第三話 恋の季節

 平日昼間のファミレスには空席が目立っていた。わたしたち三人は禁煙席を選んで座る。店員に料理を注文し、全員がドリンクバーから飲み物を持ってくるまで、名切さんは本題に入るのを慎重に遠ざけていた。

「ねえ……最近、恋々を見て何か気づいたことはない?」

 何を言うのかと思えば、ずいぶんと曖昧で抽象的な質問から話を切り出した。しかしコーヒーカップを持つ手がかすかに震えているように見える。思い直して、緩みかけた唇を意識して引き締める。

 わたしの隣に座った月松さんをうかがうと、何も考えていなさそうな無表情で紅茶に大量の角砂糖を溶かしていた。わたしの視線に気づいた月松さんが、先に名切さんの質問に答えた。

「私は最近より以前の恋々さんを知りませんから、何か異常な点があったとしても気づけません」

 異常な点、という部分で名切さんがびくりと反応した。小動物のように過敏だ。恋々ちゃんよりも彼女の方がよっぽど異常な状態に見える。

「わたしも……特におかしなところはなかったと思うけど」

 アユミの姿で恋々ちゃんと会ったときの様子を思い出しながら答えた。

 もちろんあの日以降も、湊が恋々ちゃんと日和ちゃんをうちに連れてくることはあった。しかしいくら幼なじみの母親とはいえ、大人のわたしに対してはどこかよそ行きの顔を作っている印象があった。

 いつでもどこでも誰にでも同じ顔を見せる湊とは大違いだ。やっぱり、女の子の方が早熟なのだろうか。

「そう……」

 名切さんはわたしたちの返事を聞いて、浮かない顔で頷いた。

 てっきり何か説明があるものだと思っていたら、名切さんは物憂げにため息をついて、コーヒーを飲みながらぼんやりと遠くを見つめ始めた。視線の先にはファミレスのレジとその奥にトイレが見えたが、別にお金で悩んでいるわけでも、もよおしているわけでもないだろう。

「何かあったの? 恋々ちゃんがどうかしたの?」

 たまらずに訊くと、名切さんはさんざん迷った挙句にぽつりぽつりと話し始めた。

「どうも最近、ずっと元気がないように見えて……というより元気がないのを頑張って隠してるみたいな……。ため息をついたりぼーっとしてたり、わたしが学校のことを聞いてもはぐらかされるし、学校から帰ってきたらずっと憂鬱な顔をしているし……。もしかして恋々は……学校でいじめられてるんじゃないかって……」

「まさか」

 もし本当に恋々ちゃんがいじめられているなら湊が黙っているはずがない、と思うのは少し親馬鹿だろうか。

「ねえ、湊くんか日和ちゃんから、学校でのこと何か聞いてない?」

「湊は何も」

「日和とは学校の話をしないので」

「え……なんで?」

「私は日和の学校に興味がないので」

 月松さんがしれっと答える。この親子は本当に大丈夫だろうか。

「師匠は普段湊さんとどのようなお話をするのですか?」

「どんな、って、普通だよ。学校で起きたこととか、友達と何して遊んだとか。気にならないの?」

「なりませんが、気にした方がいいのでしょうか」

「普通気にするでしょ。自分の娘が学校でどんなふうに過ごしているのかなって」

 名切さんが息巻いて言った。しかし月松さんは首をかしげている。

「もし日和が学校のことで悩みがあるなら相談に乗りますし、力を貸します。だけど問題が起こっていないなら、日和から聞き出したいことは特にありません。師匠はなぜ湊さんのことを知りたいと思うのですか?」

「さあ……多分、好きな人のことを知っていないと不安になるからじゃないかな。どこかに行っちゃうかも、ひょっとすると今すごく苦しんでるんじゃないかって……。あと前から気になってたけど、その師匠って呼び方は何?」

「師匠は私にとって人生の先生なので」

「わたしそんなに年上じゃないんだけど」

「いえ、師匠の精神年齢はすでに老境の域に達しています。まるで仙人のように人の心を見透かすのです」

「遠回しにババアって言ってる? 言ってるよね?」

「私も遠い将来、師匠のような人間になりたいものです……」

「『遠い将来』って何? 何年後のこと? わたしと月松さんそんなに歳離れてないから。同世代だから」

 月松さんがうっとりとした表情でわたしを見つめていた。複雑な心境だった。

 名切さんは落ち着きなくちびちびとコーヒーを飲むと、また一人で遠くを見始めた。きっと恋々ちゃんのことを考えているんだろう。

 その日の夜、家に帰ってから、わたしは湊に学校のことをそれとなく尋ねた。

「最近学校はどう?」

「うん? うん。毎日立派に建ってるぞ。校舎は古いけど、地震が起きても安心だ」

 夕食が終わってから湊はずっとゲームをしていた。この間、わたしがアユミの姿で一緒に遊んだときのゲームだった。恋々ちゃんに負けっぱなしなのが癪なので練習しているのかもしれない。が、湊が恋々ちゃんに勝つ未来がまったく見えない。

「わたしは点検員か。……校舎のことじゃなくて、湊のことだよ」

「普通」

「楽しくないの?」

「楽しいことも楽しくないことも。学校じゃなくたって、楽しいことと楽しくないことがあるぞ。だから、普通」

「みんな、仲は良いの?」

「良い人もいれば悪い人もいる。学校じゃなくても一緒。学校だって社会の一部だぞ」

 ゲームから目を離さずに悟ったようなことを言った。

「……いじめとか、は?」

 焦れた挙句、ものすごく下手くそな切り出し方をしてしまう。

 しかし湊は気にせずに、今までの会話と同じ調子でのんびりと答える。

「人に嫌なことをされる人がいる。人の嫌がることをする人がいる。どこも同じだぞ」

「それ、何なの?」

「別に。何でもない」

「何かあったの?」

「世間じゃ許されないことも学校じゃまかり通ってるってこと。先生が僕たちを叩いたり」

「叩かれたの?」

 驚いて聞き返すと、湊は首を横に振った。

「叩かれたのは僕じゃないけど。授業中にうるさくしてたやつが先生にぶたれて泣いたんだ。僕が先生に、人を叩くのは犯罪だと言ったら、先生は悪い生徒を叩いても良いんだって言われた」

「それで、湊はどうしたの?」

「別に何も。……いきなり何だ? どうしてそんなこと聞くんだ?」

「なんとなく、ね。好きな人のことは知りたくなるものなの」

 ふうん、と興味もなさそうに湊は鼻で返事をした。



***


 最終手段。学校の様子を直接この目で確かめる。

 もちろん生徒の親が授業参観でもない日にいきなり学校にお邪魔することはできない。そんなことをしたら拘置所行きだ。最近は不審者に対する世間の風当たりも強いからきっと実刑だろう。

 だがしかし、わたしはその点を解決するすばらしい手段を持っていた。わたしも子供になればいいのだ。

 湊が学校に行くのを見送った後、掃除と洗濯を手早く片付けた。今日はアルバイトもないから、湊が帰ってくる夕方まで自由に動くことができる。

「魔法少女の力を私利私欲のために使うのは……」

 変身しようとしたわたしを伝三郎さんが呼び止める。光り輝いていた紅色のブローチがみるみる輝きを失った。

「別に私利私欲のためじゃないよ。名切さん、すごく心配してたんだし」

「だが私はその名切という母親の声を聞いていない。祈りを聞いたわけでもないのに人助けをするのはルール違反だ。それはただの」

「お節介だって言いたいんでしょ? でも望んだ通りになることだけが人助けじゃないの。助けを求めていなくても、困ってる人だっているんだから」

「だがそんなことを言い始めたら、私たちは人助けではなくなってしまう。それでは革命家だ」

「……うるさいっ。これ以上止めるならもうカリカリ買ってあげないから」

「おい」

 わたしは変身する。紅色の輝きがわたしを少女の姿に変えた。服だけではなく靴も自動的に魔法少女の衣装が装着される。カーペットが汚れないようすぐに靴を脱いた。

 寝室に移動して姿見の前に立つ。

 わたしの知らない少女がむすっとした顔で立っていた。

 自分が子供のころどんな顔だったのか、今ではもう記憶はあやふやだ。だけど、こんなに可愛い子供ではなかったのは覚えている。もしこれがわたしだったら、わたしの人生と性格はもう少し華やかな方向に進んでいたかもしれない。

 それにしても、自分に馴染みのない顔が鏡に映っているというのは何度見ても奇妙な感覚だ。

 わたしが顔の筋肉を動かすと、目の前に立っているアユミもわたしと同じように表情を変えるのだ。

「どうした?」

「……ちょっと、どんな顔だったのか頭に叩きこんでおこうと思って」

 伝三郎さんが見ているのを思い出して誤魔化した。顔が赤くなったのが見えないように姿見から離れた。

「行くなら一人で行け。私は行かないぞ」

「いいもん。それじゃ、そうするから」

「おいっ」

「一人でお留守番できる? 泥棒が来たら追い返してね。それじゃ行ってきまーす」

 玄関で靴を履く。下足箱の横にかかっていたミニ箒を手に取った。伝三郎さんは引き止めに来ると思っていたのに、廊下の向こうでやれやれと首を振ってわたしを見送っていた。

 アパートの外に出てしばらく歩いてから、当りに人がいないのを確認して、箒にまたがり呪文を唱えた。

 呪文を三回間違え、四回目にしてやっと箒が浮かび上がる。

 我が家のミニ箒は、エレベーターのように優しい感じでふわりと浮かび上がると、わたしの意思に忠実に学校の方へとゆっくり飛行を始めた。

 電車よりも時間がかかってしまったが、危なげなく学校の上空へ到着する。

 ずらりと並んだ校舎の窓の奥で、格子状に机を並べた子供たちが同じ方向を向いて座っていた。今がちょうど授業中らしい。

 学校の中から見えない場所を選んで静かに着陸する。

「ありがと。優しい飛び方だったね」

 箒にお礼を言うと、ピクリと震えたような気がしたが、それっきり動かなくなる。魔法が解けたのだ。

 校舎の玄関に周り、人がいないのを確認して中に入る。

 靴をどうしようか迷ったが、上履きなんて持っているはずもなく、仕方なく土足で上がることにした。いざというときに逃げられないと困るので箒も持っていく。完全に不審者である。

