30歳から始める魔法少女

叶あぞ

第一話 運命の夜

 母親になり、三十になったわたしは、自分でも驚くほどまだ子供だった。中学生だった自分、高校生だった自分、旦那と付き合い始めた自分、旦那と結婚した自分、息子を授かった自分――すべてが地続きで、わたしという存在は緩やかに時間に流されてここまで来た。

 世間はわたしのことを「立派なオトナ」だと見るだろうけど、わたしは自分が大人であるということが未だによく分からなかった。朝起きて学校に通っていたころのわたしと、結婚して子供を産んだ今のわたしとの間に、子供から大人に切り替わった決定的な瞬間はなかったように思う。

 だからわたしは、あのころと同じように、今でも自分の劣等感と戦っている。

 今日も午後はスーパーでレジ打ちのアルバイトだった。半日で三回も打ち間違えた。自己嫌悪しながら仕事を終える。

 着替えを済ませて裏口から出ようとすると、休憩中の店長に声をかけられた。店長はわたしよりも年上の男だったが、威厳とか責任感といった言葉からは程遠い人格の持ち主だった。

「あれ? 春島はるしまさん、もう上がり?」

「はい、おつかれさまです。今日はピアノの発表会なので……」

「あ、春島さんピアノやるんだ。僕も聞いてみたいなあ」

「ここで演奏しましょうか?」

「ピアノないよ」

「実はキーボードを持ってきているんです」

「仕事中だから」

「ほんとは聞く気ないでしょ」

「社交辞令で言ったつもりだった。反省してる」

「実はわたしも嘘をつきました。ほんとはピアノなんて弾けません。息子の発表会です」

冬馬とうまくんかあ。ピアノ習ってたんだ」

「冬馬くんは佐伯さんの息子さんですよ。それにもう大学生です。うちの息子はみなとです。小学三年生」

「湊くんピアノ習ってたんだ意外だよ」

「店長って湊と会ったことありましたっけ」

「ごめん今適当に言った」

「もう帰ります」

「おつかれー」

 店長がやる気のない声で手を振った。わたしは会釈して先を急ぐ。

 わたしがスーパーでアルバイトをしているのは、ほぼ湊の習い事のためと言っていい。旦那は三年前に事故で死んでしまったが、保険金と慰謝料のおかげで親子二人が慎ましく食べていく分には困らなかった。

 そもそもピアノを習わせようと言い出したのはわたしではなく旦那だった。情操教育に良いから、というのがその理由だ。今でもわたしが湊にピアノを習わせているのはただの惰性だった。ピアノ教室にはクラスメイトの名切なきり恋々ここという子も通っていて、その子がうちの近所なのでなかなか辞めさせづらいという事情もあった。今日の発表会も恋々ちゃんと一緒に行っているはずだった。

 当の湊がなぜピアノを続けているのかはよく分からない。死んだお父さんとの繋がりだから、それを大切に思ってくれているのかもしれない。と勝手に思っていた時期もあった。

「ピアノ、楽しい?」

 前に一度、湊に聞いたことがある。湊は笑顔で即答した。

「楽しいよ」

「何が楽しい?」

「黒いから!」

「そう……黒いもんね、ピアノ……」

 小学生の好き嫌いなんて、こんなもんである。

 携帯電話で時間を確認して、電車の時刻と会場まで歩く距離を計算する。混雑する大通りを避けて脇道を進んだ。休日の喧騒から遠ざかる。早足で道を抜けると背中に汗が滲んだ。

 信号はなかったが、構わずに道路を横切る。左右の確認と、道路に飛び出す順序が逆になった。

 あっ、と思ったときにはもう手遅れだった。

 赤。スポーツカー。ナンバープレートを正面から見る。走る車を正面から見ることに違和感があった。轢かれる、と思った。呼吸するほどの間もない一瞬の驚愕。

 そのとき、まったく見慣れないものがわたしの視界の中に飛び込んだ。

 車とわたしが衝突するわずかな時間の隙間に、その影は弾丸のような速度で割り込んだ。体に衝撃を受けて視界が揺れる。足が地面から浮かび上がった。落下すべきときに落下しない。浮遊感が腰のあたりに不快感を浮かび上がらせた。

