第四話 奇跡にさよならを告げて
最近よく考えることがある。春島知里とアユミ、どちらが本当のわたしなのだろう。
これまでわたしは「春島知里」として三十年生きてきた。魔法少女の「アユミ」は一時的に変身している姿にすぎない。だったらアユミに変身しているときのわたしは一体何なのだろう。アユミとして湊や恋々ちゃんや日和ちゃんと会っていた時間は? 春島知里が本当でアユミが偽物だと断定できる根拠は何? そもそも本当の自分とか偽物の自分とか、そう考えること自体が間違っているんじゃないか。
人助けを終えた帰り、箒に乗って空を飛んでいると、公園にいる湊たち三人の姿を見つけた。
「伝三郎さん、ちょっと寄ってくね」
ことわってから、箒を公園の真ん中に着陸させた。
「アユミー」
名前を呼んで、湊が犬のように駆け寄ってくる。
「今日も人助けしてたのか?」
「まあね。今日は自動車事故を片付けてきたよ」
「それ警察の仕事じゃないの? 相変わらずよく分かんないわね、魔法少女って」
「困ってる人は別け隔てなく助けるの」
「そ、そうだよ、アユミちゃん立派だよ。偉大だよ」
「いや、そこまで大げさに言われても困るけど……」
ううっ、と恋々ちゃんが顔を赤くする。
湊が、わたしの後ろにいた伝三郎さんの頭をわしゃわしゃと撫でていた。
「伝三郎ー。お前今日もアユミと一緒にいたのかー」
「……ああ」
「ちゃんと役に立ってるかー、足手まといになってないかー、猫の手も借りたいんだなー」
ワシャワシャワシャ!
伝三郎さんがさっと走りだして、今度は恋々ちゃんの後ろに隠れた。
「湊くん……伝三郎さんが嫌がってるよ」
「アユミ、今日は一緒に遊べるのか?」
逃げた伝三郎さんを追いもせずに湊が言った。
「わたしは大丈夫だけど、今日は三人ともピアノの日でしょ?」
「あっ。そうだった……それじゃ明日は? 明日は会える?」
「まだ分かんないけど……時間ができたら、ね」
「へへへ」
湊がはにかんだ。
すごい形相で日和ちゃんが近づいてきて、湊の額にデコピンした。
「痛いぞ」
「馬鹿みたいな顔してたからよ!」
「もともとこういう顔だぞ……」
「そうじゃなくてっ」日和ちゃんがちらりとわたしを見た。「デレデレするなって言ってるの。ムカつくから」
「で、デレデレなんかしてないぞ」
「ほんと? アユミは?」
「そんなわけないじゃん」
日和ちゃんは疑わしげな目をわたしと湊に向ける。
「じゃあ湊、アユミの顔、じっと見つめて」
「な、なんで?」
「いいからっ!」
日和ちゃんが湊のほっぺたを両手で挟んで、無理やりわたしの正面に持ってきた。
湊と目が合う。息子とはいえ、無言のまま見つめ合うのはなかなか息苦しい。――と思っていたら、湊はすぐに日和ちゃんの両手を解いて飛び退いた。
「あ、そろそろ時間かも! ピアノの稽古に遅れちゃうよ! ね、恋々」
「う、うん」
勢いに押されて恋々ちゃんが頷く。日和ちゃんはまだ納得していない様子だったが、それ以上の追求はしなかった。
「ピアノはどう? 上手くなった?」
「この間、あれを弾けるようになったんだよ。えーっと『あれ』……タイトルが思い出せない……」
「駄目じゃん」
「アユミもピアノ一緒に習わないか?」
「だ、駄目だよ、アユミちゃんは人助けで忙しいんだから……」
それに家事もアルバイトもあるし。
「あはは。興味はあるけど、難しいかな」
「ピアノを習うと頭が良くなるんだぞ。父さんが昔言ってた」
どきっとした。湊から旦那の話題が出るのは本当に久しぶりだった。
わたしが言葉を詰まらせていると、湊が続けて言った。
「う。でも、本当かどうかは知らないぞ。僕、ピアノ習ってるけどこんなのだし」
「お父さん……ね。ピアノ、楽しい?」
「僕は楽しいぞ。弾いてると色んなこと、忘れずに済むからな」
「何それ。相変わらずわけわかんないわね」