 廊下を足早に通り過ぎる。壁を一枚挟んだ教室の中から、授業中の先生の声が聞えた。

 湊の教室は授業参観のときに一度見ている。迷うことなくたどり着いた。

 つま先立ちになって、ドアのガラス窓から教室を覗き込んだ。湊と日和ちゃんの姿が見える。恋々ちゃんの席は、角度が悪くて見えない。

 チャイムが鳴って、慌ててドアから離れる。教室は椅子を動かす音で一斉に騒がしくなった。

 先生が廊下に出てきた。箒を背中に隠して愛想笑いを浮かべていると、先生は怪訝な表情を浮かべたが、すぐに背中を向けてどこかへ行ってしまった。

 冷静に見れば学校の生徒ではないことはすぐに分かりそうなものだが、堂々としていれば意外とバレないものらしい。土足であることすら気付かれなかった。

 平らな胸をほっと撫で下ろしていると、今度は生徒たちが廊下に流れ出てきた。

 気後れしながらも教室に入ると、教壇の近くで立ち話をしている生徒の一人と目が合った。

「あっ!」

「あ」

 湊と日和ちゃんだった。すぐに湊が目の前まで駆けて来る。

「えーと……サ、バじゃなくて、アユミ!」

「今サバって言った?」

「なんでここに?」

「……遊びに来た」

 アドリブに弱いわたし。

「平日なのに?」

「え? う、うん」

「平日の昼間に遊べるなんて、魔法少女って良い身分だな」

「うぅえ?」

「僕たちは勉強させられてこんなに苦しんでいるというのに」

「なんかごめん……」

「でもまた会えたのは嬉しいぞー! 地獄に仏だー!」

 一転して高い調子で言った。両手を上げて喜びをアピールする。

 というか学校はそんなにつまらないのだろうか。授業についていけてないとか。息子の成績が良くないことは毎学期の通信簿で知っていたけれど。

 遅れて日和ちゃんもやってきた。

「えええ? あんた、ここの生徒だったの?」

「違うよ。……恋々ちゃんは?」

「何? 今度はあの子を塾に連れてくつもり?」

「あはは。その皮肉強烈」

 日和ちゃんと話しながら教室の中を目で探す。恋々ちゃんは自分の席に座って、机の中から次の授業の教科書を取り出しているところだった。恋々ちゃんはわたしに気づいてにっこりと笑ったが、たしかにどこか影のある笑顔に見えた。

 恋々ちゃんのところへ行こうしたら、クラスの男子がわたしたちに話しかけてきた。

「おい春島、そいつは?」

 スポーツ刈りの気の強そうな男子だった。湊に話しかけていたが、わたしの方をちらちらと見ている。その子の取り巻きの男子も、みんなわたしに対して好奇心を剥き出しにしていた。

 湊は質問に対して脳天気に答える。

「友達のアユミだよ」

「こんなの、うちの学校にいたっけ?」

「アユミはうちの学校には通ってないぞ」

「他校の生徒かよ。先生に見つかったら怒られるぞ。……つーか、何で箒持ってるの? あ! しかも土足じゃねーか。春島お前、この間怒られたばっかじゃん。ヤバいよ」

「アユミは魔法少女なんだよ」

「魔法少女……?」淡白な反応だった。「初めて見たわ」

「こんにちは! アユミです。よろしくね」

 よそ行きの笑顔を作って挨拶する。男子は若干引き気味に「俺、田辺……」と答えた。

 湊の紹介を聞いていたのか、クラスの他の生徒たちも集まってきた。

「なになに、誰この子」

「え、勝手に入ってきたの?」

「魔法使いって言ってた」

「わー、この服かわいい」

 取り囲まれる。小学生とはいえ、アユミの視点は低いので、周りを囲まれると結構な迫力だ。

 生徒たちの好奇心に曝されていると、湊が強引に人をかき分けて来てわたしの前に立った。

「やめなよ。アユミが困ってるぞ。話なら僕を通してくれ」

「何だよ春島。お前マネージャーかよ」

「小学生だ」

「知ってるよ。そうじゃなくて、えーと」

 田辺くんが湊への返答に窮している間に、別の子がわたしに質問した。

「魔法使いって本当?」

「う、うん」

「あ、私知ってるかも。あのねー、うちのおばあちゃんが病気で倒れたときに、病院まで連れてってくれた女の子がいたって言ってた。魔法使いだって」

 女の子が説明すると、なるほどとみんなが頷いた。そういえばそんなこともやったかもしれない。その子のおばあちゃんについては顔も思い出せないが。

「魔法使って!」

「駄目だぞ」湊が割って入った。「魔法少女はみだらに人前で魔法を使えないんだ」

「ふーん、えっちなんだ」

「『みだら』じゃなくて『みだり』でしょうが……」

 日和ちゃんの突っ込みは別の質問にかき消された。

 恋々ちゃんの方を見ると、彼女もこちらを見ていた。しかし会話に入ろうとはしない。自分の席に座ったまま、遠くから見ているだけだ。

「ねえ、恋々ちゃ――」

「魔法少女ってどうやって稼いでるんだね?」

 恋々ちゃんへの呼びかけは遮られた。

「魔法少女はねー、グッズを売ってお金を稼いでるんだぞ」

 身も蓋もない湊の回答。

「湊、恋々ちゃんは――」

「学校行かなくていいの?」

「魔法少女は学歴がなくてもなれるぞ。ジツリョクシュギの世界なんだ……」

 湊が深刻な表情で答える。

「変身して変身して!」

「アユミ、変身できるのか?」

「いや、これが変身した姿だから……」

 元の姿に戻ることも変身と言うのだろうか。

 さらに別の生徒が質問する。

「なんで箒を持ってるの?」

「箒で飛ぶためだよ」

「箒……小さくない?」

「それは――」

「グッズが売れてないんだ。無名だからね」

「お金ないの? 帰れる? 電車使う? お金貸そうか?」

「いや、箒で飛べるから……」

 可愛い財布を取り出した女の子の親切をやんわりと断った。小学生にカンパを募る魔法少女なんてのがあったら、きっと前代未聞だろう。

 さらに別の子が質問しようとしたときチャイムが鳴った。

 結局、生徒たちの相手をしただけで恋々ちゃんには何も聞けなかった。休み時間に来たのは失敗だったかもしれない。恋々ちゃんとゆっくり二人で話をするには、学校が終わった後でなければ難しそうだ。

 いずれにせよ、今はとにかく先生が戻ってくる前に退散しなければならない。

「それじゃ、わたしもう行くから。そうだ、放課後にまた会おうよ。一緒に帰ろう。待っててね」

「うん。またねアユミ」

「あんたほんと一体何しに来たの……バイバイ」

 無邪気に手を振る湊の隣で、つられて日和ちゃんや他の生徒たちも一緒に小さく手を振っていた。

 空を飛んで一度家に帰り、放課後の時間になったのを見計らって再び変身して学校へ向かった。

 校門には湊と日和ちゃんの姿があった。恋々ちゃんはいない。彼女は一人で先に帰ってしまったという。

「あいつ、最近付き合いが悪いんだ。家にもぜんぜん来ないし」

 下校途中に湊がそう漏らした。そういえば、最近は家に恋々ちゃんが来る頻度がずいぶん少なくなったような気がする。代わりに日和ちゃんが来ることが多くなったので、あまり気にしていなかったのだが。

「……何よ」

「日和ちゃんは何か知らない?」

「知らない。何で?」

 日和ちゃんは即答してからわたしの目をじっと見つめた。心当たりがまったくない、というわけではなさそうだった。わたしはそれ以上の追求はしなかった。

「ほんとに何なんだよー、恋々のやつ」

 湊が脳天気につぶやく。



***


 翌日、学校の授業が終わるくらいの時間に、わたしは魔法少女活動を早々に切り上げて恋々ちゃんに会いに行った。

 箒で空を飛び、一人で下校している恋々ちゃんを見つけると近くに着陸した。

「恋々ちゃん、待って!」

 わたしが呼びかけると恋々ちゃんはぴたりと立ち止まった。しかしすぐには振り向かない。てっきりこのまま走ってどこかへ逃げてしまうかと思ったけれど、恋々ちゃんはゆっくりと振り向いた。