 わたしの体を抱えたのはピンク色の服。風にフリルがはためいた。少女の顔を、下から見上げる。

 少女はわたしを抱えて、箒に乗って空を飛んでいた――。

「危ない!」

 耳元で男の声が聞こえた。視線を少女の胸元に移すと、そこに三毛猫の顔があった。

 ドン、という音が聞こえた。

 キャッ、と少女が悲鳴を上げた。

 赤いスポーツカーが少女にぶつかって、わたしたちは道路の脇に撥ね飛ばされた。

 しばらく空中を滑空するように移動してから、やがて力を失ったかのように箒は落下する。

 少女の腕からわたしの体が離れ、アスファルトの上に叩きつけられた。世界がぐるりと回転して、何度も頭を打ち付ける。

 ――しばらく道路に倒れたまま、痛みを我慢していた。

 何とか体を起こして、うめき声の聞こえた方を見る。少女が箒の横に倒れていた。対して猫は無傷で、少女の周りをうろうろと歩いていた。落下する直前にうまく少女の胸から飛び降りたのだろう。

 道路に止まったスポーツカーからアロハシャツの男が出てきた。道路に倒れた少女を見ると血相を変えて再び車を発進させる。車の姿が見えなくなってから、ナンバープレートのひとつでも覚えておけば良かったと思いついた。辺りを伺ったが目撃者は誰もいなかった。

 わたしは立ち上がって少女の元へと近づいた。体のあちこちを擦り剥いていたが歩くのに支障はない。

「大丈夫ですか……?」

 おっかなびっくり少女に声をかけると、わたしの声は驚くほど大きくあたりに響いた。

 少女は目を閉じて動かない。額から流れる血の筋がなければ眠っているようにしか見えないだろう。

 湊と同じくらいの歳だろうか。栗色の短い髪を後ろで縛り、上は袖にフリルのついたピンクの服で、下は同じくピンクと白を基調にしたフレアスカート。子供でなければ絶対に着られないファンシーな格好だとわたしは思った。

 少女はあのとき、確かに箒で空を飛んでいた。しかし、彼女のそばに落ちている箒はただの竹箒にしか見えない。

 そのとき、少女の体に異変が起きた。少女の体から光の粒が湧き上がり、まるで蒸発するかのように舞い上がった。

 光が収まる。細めていた目を開いた。

「嘘……」

 声を漏らした。そこには少女ではなく、ブレザーの制服を着た高校生くらいの女の子が倒れていた。彼女の顔には、さきほどまでのピンク服の少女の面影はない。ただひとつ額から流れた血の筋だけが、二人が同一人物であることを物語っていた。

「そこのお前」

 男の声が聞こえてわたしは振り返った。しかしそこには誰もいない。改めて前を向くと、少女の三毛猫が、道路に座ってわたしを見上げていた。

「こっちだ」

 猫の口は動いていない。しかし声は確かに猫の方から聞こえているように思える。

「救急車を呼べ。下手に動かさない方がいい」

 喋る猫という非常識な存在は、驚くほど常識的なことをわたしに命じた。



***


 携帯電話で救急車を呼ぶと、十分ほどでサイレンの音が近づいてきた。そのころには野次馬も通りに集まってきていたが、道路に倒れた少女がそれ以上何かに変身することはなかったし、猫はわたしに救急車を呼ぶように命じてからは一言も口を利かなかった。

 救急隊員には少女が車に撥ねられたことだけを伝えた。箒で空を飛んだとか変身したとか猫が救急車を呼ぶように言ったとか、そんなことまで説明したらわたしの方がどうかしていると思われる。

 そして、気がついたときにはわたしも一緒に救急車に乗せられていた。救急隊員の目にはわたしと少女が姉妹の間柄にでも見えたのかもしれない。さすがに親子とは思わていないと信じたい。

