9話

 椎名が言った言葉。殺していたかもしれない。という言葉は、相田の表情を強張らせ、相田をつき動かす。


「そ、そんな……っ! ダメだ椎名さん!!」


 思い詰めた表情で、殺意の込められた言葉を口から放った椎名。相田はその椎名を見つめたまま、慌てた様子で椎名の顔に近づくように前のめりになる。

 相田は椎名の言葉を聞いていて、自殺という言葉が脳裏によぎっていた。自殺を考えていたのではないかと予想をしてしまった。それだけに、椎名が自殺しようとするのを止めようと相田は必死な表情になってしまう。相田がそうなっても仕方無いくらい、椎名の言葉には本気が混じっていた。


 そんな相田を見て、椎名は驚く。驚いて、相田の顔を少し見つめた後、椎名の表情は笑っていた。


「うふふっ、冗談だから」

「え?」

「失恋したからって、そんな殺すなんてことしないよ。相田くん、本気にし過ぎだからね」

「あ、ああ。冗談か、びっくりした」

「相田くん、驚き過ぎなんだもん。つい笑っちゃった……ふふっ、ふふふふ」


 椎名は相田の反応を思い出しては、また笑う。さきほどの思い詰めたような表情とは変わり、柔らかな表情で可笑しそうに笑っていた。

 相田はそんな椎名を見て、自分の中で芽生えていた緊張が緩んでいく。椎名の様子を見ている限りでは、椎名の笑いは作り笑いではない。本当に笑っているように思えた。本当に笑っているのであれば、自殺する気などないのだろうと。相田はそう感じ始めていた。


 そもそも椎名は、自殺する気など全くない。今も自殺する気などないからこそ、椎名は笑っていた。

 椎名は自分自身で言ったことを。以前の自分がとんでもないことを本気で思っていたことを。椎名の言葉を聞いて相田が本気で驚いたことを。椎名はそれらに対して可笑しく感じてしまい、しばらくの間、笑うことを止めることが出来ずにいた。


「だって、椎名さん。本当にしそうだったからさ」

「私ってそんな風に見えてた? そこまで私、おかしくないよ」

「でも、もしかしたらってこともあるからさ」

「もしもの話だから。相田くんに会う前に宇垣くんに会ってたらの話だからね。今はもうありえないし、そんなこと絶対しないから」

「そうなんだ。それならいいけど」


 絶対にしないという言葉を聞いて、相田の表情は余計に緊張が解け、心の底から安堵する。

 なにせ相田は、椎名が宇垣のことを本気で好きでいたことを知っている。宇垣を想うあまり、思い詰めてしまうことはあるかもしれない。最悪の場合だと、自傷行為や自殺までするかもしれない。その可能性が少しでも感じられていたからこそ、相田は焦ったのだ。


「でも、相田くんに会えてよかったかな。私って考え過ぎちゃうとこがあるからさ。きっと今みたいにすっきりしなかったと思うの」

「そうだね。なんか椎名さん、さっきよりもだいぶ元気になったと思うよ」


 さっきまで思い詰めていたような雰囲気は消え、表情もだいぶ柔らかくなっている。相田がいつも学校で見ている、普段の椎名の表情。むしろ、それ以上に落ち着いたような、辛さも毒気もない表情が、相田には椎名がだいぶ元気になったように思えた。


「前から……というか最近は特にだったんだけどね。宇垣くんといるといつも気が張っていて辛かったんだ」

「そうだったんだ」

「それに、宇垣くんってなんかちょっと偉そうじゃない? しかも、あんまり気配りできてないっていうか、ちょっと冷めてない?」

「まぁ、たしかに。涼平ってそういうとこはあるかもしれないな」

「そうでしょ? そのくせ、私の気配りに気づかないっていうかね。鈍いのか、冷めてるのか分かんないけど、私にクラスの仕事を押しつけてばかりでさ。正直言うと私、ちょっとムカついてたんだよね」


 椎名は素のままの表情でそう言った。作り笑いや苦笑いとかはなく、そのまま思っている感情を表情に出していく。今までの学校生活を振り返りながら、宇垣に対して抱えていた本音を語っていた。