「……アユミちゃん。どうしたの。恋々に何か用?」

「うん。昨日は恋々ちゃんと一緒に帰れなかったからね。今日は一緒にお話しよう」

「湊くんは?」

「今は恋々ちゃんと話したいの」

「別にいいけど」

 拗ねたみたいな口調で答えると通学路を歩き始めた。わたしも慌てて恋々ちゃんの横に並んで歩く。

 横目で彼女の表情を覗き見た。

「恋々ちゃん、最近学校はどう? 楽しい?」

「……アユミちゃん、ママみたいな言い方する」

 ゴホン、と咳払いをして誤魔化そうとした。

「その感じも、ちょっとママっぽい」

「そ、そうかな」

「あの……アユミちゃん、なんか全体的に古いよね。魔法少女とか、箒で飛んだりとか」

「古い……!」

 「ガーン」という擬音が頭に響いた。これはさすがに古いと思ったので口には出さなかった。下手をすればそもそも通じないかもしれない。

 わたしがショックを受けていると、恋々ちゃんが慌ててフォローした。

「あぅ。ち、違うよ? あの、良い古さっていうか、良い物は時間が経ってもいいものだし、良い感じに発酵してるっていうか……えっと……」

「古いってところは否定してくれないんだ……。でも学校のみんなは古いなんて言ってなかったよ。すごいすごいって言ってた」

「多分……あの……ね、その……」

「いいよ。言って」

「みんな珍しかったんだと思う。古すぎて逆に新しいというか。みんな知らなかったっていうか」

 魔法少女って、もしかしてみんなピンと来てなかったのか。

 箒に乗って空を飛び、学校にも行かず人助けをする「魔法少女」像は、今の時代には古すぎるのかもしれない。

「じゃあ恋々ちゃんは、最近どんな感じなのか湊に聞くときって、どうやって聞く?」

 話を強引に戻した。

「ええ? うーん、どうだろう……面と向かってはあんまり聞かないかも」

「今日はどうしたのかなとか、何か落ち込んでるのかなって思ったら、聞きたくなるでしょ?」

「そ、そうかな。真面目に悩んでるんだったら、聞けないよ。……ほら、そういうところもママっぽい」

「お節介?」

「うーん、なんだろう……む――いや、えーっと」

「言っていいよ」

「無神経」

 わたしは倒れた。

 恋々ちゃんが泣きそうな声で何度も謝りながらわたしを抱き起こした。

「無神経……無神経ですか……」

「あぅ。ち、違うよ。その、良い無神経っていうか、優しさの裏返しっていうか、単にがさつなだけだから仕方ないっていうか、えーっと」

「恋々ちゃんはときどき辛辣だよね」

「あぅ」

 恋々ちゃんが恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 それにしても、わたしは「ママっぽい」か。自分ではまだ子供のつもりだったけれど、実はわたしはもうとっくに大人になっていたのかもしれない。子供のころに見ていた大人たちの姿と今の自分は、どうがんばっても重ならないけれど。

 恋々ちゃんの目にわたしはどんなふうに映っているのだろう。

「でも、恋々ちゃんは」わたしは慎重に言葉を選んだ。「悩んでるとき、誰かに悩みを打ち明けたいとは思わない?」

 恋々ちゃんは黙ったまま前を向いて歩いていた。彼女の横顔を見つめ続けるのに耐えきれなくなって、わたしも同じ方向を向いた。夕焼けが目に眩しい。

 てっきり答えはないものと思い込んで次の話題を探していると、恋々ちゃんはやっと質問に答えた。

「多分、アユミちゃんには分からないもん」

「どうして?」

 聞き返すが、なかなか返事がない。

 焦れたわたしは、恋々ちゃんが答える前に質問を重ねた。

「湊のこと?」

「アユミちゃんには分からないもん!」

 大きな声で言った。わたし以上に、恋々ちゃん自身が自分の言葉に驚いているようだった。

「あぅ。ごめん」

「いいよ別に。ちょっとびっくりしただけ」

「あの……アユミちゃんって、湊くんのことどう思ってるの?」

「良い子だと思うよ。馬鹿だけど」

「そういうんじゃなくて……あぅ」

 頭を抱えてあぅあぅ唸り始めた。

「その、格好いいとか、好きとか」

「格好いいかどうかはともかく、好きだよ」

「うぅっ!」

「……なんで涙目なの? あ、もちろん恋々ちゃんのことも好きだよ?」

「う、違うもん、そうじゃなくて……うぅ」

「恋々ちゃん可愛い! 世界一可愛い!」

 必死に恋々ちゃんを褒め称えたけれど、あまり意味はなかったらしい。ちらちらとわたしの顔を見ていたが、最後には諦めたように話題を変えた。

「……恋々なんて、ぜんぜんダメだよ。アユミちゃんみたいに大人っぽくないし」

「そんなことないよ」

「アユミちゃんは恋々が何を言っても許してくれるし」

「いや、さすがに限度はあるけど」

「仏みたい」

 すごく嫌な褒められ方だった。しかしどうやら恋々ちゃんは本気で言っているらしい。仏を比喩に使う小学生。

「恋々は……アユミちゃんみたいになれないよ」

「別にわたしみたいになる必要はないよ。恋々ちゃんは恋々ちゃんなんだし」

「言い換えると、恋々は仏になれないよ」

「修行僧みたいなことになってるよ」

 なぜ言い換えた。

「恋々じゃ駄目なんだもん!」

 涙声だった。今にも大泣きする前兆。湊も昔はこんな感じでよく泣いていた。

 でも恋々ちゃんは泣かなかった。代わりに走って、わたしの横からいなくなった。

「待って! 待って恋々ちゃん!」

「恋々じゃ仏になれないもん!」

「わたしは人間だ!」

 走る恋々ちゃんの背中でランドセルとキーホルダーが激しく揺れる。そばを通りかかった老人がわたしたちの大声を聞いて目をむく。

 恋々ちゃんはこれから誰もいないところで泣くのだろうと、わたしは思った。その光景を想像して胸が痛んだ。

 通行人の老人が数珠を持ってわたしを拝み始めたので、箒に乗って素早く退散した。



***


 押しても駄目なら引いてみる。恋々ちゃんの苦悩がアユミでは分からないのならば、アユミ以外が会いに行けばいい。

 翌日の夕方、下校中の恋々ちゃんと会った。今度は大人の、春島知里の姿だ。

「あら、恋々ちゃん。偶然だね!」

 偶然、という部分を強調して言った。わたしの手には買い物袋、中には野菜と魚のパックが入っている。どこからどう見ても買い物帰りに偶然会ったようにしか見えないだろう。実はアユミに変身して空から恋々ちゃんを探し、わざわざ変身を解いてから偶然を装って出会ったのだ。

 恋々ちゃんは「どうも」と警戒した風に答えた。

「ところで恋々ちゃんは最近――」

 と言いかけたところで言葉を止めた。おっといけない。そういう聞き出し方が古いのだと、昨日ダメ出しを受けたばかりだった。

 そのまましばらく言葉に詰まっていたので、恋々ちゃんは不思議そうにわたしを見上げていた。

「湊ね、恋々ちゃんに負けたのが悔しくて最近ずっとゲームの練習してるよ」

「ご、ごめんなさい」

「なんで謝るの?」

「あぅ。だ、だって、恋々のせいで、ずっとゲームしてるから」

「だから?」

「……恋々のお母さんは、ゲームばかりしてるっていつも怒るから」

「まあ、ゲームばかりじゃちょっと嫌だし、もっと勉強して欲しいけど。頑張ってることは悪いことだとは思わないよ。それで、恋々ちゃんから見てどう? 湊は勝てそう?」

「あぅ、その……十年早いと思います」

 恋々ちゃんはやっぱり辛辣だった。

 それからしばらく、恋々ちゃんと湊の話で盛り上がった。ゲームのことから始まり、ピアノの稽古の様子、恋々ちゃんの家に遊びに行ったときのこと、学校でのこと、湊がどんなことを言ったのか、恋々ちゃんがどんなことを思ったのか……。

 そのうち、恋々ちゃんの家への分かれ道に差し掛かった。どちらが提案したわけではなかったけれど、わたしたちは自然と立ち止まって話を続けていた。コンクリートの塀に背中を預けながら恋々ちゃんの話に相づちを打つ。

「なんか……あの……」

 話題が途切れたころ、恋々ちゃんが何かを言いかけた。

「なあに? 言って」

「あの……なんか、不思議だなって。その、湊くんのお母さんと、こんな風に話すの……変な感じ……」

「恋々ちゃんのお母さんとはお話しないの?」

「するけど……もっと違う感じです」

「違う?」

「お母さんっぽくないっていうか」

「あらら」

 思わず頬がにやけたのを自覚して、一転、気持ちが沈んだ。若いと言われて喜ぶなんて、まるでおばさんみたいなメンタリティだ。

「でも元気になって良かった。恋々ちゃんなんだか落ち込んでるみたいだったから」

「あぅ……なんで分かるんですか……ぜんぜん話したことないのに……」

「お母さんはなんでもお見通しなの」

 わたしが知ったふうなことを言うと、恋々ちゃんは感嘆の声を漏らした。カンニングしているみたいで後ろめたくはあった。

「……絶対に誰にも言わない? 特に湊くんには」

「言わないよ。わたし、湊には秘密が多いの」

「あの……ね、恋々ね、あのね」

 恋々ちゃんが「あのね」と「恋々ね」を何度も繰り返すのを辛抱して待った。勇気を振り絞ったのか、言いかけているうちに感覚が麻痺してきたのか、続きの言葉は唐突に溢れた。

「――恋々ね、湊くんが好きなの」

 言った!