 そういえばあの三毛猫もしれっと一緒に救急車の中に乗り込んでいて、わたしの足元で尻尾を垂れて大人しく座っていた。

 春沢総合病院に到着すると、救急隊員が少女の乗ったストレッチャーを救急車搬入口から病院の中に運び入れる。

 ストレッチャーと並んでわたしも一緒に病院の中に入ると、突然何かがわたしの手を掴んだ。ぎょっとして下を向くと、わたしの手を握っていたのはストレッチャーの上の少女だった。

 思わず小さな悲鳴を上げる。心臓が跳ね上がった。

 少女の両目は開かれていた。わたしをまっすぐに見つめている。

「あなたが……代わり……みんな……助け……」

 聞き取ることができたのはそれだけだった。手からはするりと力が抜けて、少女の瞼は落ちたきり動かなくなる。救急隊員が血相を変えて少女を奥に運んだ。

 自分の手の中に目を落とすと、そこには紅色の石が入った安っぽいブローチがあった。あの少女がわたしの手の中に握らせたものだった。

 待合室の時計が目に入った。今から急いでも湊の発表会には間に合わない。そう思った途端に一気に力が抜けて、わたしは崩れるように廊下のソファに腰を落とした。

 ――病院の真っ白な壁をしばらくぼんやりと見つめていたが、ふと視線を落とすと、わたしの正面にあの猫が座っていた。

「石を渡されたな?」

 さすがにもう三度目なので、猫が喋ったとしても悲鳴をあげる程には驚かない。「病院に動物が入って大丈夫なのかな」とわたしは思った。

「つまり、有海あるみはお前を選んだということか……」

 左右を見渡してみたが、わたし以外に猫が喋っているところを見ている人間はいなかった。

「その石の意味を分かっているか?」

「……あの子、有海っていうの?」

 わたしは初めて猫に話しかけた。なんとなく気恥ずかしくて、わざと小さな声で話しかけた。でも、猫にはちゃんと届いていた。

「ああ。お前を助けたせいで、怪我をした。もしかしたら死ぬかもしれない」

「わたしを責めてるの?」

「違う。私は、お前に責務を果たせと言っている」

「責務?」

「有海の背負っていたものを、今度はお前が背負うんだ。お前は魔法少女になるんだ」

「魔法少女? ってあの、『サリー』とか『アッコちゃん』とか『ミンキーモモ』とかの」

「『プリキュア』とか『どれみ』とか『まどか』とかの、アレだ」

「知らない……」

 猫とジェネレーションギャップを感じた。

「あっ。車にぶつかったあと、姿が変わったのは、変身が解けたから?」

「そうだ。変身すると少女になる。だから歳は関係ない。お前でも大丈夫だ」

「……気遣いどうも」

 この失礼な猫を保健所に連れて行きたい衝動に駆られるが、我慢した。

「でもいきなりそんなこと言われても……。そもそも魔法少女って何をするの?」

「簡単に言えば、人助けだ」

「わたしそんなことしたくない」

「有海はお前を助けようとして命を落としかけている。お前には有海の代わりに魔法少女を務める責任があるはずだ」

 正論を言った。猫のくせに。

「でも無理だよ。湊の相手をしないといけないし、家事だって大変だし、今はパートもやってるし……大体どうしてわたしに頼んだの? あ、わたしに魔法少女の才能があるとか」

