さよならいつかはこの辺で
久環紫久
第1話「五千円の命はない」(1)
01
炎天下だった。気の抜けた山手線のドアを抜けると、茹だる外気が全身を包んだ。
暑さに参って改札を抜けて、ふらふらと歩いていると、後ろから人が続々と追い越していった。足早に過ぎていくサラリーマンは、鞄を持たぬ方の手に清涼感のある青いハンカチを持って、首やら額をだらりと垂れる汗を拭っていた。厚めだった化粧をこの暑さで随分と流されているパンダ顔の若者は、しかめっ面をしてヒールを高く鳴らす。
東京都・渋谷区。JR渋谷駅のハチ公口から出て、世界中の人々でごった返すスクランブル交差点をギャルのメッカのような109の方へ歩いていく。道玄坂を登り、時代を感じさせるストリップ劇場やら建ち並ぶ飲食店を通り過ぎ、坂を登り切ってそこを右手に折れると少し路地裏に入る。個人経営の居酒屋や隠れ家的な店が隠れるその路地を行くと、最中に寂びれたようなバーがある。
店名を「リベラル」と名付けられたその店では、店名がでかでかと書かれた看板が頭上に掲げられており、その右下に取って付けたように「最終会」と書かれた小さな表札があった。
その店の豪奢な鉄製の歌舞伎町にありそうな入り口からもっとも遠い席、その四人掛けの丸テーブルに足を乗せて、うだーとイスにもたれているのがこの喫茶店の半分オーナーである
その姿はさながらホストかチンピラだ。
火を着けたばかりの咥え煙草からは薄く白い煙が宙へ泳いでいた。そんな姿で仕事もなにもねえよバカ野郎とぼやいていたので、恐る恐る店内に入ってきた少年はびくりと肩を震わせて、踵を返そうとした。
そして返した。が、出した足がその場で止まった。二の足が出てくれなかった。蛇に睨まれた蛙のように急激に乾いていく喉が鳴った。気づけばなんとなしに肩が重くなったように思う。ぞわぞわと全身が総毛立つような感覚があった。股間なんぞもう縮みあがってそろそろ膀胱が緩みそうだ。
耳元で息がする。冷たい息が耳をくすぐった。ドラクエのつめたいいきというのはこれくらい冷たいんだろうか、なんて馬鹿なことを現実逃避に考える。
「キミ、死にたいの?」
ぞわっとした。もう、死んだ気になった。がくがくと震える膝はいつ崩れたっておかしくない。勝手に涙がでてきた。
わずか十五年という年月であったが、死のうと思えるほどつらいことばかりあった。けれどもそんなことが霞んでしまうほど強力で強大で尋常ならざる雰囲気に飲まれてしまう。ああ、さらば我が人生と目を閉じる。瞳を勝手に潤わせた涙があふれた。
「なに、死にたくないの?」
つまらなそうな声と共に肩から重みが消えた。ふっと緊張の糸が切れたように膝が崩れてその場に少年はへたりこんだ。そこにドアが勢いよく開いて、その反動でピンボールのように少年は横に吹っ飛んだ。少年がドツッと壁に背中を打ち付けたよりも早く罵声が聞こえてきた。
「テメエ早く家賃払わねえかァァァァ!!!!!!」
威勢よくドアを開けたのはこの店の半分オーナーである
ドアの風圧で揺れた前髪を整えて、四津上がはあ、とため息をついた。
ドアをけたぐった右足を歌舞伎役者のように床にたたきつけ、ぐいと迫らせた雨宮の食いしばった唇に人さし指を当てて、
「人間の女性の中でも君は特にガサツなうえに騒々しく阿修羅のようだ。他人がうらやむほどの美貌があってどうしてそんなにせかせかとイライラとしているのかな」
「テメエが家賃を滞納してるからだろうがァ! なんで高校生のアタシがせくせく働いて金を出さにゃならねえんだよッ!!」
当てられた人さし指を食いちぎらんばかりの勢いで雨宮はまくし立てる。急に思い出したように顔を赤らめて目が泳いだ。
「バッ! バッカヤロウ! あんたがそんな風に言葉巧みにアタシのことを褒めようとしたって
それから頭を振るって、四津上から一歩ほど距離を取り、びしりと全身の筋肉が硬直したかのように人さし指を立てて四津上を差した。
「あんたが人間じゃねェとか自分で設定付けてる電波野郎だってことはわかってる。従業員三人抱えてるのも知ってる。でもね、抱える余裕があるならまずはこっちの家賃を払え!! 何人かリストラしろ!!」
やれやれ、と四津上が首を垂らして首を振った。そしてため息を一つ。