 思わずじんわりと胸が熱くなる。「わたしも!」と即答しそうになった。落ち着け、告白されたのはわたしじゃない。でも言い終えた途端に顔を赤くした恋々ちゃんは抱きしめてぐるぐる回りたいくらい可愛かった。このまま家に持って帰りたいがそんなことをしたら名切さんに怒られる。わたしも顔が熱かった。

 大声を出してはしゃぎたくなるのを必死にこらえていた。大人の仮面を取り繕っていたのだ。

「そうなんだ」

 そっけない返事をしたが興味津々である。続きを聞きたくてうずうずしていた。

「でもね、湊くんは恋々のこと好きじゃないの」

「そんなことないよ。湊だって恋々ちゃんのこと、好きだよ」

「違うの。湊くんにとっての一番じゃないの。恋々なんかじゃ駄目なの。日和ちゃんとか……アユミちゃんとか」

「アユミ?」

 まさか、という言葉を飲み込む。恋々ちゃんと湊とアユミの三角関係を想像した。リアリティがなさすぎる。魔法少女が実在するという方がまだ現実的だろう。

 恋々ちゃんは一方的に話を続けた。一度話し始めたらもう止まらない。

「前は湊くんと恋々の二人だけだったのに。日和ちゃんが来てから湊くんが恋々のこと見てくれるの半分になっちゃったの。それに湊くん最近恋々といてもずっと日和ちゃんとかアユミちゃんのことばかり話すの。だって日和ちゃんは恋々よりも可愛いし何でもできるし恋々みたいに言いたいこと言えなかったりしないし、アユミちゃんは魔法が使えて格好良くて仏みたいな子だもん。だから――」

「だから、最近湊と一緒に帰らないんだ」

「だって……湊くんは、恋々なんかと一緒に帰っても楽しくないんだもん。日和ちゃんと帰りたいんだもん」

「湊がそう言ったの?」

「言わないよ湊くんは。何も言ってくれないの……」

「焦らなくても大丈夫だよ。あの子は鈍感なだけだから。好きとか嫌いとか、そういうんじゃないって」

「おばさんは湊くんのお母さんだけど、湊くんのこと何も分かってないよ……。恋々たちは小学生だけど、好きな人だっているし、真剣なの。子供だからって馬鹿にしないでください」

「ごめん。馬鹿にしてるわけじゃないの。ただ」

 ただ、何だろう。それが馬鹿にしているのでなければ、侮っているのでなければ何だというのだ。

「ごめん。気をつける」

「うん……恋々も、ごめんなさい。あんな言い方……うまく言えなくて」

 恋々ちゃんもすぐに謝る。まるで対等な人間同士がするように、わたしたちは謝り合った。果たして以前のわたしは子供に対してここまで誠実であれただろうか。

「恋の悩み、か……」

「恋々、どうすればいいのかな」

「湊にアピールしてみるのは? 恋は押しの一手だよ」

「無理だよぉ」

「恥ずかしい?」

「恋々には羞恥心があるから……」

 恋々ちゃんには無意識に人にダメージを与える特技があるらしい。というか、ちゃんと意味を分かって言ってるのだろうか。

「それにどうすればいいのか分からないもん」

「恋々ちゃんの良いところを見せるの。恋々ちゃんが湊の良いところをたくさん見つけたみたいにね」

「ほんと? 上手くいく? 実績あり?」

「一戦一勝」

 恋々ちゃんが胡散臭そうな視線をわたしに向けた。

「う、うん。そうですね。わぁ、きっと上手くいくよぉ」

 しかも気を使われた。

「でも勝率は百パーセントだよ。それに恋々ちゃん、湊じゃなきゃ嫌なんでしょ? 二戦目はないよ」

 うう、と恋々ちゃんは情けない声を上げて頭を抱えた。「でも」とか「だって」とか、後ろ向きな接続詞ばかりが独り言の中にあふれる。

「でもアピールってどうすればいいのか分からないし」

「湊とデートに行くのは?」

「デデデデ……ット……」

 英語で死を意味する単語を口にしながら恋々ちゃんは目を丸くした。

「どうする? 無理にやる必要はないけど」

「あぅ。ど、どっちがいいと思う?」

「どっちだろうね。どっちを選んでも後悔するかも」

「……そういうもの?」

「どっちを選んでも後悔しないかも」

「あぅ」

 悩んでいるとき、答えは大抵最初から決まっている。悩むのは決心するまでの時間が欲しいだけだ。わたしは恋々ちゃんが決心するまでの時間を待った。

「……やる。デートする」

 ふんす、と鼻息荒く、恋々ちゃんが宣言した。

 その日の夜、夕飯の折に、少し湊に探りを入れてみた。

「ねえ湊」

「うん?」

 湊は箸でコーンポタージュの中からコーンだけを取り出して皿の上に並べていた。コーンが嫌いなわけではなく、むしろ好きなので集めて食べようとしているのだ。汚いので何度もやめさせようとしていたが、外食のときはやらないので強く言うのは諦めた。

「好きな子はいる?」

 ピタリ、と湊の箸が止まった。

「みんな普通だぞ」

「好きな子はいない?」

「普通」

「好きな子はいないんだ」

「僕の好きな子を聞いて何がしたいんだ?」

「べっつにー。気になるだけ」

「その言い方子供っぽいね」

「子供だもーん」

「子供はそんな言い方しないぞ」

「もし湊のこと好きな子がいたらどうする? 告白されたら」

「『これからも応援よろしく』って言って握手する」

「選挙じゃないんだから」

 湊は皿を持ち上げると口をつけてコーンをかき込んた。その後、具のなくなったポタージュスープで流し込む。結局一緒に飲むのかよ。

 結局、この話題はこれで終わってしまった。



***


 翌朝、わたしは再び魔法少女に変身して学校へ顔を出した。準備は万端だ。あとはどうやって背中を押すか、という一点が残るのみ。

 変身して出かけるとき、伝三郎さんが何か言いたげな顔をして一瞬こちらを見たが、すぐに溜め息をひとつ吐いて諦めたように体を丸めた。猫の割に学習の早いやつだ、後で魚肉ソーセージでも買ってやろうとわたしはほくそ笑んだ。

 空を飛んで上から恋々ちゃんを探す。湊と一緒に歩いているのをすぐに見つけた。二人の目の前に降りると、恋々ちゃんがびっくりして足を止めた。湊は無邪気に歓声を上げていた。

「おはよう、恋々ちゃん。湊」

「お……おはよう」

「おはようアユミ。突然どうしたんだ? 空なんか飛んで」

「今から学校でしょ? 一緒に行かない?」

「アユミも学校に通うのか?」

「ううん、学校に行く途中だけ」

「必要もないのに学校に近づくなんて、正気じゃないぞ」

 こいつそんなに学校嫌なのか。

「恋々ちゃんと湊に会いたかったからね。あと日和ちゃんにも」

「ふーん。物好きだな」

 大きなお世話だ。

 恋々ちゃんの方を見ると、何か言いたそうにもじもじしている。

「どうしたの恋々ちゃん」

「あの……アユミちゃん……この前はごめんね」

「この前? ああ、うん、気にしてないよ」

 春島知里の姿で会っていたから忘れていたけれど、前にアユミの姿で会ったときは喧嘩別れみたいな別れ方をしたんだった。

 わたしたちのやりとりを湊が不可解そうに見ていた。

「そういえば、前から聞きたかったんだけど、みんないつも一緒に遊んでるの?」

「そうだよ。前は僕と恋々だけだったけど、最近は日和も一緒だぞ」

 湊が日和ちゃんの名前を出したとき、恋々ちゃんがむっとした表情をした。

 そちらに注意を向けながら話を続ける。

「みんな、いつもどうやって遊ぶの?」

「ゲームしたり、喋ったりとか。外だとかくれんぼとか将棋とか」

「将棋、外でやるんだ……」

「最近やっと桂馬の動かし方が分かってきたぞ。将棋は外でも中でもできるから便利だな」

「遠くに遊びに出かけたりはしないの?」

「そういうのはあんまりないなー」

「お出かけは嫌い? 遠足みたいなの。動物公園に行ったりとか」

「嫌いじゃないけど」

「恋々ちゃんは?」

「うん。恋々も……」

 恋々ちゃんはわたしと湊の顔を交互に見ながら答えた。

「湊と恋々ちゃんは幼なじみなんでしょ? 二人でお出かけしないの?」

「二人だけなのは行ったことないぞ」

「ふーん。たまには遠くに遊びに行くのも悪くないんじゃなかなあ。ねえ、恋々ちゃん」

「あぅ。あの、湊くん、恋々ね、今度――」

 恋々ちゃんが言いかけたとき、道路の先に日和ちゃんが待っているのを見つけた。日和ちゃんはわたしたちに気づいて駆け寄ってくる。

「……魔法少女って暇なの?」

 わたしを見るなり日和ちゃんが言った。そのあと遅れて「おはよう」の挨拶。言葉の順番が実に日和ちゃんらしかった。脳天気に挨拶を返す湊の隣で、恋々ちゃんが萎縮したようにあうあう言っていた。

「何の話してたの?」

「遠くに遊びに行きたいという話をしていたんだぞ」

「あ、いいわね。たまには遠くに行くのも悪くないわね」

 日和ちゃんが乗り気になった。恋々ちゃんは泣きそうな顔で日和ちゃんと湊を見ている。うむ、手強い。

 湊と日和ちゃんが楽しそうに話している後ろを、話題に入れない恋々ちゃんがとぼとぼとついていくという構図。わたしはたまりかねて恋々ちゃんに話しかけた。

「恋々ちゃん、恋々ちゃん。湊に言いたいことがあるんじゃないの?」

「えっ。な、何のこと……?」

「湊と二人っきりでお出かけ、したくない?」

「えええっ?」

 湊と日和ちゃんが振り返った。恋々ちゃんは自分の口を押さえてふるふると首を振った。代わりにわたしが答える。

「ごめんごめん、何でもないよ」

「……何でもないときに悲鳴上げないでしょ」

「えーと、ただの世間話。ささ、気にせず気にせず」

 強引に取り繕った。日和ちゃんはしばらく疑わしそうにわたしたちを見ていた。また湊と話し始めたのを見計らって、こっそり恋々ちゃんに話しかける。

「アユミちゃん。いきなり何言うの……」

「これあげる」

 恋々ちゃんの手にさっとチケットを握らせた。

「水族館?」

「無料入場券。小学生二枚。電車に乗って三駅のところ。どう? 湊を誘って行ってみない?」

「な、何で……アユミちゃんは?」

「わたし魚嫌いだから」

 と、嘘を吐いた。恋々ちゃんは疑うことを知らずに、手の中のチケットを見つめてうんうん唸っている。

 もともとチケットはバイト先の知り合いからもらったものだった。何もなければ湊を誘って二人で行くつもりだったけれど、わたしと行くよりも恋々ちゃんと行くほうが、みんな幸せになれるだろう。

「あぅ……でも……いいの? アユミちゃんだって湊くんのこと……」

「それはないって」

「仏――」

「それはやめて」

 恋々ちゃんはチケットをぎゅっと握りしめた。スカートのポケットに突っ込む。

 息を吸い込んで、湊と日和ちゃんの会話に割って入った!

