第8話〈部室〉

 宿題の採点が全部終わった頃、窓の外からはまだ野球部員の野太い掛け声が聞こ

えるのだ。まだ時間がある、と玲子が気持ちよさそうにストレッチをしながら密かに嬉しくなる。今日は篠原とのデートの予定がないのである。ということは、今日は早めに演劇部のみんなに会いに行けるということなのだ。

  採点された生徒の宿題を全部まとめて押入れにしまってから、玲子がカバンから一束の印刷用紙を取り出して少しにやける。これは生徒の宿題などではない。そもそも玲子が生徒から集めた宿題やテスト用紙などに向けてにやけることはまずない。

  表紙となっている一ページには、『女子高生とスカートの魔物とハンサムすぎるけど中身はトカゲ人間の王子様』(仮)という、とう解釈しても違和感しか感じようのない文字列が太く印刷されてある。玲子がニヤニヤしながらページをめくるの一束の紙は、なにを隠そう、演劇部の次回作のシナリオである。

  次回作とはいえ、昨年の学校祭で既に上演された劇のシナリオを踏襲したリメイク版に過ぎないのである。しかしなぜ一年後の今、新作ではなく、旧作のリメイクをすることになったのか、これには訳があったのだ。

  11月に開かれる学校祭を目指し、夏休み早々主人公を「女子高生」と決めていたものの、演劇部はその後、主に男子部員で構成された「美少女が異世界で戦うストーリーにするべき」と下心を包み隠さずに主張する一派と、部長含めて主に女子部員で構成された「イケメン男子と恋に落ちるストーリーこそ王道」というこれもやはり下心満載の主張をする一派とで、大きな二派に分裂された。両派の闘争は一時的に「演劇部の仁義なき戦い」と言われるまでにエスカレートし、部員の何人かは退部しそうになる騒動もあった。このままでは演劇どころか、劇が出来上がる前に部が解散される機器に迫られたので、玲子が緊急仲裁人の役を担いだ。そして、冬はまだ先なのに冷え切った空気――もちろん比喩である――の中で進行された何度かの部内会議のあと、両派がやっと「美少女の女子高生が異世界で戦いながら王子と恋をする」というストーリーでしぶしぶと妥協し、シナリオを制作する段階まで運ばれた。しかし、大筋のストリートがやっと出来上がった頃には、もう既に上演まで一ヶ月もきったところだった。このままではリハーサルする時間もなく、演劇部が全校の笑い者にされるという危機感が部内の大混乱を招いたその時、玲子が部員たちに、大まかなストーリーを書き上げて残る部分を全部ギャグで誤魔化せたらどうだ、と進言した。最も、当時の演劇部にはこれを熟考する余裕もなく、玲子の提案が唯一部に残された打開策として受け入れ、シナリオもまだリハするギリギリ残る期限で完成された。そして、学校祭当日、練習不足と寝不足で、セリフを何度か忘れたり、照明と幕開けのタイミングを間違ったりという、終始ハラハラ満載だったが、ギャグもそれなりに観客から笑いをもらえたのと、コメディだから雑なところ含めて全部演出の一部だと勘違いした人がわりといたから、評価は悪くはなかった。

  しかし、学校祭は何とかそれで乗り越えられたものの、メンバーたちは到底納得できなかった。そして、演劇部の名誉挽回を成し遂げようと、メンバーたちが演劇部史上最高の団結力を果たし、今年の学校祭に向けて踏ん張っているのだ。

  しかし、当時部内で大きく分かれた二派はどうしても自分たちがやりたかったテーマを捨てられずに、だったら去年無理矢理作ったストーリーをあえて完璧に仕上げるべく、今年は去年の完全リマスター版をやることに決定したという一連の経緯があった。

  そしてつい先日脚本を完成させた部員たちは、早速顧問の玲子に、読んでアドバイスください、と依頼されたのだ。

  昨夜そのチェックを終えた玲子が、今まさに自分の感想をいち早く演劇部員たちに教えたくて、鼻歌まじりで演劇部のもとに向かっているのである。

  演劇部の部室は玲子が第一教棟とは反対側にある第二教棟にある。ドアをノックして、はい、という返事が聞こえると、玲子が中に入ると、女子部員五人が床に跪いて石や草などの大道具を作成しているところだ。