「俺は本当に人間じゃないんだ。まあ今それは論点ではないようだから置いておくとしよう。俺としてはしっかり説明したいところだが仕方ない。関係ない話だからな。けれども俺が人間じゃないこと——それが分ってもらえれば家賃を払うことが困難な理由もわかるんだがな。あとで優しく説明してあげよう。さて、『リストラしろ』とのことだがそれは俺と彼らの契約上できない相談だ。そして何より——彼らに給料を払っていると誰が言った?」
雨宮が愕然とした。信じられないと言った様子で首を振る。四津上は至極当然の様子で、憮然とした態度をしている。
と、雨宮が背にしていた扉がまた勢いよく開き、雨宮が思い切り吹っ飛んだ。「ぶべっ」と短い悲鳴を上げて壁に激突し、少年の隣に崩れた。少年は恐る恐る彼女をゆすったが無反応だ。気絶しているらしい。
「早く給料を払いやがれ!!!」
男が三人、怒鳴り込んできた。
「期日を過ぎてますよ!」と黒髪を銀縁メガネの上に流した
「ただ働きはしねえって言ったろうが!!」と筋骨隆々な
「こちとら睡眠時間削ってやってたんだぞ」とあくびを噛み殺して
それぞれが口々に怒鳴る。うっとうしそうな顔をして四津上が首を振ってテーブルまで飛んだ。
入り口からテーブルまで七メートルはあるはずなのに、ふわりと跳ねたかと思うとそのままくるりと宙返りをしてテーブルに腰かけた。
「俺だって払ってやりたい気持ちは山々だけれども、日本円を天界金に換金しようとすると手数料が馬鹿にならんのだ」
「あんたがやりたいって言ったんでしょうが! そのことについても僕は散々言いましたよ!」
次原が「馬鹿なんだから!」と叫んだ。
「そんなに怒るなよ。今日はお客人がいるんだ。ねえ少年」
四津上が少年を見やる。そこで三人はようやく少年たちに気付いたようで——さらに言えば天日干された蛙のように伸びている雨宮に気付いたようで——三人は身嗜みを整えて「やあ雨宮さん」と口を揃えた。
首を垂れて四津上は大きめにため息をついた。それを聞いた三人がそれぞれに少年に向かってもてなすように椅子に座るように催促したり動き出した。
雨宮は相変わらずばたりと倒れたまま気絶しているが、誰もそこに寄る気配はない。まるでそこが聖域であると言わんばかりに三人は遠くから見守っている。
もう一度、少年は恐る恐る彼女を揺すったが、やっぱり無反応だ。後ろ髪を引かれるように気を雨宮に残しながらも、少年は彼らに促されるがまま、椅子に向かった。
「いつもこうだ。君たち、しぐちゃんがかわいいのはよくわかるけれども、だからと言ってお客人を無碍にするのはいただけないなあ。だから給料も渡せなくなってしまうんだ」
「はいはい、僕らはとりあえず裏の掃除しておきますから」
「ありがとう、それにしても」
裏口にぞろぞろと消えていった次原達に手を振って、四津上がテーブルにもう片肘をついて、足を組んだ。
「君ほどの若者がうちを利用するだなんて世も末だね。世紀末だ。ケンシロウやラオウほどの力があればこんな世界でもたくましく生きていけるだろうに。確かにキミは男の子の割に背が低いし、中性的で可愛らしい部分が垣間見える——安心してほしい、捕って食う気はないんだ。さっきはすまなかったね。久々にお客人が来たものだからうれしくてね。さて、話を戻そうか。それでなんだっけ?」
四津上が上を向いて、えーと、と呟いた。
「そうそう、キミは北斗の拳でいうなればバットのような立ち位置でいるのだろうということだよ。バットは成長していく。頁をめくるごとにみるみるとその姿が変わりゆく。生きていればキミもそうなるだろうけれど、それでも死にたいのかい?」
少年はこくりと頷いた。四津上がそうかい、とつばに隠れた目を閉じた。
「では確認しよう。キミは自分の命にいくら出す?」
少年はきょとんとして、それからショルダーバッグをがさがさと漁った。その中からくしゃくしゃになった紙幣をそろりと四津上に差し出した。ニコニコとしながらそれを受け取って、四津上は手のひらに挟んで紙幣を新品のようにまっすぐにした。まっすぐにして、その笑顔がセメントのように固まった。
「……五千円?」
「あの、すみません。それが僕の全財産です」