日和ちゃんが呆れた口調で言った。恋々ちゃんは俯いて黙っている。わたしたちの家の事情を知っているからだろう。当事者のわたしたちにとってはずっと昔に癒えた傷だ。こういうことは、当事者よりも周囲の方が深刻に捉えることが多い。
「……みんな、そろそろ行かないと、遅刻しちゃうんじゃない?」
「あっ。そうだった。それじゃあな、アユミ! 明日は絶対に遊ぼうな!」
元気よく言い残して、湊は恋々ちゃんと日和ちゃんを連れて公園を出て行った。
その日の夜、夕食のときにわたしは湊に尋ねた。
「今日は何をして遊んだの?」
「んー? 普通だよ。公園で適当に喋ってからピアノ教室に行った」
「ピアノ、楽しい?」
「楽しいよ」
「なんで?」
「うーんとね。色々」
明るく答えて鮭のソテーを頬張った。
***
「伝三郎さーん? いないのー?」
朝、湊が学校に行くのを見送ってから、わたしは魔法少女に変身して街へ出る……つもりが、肝心の伝三郎さんの姿が見えなかった。声をかけて出てこなければ、狭い我が家、探しまわるまでもなく、伝三郎さんは外出中だということが分かる。
普段はあれだけ口をすっぱくして人助け人助け連呼してた伝三郎さんにしては珍しい。
さてどうしたものだろうか、伝三郎さん抜きでもやるべきだろうかと逡巡していると、家の電話が鳴った。
「はい、春島です」
受話器を取って名乗ったが、反応がない。
「あの、もしもし?」
「……私」
女性の声が聞こえた。名切さんでも月松さんでもない。戸惑いと不安の混ざった声だった。
「すみません、どなたでしょうか?」
「私の名前は……後藤有海といいます。魔法少女の」
声の主が名乗った。衝撃に、しばらく呼吸をするのさえ忘れる。
後藤さんとしばらく会話をした後、わたしは家を飛び出して病院へ向かった。電車に揺られながら、そういえば変身して箒に乗れば良かったと思ったが、後藤さんが目を覚ました今、なんとなく変身するのがためらわれた。
病院へ着いて、記憶と病室の名札を頼りに後藤有海の病室へ向かった。
病室の中では、彼女が上半身を起こしてわたしを待っていた。前に来たときと同じく、埋まっているベッドはひとつだけだ。部屋の中にわたしと後藤さんの二人だけ。……それと、ベッドの下に伝三郎さん。
「はじめまして」
最初に言葉を発したのは後藤さんだった。わたしよりずっと年下のはずだが、学校の先生と会っているような不思議な感覚だった。
「……あの、わたし」
何から説明しようかと言葉を探していると、先に伝三郎さんが言葉を発した。
「事情は有海に説明した。知里が魔法少女の代理をしていたことも」
「あっ。そうなの、わたし、代わりに人助けをしてて……」
「すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって」
小さな声で言ってから、小さく頭を垂れた。長い髪が顔にかかる。なぜか恐縮してしまって、わたしの方も何度も頭を下げた。
「おかげで助かりました。いえ、助かったのは街の人々ですが、それでもありがとうございます。伝三郎も、ほら。お礼を言って」
「『さん』を付けろ。……助かった」
「すみません。伝三郎は格好つけなんです」
後藤さんは柔らかく微笑んだ。堂々としていて芯がぶれない。あの伝三郎さんが、子猫のようにあしらわれていた。
「まだ子猫ですから。格好つけたい歳ごろなんです」
「え。伝三郎さん、子供なの?」
「真に受けるな。有海は平気な顔で嘘をつく」
「ふふふ。冗談です。でも伝三郎が子猫だったら、ちょっと面白いですよね」
後藤さんについていけなくて、わたしは曖昧な笑い声を中途半端に返す。伝三郎さんは人間みたいなため息をついた。しかしさっきから尻尾がパタパタと上下に揺れている。
会話が途切れたのを見計らって、ずっと気にしていたことを尋ねる。
「あの、後藤さんの体は、もう大丈夫なんですか?」