「いや、単にお前が一番近くにいたからだろう」

「ますますやる気がなくなった」

「もしここでその石を捨てたら、死んだ有海がお前を呪いに来るぞ」

「え。で、でも幽霊なんて……あ、魔法があるんだから幽霊だっているのか……」

「もし有海が死んだら私が有海の霊を呼び出してお前を呪う」

 お前が呼ぶのか。

「有海は私を伝三郎でんざぶろうと呼んでいた」

「伝三郎……」

「呼び捨ては好きではない。伝三郎さんと呼べ」

「伝三郎さんはどうして喋れるの? 魔法の猫?」

「私は人々の祈りを聞く耳を持っている。そして私が喋るのは、その祈りを魔法少女に伝えるためだ」

「えーっと……昔から喋れたってこと?」

「そうだ。私はお前が生まれるよりもずっと昔から魔法少女のそばにいた。伝三郎という名前も有海が勝手につけたものだ。別の名で呼びたいのならそうすればいい」

「タマ」

「伝三郎さんと呼べ。お前の名前は?」

「わたしは、春島知里」

「では、お前のことは知里と呼ぶ」

「呼び捨てなんだ……」

 こうしてわたしは魔法少女になった。



***


 病院にやって来た警察官に事故の状況を伝えてから、わたしは発表会の会場へ向かおうとした。今から行っても湊の演奏はもう終わっているだろうが、さすがに演奏会が終わるまでには迎えに行かないと可哀想だ。

 少し悩んだが、病院の前でタクシーを拾うことにした。一緒についてきた伝三郎さんのことが心配だったが、運転手は渋い顔をしながらも猫を乗せることを許してくれた。

 タクシーが会場のホールへ着いたとき、何か異変が起きているのがすぐにわかった。白いホールの周りには人がごった返していたし、何より人混みの向こうに赤い消防車が見えていた。日が暮れたぼんやりとした空に黒い煙が登っていた。

 最悪の想像が頭をよぎった。

 お金を払ってすぐにタクシーを降りる。人をかき分けてホールに入ろうとしたら、現場を整理していた警察官に止められた。しばらく食い下がったが、とうとう最後には無理やり押し返されてしまった。そのときどんなやりとりをしたのかよく覚えていない。とにかくわたしは必死で、湊の無事を確認したいということしか頭になかった。

 わたしは警察の封鎖に沿って、野次馬をかき分けながら湊の姿を探して歩いた。湊と同じ背丈の子供を見るたびにぬか喜びを繰り返した。

 そうしているうちに、野次馬の中に知っている顔を見つけた。湊と一緒に発表会に出ていたはずの恋々ちゃんのお母さんだ。

 名切さんは警察官に、中に入れるようにヒステリックな調子で訴えていた。わたしが後ろから話しかけると、一転して涙声で話し始めた。

「春島さん、うちの恋々が、恋々が、まだ中に、あの中に」

「名切さん、落ち着いて。……湊は? 湊を見ませんでしたか?」

「分からない、分からないの……多分、恋々と一緒に、まだあの中に……わたし、中に入って恋々を助けないと……」

「冷静になってください。救助されるのを待ちましょう」

 なおも燃え続けるホールを恨めしそうに見て、名切さんは道路に膝をついて泣き崩れた。名切さんを慰めようと手を伸ばしかけたが、かける言葉が何もない。しかもわたしだって今は湊のことが心配だ。

 名切さんをその場に残してわたしは意味もなく歩き始めた。どうすることもできずに、しかし諦めることもできずに、ホールの周りを行ったり来たりするしかない。

 気がつくと全身にびっしょりと冷や汗をかいていた。胃はきりきりと痛み、叫びたくなるような不安を必死に噛み殺して我慢する。

 結果が出るのを待つしかなかった。

 しかしただ待つだけなのは、とても耐えられそうになかった。

「今は待つときではない」

 ――その声は、群衆のざわめきを突き抜けてわたしの耳に届いた。

 伝三郎さんが、わたしの前に座っている。しっぽを揺らして、猫の目でわたしを見つめる。

「ましてや祈るときではない。魔法少女とは、祈りを叶える者だ。そしてお前は魔法少女の資格を得た」

 誰も、わたしたちのことを見ていない。聞いていない。ここにいるのはわたしと、伝三郎さんだけだ。

「知里、変身するんだ」

 そんなことを言われてもどうすればいいのか分からない。わたしにはそんな不思議なチカラはない。わたしにそんな器用なことはできない。ただわたしは湊のことが頭から離れない。湊を助けたいだけ。湊を――わたしの息子を――。

 そのとき、わたしの内側から何かが弾けた。その爆発はわたしの体を物理的に変化させた。

 ブローチを入れたままのジーンズのポケットから紅色の光が溢れた。



***


 あまりのスピードに目をつぶっていると、飛び上がったわたしの体はガラス窓を破ってホールの中に飛び込んでいた。思わず腕で頭を庇ったが、派手に音を立てた割には痛みは全然なかった。