  普通の部室とはさほどサイズ変わらないが、舞台に必要な道具を作る時は、机や椅子などを全部窓際に詰め込んで、それでもやはりやや狭い感じがするのだ。

  「玲子ちゃん、コンチャース」

  玲子が入ってくるのを気付き、一番奥で草に花を貼り付ける作業をしているジャージ姿の女子が明るい笑顔で挨拶してから立ち上がる。今学期から副部長に選出された二年生・種崎華浪(かなみ)なのだ。玲子に対しては少し適当な態度をとるし、普段では大雑把でかつお調子者のところは多少あるが、脚本の面白さを向上させるためなら、他作品のパクリ以外なんでもしうるところから前部長に見込まれて副部長の座を据えた。とあるシーンをもっと面白くさせようと、当時のメインライターであった前部長の自宅に押し込んで深夜二時まで脅迫に近い説得をし続けていたのが前部長にトラウマを残したのが選出の理由だった、という根も葉もない噂もあるが、例のシーンの評判がとりわけ良かったからそれ以上に追及する人もいなかった。

  「せめて玲子先生、でしょ?」

  足の踏み場に気を付けながら、玲子がまんざらでもなさそうに部屋の奥まで前進する。ほかの四人も先生に挨拶し、床から立たずに先生に行く道をあける。

  「脚本チェック、終わったんですか?」

  目をギラギラさせながら、華浪はやはりしれっと玲子の注意を無視する。

  「私も。。。忙しいから。。。一回でこんなに。。。頼まないこと」

  一歩を踏み出すごとに発話をする玲子はやがて華浪が立つ場所に辿り着き、脚本の束で華浪の頭を軽く叩く。

  「はい、有難く頂戴いたす」

  片方の足をやや曲げ、華浪は奇妙な言葉遣いを発しながら両手で脚本を受け取る。

  「それで、感想は?」

  どこか自慢げで華浪が訊ねる。今回の脚本はほぼ華浪に任せきりだった――というより本人は誰にも触らせなかった――ので、わが子のように誇りをもっているのだろう。

  「悔しいけど、種崎さんに任せて良かったと思っているわ」

  苦笑いまじりに素直に負けを認める玲子。去年の脚本と比べれば、今年はストーリーのコンセプトこそ殆ど一致しているものの、話の進み方のスムーズさに、登場人物たちのキャラクター像を突出させることの上手さ、おまけにギャグのセンスの向上。プロが書いたそれにこそは勝てないものの、去年の脚本の完成度とは比べ物にならないほどうまく書きあがっている。

  「あら嫌だな、奥さん。みんな聞いた?任せて良かったって」

  華浪がロウソクみたいに白い歯を臼歯まで見せた笑顔になる。ほかの部員中、二人がなんの感情も籠っていない拍手を捧ぐ。一人は全く反応を示せずに何らかの生物のしっぽを作るのに没頭する。しかし、これは決して華浪が嫌われているのではなく、皆が彼女のすぐ調子になるところに慣れているだけにすぎない。それに、演劇部の部員たちは華浪の脚本を構成する能力を固く信頼しているのだ。

  しかし、この場にいる殆どの人が華浪の脚本にOKが出されると確信している中、一人だけ床から立ち上がって、華浪の手からやや強引に紙の束をとる。ページをめくる彼女の顔には不服の色が隠しきれなかった。

  ふと、ページをめくる手が止まる。

  「先生、この赤い丸がついてるところは何ですか?」

  演劇部に所属する二年生――瀬澤美栗(みくり)――は丸印がついている部分に指差して先生に問う。不服そうな表情には一瞬だけ期待の色が浮かび上がる。華浪も微妙な顔で美栗が指さすところを伺う。