「そうだね。涼平ってわりとうまく出来るヤツなのに、そういうことあんまりしたがらなかったりするよな」

「そうそう、そうなの! 私が本当に色々と頑張ってるのに、宇垣くんって結局何も応えてくれないし、対応がいつもまちまちだったの。何かと冷めてたり、偉そうだったりするんだけど、なんかたまに優しかったりしてさ。変に私に気をつかったりもしていて、宇垣くんって私を見てるのか見てないのか分かんなかったの」


 今まで宇垣と一緒だった時のことを思い出せば思い出すほど、椎名は宇垣のことに対して話す口が止まらなくなっていく。

 そんな椎名に対して、相田は苦笑いを浮かべていた。そこまで不満が溜まっていたとは知らず、同調するように笑みを作っていく。


「それでね、私もさ。宇垣くんのこと色々と考えたり、もっといっぱい知ろうとしたんだけど、宇垣くんって何考えてるのか分からないの。だからね、なんか辛いっていうか……そう。疲れるって感じだったの」

「まぁ、椎名さんの気持ちは分からないでもないよ」

「でも相田くんといると、なんか気分が落ち着くね。なんていうかね、気難しくないっていうか……そうそう、気楽! 気楽って感じ!」

「き、気楽? そうなんだ。なんか複雑だけど……そっか。椎名さん、そうだったんだ……くくっ」


 相田は椎名との会話の途中で、つい堪えきれずに笑いを口から吹き出してしまう。ここで笑う場面ではないことは分かっていても、笑うのを止めることが出来ないでいる。


 相田が笑ってしまったのは、椎名の本音を聞いたから。特に、椎名が宇垣に対して何を思っていたのか。自分に対して言った言葉を聞いて、笑っていた。


「くくっ……あははははっ」

「えっ?」


 相田は笑う。心の底から笑った。

 椎名さんが本当はどんな人で、どんな性格で、どんなことを想っていたのか。実は椎名さんのこと、本当は何も分かってなかったんじゃないか。そう思った相田は、自分自身が何とも可笑しく感じていた。


 結局、相田は目の前の椎名について深く知らないでいた。ずっと見てきたのに、椎名に対して想像と妄想ばかりが膨らむばかりで、本当の椎名のことが見えていなかったのだ。憧ればかり抱いて、恋心ばかり募らせて、その結果自分が暴走し、告白をした。相田はそんな自分が、何ともおかしくて笑ってしまう。


「ど、どうしたの? 相田くん」

「ごめん、椎名さん。笑うつもりはなかったんだけど、なんかおかしくて」

「え? 私、なんかおかしかった?」

「ううん、違う。椎名さんは悪くないよ。何もおかしくないから」


 そう。おかしいのは自分。おかしくなっていたのは自分。自分が自分じゃないように思えて、そんな自分に対しておかしくて笑ってしまう。そう思った相田は、心にわずかな恐怖を感じてしまう。

 恋愛とは何なのか。相田は初めて恋愛というものに触れ、痛感した。恋愛の恐ろしさ、誰かに恋をすることの怖さ。そして、自分がいつの間にか異常になっているという気味の悪さを、相田は知った。それが、相田の心の中で感じた恐怖の正体であった。


 誰かに対して一目惚れや恋心を抱くこと。その時点では人としてまだ平常であり、何かしらのきっかけによって誰かに好意を抱くことはおかしいことではない。その結果、人が誰かを愛そうとすること。愛されようとすること。それら自体をおかしいと思う人間はいない。

 しかし、そこで妄想や欲望を膨らませたり、恋心や葛藤を募らせたり、好意や愛情を歪ませてしまうことがある。恋愛感情を抱くことで、湧き起こるその感情に堪えきれなくなってしまえば、いつしか人は異常になる。また、人間という生物の本能の1つが、人間の理性や思考を狂わせ、おかしくさせてしまうこともある。

 だからこそ人は、恋をすることを“恋患い”と呼び、まるで恋を病気のように言ったり、また病気の中でも感染症のように言ったりもする。また、医者でさえも恋を精神病の一種であると言う人さえいるのだから、それは大きく当てはまっていると言える。