「何をもたついている。早く行くぞ」

 伝三郎さんがわたしの腕の中で偉そうなことを言った。

「ちょっと待って! 状況についていけないんだけど! というか何でわたし飛んでたの?」

 ブローチの光が収まったとき、わたしの体は少女のものに変わっていた。服も、わたしが着ていたシャツにジーンズではなく、フリルのついたピンク色の服に変わっていた。

 状況に困惑しているところへ、伝三郎さんは今から自分が言うのと同じように言葉を繰り返せとわたしに言った。意味の分からない、舌を噛みそうな複雑な言葉を何度も間違えながら最後まで唱え上げると、わたしの体は勝手にふわりと浮き上がり勢い良くホールの二階の窓へ飛んで行ったのである。

「さっきお前が口にした言葉は魔法の呪文だ。魔法の力でここまで飛んできたのだ」

「だったら魔法の力で火事を消せば良かったのに!」

「『コンサートホールの火が消える』なんて便利な魔法はない」

「じゃあさっき飛んだのは?」

「『危険な場所に飛び込む』魔法だ」

 そんなピーキーな魔法があっていいのだろうか。

 しかし伝三郎さんの言うとおりホールの中は確かに「危険な場所」だった。廊下には黒煙が充満し空気はサウナのように熱い。電気は落ちていたので目の前の視界も危うかった。火の手はまだ見えなかったが、このままではここが焼けるのも時間の問題だろう。

 口を開きかけた途端に咳き込んだ。袖で口を覆いながら伝三郎さんに言う。

「このままだとわたしたちも危ないよ」

「心配するな。お前は火除けの呪文も唱えたから、火の方がお前を避けるはずだ」

「そういう便利な魔法はあるのね……」

「だから、祈りに応えられるかはお前次第だ」

「そうだ――湊!」

 わたしは本来の目的を思い出した。あの子はまだホールの中に取り残されているのだ。煙と火に囲まれながら、震えてわたしのことを待っている。

 わたしは湊の名前を叫びながら煙の中に飛び込んだ。

 途端に転びそうになる。小さな子供の体にまだ慣れていなかった。歩幅の小ささと体力のなさに苛立った。

 伝三郎さんがわたしの前に飛び出した。

「待て! 闇雲に探す時間はないぞ」

「じゃあどうすればいいの!」

「『音信』の魔法を使う」

「……そういうのがあるなら早く言ってよ!」

「まあ待て。急かすな。いいか、落ち着いて私の言葉を繰り返すんだ――」

 伝三郎さんが一節ごとに呪文を詠唱する。

 それをわたしが追いかける。

 英語の授業のようだと思った。高校の頃を思い出す。湊にもあんな経験をして欲しい。自分の人生のうち楽しかった時間を思い出す。自分が八歳だったころ、未来は無限に遠かった気がした。湊の持っている未来を奪ってはならない。

 過去の記憶が溢れて、詠唱を間違えそうになった。わたしが追いやすいように配慮しているのだろうが、それにしても伝三郎さんのゆっくりとした言葉がもどかしい。

 伝三郎さんの声が止まった。一瞬、自分が言葉を間違えたのではないかと肝を冷やした。

「これでいい。魔法は成功した」

「これでいいって……湊の場所は?」

「分からない」

「魔法は成功したんでしょ!」

「魔法は成功した。しかし『音信』の魔法は――」

「もういい!」

 わたしは伝三郎さんを置いて駆け出した。

 廊下を走り抜けて階段を下へ。階段は地下へも続いていたが無視して一階に降りた。演奏会場へのドアは無視して廊下を直進する。途中、スタッフ用のドアを開けて先に続く廊下を急いだ。

「湊! どこなの!」

 目についたドアを開ける。中は倉庫になっていた。室内には掃除道具や椅子が押し込められている。壁際には灰色のロッカー。部屋の奥に、身を寄せ合っている湊と恋々ちゃんがいた。