  「ああ、そこね」

  ハッと思い出したように、玲子も二人の横に来て、美栗の指先に押されているところを見つめる。

  「このシーンに出てくる村人Aなんだけど、これなんの方言なの?」

  「青森弁ですけど?」

  「別に要らないと思うけど。第一なに喋ってるかわからないし、異世界だからって、こう具体的な方言を使うと逆に異世界感が失うっていうか」

「ええ、そうかな。青森弁めっちゃ調べましたけど。だって、別世界の人じゃん?最初は言葉通じるわけないじゃないですか」

  「今すぐに全青森県民に謝りなさい」

  指摘されて華浪は悔しそうな顔で首を傾げるが、その手にはいつの間かペンを握っていて、すでに丸印が付けられたところに更に下線を引く。

  「まぁ、どうしても使いたいのなら。例えば、それを異世界の言葉じゃなくて、あえて青森弁だと解釈したら?」

  ページを睨み付け、華浪がペンのキャップを顎に押し付けてガタガタという音を鳴らせながら、少し思考に耽る。すぐさま表情をくるりと変え、閃いたみたいな言い出す。

  「そっか!そしたら、次にヒロインに、異世界なのに青森弁かよ、ってツッコませるとかは?」

  「うん、いいじゃない?」

  華浪が出した答えに、玲子は素直に微笑んで頷く。

  「じゃあ、そんな感じほかの丸がついてるとこも直してね。そんなに、多くないからすぐに直せると思うけど」

  「はーい。ありがとうございました、レイちゃん」

  「せめて名前で呼びなさい。。。じゃなくて、先生」

  流石に腹が立ったのか、玲子が華浪の頬をつまむ。

  「うう、暴力反対(ほうよぐあんだーい)!」

  いい加減な顔で華浪が抗議する。

  そんな二人の戯れを制止するように、美栗が玲子に聞く。

  「先生、脚本以外になんか問題ありますか?」

  華浪の頬から両手を放す。華浪は大げさな泣き顔になり、玲子が強くつまんだつもりのない頬を撫でる。

  「今のところないわよ。種崎さんが脚本の修正を終わらせたら、練習し初めて」

  「本当に大丈夫ですか」

  玲子が安心に満ちた微笑みを浮かび上がらせるが、美栗は念を押して聞く。

  「正直、去年のあれがあったから、今年も心配してたけど。瀬澤さんたちに任せて、今年は成功する予感しかしないわよ。本当、みんなよく頑張った」

  玲子が床に置かれてまだ完成されていない道具を見下ろして感心する。美栗は微笑んで先生に一礼をするが、その笑顔に幾分か微妙さがあった。華浪は、もっと褒めてもいいぞ、と言わんばかりの表情で頷く。

  「じゃあ、残りもよろしくね」

  と言い残し、玲子が部室を去ろうとするが、ドアノブに手をかけてふと何かを思い出したように振り返った。

  「そういえばさ」

  華浪と美栗はキョトンとする。

  「ヒロインの子、結局どうするの?坂口さんやるといった?」

  坂口さんこと、同じく演劇部三年生の坂口郁美(いくみ)。去年の学校祭で、主演の女子高生役を演じていた人物でもある。

  「いくみん先輩なら、もうちょっと考えてから決めるって。去年はあれで演劇としてなんとかなったけど、郁美先輩ご自身はあの後ちょっとネタにされたんですから。それにほら、受験もあるし」

  「代役も考えていますけど」

  美栗は意味ありげに言う。

  「まぁ、その前に今週中脚本の修正を終わらせてね。またチェックするから」

  「はーい」

  華浪は適当極まりない敬礼をする。

  

  「美栗ってさ、ヒロインやりたいんでしょ?」

  腰を曲げて自転車の開錠をする美栗に、華浪はさりげなく聞く。下半身には制服のスカートが戻っているが、上半身にはシャツの上にジャージを羽織っているままである。鍵の開錠をを終えた美栗は、華浪を見ずに聞き返す。

  「別に。なんで?」

  不意を突かれた様子ではない。

  「なんとなく?それに、さっき代役の話を玲子ちゃんにお持ち出したじゃん?あれって本音は、じゃあ瀬澤さんやってみない、って期待してるんじゃないのって」

  「別に。そんなじゃバレバレじゃない?役が欲しければもっと正々堂々と勝ち取るわ。坂口先輩にも悪いし」

  華浪の推理は七割くらい的を射ているが、美栗はあくまで動揺する様子を見せなかった。二人は並んで帰路を着く。

  「まあ、切り札になってあげないこともないけど」

  「ほらー、そういうとこ!美栗はもっと自分の欲をズバッと言わないとお嫁に行けないぞ」

  「行く気ないし、華浪と一緒にするな」

  美栗は足で軽く華浪の左膝裏にキックを入れた。

  下校時間はとっくに過ぎ、空にはオレンジ色は半分だけ無力そうに粘っているくらいの時刻である。玲子が部室を去ってから直ぐに、副部長を務めている華浪が部員たちに帰らせたが、華浪自身は美栗と二人で残り、先までずっと玲子が見てくれた脚本の修正案を話し合っていた。

