第2話「五千円の命はない」(2)

「僕の願いは——」 四津上が目を細めた。細く伸びた両手に力を送っていつでも戦えるように構えた。


「お、おお——おっぱいを揉むことです!!」


 がしりと両手を握りこぶしにして少年が叫んだ。心の叫びだった。

 四津上は呆然と少年を見た。少年は恥ずかしさでぷるぷると震えている。顔も赤いし、焼かれている蛸のようだ。


「五千円じゃあおさわりも出来ないかな」


 四津上はぼそりと呟いた。


「そんな!! さっき無料って言ったじゃないですか!!」

「言ったけれども、まさかそういう下世話なものだと思わなかったから。つーかキミ殺人鬼だろう?」

「殺人鬼殺人鬼って、そんな風に呼ばないでくださいよ! そうやって呼ぶから悪いように思ってしまうだけで、お、おおおっぱいが揉みたいのは十五歳の僕からしたら至極真っ当な願いでしょう!」

「俺は人間の男の子なんてキミ以外に増田くんしか知らないからあくまで増田くん情報だけれども、確かにそうだね。でも増田くんは十四歳の頃には全て経験済みだったとか」

「増田くん羨ましい!!」


 叫んだ少年を一瞥して、四津上が腕を組んでやれやれと首を振った。


「しかし、おっぱいかあ。どうしようかなあ。しぐちゃんのおっぱいを差し出すのが手っ取り早いけれど彼女の胸はキミの想像よりは貧窮しているからねえ。どうせキミはこう、グラマラスな——西瓜やメロンと言った丸々とした”たわわな果実”と称されるようなものを言っているんだろう?」


 ぶんぶんと少年は頭を振った。その目は熱く滾っている。


「男の胸じゃ嫌だろう?」

「嫌です!」

「だよねえ。もし許可してくれたら三葉の胸を貸してあげたんだけれど、妥協してそれだったらそもそもしぐちゃんでいいのか。はーあ、じゃあ今回は願いは無しにして——どう死にたい?」

「いやいやいやいや! 最期の願いを叶えてくれるっていうからわざわざここに来たんです!!」

「そんなこと言われたって俺の知っている女の子なんてキミが胸を触ったら即座に首を撥ねるような子しか知らないんだよね」

「おっぱい危機一髪じゃないですか! 嫌ですよそんなの! でも埋もれたまま死ねるならそれも本望かもしれない!!」


 どうしよう、と少年が悩んだ。


「埋もれることが出来るかは定かではないけれど、でもそうなると俺とキミの契約ではないから、無料という条件は無くなるよ。残念だけれどもね」

「ご、五千円で——」

「女性の体というのはそんなに安くないものだよ」


 少年がうなだれた。


「それで、どう死にたい?」

「死ねるならなんでも構いません」

「そう。じゃあ、願いは聞き届けるよ——彼方まで」


 四津上が跳躍して首目掛けてナイフを振るう。少年はその手を掴んで四津上の顔面を蹴り上げようと彼の腕を鉄棒代わりにした。四津上はその蹴りを顔を少しばかりずらして躱す。くるりと一転して空を切って着地すると牙のようにした右手で四津上の首を狙った。少年の目はもう気弱そうでも怯えもなにもない。ただただ本気でいる。四津上が躱すと今度は左手で首を狙い、さらに半身になって躱した四津上は突っ込んできた少年の腹部に渾身のパンチを見舞った。

 が、まるで跳び箱の要領で少年が四津上の右腕の上に逆立つ。


「なるほど、死神が相手でも生存本能は止まらないか。道理で死ねないわけだ」


 四津上がにやりと笑って、宙を左手でなぞった。


「しかし俺は”死神”だぞ。人間ではない。それを忘れるなよ少年」


 曲線になぞったその位置から銀に鈍く光る大鎌が現れた。

 瞬時に掴んで振るう。風を切って少年の胴に鎌の刃が迫るが、腕力だけで四津上の腕から跳ねて天井に張り付いた。標的を逃して空を裂いた大鎌を翻して天井目掛けて投擲する。一瞬張り付いて天井を蹴って天井に突き刺さった大鎌の柄を握る。勢いに任せて大鎌を引っこ抜いて四津上にぶん投げるつもりだ。柄を掴んだ少年の体が弓のようにしなっていく。軟体がしなって限界点に到達した瞬間に、その反動でエビ反りに大鎌を放り出した。