「ねえ!」

「わっ」

 湊が驚いて声を上げた。日和ちゃんも驚いた顔をしている。

 あぅ、と恋々ちゃんが顔を赤くした。そのまま黙る。

「ちょっと、いきなりどうしたの。あー、びっくりした……」

「あの……えっと、恋々」

「どうしたの恋々」

「あぅ……その……」

「恋々。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」

「うん、ごめんね日和ちゃん。み、湊くん!」

「は、はい!」

 名前を呼ばれ、反射的に湊がびしっと背筋を伸ばした。

「湊くん、魚は好き?」

「僕は鶏肉が好きだなあ」

「あぅ」

 ……そうじゃないだろ、恋々ちゃん。

「何やってんのよあんたたち。ほら、こんなところで立ち止まってると学校に遅刻するわよ。ちなみにあたしは牛肉の方が好きだけど」

 見ると、学校はすぐ目の前だった。ランドセルを背負った子どもたちが次々と校門に吸い込まれていく。

「ええ~、鶏肉の方が美味いぞ。ファミチキ、食べたことないのか?」

「ファミチキ……チキン?」

「今度ご馳走してあげよう」

「ふ、ふーん。あんたがどうしてもって言うならご馳走されてもいいけど」

「あぅぅぅ」

 しかも日和ちゃんはちゃっかり湊と約束を取り付けていた。

 これは手強い。ヒロインとしての実力が三段くらい違うぞ、恋々ちゃん。

「ていうかあんた、普通に学校の中に入ってきてるけど大丈夫なの?」

「あ、しまった」

 つい三人につられて学校の玄関まで一緒に来てしまった。

「そ、それじゃあね三人とも! また放課後にね!」

 わたしは慌てて引き返した。先生に見つかる前に学校の外に出る。

 その日の夕方、学校の授業が終わる時間にわたしはもう一度恋々ちゃんたちに会いに行った。

 箒で空を飛び、三人が校門から出てきたところに降りた。

「やっほー。今日は三人とも一緒だね」

「……あんたほんとに何しに来たの」

「だから言ったじゃない。みんなとお話したくて」

「あんたどんだけあたしたちのこと好きなのよ……」

 日和ちゃんがちょっと引いていたが、必要経費と思うことにする。

 三人と一人で歩いて下校する。相変わらず、主に会話しているのは湊と日和ちゃんだった。

 わたしは置いてけぼり気味の恋々ちゃんに小声で話しかけた。

「それで、どうだった?」

「どう、って?」

「湊、行ってくれるって?」

 恋々ちゃんはふるふると首を振った。

「え。湊、断ったの?」

「ううん。そもそも誘ってない。誘えなかったの」

「なんで?」

「だ、だって」恋々ちゃんはおろおろしだした。「だって朝の会が終わったあとに誘おうとしたら湊くん算数の宿題やってないって言ってたから手伝ってたら授業が始まっちゃって一時間目が終わったら休み時間にしようかなって思ったのに二時間目が理科の授業で理科室に行かないといけなかったから声をかける時間がなくて諦めて二時間目が終わってから中休みに誘おうとしたら先に日和ちゃんと湊くんが話してて湊くんだけを誘うのは悪いと思って切り出せなくて三時間目のあとの休み時間は湊くんどっか行っちゃうし給食に恋々の嫌いなしいたけが出てきて全部食べるまでお昼休みは遊んじゃ駄目って先生に言われたし」

「恋々ちゃん、落ち着いて」

 怒涛の言い訳が出た。あうぅ、と恋々ちゃんは自己嫌悪に陥っている。

「どうするの。湊、もう帰っちゃうよ」

「で、でもでも、水族館は逃げないし、明日になったら湊くんを誘うぴったりなタイミングがあるかもしれないし今日無理に誘って断られちゃ元も子もないし無理に今すぐ誘う必要はないんじゃないかなあ」

 恋々ちゃんはどんどん駄目になっていた。

「しっかりして恋々ちゃん。日和ちゃんはわたしが何とかするから、恋々ちゃんは湊を誘うの。分かった?」

「あぅ。恋々自信ないよ」

「誘う段階で挫けてどうするの」

「ううう……その言い方ママっぽいよぅ……」

「ほら、覚悟を決めて」

 わたしはママっぽく恋々ちゃんを励ました。

 やがて恋々ちゃんがゆっくりとうなずく。

「うん……頑張る……」

 わたしはその答えに満足して、湊と日和ちゃんの会話に割って入った。

「ねえねえ日和ちゃん、このあと暇?」

「わっ。いきなり何よ。……今日は書道の稽古だけど、それまでなら」

「それじゃ、一緒に遊ぼうよ。わたし、日和ちゃんとお話したいなあ」

「なんか唐突だけど、僕も今日は大丈夫だぞ。ピアノはないし」

「あ、悪いけど湊はダメ」わたしは湊に手の平を向けた。「今日は日和ちゃんと二人っきりで遊びたいの」

 日和ちゃんが顔をしかめた。

「二人っきりって……何で?」

「日和ちゃんとお話したいから」

「何の?」

「何でも」さすがに苦しいと思いながらも、日和ちゃんの質問に答えた。「日和ちゃんとお話できるなら、何でもいいよ」

 えっ、と日和ちゃんの表情が固まった。青ざめたように見えた。心なしか、日和ちゃんはわたしから距離を取った。

「あ、あたし、そういう趣味はないから」

「趣味?」

「その、別に悪いって言ってるわけじゃないけど」

「うん? よく分からないけど、日和ちゃんはわたしとお話するのは嫌い?」

「え……いや、嫌いっていうか。えぇー……」

 日和ちゃんは悩み始めた。頭を抱えて、今度は顔を赤くしてわたしの方をちらちら見ていた。

「ほら日和ちゃん。アイスクリームでも食べに行こうよ」

「あ、アイスクリームいいなあ」

「湊はだーめ。じゃあね恋々ちゃん」

 日和ちゃんの手を取って湊たちから離れた。心細そうな表情を見せる恋々ちゃんにウィンクして見せた。

 わたしたちはそのまま、駅前の繁華街まで歩いて行った。

「あの……いつまで手を……」

「あっ。ごめん」

 日和ちゃんに言われて慌てて手を離した。日和ちゃんは自分の手をじっと見てから、恥ずかしそうに両手を背中に回した。ひょっとすると小学生くらいの歳になると手をつないで歩くというのは小っ恥ずかしいものなのかもしれない。

「……ちょっと、そんなじっと見ないでよ」

「あ、ごめん」

「別にいいけど……」

 日和ちゃんはわたしから顔をそむける。

 今度は手を握らずに二人で並んで歩いた。

「アイス、買ってくれるんでしょ?」

「もちろん。ごちそうしますよ、お嬢様」

「お嬢様って言うのやめて。その言い方、うちの執事を思い出すから」

「あ、やっぱりお嬢様って呼ばれてるんだ。いいじゃない、『お嬢様』って。わたしも言われてみたいわ」

「そんな良いもんじゃないわよ。やりたくないことばっかりやらされて」

「お嬢様じゃなくても、やりたくないことばっかりだけどね」

 貧乏暇なし、というのは真実だろう。むしろ、暇がなくなるほど働いてもお金がない人のことを「貧乏」と呼ぶのだ。わたしも学生時代はろくに趣味も持たずにアルバイトばかりやっていた。

 自嘲に聞こえたらしく、日和ちゃんは何も言い返さない。

 気を使われるのは嫌だったので話題を変える。

「お母さんとはどう? 仲直りした?」

「別に喧嘩なんてしてないし。あたしが何か言ってもママは受け流すだけ。本気で相手してないのよ。子供の言うことだからって」

「そんなことないと思うけど。習い事の数は減らしてもらえたんでしょ?」

「そうなんだけどね……。今までは何度言ってもぜんぜん聞いてくれなかったのに、この前いきなり話を聞いてくれるようになったのよ。何かちょっと気持ち悪くて……。もしかして、ママはあたしのことを諦めたのかなー、とか思ったりして」

「『諦めた』って?」

「もう日和ちゃんのことなんかどうでもいいやー、ってね。ま、あたしは望むところだけど」

 日和ちゃんはそう言ったが、口調と表情はまったく望んでいるようには感じられなかった。

「大体、あたしがそんな立派な人になれるとは思えないし」

「わたしから見たら日和ちゃんは立派な『お嬢様』だよ」

「やめてよその言い方。何かムカつくわ。クラスの子にもお嬢とか呼ばれるし」

「だって日和ちゃん、お嬢様っぽいもんね。お嬢様丸出しだよ」

「そういうあんたはぜんぜん魔法使いに見えないけどね。しかもちょっとママっぽい。なんとなくね」

 月松さんの顔が頭に浮かんだ。あの人に似ていると言われるのはちょっと複雑だ。と失礼なことを考える。

 アイスクリームの店が見えた。店内に入り、スカートのポケットから財布を取り出してカップアイスを二つ注文した。わたしは何でもよかったので無難にストロベリー味を選ぶ。日和ちゃんは時間をかけてしばらくあちこち迷ってから、最終的には緑のペパーミントを選んだ。

 わたしたちは店内のテーブルでアイスを食べた。

 ペパーミント味のアイスクリームを一口食べた瞬間、日和ちゃんは「うっ」と声を漏らして顔をしかめた。

「大丈夫? もしかしてミント苦手?」

「初めて食べた……」

「わたしのと交換しようか? っていうか、なんで食べたことないものを選ぶの」

「だってこういうお店来たことないもん……」

 恋々ちゃんみたいな言い方をして、自分のアイスをわたしに差し出した。ストロベリーはさすがに大丈夫だったようで、ひとすくい口に入れると途端に頬が緩む。とても分かりやすい。