  二人は、マンガやアニメの中では――王道というべきか作者の想像力の貧困というべきか――よく描かれる「幼なじみ」という関係にあたる。美栗に言わせれば、「腐れ縁」を通り越して「化石縁」である。

  校門をくぐりぬけ、駅までの坂道を――二人とも歩いて帰るが――おりた途端、華浪はごく当たり前のようにいきなり後部座席に跨る。

  「重い、降りて」

  「ひどい。美栗の方がお尻大きいのに」

  何度かの温泉で裸の付き合いで学んだトリヴィアを活用することに決定。

  美栗はツッコミの代わりに、サドルを掴んで思いっきり揺るがす。後ろへ派手に倒れそうになった華浪は狼狽するが、なんとかサドルを両手で掴み落っこちるの防止する。それでも自転車を揺るがす美栗の手は止まる気配ないどころか、一層激しく揺るがし始めた。

  「待って待って。いいじゃんいいじゃん」

  とこっちもやはり降りるつもり一切ない華浪である。

  「もう本当降りて。歩けない」

  「あたし、本当はいくみん先輩に演じてほしくないなー、ヒロインの子」

  くるりと話題を変える華浪。美栗は一瞬沈黙するが、やがて小さくため息をする。

  「知ってる。華浪に限って、黙って待つことは絶対しないし。本当に坂口先輩に演じて欲しかったら、もっと説得してたでしょ。それこそ、毎日先輩ん家に押しかけて泣かせるまでくらいに」

  「いや、そこまで褒めてもなんも出ないぞ」

  何故かテレ始める華浪。

  「あたしらほら、去年の学校祭の時、まだ新入部員だったじゃん?だから、脚本(ほん)にもキャストにも、なんも口を出せなかったじゃん。でも、客席から見てたよ、いくみん先輩の演技。正直、落胆してたよ。あのふざけた本と、いくみん先輩に。だから、今年こそあたしがやってやる、ってずっと待ってたんだもん。先輩には失礼だろうがなかろうが、あたしは自分の作りたいもんをみんなと目指すから」

  華浪の方に振り向かないが、美栗も内心、何度か頷きそうになった。

  確かに、郁美が去年の学校祭のステージで見せた演技は、華浪ほど演劇部に執着心のない美栗でも、納得できないものだった。しかし、去年は部内で色々トラブルが発生したうえ、そもそも観客たちも誰一人あれを真面目に観ようとしなかったので、郁美の演技に追及する人はいなかった。

  しかし、美栗も――そして恐らく新しい脚本を読んだ玲子も――分かっている。あの演技では、華浪の脚本を追いつけないことを。華浪は、もっと情熱的に役に入れる人を求めている。

  「よし、決めた」

  華浪は自転車から飛び降りる。

  「あたし、先輩に役を辞退するよう、説得してきます」

  怪訝な表情で振り向き、何故か仁王立ちになっている幼なじみの姿を見つめる。

  「そんなことしたら、華浪は先輩たち全員から嫌われるよ。いいの?」

  「いいもん、それでいい演劇になれるのなら」

  果たしてそういう度胸があるのか、と思わんばかりに美栗がため息をする。

  「私、先輩に嫌われるの嫌だから華浪を助けないよ」

  「えぇ?ケチィ」

  カバンを振り回し始める幼なじみを無視し、美栗はちょうど通りかかる自販機に500円玉を入れ、お茶を二つ注文した。

  美栗からその一本を受け取り、いきなり半分を飲み込む。

  「ブラックコーヒーが良かったのに」

  「飲めないくせに」

  美栗に突っ込まれ、華浪はまたにやけてきた。

  「切り札、使う?」

  だんだん暗くなる空を見上げ、美栗がさりげなく聞く。

  「美栗には無理よ」

  「直球でどうも」

  「美栗のそういうとこめっちゃスコ」

  「うるさい、バッカナミ」

  華浪のくるぶしが美栗のキックに見舞われたのは、この直後だった。


 帆乃花から電話が来たのは、ちょうど玲子がお風呂を沸かそうとした時だった。ポケットから携帯を取り出し、差出人に「橋本(田中) 帆乃花」を確認すると、玲子が慌てて壁にはりつくお風呂の操作パネルの「キャンセル」ボタンを押した。