「まだしばらくは安静にしているように、と言われています。しばらくはずっと検査ですね。自分では何ともないつもりなのですが、一ヶ月も眠っていたわけですからね。すみませんが、もう少し魔法少女の代理をお願いします」
「もう少し……ですか」
それは具体的にどれくらいの時間なのだろう。問いただしたい気持ちをぐっと押さえ込んだ。喪失感に倒れそうになる。ポケットに入れたブローチの形をズボンの上から指でなぞる。
ふふふ、と後藤さんが笑い声を漏らした。
「敬語はやめてください。それに『有海』でいいですよ」
「有海……ちゃん」呼び捨てようとすると驚くほど違和感があった。「そもそも魔法少女って何なの? どうして魔法少女になったの?」
「私が魔法少女になったのは、別の女の人からブローチを受け取ったからです。あと伝三郎も一緒に。その女の人も、また別の女の人からブローチと伝三郎を受け取ったらしいです。最初の魔法少女が誰だったのかは分かりません。伝三郎も知らないんです」
「私は、有海の前の前の少女の代から一緒にいる。その少女も別の女からブローチを譲り受けたらしい。私が魔法の呪文を知っているのは、その少女に教わったからだ」
「人と猫に歴史あり、ですね」
「もはや起源は失われているが、それでもこの務めを続ける意味があると私は思っている」
「人助けが?」
わたしが訊くと、伝三郎さんではなく有海ちゃんの方が答えた。
「魔法少女は現在まで生き残った人類最後の奇跡です。人を助けるための最後の手段です。私にブローチを渡してくれた人が言っていました」
「……有海ちゃんは、これからもずっと魔法少女を続けるつもりなの?」
「いずれ私も次の世代にブローチを託すことになるでしょうが、それはまだ先の話です。退院したらすぐに復帰するつもりです」
その宣言を――不愉快だ、と思ってしまった。喧嘩を売られたような気分になる。
もちろんそんなことはわたしの思い込みだ。有海ちゃんのことを見ないようにしたら、少しは平常心を取り戻せた。
「今までありがとうございました。もう少しだけ、代理をお願いします。そうですね、一週間もすれば退院できると思います」
「……もちろん。最後までやりますよ」
精一杯の返事をした。
わたしは病院を出た。伝三郎さんはもうしばらく病院に残るつもりらしい。
そういえば、今日の人助けは、わたし一人でやればいいのだろうか。
……別にいいか。今はとても人助けをするような気分じゃない。と、伝三郎さんに聞かれたら説教されそうな理由で、わたしは何もせずにまっすぐ家に帰った。
***
「だたいまー!」
夕食の準備が終わり、ぼんやりとテレビを見ていると湊が帰ってきた。玄関でランドセルを放り投げる音が聞こえた。湊は居間に走ってきて、真っ先にリモコンに飛びつくとチャンネルを変える。湊がいつも見ているアニメはとっくに終わっていた。
「あー、間に合わなかったか」
「お帰り。また今日も遅かったね」
「んー。帰りに遊んでたんだぞ」
「早く帰りなさいっていつも言ってるでしょ。夕飯だってずっと前にできてるんだから。あんたがいっつも遅いからいっつも冷めちゃってるんだよ」
「じゃあ次から夕飯はもっと遅くにすればいいと思うぞ」
「夕飯だけじゃないの。暗くなったら危ないでしょ」
「うん。次から気をつけるぞ」
「昨日も同じこと言ってたでしょ。……こっちを見なさい!」
叱りつけると、湊はやっと首をこちらに向けた。しかし数秒見ただけですぐにテレビに視線を戻す。チャンネルをザッピングする。
玄関のランドセルを片付けて戻ってくると、テレビには興味を引く番組がなかったのか、リモコンを床の上に置きっぱなしで、カーペットの上に大の字に寝転がっていた。
湊の隣にランドセルを置く。
「ほら、自分で片付けなさい。もう三年生なんだから自分でできるでしょ」
「できることをやるとは限らないんだぞ」
と口答えしつつも、しぶしぶランドセルを奥の部屋に持っていく湊。
