消極的選択

竹林

消極的選択

 「三ヶ月ほど休職しましょう」

 精神科医は驚くほどあっさりと、私に長い夏休みを与えてくれた。

 三十錠の頭痛薬を、焼酎で飲み下した。自殺未遂という程大袈裟なものではない、言わば自殺未遂未遂程度のささやかな自傷行為だった。目覚めたら病院だったということもなく、体調は数日で回復した。

 抑鬱という診断名は、ただ束の間の休息を得る為の名目に過ぎなかった。事実はただ、職場に籍を残し、自宅療養を装って無為に時間を潰している。つまり体の良いニートだった。

 働く意味って何だろう。高校を卒業して社会に出る前から、抱え続けた疑問。それがいつしか自分の中で、生きる意味って何だろう、に置き換わりつつある。

 浴槽でふと尻を掻いた。

 何のことはない、痒さという不快から逃れたいという素直な欲望からだ。痒い所を掻くように、人は食べたい物を食べ、眠い時に眠り、愛したい人を愛する。みんなやりたい事をやっているだけだ。なんらおかしいことなんかない。

 なのに、尻を掻くのと同じ位自然な、無意識の営みを、私は恐れている。

 もっと正確に言えば、私は他人を恐れているのだ。もちろん、誰も私の手足を縛りはしない。けれど、私の何気ない行動は誰かを不快にしているかも知れない。そしてその誰かは、自身を不愉快にする私を放って置かないかも知れない。いつか溜まった怒りを爆発させて詰め寄り、言葉の限り詰るのではなかろうか。私はそのことが堪らなく恐ろしい。

 事実そういう相手は、思い出せる中に何人かいた。彼らはもう私の近くには居ないけれど、同じような人物がまた現れるかも知れない。そんな実体の無い何者かを恐れ、果てのない逃走を続けている。

 あまりに滑稽だけれど、今、私を縛るのは、自意識に囚われ妄想を止めない自分自身に他ならなかった。

 私はやはり、私を殺せば自由になれるのだろうか。自殺未遂すら出来なかったくせに? ……本末転倒である。

 頭の天辺まで浴槽に沈んで、その中で目を開けた。三日目の湯は垢で濁っていて、先が見えなかった。私の恐怖と懐疑で濁った頭では、生きたい未来が見えなかった。

 生きたくないが死ねない。死ぬのが恐いのに生きるのも恐い。

 腹に含んだ空気が尽きた時、苦しくて反射的に浴槽から頭を上げた。そして、かつて私を詰った人の事や、私の職場で、もっと広く言えば社会全体で、日々働く人々の事を考えた。

 少なくとも私の目には、彼らはそれぞれに何らかの生きる目的を持ち、明確な意思に従って動く集団に映っていた。目的を持たない私には、彼らの気持ちを想像する力がない。故に、彼らのことが奇妙に思えて仕方がないのだった。

 集団の中にいる間はいつも、知らない星に放り出されたような感覚を憶えていた。彼らのルールを知らない私はそれでも彼らと同じであろうとして、ただひたすらに、上辺だけ彼らの格好を真似しようとしたに過ぎない。

 けれど、彼らにそんな誤魔化しは通用しない。いつだって小手先だけの擬態は新しい集団に属する都度、看破されてきた。私は知らず知らずのうちに、ルール違反……例えば人前で尻を掻くように、誰もが眉を顰める行いをしてきたのかも知れなかった。

 集団にとってそういう人物は、喩えるならば純白の布に付着した一点の黒い染みのようなものだ。悪目立ちするその汚れは当然、漂白剤を散布して、徹底的に排除する。彼らは常に潔癖で、汚れが残る隙がない。

