第二話 魔法少女のお仕事

 赤い風船の犬が路地を走っていた。だけどあれが犬に見えるのはきっと作ったわたしだけだ。細長い風船を無理やりねじった不恰好な四本足のオブジェは、犬にも猫にも馬にも見える。

「ま、待ってー!」

 叫びながら追いかける。魔法少女の体は小さかったが直線の勝負ならまだこちらに分がある。

 だけど問題は、風船犬の体の小ささだった。普通の犬なら通れないような小さな隙間でも構わずに通り抜けてしまう。窮屈な場所を通るときは風船と壁がこすれる不快な音が聞こえてきて、割れてしまうんじゃないかとそのたびにひやひやしていた。

 しばらく追いかけっこを続けていたが、風船犬は突然道路のそばで立ち止まると振り向いてわたしのことを待った。短い呼吸を繰り返すように風船の頭が小刻みに揺れている。

 期待しながら風船犬に近づくと、そこには茶色の大きな財布が落ちていた。風船犬は誇らしげにわたしを見上げた。

「よっ、よく、み、見つけたね、え、偉いよ」

 わたしが呼吸を整えながら褒めると、風船犬は一気に興奮してわたしの周りを飛び回り始めた。しかしそのうちピンと背筋を伸ばしたかと思うと、くたりと横に倒れてそのまま動かなくなった。魔法が解けてしまったのだ。

 ちょっと寂しくなって、財布と一緒に風船犬も拾って戻ることにした。

「……犬はどうなった?」

 遅れてやって来た伝三郎さんが、かなり距離のあるところから問いかける。風船犬が「犬」になったのは伝三郎さんが教えてくれた呪文のせいなのに、当の本人が犬を怖がって近づかないのだ。

「大丈夫。もうただの風船だよ」

「そうか。……しかし勘違いはするな。別に犬が怖いわけではない。私は猫だから、犬にあまり近づくべきではないのだ。これはそう、しきたりのようなものだ」

「ワン!」

 風船を指で動かしながら鳴き真似をした。伝三郎さんは素早く飛び退いて猫の声で威嚇する。わたしの鳴き真似だと気づくと、ピンと立てていた尻尾がしなしなと曲がる。

「ごめんごめん。ちょっとからかっただけ」

「あまり猫をいじめるな」

「悪かったって。ほら、あの子のところに戻ろう」

「……もう二度と『犬』の魔法は使わせない」

「別に怖がることなんてないのに。いい子だったよ、この犬」

「怖くはない。近づきたくないだけだ」

 まあ、そういうことにしておきましょう。

 わたしたちは財布と風船を持って来た道を引き返した。公園まで戻ると、ベンチに一人で座っていた女の子がパッと顔を輝かせてこちらに駆け寄ってきた。

「もう見つかったの?」

「うん。これだよね?」

 風船犬が見つけた財布を見せると、女の子はあっと声を上げた。泣きはらして赤くなった目も、これだけ笑顔になると気にならなくなる。

「これです! ありがとうございました!」

 女の子が礼儀正しく頭を下げた。こんなに良い子ばかりだったら、魔法少女の人助けもやりがいがあるのだけど。

「お姉さんは、小学生ですか?」

「えーと……わたし、魔法少女だから」

「あー、だから助けてくれたんだね」

 少女は納得したように頷いた。いいのかそれで。魔法少女は学校行かないのか。

「あと……それは?」

 わたしの持っている風船を指さした。どう説明しようかと悩んで、結局ありのままを答えることにする。

「財布はね、この犬さんが見つけてくれたんだよ」

「犬。……犬?」

 なぜそこで引っかかる。分かってはいたけれど、リアルにそういう反応をされるとショックがないわけではなかった。

「犬だよ、犬」

 洗脳するように何度も「犬」と繰り返した。女の子はゆっくり頷く。

「えっと……お姉さん、犬作るの上手いね!」

 女の子は超良い子だった。

「そうだ。泣くのを我慢したご褒美にこの犬をあげよう。ちょっと落ち着きがないけど、とっても良い子だから。大事にしてあげてね」

「うん。ありがとう」

 女の子は風船を胸に抱きしめた。不細工な犬だったけれど、大切に受け取ってくれたのは、ちょっと嬉しい。

「それじゃ、わたし行くね。もう財布失くしたら駄目だよ」

「うん。また落としたらお姉さん呼ぶね」

 呼ばれる方の身にもなってみろ。と言いたいのも我慢して、ばいばいと手を振って別れた。もう動かなくなった犬にも、心の中でさよならを告げる。

 女の子を助けたのは、伝三郎さんが彼女の祈りの声を聞いたからだ。そして魔法少女であるわたしの仕事は祈りに応えることである。伝三郎さんに連れられて声のする方へ行くと、女の子が公園で泣いていた。苦労しつつも何とか泣き止ませて、おつかいの途中で財布を落としたことを聞き出したのだ。

 火事の中から湊を助けたのが一昨日。それ以来わたしはずっとこんな人助けばかりをしていた。

 ペットが逃げたとか、さっきみたいな失せ物探しはもちろん、車が溝に落ちた手助けとか、果てはカラス退治までさせられた。人は意外と、人生の色んな場面で祈るものらしい。

「さて、次の祈りは――」

「まだあるの!?」

「人がいる限り祈りもなくならないものだ」

「じゃあそれ……きりがないってことじゃない」

「きりとか終わりとか、そういう問題ではない。これは務めだ」

「それ、虚しくなってくるね……」わたしは腕時計を見た。「あ、いけない! もう行かないと」

「待て、人々の祈りはどうなる」

「今日は病院に湊を迎えに行かないといけないの。こっちだって母親の務めなの!」

 わたしは慌てて変身を解いて大人の姿に戻る。いつも使い慣れた大きな体で駅へ走った。



***


 今日は湊の退院の日だ。

 湊は火事の中で煙をたくさん吸い込んでいて、そのあたりのことを調べるために大事をとって入院していたのだ。

 検査の結果は問題なし。退院と言っても検査のために二泊三日しただけなのだが、それでも息子が無事に家に戻ってくるというのはやはり嬉しい。ちなみに恋々ちゃんの状態は湊よりも軽かったらしく、昨日のうちに先に退院していた。

 病院に到着すると、受付を通りすぎて直接湊の病室まで行く。

 駅から病院まで一緒に歩いてきたはずなのに気がつくと伝三郎さんはふらりと姿を消していた。彼が姿を消すのはよくあることなので、あまり気にしないようにする。

 病室に行くと、湊はベッドの上で足を組んで漫画雑誌を読んでいた。わたしに気づいて顔を上げる。

「おう、いらっしゃい。あ、そこに座っていいぞ。お茶飲むか? その冷蔵庫に入ってるから勝手に飲んでいいぞ。テレビ見るか? チャンネル変えるか?」

 完全にくつろいでいた。

「ゆっくりなんかしないから。ほら、もう着替えて。家に帰るよ」

「えー、もう帰るのか?」

「あんたまだ入院したいの?」

「ここ、居心地良い」

「入院だってタダじゃないんだからね。それにここじゃ友達とも遊べないでしょ」

「うー。無料とか有料はどうでもいいけど、遊べないのは確かに問題だぞ……」

 漫画雑誌をベッドに置いて、名残惜しそうに退院の準備を始める。湊が着替えている間に、昨日わたしが持ってきた服やゲーム機を片付けた。

 荷物をまとめて、湊と一緒に受付まで行って手続きを済ませる。

「あ……湊、ちょっとここで待ってて」

「任せろ!」

 湊と荷物を待合室に置いて、わたしは再び病棟に戻った。

 病室は分からなかったけれど、名前は知っていたので看護師に聞いて場所を教えてもらう。看護師に関係を尋ねられて、救急車で運ばれるときに付き添った者だと答えた。理由としては少し弱いかな、と思っていたが、看護師は疑うことなくわたしを案内してくれた。

 後藤有海。

 わたしの命を助けて、わたしに魔法少女の力を託した少女。

 看護師が立ち去るのを確認してから病室に入る。

 病室にはベッドが全部で四つあったが、埋まっているベッドは一つだけだ。

 ベッドの横に、伝三郎さんが座っていた。

 そばに近づくと、伝三郎さんは後藤有海を見上げたまま声を出した。

「もう用は済んだのか」

「うん……。後藤さんは、どうなの?」

「まだ意識が戻らない。だけど死んではいない」

 囁くように伝三郎さんが答える。

 ベッドの上では目を閉じた後藤さんが静かに寝息を立てていた。かつては彼女があの魔法少女に変身していたのだ。そう考えると「魔法少女」を通して、彼女とわたしがひとつの存在になったみたいな、不思議な気分になる。