戻ってきたところで、さり気なく聞いた。
「……今日も公園で遊んでたの?」
「うん? うん、まあね」
再びごろんと横になる。
「恋々ちゃんたちと?」
「そんなところ」
「二人で遊んでたの?」
「そういうわけじゃないぞ」
「じゃあ誰と遊んでたの?」
「恋々と日和と……」
「いつも何して遊んでるの?」
「ん……。別に、色々だぞ」
「色々って?」
「うーっ。いちいち覚えてないぞ」
湊は鬱陶しそうに顔の前で手を振った。わたしもムキになって追求する。
「なんで。忘れるわけないでしょ」
「怒ってるの?」
「怒ってない。はぐらかさないで答えて欲しいだけ」
「別にはぐらかしてないけど……」
「今日は学校で何をしたの? 友達とどんな話をした?」
「しつこいぞ!」
湊は起き上がってわたしを睨んだ。それっきり湊は黙ってしまい、起き上がるとリビングから出て行った。バタン、とこれみよがしに大きな音を立ててドアを閉める。
「おい、一体どうしたんだ」
伝三郎さんが心配そうに小声で聞いてきた。わたしはそれに答えることができない。
リビングを出て湊を追いかけた。湊は寝室で、カーペットの上にあぐらをかきながら、こちらに背を向けて漫画を読んでいた。
「湊?」
呼びかけるが返事がなかった。
ごめんね。それだけを言って引き返した。
夕食を作り、湊を呼ぶと、返事はなかったがリビングまで来てくれた。夕食を食べて、お風呂に入り、布団に入って眠るまで、湊は必要最低限の言葉しか口にしなかった。
リビングで一人ビールの缶を傾けていると、伝三郎さんがやって来た。
「今日はどうしたんだ。らしくないぞ」
「うん……ごめん。心配かけちゃって」
「別に心配はしていない」
伝三郎さんは臆面もなく言った。それがおかしくて少しだけ笑顔を作れた。
沈黙のあと、伝三郎さんが探るように尋ねた。
「有海のことか?」
ずばりと言い当てられても、それを認めるには勇気が必要だった。
「ちょっとだけ、ね。不安になっちゃって」
「辞めるのに不安も何もないだろう」
「アユミに変身して湊に会って、そしたらわたしは湊のことを何も知らなかったんだなあって思った。今までわたし、あの子のことはわたしが一番よく分かってると思ってたのに。それに湊はアユミのことが好きみたい。恋々ちゃんが言ってた。アユミにはわたしに言わないようなこともみんな言ってくれるの。わたしなんかより、アユミの方を信頼してるんだろうね」
「何だそんなことか」
「そんなことってことはないでしょ、そんなことって」
酔っ払った頭では非難の言葉も上手く出てこない。
手を伸ばして彼の頭を撫でようとしたらするりと逃げられた。
「知里は魔法少女になる前から湊と一緒に暮らしてたんだろう。今さら何を不安がる」
「でも、もうあんなふうにはできないかも……だって、わたし」
わたしの見ている湊が、本当の湊ではないと知ってしまったから。
「ではどうする? これからもずっとアユミとして湊のそばにいる? さっき知里は『本当の湊』と言ったが、『本当の知里』とは一体何だ? アユミか? 知里か? どちらかが偽者なのか?」
それは、わたしも考えていたことだった。
アユミとして湊のそばにいる。そして湊の本心を聞く。それはわたしにとっては都合のいいことだけれど、まったくフェアではない。フェアではないけれど、このアドバンテージを失ったとき、湊とどうやって接すればいいのか、不安で仕方がないのだ。
「おい、お前は不安だと言うが、それは湊だって同じことだ。湊にとっても知里は正体不明の他人だろう。今日だって、お前の真意が分からなくて苦しんでいた。それをお前は、魔法を使って逃げる気か」
「逃げる……? 魔法は、人の祈りを叶えるためにあるんでしょう?」
「そうだ。それをお前が望むなら」
わたしが、望むなら――。
わたしは一体、何を祈ろうとしている?