「湊!」

 呼びかけるが返事はない。湊は声に反応してわずかに首を動かしただけで、何も言わずにぐったりしている。恋々ちゃんにも呼びかけたが、こちらもわずかに反応があるだけだ。

 わたしは湊の体を肩に担ごうとした。恋々ちゃんの体も担ごうとして、わたしは二人の重みで床に潰された。それでも引きずって進もうとするが、汗が吹き出すばかりで歩みは牛のように遅かった。

 さっきホールの中を駆けまわった記憶を引っ張りだして、この部屋から出口までの距離を確認する。その距離を消化するのには絶望的な時間がかかりそうだった。

 倉庫の入り口から小さな影が中に入ってきた。伝三郎さんが変わらない調子でわたしに言った。

「やはり『音信』の魔法は成功していたじゃないか。お前は待ち人の『音信』に導かれて、迷うことなくここまでやって来た――」

「伝三郎さん! ……お願い。二人を助けたいの。外に出たいの!」

「……まったく、お前は人の話を聞かないくせに注文ばかりしてくる。……そうだな。まずは箒を探すんだ」

「箒?」

「魔法少女のお家芸だ」

 わたしは湊と恋々ちゃんを床に下ろして、ロッカーを片っ端から開ける。

 箒はすぐに見つかった。長さ一メートルもない小型の箒で、穂の部分が三角形になっているタイプだ。わたしは箒を掴むと伝三郎さんのそばにとんぼ返りした。

「これでどう! この箒どう!」

「この際箒ならなんでもいい。次は、箒を両手で持ちながら私の後に続いて――」

「呪文ね! 分かった」

 わたしははやる気持ちを抑えて、伝三郎さんのお手本の詠唱を待った。今度の呪文は短く、五節ほどで終わってしまった。

 わたしが呪文を唱え終えた瞬間に、箒を持つ両手に違和感があった。箒が軽い、と思った次の瞬間には重さがまったくなくなり、今度は逆にわたしの手を上へと引っ張り始めた。

「この箒、浮いてる!」

「当たり前だ。浮かせずにどうやって空を飛ぶ」伝三郎さんの声は冷めていた。「そら、早くその二人を連れて行くぞ」

「落ちないかな?」

「その箒の頑張り次第だ」

 そう言われて、わたしは箒の柄をそっと撫でてみた。箒はわたしの気持ちが伝わったみたいにブルブルと震えて今にも飛び出しそうに動き始めた。

「待って、ちょっと待って! 落ち着いて、まだ乗ってないから!」

 箒を床に押さえつけようとすると、わたしの体の方が浮かび上がりそうになった。

「急いだ方がいい」

 伝三郎さんの言うとおり、煙と空気の熱はますます強くなっていた。

 わたしは湊と恋々ちゃんの体を掴んだ。両腕がもげそうなほど重かったけれど、絶対に落とすつもりはなかった。箒に跨ったとき、伝三郎さんがわたしの体に飛び乗った。

「飛べ!」

 わたしが叫ぶよりも先に箒は飛び出していた。

 部屋を飛び出す。急加速に振り落とされそうになる。湊と恋々ちゃんの体を離さないように、両脇にしっかりと固定して、手は痛くなるほど箒を握っていた。わたしがバランスを崩しても、箒の方は構わず急ターンして廊下を弾丸のように飛行した。