  「はい、もしもし」

  『もしもし、玲子ちゃん?』

  「あ、帆乃花さん?」

  電話の相手は、従姉の橋本――今年で正式に離婚したので今は旧姓の田中に戻っているが――帆乃花だった。

  「どうしたんですか、こんな時間に?」

  『ええ、それなんだけど。この前、玲子ちゃんが言ってた話』

  電話の向こうに車が通りかかる音がした。帆乃花さんは今外にいるのか、と玲子が推測する。

  『ほら、佳乃ちゃんを部活に参加させるって』

  「あ、あれですか。考えて、くれました?」

  玲子が帆乃花に電話をしたのは、篠原忠久とデートしたの夜だった。帆乃花とは、その電話でもっぱら佳乃の話をした。そして、帆乃花に佳乃に部活に参加することを勧めた。

  玲子としては、学校生活に馴染みのない佳乃にいち早く同年代の子たちとの接し方を覚えさせるいいアイデアだと思ったのだが、帆乃花は躊躇った。そして、少し考えてから返答する、と言ってから、やっと今日電話をよこしてくれたのである。

  『うん。いろいろ考えてたけど、玲子ちゃんの提案も悪くない、と思う』

  「本当に?佳乃ちゃんに部活に参加させてもいいですか?」

  玲子はわが子のことのように嬉しくなる。

  『それなんだけど、やっぱりいきなり部活ていうのは早すぎるのでは、と思ったけど。玲子ちゃん、今週末時間ある?あるなら、一度ゆっくり話がしたいけど。玲子ちゃんが嫌ならいいけど』

  「ううん、私も久しぶり帆乃花さんとゆっくり話がしたいですし」

  『うん、わかった。じゃあ、また連絡するね』

  電話を切ったあと、玲子が急に、しまった、と言わんばかりにため息をする。勢いで会う約束をしたが、帆乃花が家出して以来、二人はゆっくりと話をすることがなかった。今年に入るまで、玲子は帆乃花の連絡先すら知らなかったから、おかしい話でもないが。帆乃花と面と向かって話すことは一回したことがある。帆乃花が玲子に佳乃を玲子の学校に入学させてほしいとお願いしてきた時だった。もう二度と会うことのない人といきなり会って話すのに、玲子は緊張や不安などを通り越して、紙芝居をでも観ているのではないかという不思議な気持ちになった。

  玲子はてっきり帆乃花といざご対面となると自分の感情がコントロールできなくなると思ったが、実際会ってみると、高校時代に一度あそこまで昂った感情が、どうしても掘り出せなくなった。この人、まだ生きてるんだ、とは思ったが。

  一度でいいから、今まで何をしてたのよ、とか、どの面さげてわたしに会いにくるんだよ、とか、ドラマなら言いそうなセリフ言ってみたいわー、とも思った。

  しかし、それも一回目の時だけだった。それ以降、玲子は何度か電話で帆乃花と会話を交わしたことがあったのだが、そうしている途中に帆乃花の輪郭はだんだん玲子の中で鮮明になり、昔のことも次から次へと思い出せるようになった。

  今帆乃花と面と向かって話すことに対して、玲子は急に自信を無くしたようだ。

  「まっ、佳乃ちゃんの話なら」

  と玲子が思った。実際にこれまでの会話の中で、玲子も何度か佳乃を話題にすることによって気まずい雰囲気を回避してきた。自分の姪を盾に使ったような罪悪感もあったのだが。

  「なんとかなる、なんとかなる」

  玲子はバスルームに戻って風呂水を湧きなおした。

  お風呂の後、玲子がパジャマに着替え、食卓の隣の椅子に腰をかけた。今日の夕食が、ドレッシングにサウザンドアイランズを用いたサラダと、白ごはんと、帰り道に近所の店で買ったコロッケだ。

