が逸れた。今話すべき事柄は、わたしが置かれている状況についてである。


 猿轡をはめられているせいで、舌に触れる手ぬぐいの湿り気が心底気持ち悪い。こちらも随分堅く縛られており、おかげで後頭部のあたりが拷問かと思いたくなるくらいに痛い。なんでだ。なんでわたしがこんな目に遭わなければいけないのだ。


 確かに私の家は国内有数の財閥だが。もっと言えば、金は掃いて捨てるほどあるが。それとこれとは別の話だ。


 そもそも、多少の金に余裕があろうとも、わたしの家では質素倹約というモットーが深く根付いているのである。したがって、我が一族に豪遊できるほどの金があるはずない。余剰分は全て従業員に渡している。


 そのとき、わたしに誰かが近付いてきた。


 埃の積もった冷たいコンクリートに響くこつこつとした靴音。犯人はどうやらブーツを履いているらしかった。わたしはてっきり、王道に則りすぐに捨てられる量産品を履いているものだと思っていた。たとえば、セール品のスニーカーとか。


 わたしはのろのろと顔を上げ、犯人の姿をその目に捉えようとする。


 目だし帽をかぶっているため、人相はよく分からない。ふたつある丸い穴から覗く両眼だけが、暗闇の中でぎらりと光って見えた。


 しかしながら、この眼、よくよく見ていると粒らで可愛らしいのだ。加えて、目だし帽を被っているせいで頭部が丸く見えるため、わたしの目には彼の姿がどうもデパートで風船を配っているゆるキャラマスコットにしか見えなかった。


 そういえば一週間前、とあるスーパーに行ったとき、これと似たようなシルエットのゆるキャラを見た。名前はなんだったろう。そう、確か「くろちゃん」。黒砂糖を用いた饅頭のイメージキャラクターだった。


 彼・くろちゃん(仮名)は、どこから取り出したのだろう、サバイバルナイフをその右手に握りしめ、まるで青魚のような光を放つ刃を私の首筋に押し当てた。


 ヒヤリとした感触に驚き、わたしは思わずうめき声を上げてしまった。


「抵抗すると、この首かっさらってやるからな」


 くろちゃんの肉声は、随分癒し系だった。


 音域は、きれいなテノール。それが妙に心地いいのだ。彼がもしもラジオのパーソナリティだったら間違いなく毎週聴くだろうし、声優だったら出演作を全部観たくなる。歌を歌っています、と言われてもなんら不思議ではない美声だ。わたしはこの手の声に弱いのである。


 不覚にも癒されたわたしは、こくこくと首を縦に動かした。


 その姿が、どうやらくろちゃんの目には怯えたように映ったらしい。そっとわたしの前にしゃがみこむと、ぽつりとこんなことを呟いた。


「巻き込んで悪かったな。君が悪い訳じゃないんだが」


 これはなんという名前の乙女ゲーだ。


 しかも相手が黒糖饅頭。


 わたしの脳内がいい具合に煮えたところで、くろちゃんは立ち上がった。そして、どこかへ電話をかけ始める。


 辺りがしんと静まり返っているので、携帯の向こうで鳴り響くコール音がわたしの耳にもとてもよく聞こえてきた。


 数回のコールの後、聴き慣れた声が返事する。


 はい、とやや焦ったような口ぶり。この声は間違いない、わたしの父だ。


「お前の娘は預かった」


 うわー。この台詞、初めて聞いた。


 携帯の向こうから聞こえてくる「悠は無事なんだろうな」と緊迫したわが父の声。しかしながら、私の耳にはまったく耳に入っていなかった。くろちゃんの美声の前では、どんな声も霞んで聞こえることだろう。