 それを何故あたかも被害者であるかのような面をして、『排斥された』などと言えようか。誰もが知る簡単な規則を犯した者こそが、誰の目にも判る立派な加害者だ。

 私は今、誰もが呼吸の技術と同等に、自然に得たその規則をようやく学ぼうとしている。でもどうやって学べばいいのか、その方法が分からない。

 今にして思えば私は、学習の機会をことごとく見逃してきたのだろう。そして、私の知らない何事かを知る彼らを、極端に恐れている。

 人生のあらゆる場面で私に憤り、陰に日向に笑った彼らには、一体何が見えていたのだろう。いっそ真っ直ぐに訊けば答えてくれただろうか。それとも、訊いた事実すら笑われただろうか。

 根も葉もない想像は、底なしの羞恥を生んだ。1+1の答えを問うように、疑問に思う事すらも、恥なのだろう。何故、どうして。真っ当に働くような年齢になっても答えを見つけられない私は、外から見れば恥が服を着て歩いているようなものなのかも知れなかった。

 だとしたら、私は尚更、死ななければならないと思う。

 自殺未遂未遂、を図った時、「死ぬ必要などない」と周りの誰もが言った。「そんなことで死んだ人はどこにも居ない」皆は私をくだらない理由で死のうとしたと思っていた。その事実が余計に恥ずかしくて、たまらない気持ちになった。

 自分は実際には生きたいのか死にたいのかそれすらよく分からない。

 どこかに抱えていた、弱みを見せれば人は優しくなるのではないかという甘い幻想も、今や打ち砕かれていた。或いは、私ごときの打算的な考えが、彼らにはすっかり見抜かれていたとしても、なんら不思議はなかった。

 私はあまりにも幼稚だ。

 恥が服を着て歩いているなんていうのはまだマシな見方で、服の着方も分からない恥の塊が、全裸で徘徊しているようなものである。誰がそんな奇態を晒す者を憐れんで、服の着方を教えてくれるだろう。遠くからただその滑稽な様子を見て、憫笑するだけではないか。

 生きたら生きたで生き方を笑われる。死んだら死んだで死に様を笑われることだろう。

 思えば自虐的な言葉を吐く時、私さえも私を笑っていた。けれど、実際にはなぜ可笑しいのか判然としないまま笑っていた。彼らが私を笑うから、私も私を笑えば、彼らの考えを知ったような気になれたのだ。

 馬鹿で無知なくせにどうして笑っているのだろうと、彼らは思ったことだろう。それともこの想像も間違っている?

「お前、何で嫌われてるか分かってる?」自分で自分に問うても分からない、そんなことは。自ら望んでその立場を選んだ訳ではない。私だって普通でいたかったのに、どうしてこうなってしまったのだろう?

 敢えて普通を厭悪する者と、普通を願いながら普通でいられない者は、同じはみ出し者でも本質がまるで違う。だって前者は一匹狼で後者は負け犬だ。私は前者だと信じようとしてみても、いつか自分を騙し切れなくなる時が来る。せめて勘違いしたままでいた方が、きっと幸せだったに違いない……。

 私は溺死することもなく、風呂を上がった。水中は物理的な意味で息苦しいが、水に沈んでいなくても、ただ生きるだけで私はそれなりに息苦しかった。今は辛うじて生きる苦しさを取っていても、いつか苦しさの度合いが逆転することがあるかも知れない。

 私はこれまで幾度となく、訳も分からず自分を笑ったけれど、死ぬ理由がくだらないことだけはどうしたって笑えない。だって、私がまだ生きているのは、「死ぬのが恐いから」という、ごくくだらない理由なのだ。私としてはそっちの方が、哀しくて笑えて仕方がないのだ。

 洗面台の脇に置かれた時計の針が四時を指している。

 私はまたしても、ずるずると生きながらえている。言わばこれは消極的な延命だ。明日も明後日も、不慮の事故でもない限り、私は生きているのだろう。

 私の人生は、自殺未遂未遂をしたあの日からずっと延長戦だ。要らないオマケをこの先も、持て余し続ける。

 そしてまた、死にぞこなって朝を迎えるのだ。

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消極的選択 竹林 @chikurinnoyoake

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