「私はもう少しここにいる。先に行ってくれていい」

 伝三郎さんはそう言ったが、わたしたちは眠る後藤有海のことをしばらく一緒に黙って見つめていた。やがてそれも虚しくなってくると、わたしは伝三郎さんを残して黙ったまま病室を後にした。

 待合室に戻ると、湊は椅子に座って足をぶらぶらと揺らしていた。わたしの姿を見つけると椅子から飛び降りて駆け寄ろうとしたが、さっと椅子のところまで戻ると今度は荷物を持ってふらふらと歩きながらやって来た。

「いい子で待ってた?」

「待つのに良い子も悪い子もあるのか?」

「大人しく待ってれば良い子だよ」

「ふーん。変なの」

 それ以上考えるのが面倒になったのか、一言でバッサリと切り捨ててしまった。

 病院の外に出る。外はからりと乾いた晴天だった。日差しは強かったが、梅雨にはまだ早いようで、不快感はあまりない。ここからは歩いて駅に向かう。

 そのとき、病院の自動ドアを堂々と通って伝三郎さんが出て来た。人間の足元をさっと抜けて、わたしたちのところまで駆けて来る。

「わ! 猫だ!」

「伝三郎さん!」

「……知ってる猫なのか?」

 不器用な手つきで伝三郎さんを抱えようとしながら、湊が無邪気に質問する。伝三郎さんは体をよじって何とか湊の手から逃げ出そうとしていた。

「うん……お母さんの友達が入院してて、今預かってるの。その猫」

「それってここの病院?」

「どうして?」

 わたしは驚いて聞き返した。

「お見舞いに来たのかなーって。そんな顔してるもん」

 湊はわたしには一瞥もくれずに伝三郎さんの頭をぐりぐりと撫でた。

「湊には言ってなかったけど、しばらくその子はうちで預かることになったから、仲良くしてね」

「おおおー。よろしくな、伝三郎!」

 テンション高く挨拶して、伝三郎さんをさらにもみくちゃに撫でる。

 アパートに帰る道中、湊の興味は伝三郎さんに向きっぱなしだった。家に帰ってからもずっと伝三郎さんと遊んでいた。いや、あの場合は「伝三郎さんで遊んでいた」が正しいかもしれないけど。

 わたしは台所で昼食の準備をしながら、リビングの湊の様子を覗き見た。湊が伝三郎さんの顎の下を撫でながら話しかけている。

「でんざぶろー、気持いいかー? もっと撫でて欲しいかー? 猫じゃらしで遊んでやろうかー?」

 伝三郎さんが首を動かしてこちらを見る。彼と目が合う。猫なのでよく分からないけれど、困った顔をしているように見えた。

 わたしは笑いをこらえて料理に戻る。

 伝三郎さんが助けを求めるように「ニャァ」と鳴いた。

「そうかーでんざぶろー、お前も嬉しいかー。僕もお前がうちに来て嬉しいぞー」

 残念ながら、伝三郎さんの祈りは湊には届かなかった。

 今日のアルバイトはお休みをもらっている。湊も今日は学校を休ませている。平日の昼間に親子水入らずで過ごすのは久しぶりかもしれない。

 湊と昼食を食べながら、恋々ちゃんのお母さんが持ってきてくれた学校のプリントを眺めていた。他愛のない学級通信の中に授業参観の連絡が混ざっていた。

「湊、今度授業参観があるんだって」

「おー、あれか。みんな張り切るやつだな」

 答えながら、不器用な持ち方の箸でうどんを頬張る。

「湊は? お母さんが見に行ったら嬉しい?」

「来ないと寂しいけど、見に来ても別に嬉しくないぞ」

「見られると恥ずかしい?」

「授業参観には来るけど、授業は見ないで欲しい」

「じゃあわたし何しに行くのよ」

「そうだ、目隠しをするのはどうだろう」

「どうだろう、じゃないわよ。そっちの方がよっぽど恥ずかしいでしょ」

「目隠しをしてれば何も見えないんだから恥ずかしくはないぞ」

「あんたの恥の基準が分からんわ」

 湊にとって授業参観はマイナスの要素しかないらしい。湊は滅多に見られないお昼のテレビ番組に興味を移した。わたしたちのやり取りを、伝三郎さんは部屋の隅でキャットフードを食べながら見ていた。

 そういえばこのアパートはペット禁止なのだが大丈夫だろうか。ただの猫ではない伝三郎さんがみすみす他の住人に見つかるとは思えないが、湊が無邪気にあたりに言い触らす可能性はある。だとしても湊にはどう言い含めればいいんだろう。「ここでペットを飼うことはいけないことだから黙っていてね」というのは明らかに湊の教育によろしくないし。ううん、悩ましい。

 台所に戻って昼食の後片付けをしていると、伝三郎さんがわたしの足元に駆け寄ってきた。ちらりと湊の様子を気にしてから、普段よりもさらに小さな声でわたしに囁く。

「おい、片付けが終わったら街に行くぞ」

「あ、買い物?」

「何を言っている。魔法少女の責務を果たすのだ」

「……午前中に行ったじゃん」

「だからと言って午後は休んでいいというものでもない」

「今日は休もうよ。湊もいるし」

「そんなことを言っている場合ではない。今こうしている間にも助けを求める祈りの声が――」

「湊ー! 伝三郎さんがもっと遊んでって言ってるよー!」

「ちょっと待て! それだけは――」

「でんざぶろー! 僕も遊びたいぞ!」

 湊が駆け寄ってきて、伝三郎さんを乱暴に抱えて持って行った。湊の腕の中で伝三郎さんが恨めしげにわたしを見ていた。

 伝三郎さん、ごめん。でも動物と遊ぶのは息子の教育にも悪くはないはずだ。というのは、伝三郎さんにとっては何の慰めにもならないだろうけど。



***


 次の日から湊は学校に復帰した。同時に、わたしも魔法少女活動を再開した。

 朝、湊を学校に送ってから洗濯と朝食の後片付けをして、それが終わったら変身して街に出て人助け。お昼前には家に戻り早めの昼食を食べて、午後からはアルバイトへ向かう。夕方ごろにアルバイトから帰ってきて、湊が帰ってくるのに合わせて夕食の準備。夜、夕食の後片付けを済ませたら、湊を家に残してまた街に出て人助けをする。

 酔っ払って歩けないサラリーマンを家まで送ってあげたり、火遊びをしていた子供がボヤを起こしたのを消火したり、庭の花壇が枯れそうなのを元気づけたり……。とにかくまあ、困っている人というのはみなそれぞれ千差万別の理由で困っているものなのだ。

 おまけに助けたからと言って感謝されるとは限らない。助けてくれて当たり前だ、という態度の人もいたし、「なんでもっとうまくやってくれなかったんだ」と過大な要求をしてくる人もいた。魔法少女は人を助けるのが責務ではあるが、目的は人に感謝されることではないのである。そのせいか、魔法少女活動を終えて家に帰るころにはいつもくたくただった。

「しんどい……。ねえ、これ、いつまで続けないといけないの?」

「祈りの声がなくならない限り、魔法少女の責務に終わりはない。お前は魔法少女になったのだから、いい加減にその自覚を持って――」

「説教は聞き飽きた」

 不平不満を漏らすとすぐに伝三郎さんの説教が始まるのだ。仕返しとして湊にはたっぷり伝三郎さんを可愛がってもらうのだが、最近は湊に遊ばれるのも満更ではない様子に見えて、これはちょっとつまらない。

 今日は午前中にアルバイトのシフトが入っていた。なので、魔法少女活動は午後から始めることになった。

 いつものように何人かの人助けをしているうちに、もう夕方になった。そろそろ湊が学校から帰ってくる時間だ。

「待て、知里。このすぐ近くに祈りの声が聞こえた」

「もう帰らないと夕飯の準備が――」

「困っている人を見捨てて帰るのか?」

「……そういう言い方は卑怯だと思う」

 溜め息をついて五秒ほど考えてから、しぶしぶもう一仕事頑張ることにした。

 やると決めた後も、やめておけばよかったんじゃないかという疑いばかりが膨れ上がる。わたしの決断はいつもそんな感じだ。進路を決めたときも、夕飯のメニューを決めたときも。いつだって「そうしなかった自分の可能性」に付きまとわれるのだ。

 伝三郎さんが先に歩いて、わたしを祈りの声まで導く。

 道路の先に公園が見えた。この間、財布を失くした女の子を助けた公園だ。

 誰かが騒いでる声が聞こえる。近づくと、小学生くらいの男の子がダークグレーのスーツを着た男二人を相手に蹴るわ叩くわ噛み付くわの大暴れをしていた。一体何をやっているんだと思ってよく見てみれば、その男の子は我が息子である湊だった。