 四津上目掛けて飛んでいった大鎌は彼の体を裂いてやろうと回転したが、四津上が左手をかざすと大鎌が空間から切り取られたように消えた。そんなのお構いなしのように少年が地べたをだだだと低く走って、四津上の左足に回し蹴りを打ち込む。軽く飛んでそれを避けると四津上が低く回転した少年の頭に手を置いて、掴んで壁に投げた。

 投げられた少年は体を小さくまとめてくるくると宙で前転をして壁に四つん這いに着地した。少年の顔が四津上を探そうと壁から上がったとき、目の前に大鎌が迫ってきていた。

 そのまま鎌に首を抑えられて床にたたきつけられる。床に深く突き刺さった大鎌の切っ先は鋭利に見えるがどうやら殺傷能力はないらしい。


「気が変わった」


 四津上が少年の顔を見る。


「キミ、うちで働きなよ。もう少し生きて願いを叶えてみればいいんじゃない? おっぱいを揉んでみて、それでも死にたかったらその時はその時で、俺はキミに給料を払うからそれでうちに仕事を依頼すればいい」


 鎌が消えた。


「でも、僕は殺人鬼です。気づいたら人を殺しているんです。家族を殺して、見ず知らずの罪もない人も殺して、これから先だって、僕は生きているだけできっと人を殺します。そんなの嫌だから、だから殺してください」

「キミは殺人鬼として生きるのが嫌なのか」

「嫌です。僕は、普通に生きたい。でももうそれは無理だ。だって、僕は殺人鬼だから。今こうしている間にも、僕はあなたを殺したい」

「ならば仕方ないね。キミを殺すよ。殺人鬼。名前はなんていうんだい?」


 少年は、立ち上がって、四津上を向いた。


「僕は——武蔵小次郎です」

「なるほど、実にいい名前だね。うちにぴったりだ」


 四津上が空をなぞる。さきほどの銀色に鈍く光る大鎌が現れた。彼の指を武装するシルバーリングたちと同じように無骨だ。


「じゃあ、また会おう——」


 四津上を殺そうと少年は彼目掛けて突っ込んでくる。そしてその体が大鎌で斬り裂かれて光の粒になっていった。

 天へ昇るように光の粒は舞って行った。


————◇————◇————◇————


 思えば自分の人生は地獄のようだった。生まれてすぐにネグレクトに遭い、養護施設に連れていかれたが、そこだって大人こそがルールの刑務所みたいなもので、生き地獄を味わいながら過ごしていた。そんな折、中学生になった頃に、実の母親がもう手がかからないだろうと引き取りにきた。そのときの母親は実に優しい顔をしていたように覚えている。

 それが間違いだった。母親としても、武蔵としても間違いだった。母親はまるで変わっていないし、中学生の彼は料理や掃除を全てこなせるわけではなかった。家政婦のような扱いをしようとしていた母親はその考えがとん挫して、それについても彼を詰った。そんな日々が続き、その結果、殺人鬼として目覚めたのは中学二年生の夏だった。

 母がついに武蔵に手を出したのだ。母だけでない。その当時の母の彼氏もまた手を出した。それがいけなかった。

 一度頭を殴られて、さらにもう一度襲ってくるその手がまるで時が止まったようにその場から動かない。遅々としてやってこない。スローモーションに見えているのだと気付いたのはずいぶんとその手を見てからだった。なるほど確かにその手は迫ってきている。迫ってきているが、これだけ遅いなら避けることも容易い。

 避けると、物が飛んできた。何かのリモコンが飛んできて、そちらを見ていなかったから頭に当たった。そのとき、何かが吹っ切れた。

 大股でやってきた母の彼氏の伸ばしてきた腕を掴んでぐるりと回して骨を外した。痛みに泣きわめくその首をひねって黙らせた。

 その後ろから来ていた母親が足を止めて、呆然としていたけれど、何を止まっているのだろうと疑問に思いながら首をへし折った。

 その間、わずかに十秒足らず。それが武蔵小次郎の初めての殺人だった。

 それから二年弱で二十七人を殺害。

 けれども殺人鬼は、気付けば死んでいる人々を見て、涙を流す妙な鬼だった。

 だから正直、もう少し生きてみたらどうだ、と言われて少し喜べたのも事実だ。しかしこの世はきれいごとばかりでは生きていけない。それはわかっている。だから自分はここに来た。