伝三郎さんは言いたいことをすべて言い終わったのか、または呆れてしまったのか、わたしに尻尾を向けてリビングを出て行った。
そのあともわたしは、深夜になるまでずっと一人で悩んでいた。いや、悩んでいるというのは嘘だ。答えはもう出ている。有海ちゃんにブローチを返さないなんて、わたしにはできない。魔法少女はもう終わりだ。ただ、その決断ができないだけだ。
目が覚めたら机に突っ伏していた。
時計を見ると深夜の二時。
寝室へ行くと、湊は静かに寝息を立てて眠っている。わたしがそばにいなくても一人で眠れるようになったのはいつからだったか。
自分の布団に潜り込むと、感傷を振り払うように一瞬で意識が沈んでいった。
次の日の午後、わたしはアユミに変身して公園まで飛んだ。はたして、そこには湊と恋々ちゃん、それに日和ちゃんがいた。
挨拶もそこそこに、わたしは本題を切り出した。
「あのね……わたし、そろそろみんなに会えなくなる。遠くに行くの。だから、そろそろお別れ」
自分の退路を断つために、問答無用で宣言した。
***
次の日曜日、有海ちゃんの退院日だった。
つまりそれは、魔法少女アユミとして湊たちに会う最後の日だった。
湊たちには今日が最後の日だということをあらかじめ伝えていた。そんなつもりで言ったわけではなかったけれど、湊たちがお別れパーティを開いてくれた。
パーティ会場は日和ちゃんの家だった。約束通り午前十一時きっかりに訪問する。
「いらっしゃい! 入って!」
玄関で出迎えた日和ちゃんがいつになく元気な声でわたしを迎え入れた。
リビングにはもう湊と恋々ちゃんが待っていた。日和ちゃんのお母さんの姿もある。
「あら……」
月松さんがわたしを見て小さく声を漏らした。正体を見抜かれたような気がして緊張したが、よく考えれば月松さんとはアユミの姿で一度会っているのだ。
「お邪魔してます」
先を取って定型句を返す。月松さんも、あの依頼のことを日和ちゃんには知られたくなかったのか、余計なことは何も言わずにいてくれた。ゆっくりしてね、と母親らしいことを言って月松さんはいなくなった。
「アユミちゃん……ほんとにいなくなっちゃうの?」
「本当だよ」わたしは答えた。「困っている人はね、この街以外にもたくさんいるからね。魔法少女はいろんなところを旅するの」
「そんな話、聞いたことないけど」
ぼそり、と日和ちゃんが言う。本当にこの子は賢い子だ。湊だけではなく、明日からは日和ちゃんとも対等に話すことができなくなる。少し未練だった。大人のわたしと子供の日和ちゃんという立場で、わたしは果たして日和ちゃんの聡さに気づけただろうか。
子供は大人の前では「子供」を演じている。それは大人が望んでいる子供の虚像だ。敏感な子はそれを感じ取り、自分を没個性に装飾してしまう。
わたしは日和ちゃんに抱きついた。日和ちゃんが悲鳴を上げた。その行動に理由はない。強いて言えばただの衝動である。
「……えーっと、これ、どうすればいいの?」
「えへへ。ちょっとやってみたかっただけ」
そう言って、日和ちゃんの背中に回していた手を笑いながら解いた。
「何それ。馬鹿みたい」
「色々ありがとうね、日和ちゃん」
「別に……あたしは何もしてないし……」
「あぅ。こ、恋々も! ぎゅーって!」
「はいはい」
恋々ちゃんに言われて抱きついた。恋々ちゃんが遠慮がちに、わたしの腰に手を回した。抱擁を終えると、恋々ちゃんは顔を真っ赤にしていた。
「……湊は?」
湊はさっきからずっと黙っている。ぼんやりと口を開く。
「え? ああ……必要ないぞ」
先週みんなに別れを告げてから湊はずっと上の空だった。かと言えばときどきわたしのことを真剣な表情でじっと観察していることもある。
「湊くん、どうしたの? 最近ずっとそういう感じだよ? 今日これでアユミちゃんとはお別れなのに……」