「二千万を用意しろ。さもなくば娘の命はない」

 分かった、という押し殺した声ののち、くろちゃんは「受け渡し場所はまたあとで連絡する」と言い残し、終話ボタンを押した。


 ようやく訪れる、沈黙。


 わたしは携帯の液晶モニターの明かりに照らされるくろちゃんの顔面をじっと見つめていた。


 つぶらな黒い瞳がじっと液晶画面を見つめている。液晶独特の青白い光が、黒糖饅頭に砂糖をまぶしているようにも見えた。


 結論から言うと、わたしは猛烈にお腹が空いているのだ。


 ぱちん、と軽い音を立て、くろちゃんが携帯電話を二つ折りに畳む。唯一の明かりが消え失せ、そしてまたくろちゃんの姿は闇に呑まれてしまった。


 わたしは目を伏せ、己の足元に目をやった。こちらも両腕同様、なにかひも状のものでがっちりと結ばれている。今日はワンピースにストッキングという出で立ちでいたのだが、このひものせいでストッキングが破けてしまっていた。


 ――あっ!


 うぅ、とわたしの唇から呻きが洩れた。


 気づいてしまったのだ。


 ストッキングが破れていることは別に構わない。だがしかし、そのワンピースの裾だけは。


 別に暴れた記憶はないのだが、裾が上手い具合にめくれてしまい、わたしの、ぱ、パン……が今にも見えそうだったのだ。それだけは勘弁してくれないか。これは気を許した者にしか見せてはならない禁断の領域なのである。しかも、よりにもよって、今日は身につけている下着の上下が揃っていない。それを抜きにしても、くろちゃんに最後の砦を見せつけてしまうのはいかがなものだろう。


 それを訴えたくて、わたしはくろちゃんに向けて必死に呻いて見せた。


「おっと、暴れるんじゃない」


 だが、くろちゃんは生憎わたしの呻きの意図に気付いてすらいなかった。「殺されたいのか?」


 癒し系ヴォイスが私の耳元で囁く。


 あああ、なんという不覚だ。とりあえずスカートを下げさせくれ、頼むから!


 そこでふと、くろちゃんの目線が真下に下がった。そして、数秒黙りこむ。


「……まさかの縞パン」


 わたしは渾身のドロップキックをくろちゃんにお見舞いしてやった。


 見るんじゃない、そして「まさか」ってなんだ「まさか」って。わたしの縞パンは宝石以上の価値があるのだ。それをけなすとは、この黒糖饅頭の脳みそは本格的にあんこしか詰まっていないらしい。


 猿轡のせいで呼吸が上手くできない。ノイズがかった呼吸を鼻だけで行うと、不意打ちの攻撃を喰らったくろちゃんがようやくのろのろと起き上がった。


「本格的に殺されたいようだな」


 お前の方が殺されたいようだな。わたしのパンツを見て生きて帰れると思うなよ。


 もごもごとろくな発言も出来ないくせに文句を言ってやると、くろちゃんが唐突にわたしの頭の後ろに手を回した。数秒の後、猿轡が外される。


 埃っぽい空気だけれども、それでも私にとっては新鮮なものに感じられた。冷たい外気がすぅっと肺を満たして行く。


「ああ、生きかえったぁ」


 わたしがぽつりと呟くと、こちらをじっとりと睨みつけるくろちゃんへと目を向ける。否、睨みつけている、というよりは、何か変なものを見ているような素振りだ。実に奇妙な目線である。


 はっ。まさか!


「わたしの縞パンに欲情し……」


「君は本当に誘拐されていることを分かっているのか」


 そこに座れ、と何故か怒号が飛んだ。「いいか、普通誘拐されようものならびくびくと肩を震わせ、小動物のような目でこちらを見てくるだろう。そして命乞い! これが誘拐の醍醐味だろ!」


 くろちゃんは、誘拐もののドラマを見過ぎじゃなかろうか。


 確かにわたしは緊張感のかけらもないけれど、今時全ての女子がそんな可愛らしい生き物だと思われているのだとしたらそれは大間違いだ。


 女子は決して甘いケーキやマシュマロ、マカロンといった可愛いお菓子のような存在ではない。例えば、さきいか。例えば、チーたら。女は噛めば噛むほど味が出る。そういう存在だと言うことを、彼に分からせなくてはなるまい。