「俺も椎名さんと会えて、なんかすっきりした。俺も涼平のことで悩んでいたから。ほんと、会えて良かった」

「私も、宇垣くんのこと話せて良かった。だって、宇垣くんのこと分かってくれるの相田くんだけだから」

「一応、涼平とは友達だからね」

「……うん、そうだよね。宇垣くんにとっても、相田くんは友達だもんね」

「そうそう。でも、今となっては友達以上に恋敵ではあるけれどね」


 相田が言った言葉。宇垣とは友達であることを伝えた言葉。それを聞いて、椎名は納得したように頷いた。

 なぜなら、今まで椎名が相田に聞きたかったこと。相田に対して聞くことが一番怖かったこと。それは、相田が宇垣のことを友達と思っているかどうかであった。だから椎名は、相田の言葉を聞いて納得し、もう一度尋ねる。


「それなら、明日は恋友になるの?」

「え? どういうこと?」

「よく“昨日の敵は今日の友”みたいなことあるでしょ? 相田くんも宇垣くんに恋したりするのかなって」

「え? ええ!? 俺が涼平を?」


 相田は椎名の質問の意図が分からず、何が言いたいのか分からないでいた。なんとなく、もし昨日が恋敵なら、今日は恋友になるのではないかと。椎名がそういう意味で言っていたことは、深く考えれば気付くことであった。

 だが、椎名が尋ねた言葉を聞いて、相田は混乱する。自分と同じ男に対して普通は抱くことのない感情。その恋愛感情を友人である宇垣に抱くのではないかという質問。相田は少しだけ考えるが、すぐに理解できないと言ったように首を振る。否定するように大きく右手の手の平を左右に振った。


「いやいや、そんなまさか。俺が涼平を好きになるとか、そんなこと絶対にありえないよ」

「本当に?」

「そりゃあ、友達としては好きだけど、あくまで涼平とは友達としてだから。例え、敵になっても、女になったとしても、涼平とはずっと友達だから」

「そうなんだ。はぁ、良かった。ちょっと安心したな」


 椎名が安心したように、少し息を吐く。心の荷が少しだけ軽くなった様子だ。

 相田は少し大袈裟に言いすぎたかなと思ったが、椎名の安心している様子を見て、それ以上は言葉を連ねるのを止めた。


「でも、なんかそういうのっていいね。ずっと友達でいるとか。そういうの憧れるな」

「椎名さんにもいるでしょ? そういう友達」

「ううん。私にはそういう友達いないよ」

「え、でも」

「仲の良い人はいるけど、相田くんと宇垣くんのような。そんな友達は私にはいないかな」


 椎名は少し寂し気に、自分には心から信頼する友達がいないことを告白する。その告白は、学校の知り合いにも自分の家族にでさえも言ったことはない。それだけ、椎名は相田に対して心を許し始めていた。


「だから私、相田くんのような……本音を言い合える友達がいることが羨ましいかな」

「そんなことないよ。下手したら、ケンカしちゃうし」

「誰だってケンカはするよ。気持ち悪いのは、何考えているのか分からない人。そういう人、多いから。私……」


 椎名は思い返す。今まであってきた人間。自分の父親。同級生の女子達。先輩や後輩。そして、自分に好意を抱く男子。みんながみんな、自分に対して微笑みと憧れの視線。また、優しい言葉と自分に対して共感できるといった態度を向けていた。そのうえで、周りの人間は椎名のことを深く知ろうとしていた。

 椎名は親しくしようとして、自分のことを知ろうとする人間が怖かった。椎名を知ろうとする行為が、椎名にとっては気持ち悪く感じさせていた。そうなってしまった原因が、過去に椎名に対して恋愛感情を抱いていた人間達によるものであった。


 そうして、椎名はいつしか本音を隠した自分を演じることで、自分を守ることができる。例え、自分が傷ついても、それは偽りの自分であるからと。傷がつかないようにと保険をかけるようになっていた。そして現在、初めて恋をした相手である宇垣を心の拠り所として、椎名はおかしくなっていったのであった。


「じゃあさ」

「うん?」

「まず、椎名さんが本音を言うといいのかも」

「私が?」


 椎名は少し驚きの混じった声で、相田に聞き返す。

 相田の提案は、たしかに一番手っ取り早い方法である。本音を言えば、相手も本音を言ってくれるかもしれない。相手に対して、何を思っているのか分からないのなら、本音でそれを聞けばいい。少なくとも本音を言えば何かが変わるだろうと、そう考えるのは決して間違いではない。