「ああ、そうじゃなくて。なんか、アユミとさよならっていうの、あんまり実感がなくて不思議な感じなんだ」
「あぅ。それは、恋々もそうだけど……」
「人と人が別れるってどういうことなんだろうな。今までだって、毎日ずっとアユミと一緒にいたわけじゃないだろ? それに会おうと思って会ってたわけじゃなくて、アユミの方からときどきやって来るって感じだったし……」
「もう! 考え過ぎだよ!」
湊の疑問を恋々ちゃんが一蹴した。それに構わず湊がわたしに尋ねる。
「なあアユミ、もう会えないって、本当にもう会えないのか? 絶対? 二度と? またこの街に来るってこともないのか?」
「そう……だと思う」
「なあ、もう二度と会えないって、絶対会えないって、どうしてそんなの分かるんだ? だって他の街に行くだけなら、また会えるかもしれないだろう? もしかしてアユミ――」
その先は続かなかった。言ってはみたものの、仮説でさえも湊は思いつかなかったらしい。
パンパン、と日和ちゃんが二回手を叩いた。
「はいはい、よく分かんない話はそれくらいにしときなさい。せっかくこのあたしがケーキを作ったんだから、冷めないうちに食べちゃいましょ」
「ケーキって熱い料理じゃないと思うぞ……」
いつもとは違って湊が日和ちゃんに突っ込んだ。これはこれは、最後に珍しいものが見れた。
日和ちゃんが焼いたというケーキはゴワゴワのスポンジの上にベタベタのクリームが乗った不格好なものだったが、その不器用さが少し嬉しかったし、他の二人はそもそもそんなこと気にもしなかったようだ。
美味しい美味しいと言いながらゲストのわたしを差し置いてハイペースでケーキを平らげる湊を微笑ましい気持ちで見ていた。
「ケーキ、そんなに気に入ったんなら……また作ってあげてもいいけど」
「恋々もケーキ作れるよっ! 勉強するし!」
「買う方が早いよ」
「…………」
「…………」
「どうしたのふたりとも」
その後はみんなでわいわい喋ったり、湊が最後にもう一度魔法を見せろとせがんだり、トランプで遊んだり、湊がボケたり、さらに恋々ちゃんがボケたり、気の毒なくらい日和ちゃんが振り回されたり、それを見てわたしが笑ったりした。
つまり、わたしたちはいつもどおり遊んで楽しんで騒いだ。
きっとわたしがいなくなってからも、みんなはいつもどおり遊んで楽しんで騒ぐのだろう。
時間は穏やかに流れて、町内に夕方を知らせる放送が遠くから聞こえた。
「――それじゃあ。わたし、そろそろ行くね」
わたしが腰を浮かせると三人も一緒に立ち上がった。
「……ほんとにお別れなの?」
恋々ちゃんが涙声で言った。わたしは本日六回目のハグをして、頭をグリグリ撫でる。
「もうっ。アユミちゃん、頭撫でるのはおばさんっぽいから辞めたほうがいいよ」
「嫌なの?」
「恋々は嫌じゃないけど……アユミちゃんが良くないと思ったから」
「あはは。ご忠告ありがと」
うん。確かに、わたしも同級生の頭を撫でたりはしなかったな。
「……もしあたしが困っても、あんたはもう来ないのよね」
「うーん、どうだろう。魔法少女は来るかもしれないけど、それはわたしじゃないと思う」
「何それ。あんたみたいなのがいっぱいいるわけ?」
「いるよ。だから、願いは叶うの」
「それじゃ、もしその魔法少女に会ったら、よろしく言っといてあげるわ」
日和ちゃんが右手を差し出した。迷わずその手を取る。ゆっくりと握手した。
「湊も、バイバイ」
「うん。……ありがとう、アユミ」
湊らしく、別れはとてもあっさりとしていた。
みんなに見送られながら日和ちゃんの家を出た。箒は持っていたけれど、なんとなく歩きたい気分だった。その足で病院まで行くつもりだった。
空が夕焼けに染まっている。夕日は地平に遮られて見えない。
子供の歩幅では、病院につくまでどれくらいかかるだろうか。
