来訪したもの

神田未亜

第1話

 不妊治療を受け始めて、一年が経った。

 いまだに子供を授かる気配は無い。

 今年で35歳になる。今度こそ、今度こそはと思いながら、落胆する日々が続いていた。


 そんなある日のこと。

「あら? 捨て犬かしら……?」

 自宅マンションへ向かう道の途中。電信柱の根元に、一つの段ボール箱が置かれていた。

しとしととふる小雨に濡れている。

 近づいて覗き込んだ私は、驚いて息を呑んだ。

「まあ、なんてこと」

 そこにいたのは捨て犬でも捨て猫でもなく――

『拾ってください』

――一人の、生後間もない赤ちゃんだった。


 私は自室へ、その赤ちゃんを連れ帰った。

「こんなに雨に濡れて……かわいそうに」

 なるべく柔らかいタオルでそっとその子を拭く。

 赤ちゃんは泣きもせずにじっと空中を見つめている。

「あんなところに置いていくなんて、ひどいことをする人もいたものね。でも、困ったわ……連れてきたのはいいものの、うちには赤ちゃんの着替えなんてないし」

 赤ちゃんを抱き上げながら途方に暮れる。

「早く着替えさせてあげないと、風邪引いちゃう――」

 そのときだった。

 とさっ。

「えっ……? どういうこと?」

 突然空中に、ぱっと、布らしきものが現れ、床に落ちた。

 見れば、ちょうど赤ちゃんが着るのにちょうどよさそうなベビー服だ。

「どうして。こんなもの、うちにはなかったのに……。それに、なにもないところから急に生まれたように見えたわ。」

 不思議に思うが、今は好都合だ。早く赤ちゃんを着替えさせてあげなければならない。

 都合のいいことに、おむつから靴下まで、必要なものは全てそろっていた。

「さあ。できた。きれいになって、気持ちよくなったね。そうだ、お腹はすいてないかしら? 粉ミルク……今からどこに買いに行こう」

 すると。

 どさっ。

「え……また?」

 今度は空中に哺乳瓶と粉ミルクが現れた。

「見間違いじゃない。出てくるところがはっきり見えたわ。不思議なこともあるものね……」

 でも今は赤ちゃんの方が大事だった。

 粉ミルクを溶かし、適温まで冷ましてから赤ちゃんに与える。

 その後も、オムツの替えや、おしゃぶり、遊び道具に至るまで、何か足りないと思うたびに、空中にそれが現れた。

「一体何が起きているのかしら」

 不思議に思いながらも、何不自由なく赤ちゃんのお世話をしてあげられるのは幸いだった。

「かわいいわねえ……。でも、いつまでもうちで世話をしているわけにもいかないわね。本当のお父さんとお母さんを探してあげないと。」

 突然、玄関のチャイムがなった。

「はーい」

 扉を開けると、スーツ姿の男が立っていた。

「夜分失礼します。あなたが拾われた物を回収しに参りました」

「拾った……って、この子のこと?」

「はい。まずは使用履歴を調べさせていただきます。――ああ、よかった! 高額な商品は含まれておりませんね。取り返しのつかないことになる前でなによりでした」

「一体、どういうことなの?」

「失礼しました。あるはずのないものが突然現れたりしませんでしたか?」

「ええ、あったわ」

「それはこれの仕業です。これは幸福前借り装置。当社が秘密裏に開発した、最新鋭の装置です」

「装置ですって? じゃあ、この子は人間じゃないの?」

「はい。これに欲しい物を望めば、即座に何でも手に入る、画期的な発明品です」

「素晴らしい発明じゃない。それが、どうして回収しなければならないの?」

「それがあくまで前借りであることが判明したからです。これに望んで手に入ったものは、いつか自分から失われる。いわば未来の自分から前借りをしているだけだったのです。高額な商品や大金を要求して、取り返しのつかないことになったと苦情が殺到しています。それで、急いで商品を回収して回っているところです」

「かりそめの幸せだったということね」

「あなたは被害にあわれる前で幸いでした。それでは、回収させていただきます」

 赤ちゃんを引き取り、スーツの男は帰っていった。


 一人になった部屋で、少しばかりの寂しさをかかえながらも、私は微笑む。

 なぜって、今日手に入れた品物は未来の自分からの前借り品だったのだ。

 未来の私が、赤ちゃん用の服や粉ミルクやオムツを持っているとするなら、つまり――。

「一つだけ、前借りじゃない幸せをもらったみたい」

 私はそっとお腹をなでた。

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来訪したもの 神田未亜 @k-mia

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