  いただきます、と玲子が自分しかいない部屋に呟く。

  食卓にはパソコンを運び、適当にYoutubeでグルメ動画を詮索する。

  高校を卒業してから殆ど一人暮らしだったし、その前にも両親が家にいない時何度か弟と妹に夕食を作ったことはあるが、玲子はとことん料理が下手である。自炊するときは、最小限に自分の手を煩わす料理しか作らない。

  レンジでチンしたコロッケを一口齧り、玲子がパソコンの画面に華浪に送ってもらった脚本を展開させる。

  自分なりに何箇所に修正を入れたが、玲子は心底、何も変更しなくたって十分だと思っている。問題は主役の郁美にある。

  先生という立場から言うのは不適切かもしれないが、郁美が主役に抜擢されたのは、殆ど顔が理由だと、玲子が思っている。恐らく、実際に郁美を選んだ人たちも、キャスティングには参加しなかった当時の一年生の部員たちも同じことを思っている。しかし、かといって先生という立場から郁美を役から降ろせるのも、さすがに横暴すぎるだと思う。

  困ったねー、と言わんばかりに眉をひそめた。再び齧ったコロッケが既に生温くなっていた。玲子がそんなことを気にせず、クライマックスシーンでのヒロインのセリフを何度か声を出して読み返す。

  「そこまでよ、このバケモノめ。そんな小っちゃい子をいじめないで、かかってきなさい。人間の女子高生をなめたら、大怪我で済ませないから」

  「女子高生にとってスマホは、あんたが言う神剣なんかよりずっと大事なもんだからな」

  「あんたたち、根源の魔導書なんかより、まずWifiをどうにかしろ」

  「女子高生に妥協させるんだと?そんなこと、みっともなすぎてブログにも書けないんじゃない?」

  読むのはもう三度目か四度目になるが、玲子が思わずまた失笑する。少しはステレオタイプなところがあるのだが、少なくとも華浪の書いた脚本の中に存在しているこのキャラクターたちは、みんな生き生きしている。ヒロインの子たけではない。華浪が描いたどのキャラクターも、強い存在感を放っている。一度読めば簡単には忘れられないほど、皆のキャラクター像が完成されている。

  そして、玲子が華浪の凄さに感心すればするほど、ヒロインのイメージがどんどん郁美から離れていく。ステージに立つ郁美には、あの存在感を観客に届けることができない、と今なら確信を持てる。

  そうこう悩んでいるうちに、玲子の頭の中で、一人の女子生徒のシルエットが浮かんだ。シルエットだけだ。何故なら、玲子はまだ一度もその生徒と会ったこともない。ここ最近、いつも窓からその声が聞こえるが、その子がどのクラスにいるのか、どんな顔をしているのか、どんな名前て呼ぶのか、玲子は何もかも知らないのだ。けれど、華浪の脚本を読めば読むほど、ヒロインのイメージは郁美からかき離れていき、だんだんその子の声が貼りついて離れなくなる。

  いつも屋上で何かを朗読しているその子が、読んでいる時にどんな顔をしているのかは実際に見ていないとわからない。が、いつも心を込めて読んでいることは一階下にいる玲子にだってわかる。聴くものをいつの間にかストーリーならぬ、その子自身の世界観に吸い込むような表現力を、玲子がその子の朗読から少なからずに感じていた。

  もし、郁美ではなく、その子を主役に頼めば。

  (ダメダメ。生徒たちが自ら解決するべき問題を、私が足を踏み入れすぎてどうするのよ。これ以上生徒たちのことを干渉したら、それこそ教師失格だ)

  玲子がコロッケをもう一口齧る。

  しかし、この時玲子がした決心が、その翌日に見事に打ち破られることになった。

  

  屋上に続く階段を上りながら、あくまでどんな子か見てくるだけだから、決して演劇部に勧誘したいとかじゃないから、と自分の中で唱えながら、やがては屋上の扉に辿り着く。朗読の邪魔にならないようにタイミングを伺おうとしたが、ちょうど朗読する声が止んでいるから、玲子は一呼吸整えてから、思いっきり扉を開く。

  そして、そこにいる人物を見て、ポカンとなった。

  「あれ、佳乃ちゃん?」

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