「もういいのか?」
わたしの横を、足音も立てずに伝三郎さんが歩いていた。まったく、覗き見していたみたいにタイミング良く現れたもんだ。
「そういえば伝三郎さんともお別れなんだね」
「そうなるな」
「今までありがとうございました」
「礼は不要だ」
そっけなく答えた。
「……お前こそ。代理を引き受けてくれてありがとう」
小さな声で付け加える。
我慢できずにニヤけたら、伝三郎さんに気持ち悪いと言われてしまった。
それから――病院に行って、退院する有海ちゃんにブローチと伝三郎さんを渡した。
びっくりするほどあっけなく、わたしの「魔法少女」が終わった。
大人の姿になったわたしは、一人で電車に乗って家に帰った。もう飛ぶことのない箒を手に持ちながら。
家に帰ると湊はすでに帰宅していて、いつものようにランドセルを放り出してテレビを見ていた。
すぐに夕飯の準備を始めようとすると、湊は神妙な顔をしてわたし尋ねた。
「伝三郎がいないんだけど」
「ああ……そうだった。伝三郎さんはね、元の飼い主さんのところに戻ったの」
「なんで。なんで教えてくれなかったんだよ」
「ごめん。色々あって忘れてた」
「最後にお別れしたかったのに」
いじけるように言って、テレビを消して寝室に行ってしまった。
夕飯のときの湊はいつもよりもずっと無口で、上の空で、疲れたように虚ろな目をしていた。
***
アルバイトが終わって家に帰った。
ここ何ヶ月かは魔法少女の活動のせいでアルバイトは休みがちだったが、今はその分を取り戻すために朝から夕方までぎっちりとシフトを入れていた。
玄関には湊の靴があった。ここのところずっと家に帰るのが湊より遅い日が続いている。
「遅くなってごめんね。すぐに夕飯作るから」
バッグを置いてエプロンをつけて、手を洗ってすぐに料理を始める。
鶏肉を包丁で切っているとき、湊が台所までやって来て冷蔵庫を開けた。立ったままパックのオレンジジュースを器用にコップに注いで冷蔵庫を閉めた。湊はこちらを見ないで、日常の延長のさり気ない感じでわたしに尋ねた。
「もうアユミにはならないの?」
包丁を取り落とした。まな板の上からシンクに滑り落ちて盛大な音を立てた。
「大丈夫? 怪我、してない?」
「湊……どうして……」
湊はコップをテーブルに置いて、シンクに落ちた包丁をまな板の上に戻した。
「どうして、って。だってアユミとは友達だし」
ちょっと照れながら答える。
「ち、違う、そうじゃなくて……なんで知ってるの?」
「公園で会ったときに、すぐに分かったぞ」
「公園? 日和ちゃんを助けたとき?」
湊が頷く。
「日和んちのシツジと僕が戦ってて、アユミは迷わず僕の味方をしたからな。ああ、この人は僕のことをよく知ってる人だって思ったんだ」
「そんなことで? だって子供と大人が争ってるのを見たら、普通は子供が襲われてると思うでしょ。それに魔法少女なんだから、魔法でどっちが悪いのか分かったのかもしれないし」
「たしかあのとき、アユミは僕の名前を知ってて、それは魔法で分かるんだって言ってたよな? うん、名前なら実際にあるものだから魔法で分かっても不思議じゃないかな。でも『良い』とか『悪い』とかってのはほんとにあるわけじゃないし、それは見方で変わるものだからね。塾に行きたくない日和と塾に行かせたい日和のお母さんのどっちが正しいかなんて魔法で分かるわけがないんだぞ」
「分からないよ。魔法はあらゆる奇跡を叶えるからね。魔法を使えば本当に良いものと悪いものが見分けられるのかもしれない」
「もし魔法を使わないと見分けられないんだったら、それはもう『良い』ものでも『悪い』ものでもないと思うぞ」
湊の言っていることはよく分からなかったが、魔法を使わないと見分けられない善悪に意味がないというのは面白い意見だと思った。