 しかし、事はそう単純ではなかった。


「怖いかもしれないけれど、本音を言えばきっと友達も本音を言ってくれると思うよ」

「それは……」

「とは言っても、それが出来ないから悩んでいるんだもんな」


 相田は腕を組み、しばらく考え始める。

 相田の言う通り、椎名は今までそれが出来なかったから、信頼できる友達がいないのである。むしろ椎名は、自分から本音を隠してきた。本音を言う自分が嫌だった。誰かに対して本音を言うことは、相田が思っているように簡単には出来ないことではあった。

 だからこそ椎名に必要なのは、それが出来るきっかけか出来事。椎名が自分自身で自分を変えようとする何かを相田が与えてあげることである。それに気付いた相田は、椎名に対して1つの提案をする。


「だから、まず俺が椎名さんの本音を聞いてあげるよ。さっきも涼平についても椎名さん言えていたし、俺のことでも何でもいいからさ」

「う、うん。じゃ、じゃあね……えっと……その」


 椎名は少し考え、言いにくそうに本音を言おうとする。

 今まで椎名が抱えていたものはつい先ほど相田の言葉を聞いて消えた。なので、椎名の中で不安があるとしたら、相田が椎名についてどう思っているのか。今、相田に対して自分が聞きたいと思っている本音を椎名は問いかける。


「相田くんは私のこと、本当に好きなんだよね?」

「……うん。本当だよ」

「それは本気で?」

「うん、本気でそう思ってる」

「じゃあ、相田くんは……私のどこが好きなの?」

「えっ……と」


 告白したとはいえ、好きな相手に好きな理由を答えるというのは、核心と自信がなければ簡単に言えるものではない。特に相田は勢いで告白したのだから、その質問に対してすぐに答えられるほど、頭の中で言葉の整理ができていない。

 相田は真剣な面向きのままでしばらく考えた後、自分が椎名に対して好きになった理由と今抱いている本音を、言葉にして伝える。


、かな」

「笑顔?」

「俺、初めて椎名さんと会った時。椎名さんが他の女子と笑ってるのを見て、なんて可愛らしく笑うんだろうって。そう

 思ったんだ」

「え、そうなの?」

「うん。それがきっかけなんだと思う」


 相田の中で印象に残っていたのは、椎名の笑顔。椎名を好きだと思い始めたのも、椎名の好きなところも、椎名が笑っている姿であった。それを思い出した相田は、好きになった理由が笑顔であると告げた。

 でも、本当にそれだけなのか。椎名さんに対して抱いている感情は笑顔からくるものだったのだろうか。相田はそう思い、今日の告白のことをふと思い出した。


「それから、椎名さんが笑顔になると、俺も元気づけられてさ。その度に椎名さんのことを段々と好きになっていったんだ」

「……そうなんだ。それが、理由なんだね」


 相田はそう告げると、椎名の好きな理由を語っていた口を閉じる。目を閉じ、何かを思い出して、微笑んだ。

 椎名は相田が告げた言葉を聞いて、弱々しい声で答えた。やや悲し気な雰囲気で、首を下にうつむく様に垂れ、自分の足下を見る。誰がどう見ても明らかに嬉しそうではないことが分かる。

 なぜなら、相田が椎名のことが好きな理由が笑顔であったこと。普段の学校生活で見せる笑顔だけなら、椎名にとってはとても複雑なものであった。笑顔だけで椎名のことが好きになったのなら、それは椎名の上辺の部分しか好きでないのと一緒であるからだ。


 うつむいている椎名に、相田は目を開け、閉じていた口を開き、言葉を続ける。優しく語りかけるように、椎名に伝わるように、相田自身の本当の想いを告白し始める。


「でもね、今思うと……それは違ったのかもしれない」

「え?」

「俺、椎名さんとこうやってたくさん会話したこともなかったし、こんな風に一緒になったことも今まであんまりなかったと思う。けど今、椎名さんと一緒になって気付いたんだ」

「……何を?」

「椎名さんが、本当は笑顔が可愛い以上に、誰かのために健気に頑張れる頑張り屋さんだってこと」

「…………」


 相田は今までのことを振り返り、本当に自分が椎名に対して心を動かされたものが何なのかを考えた。そして今、椎名と一緒に居て、相田はそれに気付く。それは、椎名の健気さであり、誰かを想って頑張れることであった。