「喜んでくれたみたいで良かった」

「ていうか、お金、いいの?」

「誘ったのはわたしだし」

「……アユミってそんなにお小遣いもらってるの?」

「魔法少女だからね。日和ちゃんは?」

「欲しいものがあったらママに買ってもらうの。だいたい買ってもらえないけど」

「ふうん。お嬢様なのに意外」

「だからお嬢様じゃないわよ。それにお金を持ってるのはあたしじゃなくてあたしの親なんだから」

「謙虚だね。大人だね」

「バカじゃないだけよ」

「湊とは大違い」

「湊だってバカじゃないわよ。……多分」

「湊と仲良くなれた?」

「……あのね、そういうママみたいな聞き方するのやめてくれる?」

 わたしが謝ると、日和ちゃんは不機嫌にストロベリーアイスを頬張った。すぐに笑顔になる。とても分かりやすい。

「仲良くもなにも、あいつは最初から全力で近づいて来たじゃない。だから仲良くなれたかどうかで言ったら、前と変わってないわよ」

「そうじゃなくて、日和ちゃんの方」

「あたし? あたしはまあ……慣れた、かな」

 日和ちゃんは曖昧に答えた。その答えだけで十分だった。

「前から聞きたかったんだけどさ」

「なに?」

「あんた、湊のことどう思ってるの?」

 真剣な表情で訊かれた。困惑しながら答える。

「それ、流行ってるの? えーとね……うん、馬鹿だけど良い子だと思うよ」

「そういうのじゃなくて」冷たい声で言われた。「その……他の男子と比べてどう、とか」

「他の男子より馬鹿だってこと?」

「違うわよ! そうじゃなくて……」

「あ、ごめん。そうだよね、友達のこと馬鹿とか言われたら腹立つよね」

「……もういい」

 日和ちゃんは拗ねたように言った。

「そういえば日和ちゃんは湊のこと――」

「だ、だからもういいって言ってるの!」

 日和ちゃんに両手で口を塞がれた。

 そのあとは夕方くらいまで二人でぶらぶら街を歩き、日が暮れる前に別れた。

 魔法で家に飛んで帰り、慌てて夕食の準備をしていると湊が帰ってきた。

「ただいまー!」

「おかえり」

「こら、ランドセルを投げるな!」

 湊が放り投げたランドセルを受け止めて、わたしが勉強机まで持って行った。勉強机には勉強の痕跡がほとんどない。落書きノートや厚紙での工作物がごちゃごちゃと占領していた。

「まだご飯できてないの?」

「そうだよ。だから自分のことは自分でやって」

「自分のことだから、やるかやらないかは自分で決めるぞ」

「やれ」

「そのうち」

 湊はしばらくテレビを見ていたが、ろくな番組がなかったのかテレビを消して今度は台所にやって来た。

「ねえねえ。手伝うぞ」

「ありがとう」

「包丁で切りたい」

「残念。あとは煮て焼くだけです」

「包丁触っていい?」

「いいけど、気をつけないと怪我するよ。それじゃ、これ洗って」

「分かったぞ」

 湊は背伸びをしながら、流しにある包丁をスポンジで丁寧に洗い始めた。

「そういえば今度の土曜日、友達と遊びに行くぞ。水族館に。行ってもいいよね?」

「まあ。恋々ちゃん?」

「そう。って何で知ってるんだ……?」

「お母さんは何でも知ってるの」

「嘘っぽいぞ」

「はい、まな板も洗って」

「了解」

 湊は気合を入れてまな板を洗剤の泡だらけにした。



***


 土曜日の朝、休日にしては珍しく湊が早起きをした。というか、湊に頼まれてわたしが起こしたんだけど。

「ほら、シャッキリしなさい!」

「うん……」

「起きてる? ほら、朝ごはん食べて」

「うん……」

 と、返事をしながら寝室の方にふらふらと戻ろうとする湊の肩を掴んでリビングに連れ戻した。

 くたりと着席した湊の前に麦茶とトーストを置くと、半ば目を閉じたままもしゃもしゃと機械的に食べ始めた。

「もう! 今日は朝早いのになんで夜更かししたの?」

「ゲームしてた……」

「昨日あれだけ早く寝なさいって言ってたのに。あんたちゃんと返事してたじゃない」

「した……」

「でも夜更かししたんだ」

「愚かだった……僕は何回間違えるのか……」

 ハードボイルドな声で言った。

 パンを食べ終わるころには湊の意識もやっといつものレベルに回復していた。しかし寝室に戻って再び布団に潜ろうとするので布団を剥いで押入れに片付けてしまった。

「いけず……」

「あんた『いけず』って意味分かって言ってんの?」

「刺し身的な……」

 生け簀? 活造り?

「ぜんぜん違う。はい、起きなさい着替えなさい歯を磨いて!」

「うう……眠いのに寝ちゃいけないなんてザンコクだぞ……」

「でも今日はデートでしょ。楽しいよ」

「恋々と遊びに行くのなんていつも行ってるぞ。……ん? デート?」

 じれったくて、わたしが湊のパジャマを脱がしにかかった。湊は脱がせやすいように腕を軽く広げて王様のようにわたしを見ていた。どこで育て方を間違えたのか。

 なんとか準備を終えたところでちょうど玄関のチャイムが鳴った。

 ドアを開けると恋々ちゃんが一人、緊張した面持ちで目の前に立っていた。

 今日はまた一段と気合いの入った格好をしている。上はクラシックな黒のポロシャツで襟とボタンだけが白い。下はサスペンダーの付いた白のスカートで、頭の上につけた赤いリボンと全体的な白黒のコントラストがまるで英国の少女のように可愛かった。エナメルの赤い靴は彼女のお気に入りだろうか。

「あ、あのっ、えっと、み、み、み――」

「湊ならもう準備万端だよ。湊! 恋々ちゃんが来たよ!」

 大声で湊を呼び出した。

 のそのそと湊がやってくる。

「おはよう恋々。眠い」

「他にもっと言うことあるでしょうが!」

「あぅ。それじゃ、あの……行ってきます」

「気をつけてね。何かあったらすぐ電話して。恋々ちゃん携帯電話持ってたよね? 今日は湊をよろしくね」

「あ、はい。行ってきます」

「行ってきまーす」

 恋々ちゃんはちらちらと湊の方を気にしながら、湊は何も気にせずいつもの調子でわたしに手を振って出て行った。

 ドアが閉まると我が家は一気に静になった。

「さてと。……なーんか、良いなあ」

 二人のデートを想像して頬がにやけた。湊はともかく恋々ちゃんは実に初々しい。わたしの初デートのことを思い出した。と言っても、それはずっと大人になってからで、初々しいというよりはたどたどしい感じだったけれど。

 朝一で一仕事終えたわたしは、ゆっくりと朝食の片付けと部屋の掃除を始めた。

「知里。鼻歌交じりに家事をしているところ悪いが、あまりのんびりしていられても困るな。こうしている今も、助けを求める人の声が響いているんだ」

 背後から声をかけられて振り向いた。伝三郎さんが音も立てずにわたしの後ろに立っていた。

「伝三郎さんにそれ言われるの久しぶりかも」

「言っただろう。知里が聞かなかっただけだ」

「そういえばそうかも……」

「ここのところあの娘のことにかかりきりだったからな。その分も働いてもらわなければ」

「その言い方は心外だなあ。恋々ちゃんのために変身したんだから、立派な人助けでしょ」

「効率というものを考えろ。いつまでもひとりの恋路に首を突っ込んでいる暇は魔法少女にはない」

 伝三郎さんの小言が始まった。だけどほんの少しだけ、わたしは伝三郎さんの口うるささを懐かしく感じる気持ちもあった。それを悟られないように、わたしはわざとうんざりした表情で「はいはい」と答えた。

 部屋の中で変身して、外に出ると伝三郎さんを抱えて箒に乗って空を飛ぶ。

「それで? 最初は誰の祈り?」

「……向こう。駅の方向だ」

「了解! しっかり掴まって」

「無理だ。指がない」

 伝三郎さんをいっそう強く腕の中に抱きしめて、わたしは箒に速度を上げるように頼んだ。

 進行方向に、仲良く並んで歩く二人組の子供の姿があった。

「祈っているのは、あの娘の方だ」

「いや、あれって……」

 恋々ちゃんと湊だった。家を出てから、まだそう大して時間も経っていない。

「ふむ。さしずめデートが不安だから魔法で何とかして欲しい、というところではないか?」

 女心の分かる三毛猫。

 しかしこのまま湊が見ている前で恋々ちゃんに会いに行くのも気が引ける。

 高度を保ったまま、二人に気付かれないように上空からゆっくりと追跡した。

 途中、湊が恋々ちゃんに何か言うと、恋々ちゃんがおたおたと慌て始めた。二人は小走りで道を進み、公園を見つけると、湊が一人でトイレに入った。恋々ちゃんはほっとした様子で公園の入口で待っている。