「ま、待ちなさい!」

 思わず声をかけると、公園にいた全員がわたしの方を見た。湊が「あっ」と声を漏らす。わたしの正体を悟られたのかとひやりとしたが、よく考えると湊は火事のときに魔法少女のわたしの姿を見ているのだ。

 公園には湊以外にも恋々ちゃんがいた。それともう一人、わたしの知らない女の子。クラスメイトだろうか。栗色の髪をツインテールにした、なかなか上品で賢そうな子だ。恋々ちゃんはその女の子を庇うように立っていた。足元には湊のランドセルが転がっていた。

「う――その子から離れなさい! 通報しますよ!」

 スーツの男たちを指さして、ビシッと宣言。二人は困ったように互いに顔を見合わせた。

 そのとき湊が、隙ありとばかりに男の脛を蹴る。

「あっ! こいつ!」

「動くな小僧!」

 もう一人の男が湊を捕まえようとするが、湊はするりとその腕をすり抜けて、今度は男の顔をビンタする。そうして、わたしの登場はまったくなかったことにされて、湊と大人二人の乱闘が再開した。

「湊! やめなさい!」

 思わず息子の名前を呼ぶと、湊は一瞬だけこちらを気にする素振りをした。しかし大人二人に捕まらないように逃げるのに必死で、わたしの言葉に耳を傾ける余裕もなさそうだった。

 伝三郎さんが呆れた口調で言う。

「駄目だな。誰も聞く耳を持たない」

「く――言うことを聞かないなら」

 わたしは伝三郎さんから教わったばかりの呪文を、おっかなびっくりつっかえつっかえ唱えた。

 詠唱が終わってから、水飲み場の水道の蛇口をひねる。蛇口から吐き出された水は、排水口に落ちる前に軌道を変えて、地面の上をくねりながら滑るように移動した。まるで蛇が動くように。

「ひっ、何だこれ」

 水蛇が足に絡みついてきて、男は声を上げた。スラックスの上を螺旋を描いて這い上がると、男の首にぐるりと巻き付いた。水蛇の先端がぱっくりと割れて、蛇の舌のような何かを覗かせた。

「おい、これ解いてくれ! き、気持ち悪い!」

 相棒に助けを求めたが、もうひとりの男は気味悪がって近づこうとしなかった。

 どんどん伸びていく水蛇の体がもう一人の男の腰を捉えたところで、わたしは水道の蛇口を閉じた。

 水蛇の体はだんだんと細くなり、最後には体を維持できなくなってただの水に戻った。男二人はびしょ濡れになって尻餅をつき、呆然とわたしの方を見ていた。

「ま、まだわたしに逆らうなら、また蛇を出すわよ!」

 ……思いっきり声が上ずってしまった。だけど効果は抜群だったようで、男たちは幽霊でも見たような顔で公園から飛び出して行った。

 それを見届けた途端、わたしは腰が抜けてその場に座り込んでしまった。

「なあ、もしかして……」

 湊がわたしに近づいて声をかけてきた。

 わたしは座ったまま湊を見上げた。自分の体が子供になっているせいか、湊がずいぶん大きく感じた。

「火事のときに助けてくれたよな? 箒に乗って空を飛んでた。僕、覚えてるぞ」

 覚えていた――。火事のあと、湊の口から魔法少女の話が出たことは一度もなかった。だからわたしは、あのとき湊には意識がなかったのだと思っていたのだ。

「あの……わたし……」

「あっ、伝三郎!」

 湊が伝三郎さんを見つけた。名前を呼ばれた途端に伝三郎さんの尻尾がピンと立ち上がった。条件反射のレベルで湊の声に恐怖を感じているのだろうか。湊がゆっくりとわたしの方に振り向く。

「どうして伝三郎と一緒にいるんだ?」

「それは……その……さ、さっき偶然会って、それで仲良くなったの」

「そっか。でんざぶろー、お前猫のくせに顔が広いんだな。額はこんなにちっちゃいのになー」

 我ながら苦しい言い訳だったが、湊は特に疑うこともなく伝三郎さんの頭をむにむにと揉んでいる。伝三郎さんには為す術もない。

「あれ? でもなんで僕の名前を知ってるんだ?」

「それは……わたし、魔法少女だから、聞かなくても分かるの」

「魔法使い?」

「魔法少女」

「何が違うんだ?」

「えーと、魔法少女は少女じゃないとなれない」

 まあ、わたしは少女じゃないけど。すでに「お姉さん」と呼ばれるのも厳しい年齢だ。

「ふーん。それじゃ、恋々のことも知ってるか?」

「もちろん。……こんにちは、恋々ちゃん」

 笑顔を作って恋々ちゃんに挨拶した。恋々ちゃんは胡散臭そうにわたしを見ながら軽く会釈を返す。口下手で引っ込み思案な子、という印象しかなかったが、こういう表情もするんだなと驚いた。

「もう一人のあの子は?」

 恋々ちゃんの後ろにいる女の子のことを湊に尋ねた。

「うーと、たしか月松つきまつ日和ひより。同じクラスなんだ。……魔法で分かるんじゃなかったのか?」

「一体何があったの? さっきの男の人は?」

 湊の質問を無視して事情を尋ねる。こいつの性格上、次の話題を出せば細かい部分にはいちいちこだわらない、と踏んでいた。

「うん。近くを歩いていたら月松があいつらに連れてかれそうになってたから助けたんだ」

「あの人たちは誰なの?」

「知らない」

「えっと、日和ちゃんの知り合い?」

「そうなのか?」

 湊がそのまま日和ちゃんに尋ねる。

 こいつ、事情も何も分からずにあんなことをしてたのか。呑気というか脳天気というか……。クラスメイトを助けようとした心意気は認めるけれど。一体誰に似たのだろう。少なくともわたしじゃなさそうだ。

 日和ちゃんはわたしと湊の質問にそっぽを向いて答えた。

「知らない。あんなやつら」

「やっぱり知ってるんだね。家の人?」

「だから知らないって言ってるでしょ!」

「じゃあ誘拐? それじゃ、警察に言ってあの人たちを逮捕してもらわないとね。すぐに通報しよう。いいよね?」

 わたしがそこまで言うと、日和ちゃんもさすがに狼狽え始めた。やがて言いにくそうに、呟くように本当のことを話す。

「……うちの執事」

「羊?」

 湊が聞き返した。

「シツジ!」

 日和ちゃんが大声で訂正するが、湊はピンと来ていないようだった。

「執事。日和ちゃんの家には執事がいるの?」

「え? う、うん。何かおかしいかしら?」

 ちょっと不安そうに日和ちゃんが聞き返す。執事がいる家なんてものがまさか同じ校区に存在するとは思わなかった。

「なあ、シツジって何だ?」

 湊の疑問には恋々ちゃんが答えた。

「あの、えっと、あのね、お家の手伝いとかしてくれる人だよ。掃除したり、お茶を出したり」

「家来みたいなもんか?」

「え? えっと、うーん、そうかな。代わりにあの人たちがみんなやってくれるの」

「奇特な人もいるんだな」

「そんなの、給料払ってるからに決まってるじゃない。誰がタダ働きなんかするのよ。金よ金」

 日和ちゃんは生々しいことを言った。

「それで、どうして執事さんが日和ちゃんを連れて行こうとしたの?」

 わたしが本題に戻すと、日和ちゃんは言いにくそうに答えた。

「……塾に行けっていうの。わたし、もう塾ばっかりは嫌なのに」

「塾?」

 湊がオウム返し。すかさず恋々ちゃんが補足する。

「えっと、あのね、学校じゃないけど勉強するところ」

「あのなー恋々、さすがに塾は知ってるぞ。今のは単に聞き返しただけだ」

「あぅ。ご、ごめん」

 恋々ちゃんは謝ったが、しかしそれは普段の行いのせいだと思うぞ、息子よ。

 そのとき、わたしのスカートの裾を伝三郎さんがぐいと引っ張った。

「これからあの子をどうするつもりだ?」

「どうするつもり、って……。塾に行きたくないのは分かるけど、だからってサボるのは感心しないよ」

「祈っていたのは、あの娘だ」

「そうなの? よっぽど遊びたかったんだね」

「何を呑気なことを言ってるんだ。あの娘は祈った。私たちはその祈りに応えなければ」

「つまりあの子が塾をサボるのを応援しろってこと? でもそんなの、あの子のためにならない」

「ためになるとかならないとか、そういうことではない。祈った当の本人がそれを望んでいないのだから。祈りが聞こえる者の使命とは――」

「あーはいはい分かりました」

 またお説教が始まりそうだったので大人しく従うことにする。

 湊たちの方を見たとき、わたしは自分の犯した大失敗に気がついた。湊たちは喋る猫を目の当たりにして言葉を失っていた。

「あっ、あの、ちが、くて、こ、これは……」

 何も違わない。弁解しようにも何も出てこない。

 しかし次の瞬間、湊は「すげー!」と叫んで伝三郎さんに飛びついた。

「すごいすごい! 伝三郎、お前喋れたのか! 猫みたいな口しやがって! ……なんで?」

 湊はキラキラした目でわたしに尋ねた。返事に困っていると、湊が勝手に推測する。

「もしかして、魔法?」

「………………その通りよ!」

 目を逸らして答える。しかし湊はそれで納得してしまったらしく、伝三郎さんをくしゃくしゃに撫でながら一方的に話しかけていた。湊以外の女の子二人はわたしと伝三郎さんを気味悪そうに遠巻きに眺めているだけだった。多分、あっちの反応の方が正しいような気がする。