 わたしは出来る限り居住まいを正し、咳払いをした。


「えーと、くろちゃん。あなたが黒糖饅頭だと言うことは重々承知ですが」


「誰が黒糖饅頭だ」


「だって、そんな目だし帽を被っていたら黒糖饅頭にしか見えません。わたし、今猛烈にお腹が空いているの!」


「君は腹が減れば何でも食い物に見えるのか。生物の尊厳というものを少しは……」


「じゃあ、その目だし帽をとってください」


 ぴたりとくろちゃんの唇の動きが止まった。


 かかった、とわたしは思った。


 今まで話してきてなんとなく分かったことだが、この男、意外と短気で私の口車に乗りやすいのである。さりげなく誘導してみたのだが、案の定彼はまんまと引っ掛かってくれた。


「……それは出来ない」


「じゃあ、わたしは黒糖饅頭のくろちゃんと呼びますね。ねぇくろちゃん、何かコンビニでおやつでも買ってきてよ。お饅頭がいいですっ。あ、共食い?」


「分かったよ、取ればいいんだろ取れば!」


 わたしの完全勝利である。


 内心ほくそ笑みながら、その瞬間をわたしは待ちわびた。きっとこんなにもいい声なのだから、ものすごく美しい顔をしているに違いない。なにせ、その目だし帽から見える黒の瞳は罪人ながら非常に可愛らしい。きっと彼の素顔を見たならば、父が取引にやってくるまで幸せな気持ちになれるだろう。いかんせん、美しいものは好きだ。


 彼が目だし帽に手を添え、そっと脱ぎ捨てた。


 ――さらりと零れる、長い黒髪。


 わたしの目は点になった。


 美しいには違いないのだ。ああ、しかし。これは一体どういうことだ。神とやらは、どうやらわたしには試練しか与えないつもりらしい。


 薄氷色の月明かりの中、神秘的な光を纏っているようにも見えるくろちゃんの姿。癖のない真っすぐな黒髪は、肩のあたりできれいに切りそろえられていた。例えるなら、クレオパトラのような髪型だ。黒の瞳はつぶらで美しかったが、そのきりりと整えられた眉、すらりと通った鼻筋、シャープな輪郭。どこからどう見ても、その顔立ちは女性のものだった。


「これで満足か?」


 しかし、その声はやはり男性のような見事なまでのテノール・ヴォイス。その口調はやはり男性的だし、胸もない。


 これは、どっちだ。さすがのわたしもこれには困った。


「あの、くろちゃん」


「まだ言うか」


「女の人だったんですか……?」


 尋ねると、くろちゃんはけろっとした様子で首を縦に動かした。


「ああ。紛れもなく、女だが」


 わたしの心は今まさに、まっぷたつにへし折られた。


 裏切られた、なんてものではない。この気持ち、一体どう表現すればいいのか分からない。少なからず、わたしはその目だし帽の下に眠る顔は「男性だ」と信じていたのだ。正直に言えば、そのまま愛の逃避行をしても構わないと思った。それだけ、くろちゃんの声は悦かったのだ。


 しかしながら、これでさきほどくろちゃんがわたしのパンツに反応しなかったことに納得できた。女性なら、女物の下着なんか見慣れていますよね。そりゃあ、そうですよね。


「……どうした」


 尋ねられ、わたしはついつい拗ねてしまった。


 ぷいとそっぽを向き、徹底的に彼女を無視する。こうでもしなければ、わたしの心は収まらなかった。


「まさか、男だと思った?」


 わたしは何も言わなかったが、くろちゃんはそれを肯定と取ったらしい。わたしの左横にしゃがみこみ、そっと耳元で囁いた。


「ごめんね、悠さん」


 その美声に、わたしの胸は容赦なく高鳴る。


 この暗闇のせいで、やたら聴覚が研ぎ澄まされているのだ。そんな状態でわたしの耳元に囁くな。相手が女だと分かっていても、ドキドキしてしまうではないか。


「……あなたは、どうしてわたしを誘拐したんです?」


 苦し紛れに、わたしはそのように尋ねてみた。「言っておきますが、わたしを誘拐してもあまりいいことはありませんよ」


「だから、君が悪い訳じゃないんだ」


 悪いのは、と彼女は言った。「あなたのお父さん」


「えっ?」


「こんなことを聞かせたらもっとショックを受けると思うけど、私、あなたのお父さんの愛人だったんだ」


 ――なんですと?