「嘘でしょ? 最近の子供はお金持ちだって増田くんが言ってたよ? 事実彼はお金をだいぶせしめていたし。ああ、でもそうか、しぐちゃんは貧乏か。キミも貧乏なの?」
少年が目を泳がせて、答えづらそうに縮こまった。四津上が小首を傾げて彼の顔を覗く。
「えと、はい」
少し間があって、少年はそう答えた。がっかり、と四津上が肩を落とした。そのままテーブルに突っ伏してああと息を漏らす。
「貧乏なら生きなきゃだめだよ。生きてお金を稼いで死なないと」
「え……」少年の顔がこわばった。
「死ぬにもお金がかかるということさ」
「そんな……どうにかなりませんか!」
「一応五千円のプランもあるんだけれど……何分久しく見ていなかったからなあ。ちょっと待ってね」
四津上が胸ポケットから警察手帳ほどの大きさの手帳らしきものを取り出し、ぺらぺらとページをめくった。
「あったあった。手足の爪をいずれか一枚剥ぐ——歯のいずれか一本を抜く——手足の指骨いずれか一本を折る——あとは、思い切り頬をビンタする、か」
四津上が手帳を閉じて胸ポケットに収めた。
「……それって死ねますか?」
「万一の確率で死ねるんじゃない?」
「どれくらいの確率ですか?」
「キミたち人間が壁に突撃して原子レベルに分解して突き抜ける確率よりは高確率で死ねると思うよ」
「ほぼ不可能じゃないですか!!!」
少年が跳弾するように椅子から立ち上がった。支える足には生命力がみなぎっている。
四津上がまっすぐに少年の目を見据えた。
「つまり。この世に五千円の命はないんだよ。そんなに安い命があってたまるか」
四津上の尋常ならざる目力に圧倒される。
「キミはまだ若い。キミは自分で理解できていないだろうけれど、若いからこそキミの体には生命力がみなぎっている——俺がもし悪魔だったら確実に殺すほどにね——その生命力は言い換えれば”希望”だ。未来を照らす希望であるけれども、希望というのはどうにでも転がっていく。わかりやすく言えば、
四津上がそこまで話して、口を閉ざした。じっと少年を見る。少年はきょとんとした目をしている。四津上は立ち上がって彼の体をじっとりと見て回った。そして、整然と言い放った。
「ああ、キミ、殺人鬼なのか」
やってらんねえなあと四津上が空に吐く。
「生粋の殺人鬼かあ。暗黒面どころかどっぷり闇に浸かっているんじゃないか。へえ、すごいなあ。初めて見たよ。突然的なのかそれとも遺伝か、どちらだい?」
四津上がまだ昏睡している雨宮の元へ歩く。優しく抱き上げて、裏口の方へ向かった。
「俺もこんな商売をしているから殺し屋の友人は片手の指くらいはいるんだけれど、その中にだって殺人鬼はいない。それほど珍しい存在だというのにその年でもう鬼になってしまったのならそりゃ死にたくもなるだろうなあ」
裏口に続くドアを開けて雨宮を連れ出した。背伸びをしながら四津上は裏口から入ってきた。
「思い返してみれば、確かにキミ、しぐちゃんに突き飛ばされてから咄嗟に受け身取ってたもんね。それどころか痛みなんて感じていないようだったし」
納得納得、と四津上が独り頷いた。
「しかし、キミの中にある殺人鬼のスイッチはなんだろうね。ほんの些細なことなら生きるのは難しいだろうなあ。例えばキミのどこかに触れてしまったら、とかね。仮にそうだとして、もし、俺が触って問題なかったのは俺が死神だからであったとしたら——しぐちゃんが触ったり、俺よりも格下の死神が触ったらば確実にどこかしらをやられて死んでいたんだろう? キミってば実に危険な少年だなあ。バットはおろかラオウもダースベイダーも超えているじゃないか。いや、比べること自体がおかしな話かな。彼らは殺人鬼ではないものね」
四津上がテーブルを隅に寄せていく。
「キミがいつ目覚めてしまったのかわからないけれど、平和のためには眠っていた方がいいかもね」
これくらいでいいか、と四津上はテーブルを片づけて広くなったフロアで手を払った。
「さて、これで障害はなくなった。心置きなくキミの願いを叶えてやれる。キミには特別サービスだ。無料でいい——
四津上の問いに、少年は顔を上げた。どこかに決意を込めた、その顔を。
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