 そのタイミングを逃さずに、わたしは箒を恋々ちゃんの目の前に降ろした。

「あっ! アユミちゃん……」

 どうして、と言いかけて、すぐにわたしがやって来た理由に気がついたようだ。賢い子だ。

「うん! 恋々ちゃんが、わたしに助けてって言ったから」

「来てくれたんだ……」

「それで、どうしたの? デートが不安とか」

「あぅ」

 恋々ちゃんはうめいた。図星のようだ。

「大丈夫よ。湊とふたりで遊びに行くのなんて、初めてじゃないんでしょ?」

「あぅ。なんかね、意識しちゃうと、ちょっと駄目なの。緊張しちゃって恋々、本番に弱いから……だから」

「だから」

「デ、デートについてきて欲しいなあ、って」

「いやいや、さすがにそれは駄目だよ。わたしがついて行ったらみんなと遊んでるのと変わらないじゃん」

「あぅ。それじゃ、湊くんには気付かれないように、こっそり一緒についてきて……」

「まあ、それなら……」

「あと湊くんが恋々を好きになるように恋々の魅力を引き立たせるような演出を色々やって」

「注文多いね……」

「おい、あいつが戻ってくるぞ」

「そ、それじゃあね恋々ちゃん、遠くから見てるから!」

 わたしたちは箒に飛び乗り公園を離れた。曲がり角の向こうに降りて、影に身を隠しながら二人の様子を伺う。

 トイレから出てきた湊が恋々ちゃんと言葉を交わす。それから二人並んで駅の方へ歩き始める。

 距離を置いたまま、わたしと伝三郎さんは二人の後を追いかけた。

「なんか探偵みたいだね」

「魔法少女の仕事じゃないな……」

 伝三郎さんがぼやいた。

 前を歩く二人の様子は、デートとはいえ普段と変わらないように見える。湊が歩きながらあちこちに興味の対象を見つけ、はしゃぐ湊を見て恋々ちゃんが嬉しそうに笑っている。

「お似合いだと思うんだけどな……」

「そうか? あの娘とくっつけば、ずっと息子を甘やかすぞ」

「ええー。それじゃ、伝三郎さんは日和ちゃん派?」

「別に派閥ではないが……。二人のうちどちらが似合っているかといえば、日和という娘の方が合っていると思うな」

「まあ日和ちゃんも可愛いよね」

「どっちでもいいんじゃないか」

「ふふふ。息子がモテモテなの、親としては嬉しいかなー」

「純真だからな、お前の息子は。そこに惹かれるんだろう」

「えへへ。照れる」

「お前を褒めたわけでは……いや、もういい」

「でも親としては修羅場にならないか心配」

「なるほど、親になると馬鹿になるのか」

 伝三郎さんが呆れたように言ったけど気にしない。賢いよりも幸せな方が良いのだ。

 二人で話しているうちに、湊たちは駅に到着した。わたしたちは駅の入口に立って恋々ちゃんたちの様子を見守る。

 恋々ちゃんが先導して、切符の券売機の前に立つ。券売機の上にある路線図を見て経路を調べているようだった。

 しばらく眺めている。ポーチからメモのようなものを取り出して見比べたりもしている。恋々ちゃんの顔が引きつっていた。

「長いな」

「もしかして……路線図の見方が分からないのかな」

 あり得る、と思った。いつまでたっても切符を買う気配がない。湊は狼狽する恋々ちゃんを手伝うでもなく、改札口を出入りする人の流れをのんきな顔で眺めていた。こういうときに頼りにならないんだからあいつは。

「ど、どうしよう。こっそり近寄って恋々ちゃんに耳打ちして――いやバレるっての」

「耳打ち、良いじゃないか」

「あのね、湊でもさすがに気づくでしょ」

「要は声だけを、あの娘の耳に届ければいい」

「そういう魔法があるの?」

「ああ、少し複雑だが」

「ええと、ちょっと待って」水族館の場所を頭に思い浮かべる。最寄り駅を思い出す。「よし、呪文お願い」

「舌を噛むなよ」

 伝三郎さんの呪文を、一節一節、間違えないように丁寧に追唱してゆく。発音の難しい節がいくつもあって、とてもすぐに暗記できるものではなかった。

 詠唱が終わる。特に何かが起きたわけではない。首を傾げて伝三郎さんの顔を見る。

「何か言ってみろ。小声で」

「……恋々ちゃん?」

 ひゃわ! という可愛らしい声が遠くで聞こえた。券売機の前に立っていた恋々ちゃんが、耳を押さえ顔を真赤にしてあたりを見回していた。

「恋々ちゃん、聞こえる?」

 もう一度話しかけた。恋々ちゃんはなおも不安そうに周囲を見渡していたが、わたしが出した声に明らかに反応していた。聞こえてていることを前提にして話し続ける。

「恋々ちゃん、聞いて。電車に水族館に行くには、まず最寄り駅の――」

 わたしが説明している間、恋々ちゃんは律儀にその場で何度も頷いていた。

 ちゃんと伝わったか不安だったが、わたしの説明が終わると恋々ちゃんは券売機に近づいてお金を入れてボタンを押した。湊を呼んで切符を一枚手渡す。切符代は恋々ちゃんが出したみたいだ。後で恋々ちゃんにお金を返さないと……。

「伝三郎さん、わたしたちも電車に――」

 うひぃ! と可愛らしい声を上げて恋々ちゃんが飛び上がった。慌てて自分の口を塞ぐ。魔法のことを忘れてうっかり普通に声を出してしまった。

 わたしは伝三郎さんを見た。指で自分の口と恋々ちゃんをさす。すぐに伝わらなくて、しばらく試行錯誤を繰り返す。

「ああ……魔法の解き方か。まあいずれ解けるだろう」

「無責に――」

 恋々ちゃんの背中がビクリと震えるのが見えて、言葉を絞った。

「仕方あるまい。一度魔法を唱えてしまえば、あとは坂道を転がる車輪と同じだ」

「そんなの聞いてな――」

 無言で伝三郎さんを睨む。彼はやれやれと首を振った。

 言葉を我慢したまま切符を買う。恋々ちゃんたちに姿を見られないよう、発車時刻ぎりぎりまで待ってから改札を抜けて電車に乗った。

 電車の中で恋々ちゃんたちの姿を探す。先頭車両を覗き込んだときに二人が仲良く並んで座っているのを見つけた。土曜朝の電車は人も少なく、あまり近づけばすぐに気づかれてしまうだろう。わたしはひとつ手前の車両の、一番端の席に腰を下ろした。伝三郎さんもわたし足下に堂々と座る。

 電車が発進してから、伝三郎さんが小声でわたしに話しかけた。

「妙だな。他の乗客に見られている気がする。まあ、魔法少女の服は目立つからな」

 いや、どう考えてもみんな猫を見てるんだと思うんだけど……。

 というかよく改札をスルーできたものだ。猫のしなやかさと人間並の知性があれば駅員の監視の目などいくらでもかいくぐれるということか。今後のことを考えて伝三郎さん用のケージを買っておいた方がいいかもしれない。もっとも、プライドの高い彼がそんなものの中に入ってくれるとは思えないが。

「おい知里、そんなに目立っていたらすぐに気づかれるぞ」

「あんたに――」

 言いかけて自分の口を押さえる。言葉の代わりに伝三郎さんの頬を片手で掴んでムニムニとこねまわした。

「……いきなり何をする」

 伝三郎さんの耳がぴくりと動く。猫をいじってちょっと癒やされた。

 わたしは無言のまま目的地の駅まで揺られ続けた。不安になって何度か隣の車両を覗き込んだが、湊は大人しく座席に座って恋々ちゃんと談笑していた。



***


 水族館に到着した。朝の水族館は人も少なかった。のんびりと魚を眺めるのにはおあつらえ向きだったし、デートならなおさらだ。

 二人が水族館に入ったのを確認して、わたしもチケットを買って中に入る。受付の係員はわたしが猫を連れているのを見ても何も言わなかった。ひょっとして伝三郎さんの姿はわたしや湊たちにしか見えていないのだろうか。

「知里、そろそろ喋っても大丈夫だぞ」

「……ほんと?」

 伝三郎さんに言われて小さくつぶやいたが、遠くを歩いている恋々ちゃんには何の反応もなかった。どうやら魔法は解けたらしい。小さな胸をほっと撫で下ろす。もうあの魔法はみだりに使わないでおこう。

 それからの恋々ちゃんと湊は、小学生らしくそれなりに充実したデートを過ごした。

 湊はウミガメの水槽を食い入るように眺めてしばらく離れようとしなかったし、熱帯魚のコーナーでは恋々ちゃんが「きれい」という言葉を連発してはしゃいでいた。そして伝三郎さんは円筒形の巨大水槽を泳ぐイワシの大群に喉を鳴らして興奮していた。

「失礼。つい見入ってしまった」

「猫だもんね」

 笑いをこらえながら答えた。水族館の薄暗い通路を伝三郎さんが歩くと、闇の中で金色の目が光って見えてちょっと怖い。

「その言い方には少し引っかかるものがあるが……。ところで知里、今夜は魚が食べたい。キャットフードではないやつを」

「あのね伝三郎さん、わたしたち遊びに来たわけじゃないんだけど。魔法少女の勤めを果たすため祈りを捧げた――」

「お前は意地が悪いな。有海はもっと優しかった……」

「ごめんごめん。ちょっとからかってみただけ。デートが上手くいったら帰りにイワシを買ってあげるから」

「そうか。期待しよう」

 そう答えた伝三郎さんのしっぽがピンと立っていた。含み笑いを彼に見られないように、わたしは口元を押さえて近くの水槽を覗き込んだ。

 湊と恋々ちゃんは館内の水槽を一通り見て回ったあと、屋外に出てステージ状のプールに向かった。すり鉢を半分に切ったような形の観客席の正面に、前面が透明なアクリルのプールがあった。ステージの周囲に「アシカショー」の垂れ幕が見える。客の入りは今ひとつのようで、二百人は入れそうな観客席のうち、埋まっている席は数えるほどしかなかった。

 湊が恋々ちゃんを先導するようにして、一番前の列のど真ん中の席に並んで座った。

「悲しいくらいガラガラだね。さすがに今入ると目立つから、ショーが始まる直前に入ろう」

「姿を消す魔法はあるが」

「……やめとく」

 消えたまま戻れなくなるのはちょっと怖い。

 最初は空きだらけだった観客席が、ショーの時間が近づくにつれてどんどん観客で埋まっていった。観客席のうしろに掛けられた時計はお昼を指していた。そろそろ混雑のピークだろう、と思っているうちに、巨大な観客席があっという間に観客で埋め尽くされた。わたしたちは慌てて中に入ったが、空いている席は最後列のいくらかだけだった。