 わたしはがばりと身を翻し、彼女へと目を向けた。


 それがどういうことなのか、ちゃんとその口で説明してほしかった。


 わたしの父はいつでも「仕事が忙しい」と言って家にはほとんど帰らなかった。しかし、帰ってきたときには必ず母とわたしを可愛がってくれていた。時々他愛もないメールもしたし、深夜に電話をかけてもちゃんと話を聞いてくれた。


 そんな、と力の抜けた声が唇からこぼれ落ちた。


 すると、彼女はわたしの頭をそっと撫でてくれる。とても優しい、母のような手つきだった。


「あの人は、私の声をとても褒めてくれた。昔から男にしか思われなかったこの声を、女性らしい優しい声だって。それがとても嬉しかった」


 でも、と彼女が声のトーンを落とした。「別れ際の一言、あの人、なんて言ったと思う? お前みたいな男女とは付き合えない、だって。私はそれが許せなかった」


「だから、わたしを誘拐したの?」


 彼女は苦笑し、それから肯いた。


「身代金の二千万は、君が将来のために使えるように手を回すつもりだった。ちょっと、困らせたいだけだったんだ……」


 そして、彼女は顔を伏せる。


 それを見ていたら、わたしはなんだか心の奥がもやもやと曇ってしまった。別に、彼女が父の愛人だったことに対して怒っている訳ではない。我が父が、なんとデリカシーのない人なのだろうと失望したのである。


 元はと言えば、父が全て悪いのではないか。もしかしたらくろちゃんが嘘をついている可能性はあるかもしれないが、どうもわたしにはそうは思えなかった。なんとなく、くろちゃんの様子を見ていたら、これが真実なんじゃないかと思えてしょうがなかった。


 本当に悪い人なら、あんな風に頭を撫でてくれるだろうか。


 わたしがじっと押し黙っていると、唐突に着信音が鳴り響いた。くろちゃんのポケットに押し込まれていた携帯電話が、エメラルドの光を放ちながら震えている。暗がりの中に浮かび上がるその灯りが、わたしにはくろちゃんの心の声のように思えた。かぼそい光が点滅する。その光に気付いて、手をとってあげられるのは誰だろう。