「ええと、話を戻すけど。とにかく日和ちゃんは、今日の塾をお休みしたいわけね」

「……ま、そういうことね。でもあいつら、どうせすぐ連れ戻しに来るわよ」

「そしたらまたわたしが追い返すわ。わたし、魔法少女だもん。魔法少女は困ってる人の味方なの。わたしは日和ちゃんの味方だよ」

 自嘲を込めて言ったのだが、特に湊は純真な尊敬の眼差しをわたしに向けていた。

「じゃあ月松、一緒に遊ぶぞー!」

「え? な、なんで?」

「だって塾はサボるんだろ? じゃあ一緒に遊ぼう」

「え……だから、なんで? だって別に、あんたとあたしそんな仲良いわけじゃないでしょ」

「ふーん。でも『仲が良い』って、何だ? どういうことだ?」

「はあ? 馬鹿なの? 仲が良いってのは、教室でよく話したり、家に遊びに行ったりとかするものなの」

「仲が良くないと遊べないのか? どうして? 遊ぶと何かよくないことがあるのか? 誰かに怒られるのか?」

「普通は仲が良くない人とは遊ばないよ」

「普通って何だ? 月松も普通なのか? みんながそうだから月松も遊びたくないのか?」

「もう! さっきからごちゃごちゃうるさい! 知らないわよそんなこと!」

「……もしかして月松、僕と遊ぶのが嫌なの?」

 日和ちゃんは舌打ちした。だんだん表情が凶悪になっている。恋々ちゃんは二人を見ておろおろしていた。

 わたしはまったく気にならないのだけど、なるほど慣れていない人間には湊の人格はかなり厄介なものらしい。慣れるとすごく付き合いやすいんだけどな。と思うのは、我が息子に対する贔屓目だと思うけど……。親馬鹿め。

 湊と日和ちゃんはしばらく問答を続けていて、そしてわたしはそんな湊の様子が面白くてずっと意地悪く見物を決め込んでいたのだが、やはり先に折れたのは日和ちゃんだった。

「分かった、分かったわよ! 今日だけ! あんたに付き合ってあげるから。これ以上ごちゃごちゃ言わないで」

「えっと、恋々も……一緒に遊ぶ」

 恋々ちゃんが小さな声で自己主張する。

 湊が次に見たのはわたしだった。

「えーっと、魔法少女って名前はあるのか?」

「あんた魔法少女って何だと思ってるの」

「ふーん。僕は春島湊。少女さんの名前は?」

「わたしの名前……は……ア……アユミ。魔法少女アユミ」

「アニメのタイトルみたいね」

 日和ちゃんが悪意のない声で感想を言った。

 名前を聞かれて思わず「後藤有海」の名前を出しそうになったが、何となくそれはいけないことのような気がしてとっさに「アユミ」という仮名を名乗った。後になって考えてみるとそれは、今まで魔法少女として頑張っていた後藤さんの手柄を横取りするみたいで気が引けたからなのだと思う。……プラス、魔法少女の本名を勝手にバラすなんてネタバレ、マナー違反だ。

「それで、何して遊ぶのよ」

「公園で遊ぶ方がいいんじゃないかな。ここだと魔法も使いやすいし」

 あまり人目の多いところで魔法を使えば騒ぎになる。人前で魔法を使ってはいけないというルールがあるわけではなかったが、それにしたって節度は守らければならない。

 伝三郎さんの姿を探すと、彼はいつの間にかベンチの上に気持よさそうに寝そべっていた。石でも投げてやろうかと思ったら、耳をぴくりと動かして「ちゃんと起きてるぞ」とアピールしてきた。

「遊ぶったってこんな公園で一体何するのよ」

「それじゃ僕、将棋がやりたいぞー!」

「この公園のどこに将棋盤があるのよ」

「恋々、将棋のルール知らない……」

 恋々ちゃんが小さな声で言う。

 湊は腕を組んで考える仕草をした。男らしい苦渋の表情を見せる。

「だったら囲碁でいい」

「『だったら』じゃなくて、碁盤がないでしょうが」

「恋々、囲碁のルールも知らない……」

「大丈夫だぞ恋々、僕も知らないからフェアな勝負になるぞ」

「あっ、そうだね」

「いやどっちもルール知らなかったらフェアどころか勝負にすらならないじゃない。ていうか二人用ゲームじゃない囲碁って」

「石を四色使えばいいんじゃないか?」

「もうめちゃくちゃじゃない」

 湊は再び腕を組んで考える仕草をした。外側だけを見ると悩んでいるようにも見える。

「チェス」

「公園! チェス盤! 二人用!」

 日和ちゃんがキレた。



***


 缶蹴りをして遊ぶのにも飽きてくると、いつしかわたしたちはベンチやブランコに腰掛けて雑談にふけっていた。

「あんたたちって、普段何やってんの?」

 と、日和ちゃんが非常に抽象的な質問をした。何も考えていなさそうな湊が即答する。

「小学生」

「ふーんそうなんだ見えないわね、って違うわよ。そうじゃなくて、学校が終わった後とか。あんたたちは塾とかないんでしょ?」

「塾には行かないけどピアノは習ってるぞ」

「あんたが? ピアノ?」

 冗談だと思ったのか半笑いで聞き返したが、湊が真顔なのを見てすぐに表情を戻した。

「恋々も習ってるぞ」

「名切さんがピアノやってるのは……何となく分かるけど……あんたがピアノって……」

「月松はピアノ弾けないのか?」

「ヴァイオリンならできるわよ。茶道と書道もね」

「ふーん」

 湊は興味なさそうに返事した。

「ピアノ習うの、楽しい? 行くの嫌になったりしない?」

「楽しいぞ! 僕、ピアノの天才かもしれない」

「えっと、でも湊くん、ぜんぜん練習してないよね……」

 恋々が小さな声で突っ込む。

「天才だから練習しなくても良いんだよ」

「え、でも……湊くんの演奏って……」

「僕の演奏がどうかしたのか?」

「ううん、何でもない。本人が楽しいなら、それでいいよね」

 言いかけていた言葉を引っ込めて、恋々ちゃんは悟ったふうなことを言った。本人は楽しんでいるようだったが、湊に音楽が向いていないことは、親馬鹿なわたしでも認めざるをえないところだった。音楽の方が湊を嫌っているのだ。

「アユミは何か習ってるのか?」

 今度は湊がわたしに尋ねる。

「習い事は……レジ打ちとか」

「レジ?」

「あ、今のなし。えーと、料理とか得意だよ?」

「料理ならあたしもできるわよ。パパの知り合いのフランス料理のシェフから習ってるの」

「あと洗濯とか、掃除とか」

「そ、それって習い事……なのかなあ……」

「得意料理は何だ?」

「エビチリ」

「エビチリかー。僕の母さんみたいだな」

「ふ、ふーん。偶然だね」

 同一人物です。

「じゃなくて! あんたたちいっつも何して遊んでるのよ? 毎日ピアノの稽古ってわけじゃないんでしょ?」

「クラスの子と適当に集まってゲームしたりサッカーしたり色々だぞー。恋々も大抵一緒だな」

「ずっと不思議だったけど、あんたたちなんでずっと一緒なの? あんたも男子と遊ぶなんて……」

「ぇええ? だ、だって……恋々は……」

「恋々と遊ぶのは特に理由はないぞ。月松と遊ぶのもな」

「好きなの?」

「みんな好きだぞ」

 湊はストレートに即答した。日和ちゃんが赤面した。恋々ちゃんは顔を両手で隠して俯いてしまった。わたしも、これはさすがにちょっと照れる。他意がないことは、この場にいる全員が分かっていることなんだけど。