 アシカショーが始まった。湊はアシカの一挙手一投足を食い入るように見つめ、何か芸をこなすたびに大きく体を動かして歓声をあげていた。恋々ちゃんは最初こそプールの方を見ていたが、途中からはずっと横を向いて、湊のリアクションを見て幸せそうに微笑んでいた。

「おい知里、あのアシカもう十匹は魚を食べてるぞ。すごい食欲だな。私も貪欲でありたいものだ」

「魚食べたいだけでしょ」

「おいおい丸飲みだ。ああいう食べ方は美味そうだな。小魚なら私でもできそうだが」

「煮干しなら家にあるけど」

「あの獣はボールを投げたり輪をくぐるだけで新鮮な魚を貰えるのか……」

「三毛猫ショーなんかやっても人は集まらなさそうだしねえ」

 伝三郎さんはごろごろと喉を鳴らしたが、それも拍手の音に紛れてすぐに聞こえなくなった。

 ステージ上ではアシカと飼育員が絶妙なコンビネーションを見せていた。芸自体はアシカがやっているという以外は平凡なものだったが、飼育員の弁舌と演出がよくできていたおかげでまったく退屈しなかった。どこかとぼけたアシカの表情もまた良い要素になっていた。

 最後に飼育員とアシカが一礼してショーは終わった。盛大な拍手の後、観客たちが一斉に立ち上がり退場を始めた。

「はー。けっこう面白かったね」

「……お前こそ、ここに来た目的を忘れてないか?」

「え? あ」

 観客席の前列を見た。すでに湊と恋々ちゃんの姿はない。座席の上に登って二人を探すと、会場を出て行く人混みの中に恋々ちゃんの姿を見つけた。

「恋々ちゃ――あ」

 恋々ちゃんは人に流されながら、涙目で辺りを見渡していた。不安そうに両手を胸の前で握りしめていた。唇を固く結んでいるのは泣き出しそうになるのを我慢しているのか。

「湊は……はぐれた?」

 湊の性格上、一人になったからといって泣き出すようなことはないだろうが。恋々ちゃんはそうはいかない様子だった。

「湊はどこに行った?」

「知里、あそこを見ろ」

 売店のある広場のそばで、湊がきょろきょろと首を動かしながら大人たちの隙間を縫うように歩いていた。何かを叫んでいるようだ。恋々ちゃんの名前を呼んでいるのかもしれないが、とても聞こえるような距離じゃない。

「伝三郎さん! 生き別れた二人の恋人を再会させる魔法はないの?」

「そんなセンチメンタルな魔法があるか」一蹴された。「姿を消す魔法ならあるぞ」

「それ、ちゃんと元に戻れるんだよね?」

「姿を消して、あの娘の手を引いて息子のところまで連れて行ってやれ」

「戻れるんだよね?」

「では私が言ったとおりに呪文を」

「なんで無視するの?」

 不安で仕方がなかったが、恋々ちゃんが泣き出す前にどうにかしてあげたかった。まあ、さすがに一生透明なままということはないだろうけど……。白い包帯を全身に巻きサングラスをかけた自分の姿が頭に浮かんで、暗い気分になりながら呪文を唱えた。

 呪文を唱え終わった直後、服の胸元がてらてらと濡れたように光り始めた。その光は胸から手足へ伸びて、やがてわたしの全身を覆い尽くした。そのぬめりは、下にあるわたしの服や皮膚を徐々に屈折させてゆき、とうとうわたしの肌も服も見えなくなってしまった。

「……大丈夫? 姿、ちゃんと消えてる?」

「ああ、まったく見えない。気をつけろよ、その魔法は誰にも見えないから、人混みを歩くとよくぶつかる」

 わたしは観客席から出て恋々ちゃんのもとへ向かった。

 子供の姿で大人の人混みに飛び込むのはなかなか勇気がいる。ましてや姿が見えないせいで、他の人が道を譲ってくれることもない。

 大人と大人の足元を滑り抜けるように通って、未だオロオロと湊の姿を探している恋々ちゃんの手首を掴んだ。

「ひゃっ!」

 掴んだ瞬間恋々ちゃんが声を上げた。誰もいないのに手首を掴まれている感触があることに混乱している様子だ。

「大丈夫」

「ひっ」

 耳元でささやくと引きつるような悲鳴を上げた。泣きそうな顔になっている。

 そうこうしていると人の流れが進んで、それに合わせて歩き始めた大人に太ももを蹴られた。蹴った本人は振り返って反射的に謝ったが、そこに誰の姿もないことに首をかしげてまた歩いて行った。とそれを見送っているうちにまた流れに巻き込まれてぶつかりそうになる。あまり長い間悠長に話している時間はなさそうだった。

「行くよ恋々ちゃん!」

 恋々ちゃんの手首を掴んでぐいぐいと引っ張って歩く。恋々ちゃんの姿は他の人にも見えているので、勢い良く歩けばちゃんと道を譲ってくれる。

「あっ……。アユミちゃん、だよね?」

「当然」

 短く答えると、恋々ちゃんに安堵したような笑顔が戻った。

 そうして人垣を通り抜けると、その先に湊の姿を見つけることができた。湊は背中を向けていて、恋々ちゃんにまだ気づいていないようだった。

 そのまま背後から近づいて手首を掴んだ。恋々ちゃんの手を引っ張って湊の手を握らせる。驚いた湊がこちらを向いた。

「恋々!」

「み、湊くん……」

「手」

「え?」

「これからはちゃんと握ってるから。一緒にいれば、迷わないからな。迷わなければ泣かない」

「あぅ……恋々、泣いてないよ」

「僕が泣くんだよ」

 湊が恋々ちゃんの体を引き寄せた。恋々ちゃんは手をつないだまま顔を真っ赤にして口ごもった。

 再会を見届けてから、わたしは二人のそばを離れ、人がいないところまで移動した。

「そこにいるのか、知里」

「あ、伝三郎さん。……なんで分かるの? もしかして、もう見えてる?」

「いや、匂いだ」

 伝三郎さんが足元で犬のようにわたし靴の匂いをかいだ。恥ずかしいからやめて欲しい。

「これ、いつになったら見えるようになるの?」

「もうすぐ解けるぞ」

「そうなの?」

「もう解けかけてる」

 言われて自分の体を見ると、胸のあたりにぼんやりと肌色が浮かんでいた。

「頭の部分はもう見え始めてるな」

「それって……」

「ふむ。話に聞いたことがある『ろくろ首』のようだな。生首が飛んでいる」

 そのとき、近くを通りかかった女の人がわたしの方を見て悲鳴を上げた。

 わたしは伝三郎さんを抱えて全力でその場から逃げた。



***


 アシカショーのあと、二人は広場の売店で昼食を済ませて、屋外の水槽をいくつか見て回った。

 魚を見るのにも飽きてきたころ、二人は水族館を出てそばにある小さな公園に足を運んだ。公園は港に面していて、岸には大きな船が何隻も泊まっているのが見えた。

 恋々ちゃんと湊はベンチに仲良く座り、船を見ながら何か話している。わたしたちは公園の外にいるので、二人が何を話しているかまでは分からない。

「うー、何話してるんだろ。ねえ伝三郎さん――」

「姿を消す魔法か?」

「……いや、やっぱやめておく」

「気になるんだろう?」

 意地悪な口調で伝三郎さんが言った。わたしは笑って首を振った。

 恋々ちゃんと湊は、それからもしばらくずっと二人で話していた。恋々ちゃんがときどき真剣な表情をしていたのが、この距離でも分かった。

 結局そのあと、二人は寄り道せずに駅まで歩いて行った。

 電車を降りて駅から出たのを確認して、わたしと伝三郎さんは箒に乗って先に家まで帰る。その途中寄り道して、約束通り伝三郎さんのための鰯を買った。

 湊が帰ってきたのはいつもの夕飯の時間よりずっと早かった。

「デート、どうだった?」

 夕食のときに軽く湊に尋ねた。伝三郎さんはテーブルの下で鰯の生肉にかぶりついていた。

 湊は口に含んだ白米を時間をかけて飲み込んだ。

「楽しかったよ」

「恋々ちゃんのこと、好き?」

「みんな好きだよ」

 不誠実に答えて湊は食事に戻った。



***


 翌日の朝、恋々ちゃんと日和ちゃんが二人で家に遊びに来た。

「あら、いらっしゃい」

 玄関を開けて二人を中に入れる。先に日和ちゃんが靴を脱いで部屋にあがった。途中でわたしに丁寧にお辞儀した。

 恋々ちゃんは、日和ちゃんが奥に行ったのを確認してからわたしに話しかけてきた。

「あの。ありがとうございました」

「えっ」

 恋々ちゃんにお礼を言われてびっくりした。昨日のことを言っているのかと思ったが、そうではなくて、デートについて相談した件を言っているのだと思った。

「それで。デートはどうだったの?」

「……駄目だった」

「駄目、って?」

「好きって言ったの。好きって言ったのに、湊くんにはぜんぜん届いてないの」

「あらら……」

 まったく、なんて罪作りな子供だ。

「でもいいの。恋々ね、やっぱり湊くんが好きなんだって分かったから」

「がんばって。おばさん、応援してるから」

「でも……湊くん、好きな子がいるんじゃないかなあって」

「湊が? ないない、そんなのないって。あいつ、そういうのまだ分かんないって」

「そうでしょうか」

 恋々ちゃんには珍しく確信のこもった口調だった。

「日和ちゃんのこと言ってるの?」

「……湊くんが好きなのは、アユミちゃんだと思う」

 そう答え、湊たちがいる居間へ走って行く。

 しばらくして居間から聞こえてきた恋々ちゃんの声は、わたしが知っているいつもの恋々ちゃんに戻っていた。

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