 くろちゃんが二つ折りの携帯電話を開き、受話ボタンを押した。相手は父だった。


 二千万を用意した旨を告げる声が、微かに聞こえていた。


「分かった。今から指示する場所に来い。勿論ひとりで、だ。警察に通報したら、その時点で娘は殺す」


 そう言って、くろちゃんはとある住所を口にした。廃園になったはずの遊園地の住所。まちがいなく、この場所だ。


 そして彼女は、父の緊迫した声を無視するように終話ボタンを押した。


 ぼんやりと浮かび上がる液晶画面の光を見つめる瞳。それは目だし帽をかぶっていた時と同じ切なそうな表情だった。


「――くろちゃんは」


 わたしは、ようやく唇を押し開けた。「父が好きだったんですね」


「また言う……まぁ、くろちゃんでもいいか」


 呆れたように笑い声を洩らし、くろちゃんはぱちんと音を立てて携帯を二つに折りたたんだ。


 再び訪れる暗闇の世界。この世界に身を落とすわたしとくろちゃんは、ただ闇に飲まれないよう、互いの顔を真剣に見つめ合っていた。


「父が来たら、くろちゃんはどうします?」


「どうって……自首するに決まっている」


 さらりと彼女の髪が頬を滑り落ちて行った。その仕草がとても女性らしくて、わたしは思わず胸が高鳴る。


「君を見ていたら、なんだかあの人が私のことを男女だと言った理由が分かった気がした。結局、間違っていたのは私の方だ」


 ちょっと待って。


 そう私が呼びとめようとしたとき、くろちゃんはふと私へ顔を向けた。


「悠さん。今後なにがあっても決して私のようになっちゃいけない。不倫も、誘拐もね。どちらも身を滅ぼすだけで、この手の中にはなにも残らない。残っちゃくれないんだ」


 その表情は暗がりでよく分からなかったが、わたしにはなんとなく泣いているように思えてしまった。


 本当はこの両腕で彼女を抱きしめて安心させてやりたかったけれど、きつく縛られた縄によってそれを阻まれている。


 とにかくわたしは歯がゆくて、悔しくて、気がついたらすうっと頬に何か温かいものが流れ落ちていた。


 それに気がついたくろちゃんは、はっと肩を震わせる。


「……泣いているのか?」


「だって、そんなのおかしい。不倫は両方の責任でしょう? くろちゃんだけ責任を負って父だけのうのうと暮らしているだなんて、おかしい。おかしいし、悔しい」


 そこまで言うと、彼女は目を丸くし、それから優しく微笑んだ。


 先程のようにわたしの頭を撫でてくれる。本当にその手つきは優しかった。わたしが彼女を励まさなくてはならないのに、どうしてこんなことになっているのだろう。そう思ったらまた泣けてきて、膝の上にぼたぼたと涙が滝のように流れ落ちて行った。


「ちょっと、泣きすぎ」


「だって、だって……!」


「もう、いいよ。大丈夫」


 本当に、と彼女は呆れ混じりに笑うと、袖口でそっと涙を拭ってくれた。「本当に、君は優しい女の子だね。どうして私はこんな子を巻き込んじゃったんだろう」


 その一言に、わたしはのろのろと顔を上げた。ひとつだけ、言いたいことができたのだ。


 だが、その時。外からヘリコプターが飛行する音が聞こえてきた。見上げると、どうやらそれはわたしの家のプライベート・ヘリだったらしい。そんなものを出動させたら目立つだろうに、父はそのあたりについてなにも考えなかったのか。否、考える暇がないくらいに気が動転していたのか。


「もう、私は行く」


 くろちゃんが立ち上がり、わたしに近づいた。そして、両手・両足を縛りあげていた縄を切ってくれる。


「私のことは、ちゃんと忘れるんだ」


 いいね? と彼女がそう言おうとしたのを、自由になったわたしの両手が阻止した。ひらりと身を反転させ、右手を彼女の口元に、左手は彼女の腰に回す。


 驚きのあまり固まってしまったくろちゃんの耳元で、わたしはそっと囁いた。


「大人しくしてくれたら、乱暴はしません」


 もごもごと彼女はなにかを言おうとしていたが、わざと身体を彼女の背に密着させると、ぴたりとその動きが止まった。そして、まさかと言わんばかりに彼女は首を後ろへ向けてくる。


「今気付きました? わたし、男なんですよ」


 だから先程最後の砦が見えたとき焦ったのだ。別に下着が見えたのが恥ずかしかった訳ではない。勿論全体の一パーセントくらいは羞恥の気持ちがあったけれど、それよりもわたしが男だと感付かれることのほうが怖かった。


 俗に言う「男の娘」であるわたしは、この暗闇でくろちゃんと過ごしてからなんとなく気がついてしまったのだ。


 このひとといると、なんだかドキドキする。


 こんな感覚は初めてだった。


 もしかしたら吊り橋効果というやつかもしれないが、そんなことはどうでもいい。わたしは彼女をたった今、攫いたくなったのである。


 父みたいな人に彼女を渡してたまるか。わたしの方が彼女を幸せにしてやれる。


 男でありながら女の気持ちを誰よりも分かるわたしが、父に負けるはずなんかない。


「一緒に逃げましょ? くろちゃん」


 だから、諸君。どうかわたしのことは止めないでくれ。


 わたしは今、彼女を誘拐する。


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