 わたしは公園の柱時計を見た。

「そろそろ六時だね。みんな、もう帰ったほうがいいんじゃない? お家の人が心配するよ?」

「何それ。オバさん臭いこと言うのね」

「う、うるさいっ。ほら、湊も恋々ちゃんも、帰るよ」

「あたしはどうするのよ」

 ちょっと不安そうに日和ちゃんが言った。

「今日の塾はサボったでしょ? 帰りなさい」

「……帰りたくない」

「でもそんなこと言っても――」

「帰りたくないの! まだ遊び足りない!」

 日和ちゃんは子供みたいに喚いた。いや、本当に子供なんだけど。

 どうやって日和ちゃんをなだめようか、それとも湊と恋々ちゃんを連れて強引に帰ろうかと悩んでいると、湊が腕を組んでうんうん唸り始めた。嫌な予感がした。湊が考え込んだときは大抵ろくな結論を出さないのだ。

「月松、今から僕の家に遊びに来るか?」

「はあああっ? な、何で?」

「帰りたくないんだろ? それに公園にずっといるとつまらないぞ。もう日が暮れるし」

「でも……いいの?」

「うちは母さんしかいないし、優しい人だから夜遅くまで居ても大丈夫だよ」

「駄目だよ、日和ちゃんのお母さんはどうするの。心配するでしょうが。……えと、湊のお母さんだったら絶対反対すると思う」

「なんでアユミがそんなこと言えるんだ?」

「……わたし魔法少女だから」

「便利なんだな、魔法少女って」

「とにかく今日は帰った方がいいって」

「でも月松は帰りたくないって言ってるぞ。魔法少女は困ってる人の味方じゃなかったのか?」

「本人の言うとおりにするだけが大切にするってことじゃないのよ」

 ゴホン、と伝三郎さんがわざとらしく咳払いをした。

 伝三郎さんが言いたことは分かっている。日和ちゃんの望みを叶えるのが今日のお仕事なのだ。畜生め。

「そ、そうだね。日和ちゃんが嫌がっているなら助けてあげないとね」

「なんか急に言ってることが逆になったぞ」

 湊のもっともな疑問にわたしは沈黙で応えた。

「恋々もアユミも来るだろ?」

「えっと、うん……行く」

「わたしはちょっと用事が……」

「え? でも、困ってる人を助けるのが魔法少女だって言ったのに……無責任じゃないか?」

「あー、違ったわ。用事は明日だった。うん。わたしは魔法少女だから、日和ちゃんが家に帰るまで責任持って見届けるよ」

 無責任、と言われると引っ込めない。魔法少女であることに誇りを持っているわけではなかったけれど、わたしが借りているだけの「魔法少女」の名前に泥を塗るような行動はしたくなかった。病院で意識不明の後藤さんに申し訳が立たない。

 伝三郎さんがわたしの足元から顔を向けずに小声で話しかけてきた。

「おい、どうするつもりだ。分身の術はないぞ」

「し、しょうがないでしょ……あんただって、魔法少女が無責任なんて評判、立ててほしくないでしょうが」

「世間の評判など無関係だ」

「……それなら今度から思いっきり態度の悪い少女になってやる」

「それはやめてくれ。情けない」

 ランドセルを担いだ湊が、日和ちゃんと恋々ちゃんを連れて公園を出て行くところだった。立ち止まってわたしに手を振る。わたしが来るのを待っているようだ。

「ま、待ってー。今行くからー」

 笑顔で手を振り返して、湊たちのところへ駆け寄る。精一杯無邪気に振る舞ってみたものの、声は嘘臭いし笑顔もひきつっていたし、今にも化けの皮が剥がれそうだった。

 公園からアパートまで湊が意気揚々とわたしたちを先導する。

 部屋の前まで着いて、鍵がかかっているのを確認すると、湊はランドセルのキーホルダーから鍵を引っ張り出した。

「おかしいなあ。いつもならこの時間には帰ってきてるのに」

 そうだ。いつもなら湊が帰ってくる前には、魔法少女活動を終えて夕飯の準備をしているはずだった。

「いらっしゃい。くつろいでもいいぞ」

 玄関にランドセルを放り投げて湊が廊下を走って行った。

 恋々ちゃんと日和ちゃんは、大人が不在なのを分かっていてもちゃんと「お邪魔します」と言って家に上がった。靴もちゃんとひっくり返して揃えている。

 育ちの差が出ているようで情けない。湊が放り投げたランドセルをいつものように部屋まで持って行こうとして、魔法少女アユミがそれをするのはものすごく不自然だと思い直した。もどかしさを感じながらも、玄関に脱ぎ散らかされた湊の靴とほったらかしのランドセルをそのまま残した。

 湊は真っ先に居間へ行ってテレビをつけていた。

「ふーん。小さな家ね」

 悪意のない声で日和ちゃんが言う。大きなお世話だ、と言い返したかったが、きっと日和ちゃんの家と比べたら大きさでは勝てないだろうし、言うだけ惨めになるだけだ。そもそも今のわたしは春島知里じゃなくて魔法少女アユミだ。

 湊はテレビの前にどっかと陣取って、来客を無視してテレビのチャンネルを次々に切り替えている。恋々ちゃんは部屋の隅に遠慮がちにちょこんと座った。

 日和ちゃんは何かを探していたようだったが、ためらいがちにカーペットの上に腰を降ろす。ひょっとすると日和ちゃんは座布団を探していたのかもしれない。さすがお嬢様だ。

 わたしもその隣に座る。伝三郎さんは台所でごろんと床に転がっていた。

 一通りチャンネルを見て満足したのか、湊はリモコンをテーブルに放り出してわたしたちに向き直った。

「何して遊ぶ? ゲームはどう? スマブラする?」

「何それ」

 怪訝な顔で日和ちゃんが聞き返す。

「ゲームして遊んだことないの?」

「うん、ない……名切さんも?」

「えっと、あの、恋々は……いつも湊くんと遊んでるから……」

「あんたは?」

 日和ちゃんはわたしを見た。ゲームは湊に付き合って何度かやったことがある。旦那が学生時代にゲームばかりやっていて、それに付き合っていた時期もある。

 わたしが頷くと、日和ちゃんは悔しそうに口を結んだ。

「……やる?」

「やる!」

 湊は嬉しそうに、テレビ下のラックからゲーム機を引っ張りだした。

 それからしばらくの間わたしたち四人はゲームをして遊んだ。コントローラーは二つしか買っていなかったので交代しながら遊ぶしかなかったけれど。そしてまずは日和ちゃんへのゲームのルールと操作の説明から始まった。

 当然、日和ちゃんはわたしたちの中で一番下手だったが、ムキになって何度も湊に勝負を挑んでいた。湊も嫌な顔ひとつしないで勝負を受けていた。もちろん、手加減もしなかったけれど。

 そして意外なことにゲームが一番上手かったのは恋々ちゃんだった。

「意外だなあ。恋々ちゃん、ゲームよくするの?」

「えっと、そうなの。練習したの」

「前は僕の方が上手かったんだぞ」

 湊が憤慨したように言うと、恋々ちゃんは笑って答える。

「う、うん……湊くんがこのゲームで遊びたいって言ったから」

 だから練習したのか。涙ぐましい健気さだった。しかし湊は何も思わなかったらしく、相変わらず画面に集中してコントローラーを強くガシャガシャと動かした。画面の中では為す術もなく恋々ちゃんのキャラに手玉に取られていた。恋々ちゃんは笑顔のまま、容赦なく湊のキャラをボコボコにした。

 一時間ほど遊んで、わたしたちはゲーム機の電源を落とした。

 ゲームを辞めようと主張したのは意外にも湊だった。ただしゲームに飽きたのではなく、空腹で気が散って楽しく遊べなくなったのだ。

「……遅い」

「あぅ。あ、ご、ごめん。急いで片付けるね」

 恋々ちゃんがコントローラーのケーブルを結んでテキパキと片付け始めた。ラックにゲーム機を戻す。

「ちょっと、あんた手伝いもしないで文句ばっか言ってんじゃないわよ」

「違うぞ。僕が遅いって言ってるのは母さんだよ。この時間になってもまだ帰って来ないなんておかしいぞ」

「べ、別に遅いなら遅いで、すぐ帰って来なくても、いいんじゃない?」

 日和ちゃんは現金なことを言った。まあそりゃ、家に帰りたくない日和ちゃんにとっては、わたしは帰って来ない方がいいんだろうけど……。

 しかし湊は日和ちゃんの言葉が耳に入っていない様子だ。立ち上がると腕を組んだり解いたりしながら、部屋の中をそわそわと歩き始めた。

「こんなこと今までなかったのに……」

「心配しなくてもいいんじゃない? ほら、仕事が遅れてるとか。忙しくて電話する暇もないんじゃない?」

 と言ったのはわたしだ。湊を不安にさせまいと思って言ったことだったが、何も知らないはずのアユミがこんな気休めを言ったところで何の説得力もない。

「そうだ! アユミ、魔法を使って母さんに何があったのか教えてくれ!」

「ええっ? 魔法で?」

 部屋の隅で眠そうに丸まっていた伝三郎さんを見た。ふい、と伝三郎さんは顔を背けた。それ見たことか、という言葉が聞こえてきそうな態度だった。なんて猫だ、後でたっぷり可愛がってやる。いや、湊に可愛がらせてやる。