 相田は椎名のことを思い返せば、いつだってクラスの仕事をひたむきに頑張っている姿が思い浮かんでいた。それも好きな相手のためにと一途に頑張っていたことを相田は知り、そんな椎名に対して恋愛感情を強く感じてしまう。それは、勢いによるものではあったが、椎名に告白してしまうほどであった。その結果、椎名の健気さと誰かのために頑張ろうとする姿勢が、相田の心を魅了し、心をつき動かしたのだ。


 相田の言葉を聞いた椎名の表情から、動揺が隠せないでいる。

 言葉が出ない。なぜ、その言葉に自分の心が揺れ動かされるのだろう。そう思いながら、椎名は相田を見つめる。


「昼にも言ったけど、椎名さんがクラスのことも涼平のことも、本当に色々と頑張ってたのは知ってる。全部分かっているわけじゃないけど、涼平の分まで仕事していたことは俺分かってるから」

「………うん」

「だからこそ俺、涼平のために頑張る椎名さんを見て、椎名さんのことをもっと知りたいと思ったんだ。椎名さんのそばにいて、力になりたいって。椎名さんのことが本当に好きなんだって。そう思えたんだ」

「うん」

「だから、今は難しいかもしれない。涼平のこと、忘れられないとは思う。それでも俺、椎名さんのために頑張りたいんだ。椎名さんのことをもっと知って、椎名さんの力になりたい。だから俺……」


 たしかに椎名は、自分の本音を隠して生きてきた。だが、宇垣に恋をしたこと。今まで宇垣のためにと頑張っていたことは、椎名自身が偽ることの出来なかったものである。それは椎名の本音による行動であり、本来の椎名自身の姿であり、椎名の本当の部分。その椎名の本心からの行動を、相田は見ていた。見ていたことで、相田の中で椎名に対する好意と愛情が大きく芽生えたのである。

 だが、それは相田が椎名を見ていたことで知ることが出来た。宇垣の近くにいたことで知ることが出来た。ずっと椎名を見てきて、椎名と今を過ごしたからこそ、それに気付くことが出来たものであった。


 相田の言葉を聞いて、椎名は相田が自分をしっかり見ていたのだと気づく。すると椎名の胸の奥が締め付けられ、何とも言い表せない感情が押し寄せる。それはまるで、切ないような、嬉しいような、何とも苦しい感情。しかし、確実に椎名の中で相田に対する何かが芽生え始めていた。

 相田が椎名を好きになったきっかけは“笑顔”であった。でもそれ以上に椎名を好きになり、愛したいという感情が芽生えたのは、宇垣を想う椎名のひたむきな姿を見ていたこと。ちゃんと見て、椎名の本当の部分を受け入れて、それを好きと言ってくれたこと。それが、椎名の心を大きく揺れ動かす原因であった。


「椎名さんと一緒にいたいんだ!」


 相田は真剣に椎名を見つめ、椎名の手を握っては、言葉に自分の強い意志を込めて言い放つ。段々と苦しそうな表情へと変わっていく椎名を見て、相田は切ない気持ちで胸が辛くなっていく。

 抱きしめたい。守ってあげたい。笑ってほしい。一緒に居たい。苦しい。好きだ。愛したい。そういった様々な感情が相田の中でひしめきあい、相田を苦しめていく。段々と堪えきれなくなりそうになるが、一瞬にしてその感情を消え去ってしまうものを相田は目にする。


「えっ?」


 相田は硬直する。椎名の後ろから宇垣の姿が見えた。息を切らしながら、自分達を見つけたように、2人のいるベンチへと歩いてくる。

 宇垣は2人を見ている。辛そうに、苦しそうに、表情を歪めて、呼吸を整えながら、足を動かして2人のそばにやって来る。


「涼平!?」

「え、宇垣くん!? なんで、ここに?」


 椎名は宇垣の姿を見てすぐに握られた手を離そうとするが、相田はよりいっそう強く握り締める。相田は椎名の手を決して離そうとはしない。

 宇垣が来たことで、相田の中で緊張が走る。椎名は単に驚いているだけだが、さきほどの部屋にいた時の宇垣を目にしていた相田にとっては違う。今の宇垣は何をするのか分からないのだから、一瞬も気が抜けない状況となっている。