「それに大人と子供が争っていたとして、普通の子供だったら子供の味方なんかしないぞ。そんなことしたら怒られるかもしれないし。まあその前に助けに来ないと思うけどな。だって怖いし」
「へえ。あんたも怖いんだ」
「怖いぞ。まあ怖くても助けるけどな」
へらへらと笑った。
「だからなー。僕のことを知っていて、大人で、わけも聞かずに僕の味方をしてくれる人って、一人しか知らないからな」
「でも……それだけで……」
「それもあるけど、それだけじゃないぞ。あの日、公園から家に帰ってきたとき、アユミが母さんを探しに行って、入れ違いに母さんが帰ってきたの、覚えてるか?」
「ああ……あのときね」
変身を繰り返して一人二役をやり通した。とても骨の折れた記憶だ。
「あのとき母さん、日和のこと『日和ちゃん』って呼んだよなー? 僕は『月松』としか紹介してないのに。まさか母さんも魔法を使ったなんて言わないよな?」
「そっか……、わたしも迂闊だったね」
「それで」
「ん?」
「変身は、もうしないの?」
「ああ、うん。実はあれ、期間限定の代役でやってただけだからね。もうわたしが変身することはないよ」
「そう、なんだ」
「…………アユミに会えないのが、そんなに寂しい?」
「僕は知ってるけど、恋々と日和が寂しがってるから。もし変身できるなら、二人に会って欲しいなって」
「ごめん」
「僕に謝る必要はないぞ」
「うーん、でもずっと秘密にしてたわけだし」
「秘密を全部教え合うことはできないよ」
悟ったようなことを言った。言い方がちょっと生意気だったので頭をわしゃわしゃと撫でた。ふふ、と笑いを漏らす湊。大人しく撫でられてくれるのはあと何年くらいだろう。
「ありがと」
「うん?」
「火事のとき、助けてくれてありがとう」
「当然でしょ。お母さんはいつでもあんたの味方だよ」
精一杯見栄を張って、わたしは母親らしく答えた。
***
アルバイトが終わり、着替えを済ませて裏口から出ようとすると休憩中の店長に声をかけられた。この店長はいつも休憩しているような気がする。もちろんそんなはずはないのだが、一体いつ働いているのだろう。
「あれ? 春島さん、もう上がり?」
「はい、おつかれさまです。今日はピアノの発表会なので……」
「あ、春島さんピアノやるんだ。僕も聞いてみたいなあ」
「息子の発表会です――って前も言いましたよね、これ」
「また発表会なんだ」
「前のときは色々あってできなかったんです」
「ああ、そうだったね……」
火事のことは店長も知っている。店長はわたしが何か言う前に話題を変えた。
「息子さん、ピアノ上手いの?」
「好きみたいですよ。上手くはなくても、それでいいと思ってます」
「ふーん。春島さん、息子さんの話するとき、すごく嬉しそうだよね」
「えへへ。分かりますか?」
「早く行かないと遅れるよ」
店長は面倒くさそうに言って、帰るわたしにひらひらと手を振った。
休日の混雑を避けて脇道を進んだ。早めに職場を出たので時間には余裕がある。普段は見ない景色を楽しみながらゆっくり駅まで歩いた。電車に乗り、隣の市まで向かう。わが街のコンサートホールは火災で焼け落ちて以来、まだ再建の目処も立っていない。
やがてホールに到着し、受付を済ませてから会場に入る。
しばらく待っていると、アナウンスが流れて、最初の演奏者がステージに出てきた。春島湊だ。
湊はぎこちない仕草で一礼したあと、ピアノの前に座る。途中で転びやしないかとひやひやしながら見守っていた。
ゆっくりと、たどたどしく、しかし確かな旋律で、湊の演奏が始まった。
《 30歳から始める魔法少女 / Andante cantabile con amore 》
30歳から始める魔法少女 叶あぞ @anareta
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