 このままだと湊が何をするか分からないし、ずっと心配させるのも可哀想だ。湊を安心させるには「わたし」の姿を見せるしかない。

「――分かった。それじゃあわたしが魔法でお母さんを探してくる。だからみんなはしばらくここで待ってて」

「うん。分かった」

 湊はしおらしく頷いた。

 わたしは急いで家を飛び出すと、念のためしばらく歩いてアパートから離れ、何度も慎重に人目を確認してから変身を解く。

 魔法の不思議な原理で、さっきまで着ていたアユミの服は跡形もなく分解され、代わりに変身前までわたしが着ていた服がそのまま戻った。

 今日は長時間アユミの体で活動していたせいで歩くとかなりの違和感があった。視点の高さと歩幅の長さが気持ち悪い。アパートに戻るまでの数百メートルで念入りに体の勘を取り戻した。

「――ただいま」

 あまり不自然にならないように、ちょっと沈んだ感じのトーンで家に帰った。

「あ! おかえり!」

 湊が大声で返事をして玄関に出てきた。いつもと変わらない出迎えだった。さっきまでわたしのことを心配していた素振りも見せない。

「ごめんね。……仕事が遅くなって」

「あ! 友達が来てるぞ! 恋々と月松って子」

「あ、そうなの。……いらっしゃい」

 居間に顔を出して二人に挨拶する。恋々ちゃんと日和ちゃんは余所余所しい感じでわたしに頭を下げた。日和ちゃんはさっきまでとはうってかわって、わたしの前では借りてきた猫みたいに大人しくなっていた。

「ほんとはもう一人、アユミがいたんだけど……あ、そうだ! そのアユミってやつ、母さんを探しに行ったんだぞ。外で会わなかった?」

「え? ……ううん、会ってない」

 少し考えて答えた。会ったと答えれば、ではどうしてアユミは一緒に戻って来なかったのかを聞かれることになる。

 しかし湊は、腕を組んで唸り始めた。

「おかしいぞ……アユミは魔法使いですぐに母さんを見つけられるはずなのに、まだ戻って来ない……母さんが先に戻ってくるなんて……。もしかして何かあったんじゃ――」

「あー! それならわたしが探してくるわ! 湊は家で待ってて! ね、恋々ちゃんも日和ちゃんも」

「は、はい」

 恋々ちゃんが呆気にとられたように頷いた。

 湊がまだ何か騒いでいたが、それを無視してわたしは家の外に出た。

 さっきと同じようにしばらく歩いてアパートから離れる。ポケットからブローチを出して、魔法少女アユミに変身した。

 すぐにアパートに戻った。ドアを開けた途端、湊が玄関まで走ってきた。

「そこで湊のお母さんに会ったよ」

「アユミ、無事だったんだ! ……で、母さんは?」

「えーと、もうすぐ帰ってくると思う。それでね湊、わたしちょっと用事を思い出したから、もう帰らないといけないの」

「帰る? 家に?」

「え? う、うん」

「魔法少女にも家があるんだな」

 魔法少女を妖精か何かと勘違いしてるのかこいつ。

「あんた、もう帰っちゃうの?」

 奥から日和ちゃんと恋々ちゃんが出てきた。日和ちゃんの言葉には不安の音色が混ざっているような気がした。

「わたしが帰ると寂しい?」

 からかい半分にそう言うと、日和ちゃんは顔を赤くしてわたしを睨んだ。

「嘘だよ。ごめん。……でもね、もう帰った方がいいと思う。日和ちゃんのお母さんだって、日和ちゃんが帰って来ないと不安になると思うの」

 わたしは湊の方を見た。日和ちゃんも、わたしの言いたいことは分かってくれたはずだ。恋々ちゃんも頷いている。湊だけがのほほんとした顔でわたしたちのやりとりを見ていた。

 やがて日和ちゃんは、ふてくされたような声で言った。

「……あたしも帰る」

「うん。それがいいと思う。帰るときはお家の人に迎えに来てもらった方がいいよ。外はもう暗いしね。お家の電話番号は分かる?」

「アユミは? 一人で帰るの?」

「わたしは魔法少女だから。助けは要らないよ。一人で平気なの」

「また会える?」

「日和ちゃんが助けを求めたら。いつでも飛んで行くよ。湊も、恋々ちゃんもね」

 三人が素直に頷く。

 ばいばい、と手を振って、わたしは家を出る。

 何度も振り返って見られていないことを確認する。面倒だったのでアパートのすぐそばで変身を解いた。すぐに引き返すと、階段を駆け上がって玄関まで戻る。行ったり来たりを繰り返したせいで息が上がっていた。

「ただいま。アユミちゃん、まだいる?」

「もう帰ったよ」

「あらー、そう。残念ね」

「……あたしも帰ります。あの、電話貸してください」

 日和ちゃんが申し出た。わたしは笑顔を我慢して、電話の場所まで日和ちゃんを案内した。

 日和ちゃんが家に電話をかけてからほんの数分で家の人がやって来た。チャイムが鳴り、玄関を開けるとスーツの男が立っていて思わず身構えた。よく見ると、公園で湊を襲っていた執事の男だった。

 日和ちゃんが玄関で靴を履くのを、湊と恋々ちゃんが並んで見送る。

「また、学校でね」

 湊が脳天気な声で言った。日和ちゃんはなにか言い返そうとしたように見えたが、執事の男を気にしたのか口をつぐんだ。代わりに、もっと破壊力のあることを言った。

「じゃあね、湊。……いいでしょ、あんたのこと湊って呼んでも。あたしのことも日和って呼びなさいよ」

「なんで?」

「だって」上目遣い。頬が赤くなっていた。「嫌ならいいけど」

 おお、と湊が嬉しそうな声を漏らす。

「日和日和日和!」

「連呼するな! ……ごほん。じゃあね湊。あと恋々も」

「あぅ。う、うん。ばいばい、日和ちゃん」

 恋々ちゃんは、湊ほどは嬉しそうには見えない。むしろちょっと泣きそうな声だ。嬉しそうに手を振る湊と笑顔の日和ちゃんを交互に見て何か言いたそうにしている。

 がんばれ、恋々ちゃん。日和ちゃんは手強いぞ。



***


 日和ちゃんと恋々ちゃんが帰った後、湊からさんざん魔法少女アユミの活躍の話を聞かされて大変だった。しかも湊はいちいちわたしにコメントを求めてくるものだから、ボロを出さないよう受け答えするのにずいぶん神経をすり減らした。

 わたしは、なぜ火事の直後にアユミのことを話さなかったのかとさり気なく湊に尋ねた。

「だって夢だと思ったんだ。病院の人も母さんも、アユミのことを何も言わないから。公園でアユミに会って、やっと夢じゃないって確信したんだ」

「じゃあ確信するまでは秘密にしてたんだ」

「そうだよ」

 平然と答えた。当然とばかりに。

「他にも秘密にしていることはある?」

「ないよ」

 即答する。

「あ! そうだ、これ知ってるかー? 実は伝三郎って喋れるんだぞ? なー、でんざぶろー」

「ふふふ、知ってるよ」

「あれ? 何で知ってるんだ?」

「お母さんは何でも知ってるのよ。ねー、伝三郎さん」

「……そうだな」

 伝三郎さんがぶっきらぼうに答えると、湊は目を丸くしてわたしを見た。

「すごい! 魔法少女みたい」

 湊の言葉にどきりとした。ちょっと遊びすぎたかもしれない。とはいえ、母親として、少しは良いところを湊に見せたかった。

「でんざぶろー、お前どこから声を出してるんだー? 猫なのに人間の声が出せるってすごいなー。実は猫ってみんな喋れるのか?」

「……細かいところは気にするな」

「人間の言葉が喋れるってことは人間みたいに考えたりできるってことだよなー。でんざぶろーは頭もいいんだなー。他の猫と話したりするのかー? 他の猫も実はみんな頭が良かったりするのかー? そもそも他の猫と話が通じるのか? 猫って普段どんなことを考えてるんだ?」