「そっか。2人はやっと……いや、なんでもない。さっき、政が走って出て行ったからさ。心配になってきたんだよ」

「え、えっと、宇垣くん」

「涼平! 俺、涼平に椎名さんは」

「大丈夫だよ、政。自分はもう、ここから消えるから」

「え?」


 相田は宇垣の言葉を聞いて呆然となり、言おうとしていた言葉を止めてしまう。どういうことなのだろうか。ここから消えるとはどういう意味なのだろうか。そう思いながら、相田はずっと宇垣から視線をそらさず、椎名の手を握ったままでいた。

 しかし、宇垣は苦笑いの混じったような微妙な笑みを浮かべていた。まるで、相田と椎名の2人に気を遣うかのように、この場から立ち去ろうとしているようだ。宇垣の部屋にいた時、特に椎名を殺すと言っていたあの時の宇垣とはまるで雰囲気が違う。


「じゃあね、椎名さん。政」

「待って、宇垣くん!!」


 椎名は宇垣を呼び止める。相田に手を握られたままベンチから立ち上がり、ツバを飲み込んでは、動揺していた表情から意を決したような表情に変わる。


「宇垣くんが本当に好きな人って誰なの!?」

「うっ!」


 宇垣に対して、椎名は好きな人間について問いかけた。その椎名の問いかけを聞いた相田は、心臓が止まったような感覚に陥り、つい声が口から漏れてしまう。

 椎名が宇垣にした質問は、相田にとって宇垣に一番問いかけて欲しくないことであった。相田はつい先ほど、宇垣には好きな人がいると椎名に言ってしまった。また、宇垣の本心を椎名に知られてしまえば、この後良くない方向へと行ってしまうと想像出来ていた。宇垣の返答次第では、最悪の事態まで発展してしまう。そう思った相田は今までで一番心臓が跳ね上がり、宇垣が椎名の問いかけに答えるまでの時間がとてつもなく長く感じてしまう。


「……本当に、好きな人……か」


 宇垣はそう呟くと、椎名と相田の2人を見つめる。見つめれば見つめるほど、泣きそうで辛そうな表情を浮かべ、宇垣の口は震えていく。いかにも辛そうにしている宇垣を、2人は見つめるだけ。見つめるだけしか出来ないでいる。

 少しして、宇垣は左手で頭を抱えるように体を震わせ、何かに堪えるように唇を噛み締める。目を閉じ、ぼそぼそっと誰にも聞こえないような声を吐くと、宇垣は再び2人を見て、微笑み始める。


「自分が好きな人は……私。愛したいのは君じゃない。自分だ」

「そんな……宇垣くん」

「だから、これで終わり。もう、終わりなんだ。終わりにするしかないんだよ!」

「…………ううっ」


 椎名はショックを受けたように後ずさりしては、足に力が入らなくなったようにベンチに座り込んでしまう。弱々しく、涙を堪えるような表情で、空いている片手で顔を隠すように手の平を覆う。その手の平のすき間から、椎名の涙がこぼれ、流れていく。

 そんな椎名の様子を見て、相田の手を強く握っている椎名の手を感じて、相田は口を開いた。


「涼平……おまえ」

「政はさ。政はそのまま彼女と生きてくれ。自分はもうこれで終わりにするから」

「でも!」

「だって、自分と政は……友達だろ? 自分に愛はいらないんだ」

「そんなの」

「本当に選ぶべき相手は誰か。本気で一緒にいるべき相手は誰か。政は分かっているはずだろ?」


 宇垣は相田を諭すように、優しく、友達を想うように、落ち着いた声で話していく。

 しかし、相田にはそれが、叶えられない何かを諦めるかのような。どちらかと言うと、宇垣が宇垣自身に諭しているような。そんな気がしていた。


「政、自分が家で言った質問は覚えてる?」

「何をだよ」

「彼女を本気で好きになって、本気で愛する覚悟はあるのかってことだよ」

「それは……」

「政の、政自身の答えを聞かせてくれ。本当に、本当に好きなんだよな?」

「……ああ、当たり前だろ!」


 相田は宇垣の問いかけに答える。相田は自分自身に問いかけるまでもなく、宇垣に答えた。自分の中の想いを込めて、宇垣に言った。


「本当なんだよな? 勢いじゃなくて、感情だけじゃなくて。本気で考えて、本気で愛する覚悟が。政にはあるんだよな?」

「ああ! 俺は本気で愛したい! 本気で愛してみせる!!」


 椎名と宇垣の前で、相田は誓う。

 言葉にして、強く誓った。真剣な眼差しで、心に誓った。椎名を本気で愛することを、相田は本気で誓ったのだった。


「わかったよ。それなら、自分達はこれからも友達だ。それだけは変わらないし、自分も変えるつもりはないよ」

「……っ!」

「おやすみ」


 そう言って宇垣は、この場から立ち去ろうとするように自分の家へと向かって歩き始める。言いたいことは、聞きたいことは、もう何もないといった雰囲気で、宇垣は足を歩ませる。