「これ、どこに行くの!」

「これはお前の魔法だ。お前が決める」

「言うことを聞いてー!」

 あっという間に廊下を通り抜けて、正面玄関へ。オレンジの光が広がった。ホールはすでに火に包まれていた。

「外に!」

 箒にしがみつきながら叫ぶ。それが通じたのかは分からないけれど、確かに箒は進路を変えた。

「伏せていろ!」

 伝三郎さんに言われて、わたしは湊と恋々ちゃんを庇うように強く抱きしめた。

 衝突の衝撃と破裂音が体中を襲う。

 箒は玄関のガラス窓を突き破って外に出た。

 わたしが顔を上げたとき、箒は急降下して地面へ向かっていた。

 激突する寸前、九十度向きを変えて地面と平行に飛んだ。強い加速で振り落とされそうになる。

 と思ったら、わたしたちは自由落下していた。

 わたしの足がアスファルトの駐車場に接触する。水平移動の勢いそのまま、わたしは二人の体を抱えたまま二度三度と転がった。

「痛っ!」

 アスファルトに体中をすりむいた。衝撃で平衡感覚を失った。

 ふらふらになりながら立ち上がる。湊と恋々ちゃんの無事を確認した。見たところ、大きな怪我はなさそうだった。

 箒はあちこちが擦り切れてボロボロになっていた。さっきの動きが嘘のように、箒はもうピクリとも動かない。わたしにとってはとても衝撃的な時間だったが、ホールの中から外まで、飛行時間はほんの数秒だっただろう。それくらいのスピードで、この箒はわたしたちを運んでくれたのだ。

 消防隊員がわたしたちのところへ駆け寄ってきた。駐車場の周りにはなおも放水を続ける消防車が停まっている。消火活動のど真ん中に箒で飛んできたわたしたちは注目の的だった。

「早く行った方がいい。ここは人目が多すぎる」

 伝三郎さんが周りを見ながら言った。墜落の瞬間、伝三郎さんはちゃっかり一人だけ箒から飛び降りていたのだ。さすが猫だ。飛び降りても傷一つない。

「でも湊が――」

「行くぞ」

 最後に湊の頭を一度だけ撫でる。眠っているときのいつもの息子のように見えた。たったそれだけのことで愛しさが胸の中に込み上げた。

 そのとき、湊の目が少しだけ開いた。

「よくがんばったね」

 湊と目が合う。湊がわたしを見て、わずかに口を動かした。

 わたしに何か言ったのかもしれない。もしそうだとしても、あたりの喧騒にかき消されて何も聞こえなかっただろう。

 わたしたちは走ってその場から逃げ出した。



***


 今度は特に何かを願ったわけではなかったけれど、魔法少女の変身は自然に解けて元の姿に戻った。

 体だけではなく服も元に戻った。魔法少女の服は跡形もない。ご都合主義だと思ったけれど、町中でいきなり素っ裸になるようなリアリティなんてまっぴら御免だった。

 ポケットの中には携帯電話と財布もあった。もちろん、変身するのに使った赤い石のブローチもそこにあった。

 携帯電話が鳴った。恋々ちゃんのお母さんからだ。

「ああ、やっと繋がった~」安堵する声が聞こえる。「あのね、わたし今病院からかけてるんだけど――」

 あの後、恋々ちゃんと湊は救急車で病院に運ばれたらしい。二人とも大事にはならなかったけれど、念のため今晩は病院で様子を見るということになったという。

「だから春島さんもすぐにこっちに来て。湊くんを安心させてあげないと」

「すぐに行きます。あの、湊はどんな様子ですか?」

「ぐっすり寝てるよ。ねえ春島さん、恋々から聞いたんだけど、湊くんがホールの中に戻ったのは恋々が逃げ遅れたからなんだって。火事の中でずっと恋々と一緒にいてくれたみたい。ほんと、湊くんには何度お礼を言っても足りないわ」

「ええ……自慢の息子なんです」

 恋々ちゃんのお母さんは何度もお礼を言って電話を切った。

 電話が終わると伝三郎さんが話しかけてきた。電話が終わるまで待っていたらしい。気の利く猫だ。

「それで、祈りは届いたか?」

「うん。二人とも大丈夫だって」

「そうか。……それで、お前はまだ続けられるか? 魔法少女の責務を果たせるか?」

 わたしは少し考える振りをした。断ろう、と五回ほど考えた。弱音が八回ほど思い浮かんだ。言い訳なら、いくらでも出てくる。

「やってみる。魔法少女になる」

 代役だけどね、と照れ隠しに言いながら。

 病院に行くためにタクシーを捕まえた。ドアが開くと伝三郎さんが真っ先に乗り込んだ。

 わたしたちを乗せたタクシーがゆっくりと動き出す。後部座席の窓から、火が収まりつつあるコンサートホールをずっと眺めていた。

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