「う……それは、だな、その……」

「湊、伝三郎さんは遊んで欲しいみたいよ」

「おー! でんざぶろー!」

 湊が伝三郎さんをもみくちゃにして撫で始めた。伝三郎さんは猫みたいな悲鳴を上げた。

 翌朝、湊が学校に行ったのを見届けて、朝食の片付けと洗濯を済ませた。家事に一段落がついたところで、いつものように魔法少女の活動を始めた。

 ブローチの力で変身して伝三郎さんと一緒に外に出る。ずいぶんと慣れたもんだ。

「今日はどこのどいつが祈ってるわけ?」

「フーッ!」

「もう失せ物探しは嫌だなあ」

「フーッ!」

「できれば魔法で一発で解決できるような祈りだったら楽でいいんだけど」

「フーッ!」

「……悪かったって伝三郎さん。でもああしなきゃ湊に色々聞かれて大変だったでしょ。あれでもかなり勘の鋭い子なんだから」

「別に、私はお前の正体が暴露されても構わん」

「わたしが構うの! 大体、正体がバレたら魔法少女活動なんてやらないよ。そんな、三十にもなって少女だなんて。それに湊にバレるだけならまだしも他の人にバレたら大騒ぎになるよ」

 これまでも魔法を使うときはなるべく人目を避けるように気をつけている。特に大人の見ている前は、危ない。直接魔法を見られたのは火事のときと公園で湊を助けたときくらいだ。

「そういえば後藤さんはどういう風にやってたの? 正体がバレそうになったことは?」

「有海は堂々と魔法を使っていたぞ。堂々としていれば意外と騒ぎにならないのだと言っていた。私としては騒ぎになろうと隠れてやろうと、祈りに応えるのならどちらでも構わない」

「だろうね。ていうか後藤さんて結構大胆なんだ。……それで、今日の祈りは? どこの誰が何を祈ってるの?」

「私は祈りの声が聞こえるだけだ。祈りの内容や、祈っている人物のことは分からない。それは魔法少女の仕事だ」

「はいはい」

 ピンと尻尾を立てながら、細やかなリズムで伝三郎さんが歩く。

 線路を越えて坂を登り、普段は滅多に来ないような、高級住宅街へと入っていく。坂を登っていくにつれて、そばの車道を通る自動車が高級外車ばかりになる。家と家の間隔が広がり、あたりは驚くほど静かだった。道路の脇に広がっていた森林は、最初は公園だと思っていたのによく見れば住宅の庭だった。

 伝三郎さんの四本足が止まった。彼が向いている先にはレストランのような立派な門柱があった。

「え、ここ?」

「この先だ」

 勝手に中に入っていいものか悩んだ。人を呼ぼうにも門柱には呼び鈴がない。仕方がないのでおそるおそる中に入る。

 白い砂利道の先にはマンションみたいな大きさの灰色の建物とドアが見えた。ドアの横にはちゃんと呼び鈴がついている。

「この家の中?」

「うむ。今も聞こえる。館の主だ」

 背を伸ばして呼び鈴を押そうとすると、伝三郎さんの声がそれを妨げた。

「待て。館の中じゃない。……庭にいる。こっちだ」

 伝三郎さんはわたしの返事を待たずにドアの横へ走って行った。仕方なくわたしも追いかける。

 建物の外側をぐるりと回る。そこには和風の庭が広がっていた。建物の方を見ると、掃き出し窓を開けた状態で廊下の縁に女性が腰掛けている。サンダルを履いた足を庭の靴脱石の上に降ろしていた。女性の雰囲気に、なぜか覚えがあった。

「猫。迷い込んだのか?」

 足元にちょこんと座った伝三郎さんに話しかけていた。台本を読み上げているみたいな抑揚のない喋り方だ。

 やがて女性がわたしの存在に気づいて顔を上げる。

「……あなたの猫?」

「そうです。でもわたし、猫を探しに来たわけじゃないです」

「『猫を探しに来たわけじゃない』。そう、それじゃあ何を探しに来たの?」

「その、困っている人がいるような気がして」

「『困っている人』」

 女性が復唱した。

 伝三郎さんが振り返ってわたしを見る。首でこの人だと示した。

「あの、何か困ってること、あるんじゃないですか?」

「ないこともない。私はいつも困っているから。『困っている人』……私を探しに来たのか?」

「多分……そうです」

 変な人のところに来てしまった、とわたしは思った。いきなり家に来て「困っていることありませんか?」なんて言ってくる変な少女に対して真剣に返事をしている時点でかなりヤバい。

「どうしてわたしが困っていることが分かった?」

「あの、魔法で」

「『魔法』。驚いた」

 ぜんぜん驚いてるように聞こえなかった。

「私には娘がいます。でもその娘が言うことを聞いてくれません。具体的に言うと習い事をサボって遊びに行ってしまいます。今日はお琴の教室があるのに」

「なんで敬語?」

「困った。娘には才能と時間と可能性があるのにそれを空費してしまっている。このままでは私のような何もない大人になってしまう。ああ困った」

 困った困った、と繰り返して強調した。

 わたしはある可能性を思いついて女性に質問する。

「あの、失礼ですけど、あなたの名前は?」

「『名前』。月松直弓といいます。表札、見なかったの?」

「娘さんの名前って……日和ちゃん?」

「『日和ちゃん』。それは私の娘の名前ね。あなた、日和のお友達?」

 月松さんは平坦なトーンでそう聞いてから、今さらわたしに愛想笑いを浮かべた。

 笑うのが下手くそな人だった。



***


 もしやと思い昨日の公園に行ってみると、そこには湊と恋々ちゃん、それに日和ちゃんの三人がいた。今日は準備良く、バスケットボールを使って遊んでいる。

 わたしが公園に入ると湊が真っ先に気づいた。

「アユミ!」

 ボールを放り投げて犬のように駆け寄ってくる。頭を撫でたくなるのを我慢した。

「今日は別に助けなんて呼んでないんだけど」

 日和ちゃんはそっけなく言ったが、口元がちょっと笑っていた。日和ちゃんからの好意を感じつつ、わたしはそれを裏切ることを言い出そうとしていた。

「日和ちゃん。今日は習い事は?」

「え、何?」

「今日もサボったの?」

「……だから何よ。助けてくれるんじゃないの?」

「日和ちゃん、家に帰って。今日は琴を習う日でしょ?」

「なんであんたが知ってるの。……あんた、ママに会ったわね?」

「お母さんだって心配してるんだから、早く帰りなさい!」

「ちょっとアユミ、日和は嫌がってるんだぞ」

「嫌でもやらないとけないことがあるの!」

「ええっ。なんか、昨日と言ってることがぜんぜん違うぞ」

「う、うるさい。嫌なことから逃げてばかりじゃろくな大人になれないんだよ。大人になったら、嫌なことがいっぱいあるんだから」

「しっかりした大人だったら嫌なことをしなくてもいい方法を探すと思うけど」

「逃げ切れないこともあるの」

「逃げ切れないこともあるから逃げないって、本末転倒だぞ。それに、大人の世界が嫌なことばかりだからって、子供も嫌なことをしなきゃいけない理由にはならないぞ」

 なんて理屈っぽいんだこいつは。

「嫌なことでも今我慢してやっておけば、将来嫌なことをしなくても済むようになるのよ。習い事も塾も、我慢して続ければきっと将来の役に立つから」

「なんかアユミ、母さんみたいなこと言ってる……」

「そ、そうかしら?」

 何のことか分からなかったが、そういえばピアノを習わせたきっかけも似たような理由だったような。

「大体、『役に立つ』って何だ? 何の役に立つんだ?」

「その、人生の」

「人生の目的って何だ? 幸せになることか? 塾に行くと幸せになれるのか? 今は不幸なのに?」

「えっと、えっとね、恋々も」恋々ちゃんが、おっかなびっくりという調子で、わたしと湊の会話に入ってきた。「嫌がるのを無理やりやらせるのは、よくないと思う……」

 伝三郎さんが「おい、どうするんだ」という顔でわたしたちのやりとりをじっと見ていた。どうすればいいのかなんて、わたしの方が聞きたい。

「う、うるさーい! とにかく、今すぐ家に帰りなさい!」

「……いつでも助けてくれるって言ったのに」

 日和ちゃんは拗ねた口調で言った。

 さすがにちょっと罪悪感がある。もっと派手に怒ってくれた方がまだ気が楽だった。だけど、日和ちゃんに勉強させたい月松さんの気持ちも、わたしは分かる。

「……日和ちゃんが遊びたいのと同じくらい、日和ちゃんのお母さんも日和ちゃんに勉強して欲しいんだよ」

「知らないわよそんなこと! そんな勝手なこと……迷惑なのよ」

「そうだよ。勝手なことだよ。でも日和ちゃんが習い事をサボるのも、勝手なことなんだよ。どっちも正しいの。……だから、行きたくないのならお母さんを説得しなきゃ駄目なの。お母さんのことを無視するのは、良くないよ」