 最期の景色は、大鎌を振るう銀髪の男の顔だったが、その顔は慈悲に満ちたような顔で、「ありがとう」と自然と想えたのが不思議だった。


————◇————◇————◇————


 数時間後。

 バー「リベラル」の床や壁は先ほどの少年の血が飛び散っており、次原たちがせくせくと磨いてそれを落としていた。


「ったくなんだってここで殺っちゃうのかなあ。絶対先輩馬鹿ですよ」

「そんなこと言ってやんなよ。あいつなりに考えてんだからよ——何を考えてるのかは分からねえが」

「…………」


 困ったもんだ、と口々に言いながら飛び散った血をモップやら雑巾やらで拭いていく。さらさらとしていた血液は軽く磨くだけですぐにとれた。

 大方の血液がふき取れたそのとき、「ギャアアアアアアアアアアア!!!」と雨宮の絶叫が聞こえた。三人がすっ飛んで裏口へ向かう。


「どうしました!!」


 次原が叫んでドアを開けると、ガタガタと肩を震わせて雨宮が震えている。抱きしめようとして、その手を止めてロボットのように動く。その背中を退かして三葉が「何があった」と雨宮に尋ねて雨宮の肩に手を置こうとして、ドギマギとその手を止めた。その背中をけたぐって五島が「大丈夫?」と心配して背中をさすろうとしたけれど、やっぱりその手は背中にたどり着かなかった。


「ぜぜぜぜぜぜ」


 壊れたテープレコーダーのように雨宮が顎を震わせている。


「朝ドラですか!?」

「違うわよ馬鹿!! ああああああそこに全裸の死体が……!!」


 雨宮が人さし指で裏口を出てすぐにある小屋の中を指した。


「全裸の死体だって?」三葉が首を傾げた。

「もしかして五島くん片づけ忘れました?」

「オレそんなへましない。三ちゃんじゃないの?」

「俺だってそんなへましねえよ。つうか当番だと今日は次原だろ」

「うわー、年長者がそうやって責任逃れするのはいかがなものでしょうね!」


 雨宮が突っ込む気力もなく、ただ喋る方に首を瞬時に動かした。それに気付いた次原が、首をぶるぶると振るって、


「死体があるなんてそんなわけないじゃないですかー!!」


 とコンクリートより固い笑顔を作った。ハリボテ以下な表情に他の二人は肩を落としたが、本人たちも同じように話を合わせてみれば、結果は一緒だった。


 どうしよう、と三人がこじんまりと会議をしようとしたときに、四津上がどこからともなくやってきた。


「どこ行ってたんですか!」


 次原が問い詰めると、自然と距離を取って、空を指さした。


「ちょっと上に用事があってね。そろそろだと思うんだけど」

「ねえあんた!」


 雨宮が四津上のネクタイをぐいと掴んだ。


「首が締まると人は死ぬぞ」

「あんたは人じゃないんでしょ! そんなことより、ここで一体何をしてるの」

「何、というと?」

「ししし死体があったのよ!! あんたここでそういう危ないことしてるなら出てって!!」

「ああ、もう来ていたか。彼は死体ではないよ。正真正銘生きている」

「だだだだって息してなかったし!」

「それはまだ準備が出来ていなかったからだろうね」

「準備!? なんの!?」


 なんのって、と四津上がどう答えようかと三人に目を向けたとき、小屋の中から「うわああああああああああああ!!!!」と大絶叫が聞こえてきた。


「とにかく生きていたようだ」


 四津上がそう言って小屋の中へ向かう。ドアを開けて中に入ると、確かに全裸で、先ほど切り裂かれた武蔵がいた。生きているが、その体には切り裂かれた傷跡が残っている。


「やあ、無事だったようだね。よかったよかった」

「あの、僕はどうして生きているんですか? つーかなんで全裸なんです!?」


 武蔵が四津上に尋ねて、それから四津上の後ろに数人いることに気付いてあたふたと両手で股間を隠した。


「キミはこれからうちの社員だ」

「あの、僕の質問聞いてました?」

「キミはこの最終会さいしゅうかい——人によっては仕舞屋しまいやとも呼ぶが——その一員だ。しっかり働いてくれよ!」


 はっはっは、と四津上が高らかに笑った。

 次原が頭を抱える。三葉はため息をつき、五島はあくびをした。

 何も知らず、何も理解できない雨宮は、当初はぽかんと口を開いていたが、徐々にわなわなと震えだし、ダンッ! と脚を踏み鳴らした。


「社員増やす前にとっとと家賃を払いやがれ!!!」


武蔵は武蔵でわけが分からず、困惑しつつ、雨宮の迫力に怯えていた。 

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さよならいつかはこの辺で 久環紫久 @sozaisanzx

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