「待ってくれ、涼平!」


 相田は立ち去ろうとする宇垣を呼び止める。

 なんとなく、腑に落ちない。分からない部分がたくさんあるからか、不安な気持ちが募っていく。相田は宇垣にそのまま帰られてはいけない気がしていた。帰ってしまっては、後悔するような、そんな気がして宇垣を呼び止めた。


 振り返った宇垣は、相変わらず微妙な微笑みを崩さない。嬉しいような悲しいような、複雑な感情が混じったその表情が、相田に何かを気づかさせてしまう。


「もしかして涼平は、俺のために」

「それ以上は考えちゃいけないよ。政は、自分のことじゃなくてさ。これからは彼女を愛することを、愛したいという気持ちを、本気で考えていくべきなんだ」

「でも、俺……」

「政は、政自身が決めた覚悟を無駄にしちゃいけない。だからさ、これで良いんだ。これで……良いんだよ」

「…………涼平」

「おやすみ、政」


 宇垣は優しくそう告げると、相田と椎名の2人の前から立ち去っていった。宇垣が立ち去っていくのを、相田はただ見送っていた。

 相田は宇垣の本心は、結局は分からない。何が目的で、何がしたかったのか。本当のところで、宇垣の本音が何だったのかは分からないでいた。

 だが、相田は、宇垣が友達である自分を想ってくれていたことは伝わった。宇垣は自分のことを考えて、行動していたように思えた。そう感じたからこそ、相田は宇垣に何も言えなかった。宇垣が自分を犠牲にしてまでしたことを、取り消すことは出来なかった。


「相田くん」

「椎名さん、大丈夫?」

「どうして? 宇垣くんは、どうして」

「……ごめん」


 相田は頭の中で思う。きっと涼平のことを言うべきなのかもしれない。涼平がオレを想って、椎名さんから身を引いてくれたことを。オレのために、発破をかけてくれたことを。涼平がオレのためにしてくれたこと全部。椎名さんに伝えるべきなんだ。そう思って、相田は言葉にしようとした。口に出して、椎名にすべてを伝えようとした。

 だが、相田の口は止まった。口に出して椎名に伝えることが出来ないでいる。椎名の顔を見て言おうとすればするほど心は揺らぎ、宇垣のことを想えば想うほど、言葉が出て来なくなっていった。


 相田が言おうとしていることは、椎名を傷つけてしまう。それ以上に、宇垣の想いを無駄にすることになると、相田は察していた。椎名を想って身を引いたこと。相田を想って、大事なことを気付かせてあげたこと。宇垣の想いを自分から裏切ることも、相田には出来なかった。

 だから相田は、ただ謝る。ごめんという言葉しか、椎名に告げるしか出来ないでいた。


「どうして相田くんが謝るの? どうして? もう、分からない。分からないよ」

「ごめん椎名さん。本当に、ごめん。」

「…………ううっ、何で、どうして……うううっ」


 相田の体に椎名の頭がよりかかる。涙を流しながら椎名の体が震えているのを見て、椎名を抱きしめる。しばらくそのまま、椎名を抱きしめ続けた。

 何も言えないけど、胸を貸してあげること。ただ抱きしめてあげることしか出来ない。だから今はこのままでいるべきなんだと。相田はそう思って、椎名の涙を受け止めていく。椎名の涙が止まるまで、ずっとそばにいた。



 相田は見上げる。真っ暗な夜空に、満月が見えた。黒い夜空に穴が空いたように光を照らす満月を、相田はずっと見つめる。ただ1つ、夜空の中で照らし続ける月。星が見えず、月だけが見える今日の夜空。孤独に輝く月が、なんとなく寂しげであるように感じた。

 そんな満月の下で、相田と椎名は霞ヶ丘公園のベンチに座って時を過ごす。静かな時の流れが、2人に今日という1日の終わりを感じさせていったのであった。

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近頃、私、愛したい 純鶏 @junkei3794

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