「……ママなんて、あたしの言うことぜんぜん聞いてくれないもん」

「それでも、だよ。諦めたら、この後もずっと逃げ続けないといけないよ? わたしが助けに行くのをずっと待ってるつもり?」

「助けてくれるって言ったのに」

「助けてるよ。これがわたしの助け方なの」

 日和ちゃんは押し黙った。

 次の言葉をずっと考えているようだった。だけど、答えは最初から決まっているようにも思えた。

「……もう一度ママと話し合えばいいんでしょ」

「困ったときは、いつでも助けに行くから」

 日和ちゃんはそっぽを向いた。どんな顔をしているのか、わたしの方からは見えない。

 その日の夕方、家に帰ってきた湊はわたしに何も言わなかった。何も言わなかったが、いつもよりもぶっきらぼうに見えた。

 そんな湊に対して『春島知里』がかけられる言葉は何もなかった。



***


 すっかり忘れていたのだが、翌日は湊の学校の授業参観の日だった。

 精一杯お洒落な服を来て、口紅を引き化粧を塗りアクセサリを選び湊の学校へ向かう。校舎の中に入る前に少し躊躇があった。大人のわたしが小学校の中に入るのは何か大きな間違いを犯しているような後ろめたさがある。

 校内に入り、湊のクラスを探す。授業はもう始まっている様子だった。教室を見つけ、扉を開けて中に入る。教室の後ろ側に保護者がずらりと並んで立っていた。わたしも同じように、保護者の列の一番端っこに立った。

 わたしは、湊のクラスメイトのお母さん方にはほとんど面識がない。PTAの集まりにも、何だかんだと理由をつけて欠席していた。保護者の列の中で、わたしが馴染みのある顔は恋々ちゃんのお母さんだけだった。

 名切さんはわたしに気がつくとささっとそばに寄ってきて隣に並んだ。授業の邪魔をしないように小声で話しかけてくる。

「春島さん、こんにちはー。素敵なお洋服ね」

「五千円です。名切さんも似合ってますよ」

 怪訝な顔をしたが、途中で深く考えるのはやめたらしく、授業を見るのに顔を正面に向けた。

 名切さんは目の粗いチェック柄のワンピースを着ていた。チェックを構成するモノトーンの中に走る紫のラインが全体の印象を引き締めている。襟元のボタンは外され、胸元には銀色の控えめなネックレスが覗いている。

 一万円くらいかな。

「あ、春島さん、湊くんが気づいたみたいよ」

 名切さんに言われて、初めて湊の姿を教室に探した。湊は一見すると真面目に授業を受けているようだったが、背後にいるわたしのことをずっと気にしているようだった。先生の隙を見つけてはこちらに振り向いて、一瞬だけわたしを見てすぐ黒板に向き直る。

 しかし授業に集中できていないのは湊だけではなさそうだった。他の生徒を見ても、やはり背後に並んだ自分の親のことを意識しているように見える。恋々ちゃんも、授業と母親の間で顔を赤くしながら恥ずかしそうに縮こまっている。

 その中で気を散らすことなく堂々と正面を向いている女の子がいた。日和ちゃんだった。

「名切さん。日和ちゃんって子、知ってる? 月松日和ちゃん」

「ああ、あの子ね。知ってる知ってる」

「有名なの?」

「恋々と仲がいいかは知らないけどね。ほら、親御さんが有名な方だから」

「会社社長とか?」

 月松さんの家を頭に浮かべていた。普通のサラリーマンの稼ぎでは、そうそうあんな家には住めないだろう。

「社長じゃないけど、貿易会社の役員だって。すごいよね。高給取りなんだって」

 そのとき教室の扉が開いて日和ちゃんのお母さんが入ってきた。堂々とした歩みで教室の後ろに立つ。

 上品な光沢感のある黒い生地のドレスに、グレーのストライプの入った帯をウエストに巻いていた。さらにその上から七分袖のベージュのジャケットを合わせている。ジャケットはウエスト部分から裾が広がったタイプで、袖のスリットや縫い代など、細かな部分のデザインに特徴があった。

 五万円くらいかな。

「噂をすれば何とやら、ってね。あの人が月松さんだよ」

「『影がさす』」

「え?」

「『噂をすれば影がさす』」

 わたしは授業に意識を戻した。

 湊は授業を通してずっと空回りしている様子だった。先生の質問に積極的に答えている割には正解率が伴っていないように見える。

 授業が終わると、保護者の列がぞろぞろと廊下に移動する。

 その合間を縫って前に進み、勇気を出して日和ちゃんのお母さんに話しかけた。

「こ、こんにちは」

「『こんにちは』……。それとも『はじめまして』の方がいいでしょうか」

 月松さんは、わたしがアユミの姿で会ったときと同じ話し方で答えた。

「それじゃあ『はじめまして』。春島といいます。あの、うちの湊がいつも日和ちゃんのお世話になってます」

「私が世話をしているわけではありませんから。それは日和に言うべきでは?」

 どうもこう、会話が噛み合わない人だ。

「もう帰りますよね? ご一緒してもいいですか?」

「どうぞ」

 お許しが出た。

 振り返ると名切さんが困惑した表情でわたしたちのやりとりを見ていた。わたしが手招きすると遠慮がちに近づいてくる。名切さんと月松さんにお互いを紹介したが、どちらもピンと来ていないようだった。それはそうだ、お互いにこれまで何の接点もなかったのだから。

「うちの湊が、一昨日くらいに日和ちゃんと仲良くなったらしいんです」

「そうですか」

「公園で仲良くなったらしいんです。あの、そのとき、湊が月松さんの家の方に、その、乱暴をしたみたいで」

「『月松さんの家の方』……ああ、執事ですか?」

「はい。その節はすみませんでした。湊にはきつく叱っておきます」

「乱暴されたのは私ではないので、私に対する謝罪は不要です」

「そうですか……」

 会話が途切れた。

 どうやって切り出そうか、しばらく悩む。しかし余計な導入部なんて不要だと気がついた。今気づいたけれど、それがこの人の魅力でもあるのだ。

「わたしが子供だったころを思い出してみると――」

「何ですか?」

「ただの昔話です」わたしは笑顔で答えた。「わたしが子供だったころを思い出してみると、親に無理やりやらされたこととか、やってて楽しくなかったことって、すぐに忘れてしまうんです。でもやってて面白かったこととか、少しでも興味があったことはいくつになっても覚えているんです。と言っても、演奏したり字を綺麗に書いたり踊ったり勉強したり……子供のころに教わったことって、大人になってからは、役に立たないことばかりですけど」

「何を言いたいのですか?」

「でも、楽しいと思えることに出会えて、何かに一生懸命打ち込んだことは絶対に忘れないし、そのことがずっと自信につながるんだと思うんです。プロになるわけじゃないのなら、勝ち負けにはそれほど意味はありません。でも頑張れたか、頑張れなかったか……その違いはとても大きい気がします」

 月松さんは何度か素早くまばたきを繰り返した。ゆっくり時間をかけてから、一切の遠慮なくわたしに問い返した。

「春島さんは、頑張れましたか?」

「……いいえ。だから、今頑張ってます」

「そうですか。良かったですね」

「大変ですけどね」

「私は……頑張りましたが、駄目でした。駄目なまま大人になってしまいました。日和にはそうなって欲しくないのです」

「月松さんは駄目じゃないですよ。絶対に違います。日和ちゃんのことを思って何かをしてあげられる、立派な母親です」

 校門に着いた。道路の向かい側には、普段は教職員用に使われている駐車場がある。

 月松さんは立ち止まると、わたしたちに小さく頭を下げた。

「私は車で帰りますが、送って行きましょうか?」

「あ、いえ。大丈夫です」

「そうですか」

 あっさり引き下がった。この人相手には遠慮も謙遜も意味がない。

「では私はこれで。貴重な話をありがとうございました。それでは、名切さんと……師匠」

「はい。お気をつけて。……ん?」

 師匠? と聞き返す前に、月松さんはさっさと駐車場の方へ行ってしまった。

「師匠? 春島さん、師匠なの? 何の?」

 名切さんはわたしよりもさらに混乱しているようだった。


 その後、湊から聞いた話では、日和ちゃんとお母さんとの間に長い話し合いが行われ、その結果日和ちゃんは習い事の数をぐっと減らしてもらえたらしい。その代わりにもうサボったりしないと約束したという。これからは日和とたくさん遊べるぞ、と湊は喜んでいた。

 それからもう一つ。

 本人の希望で、日和ちゃんは新しくピアノを習い始めたらしい。

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