第5話

 彩奈と別れた地元の駅は、いくら建物が変わろうとも、何故か変わらない匂いがした。僕は帰ってきた。逃げ続けたのだろうか、それとも戦い続けたのだろうか。少なくとも、僕はただ生き続けた。なるようにはなり、ならないようにはならなかった。ただ可能な限り進める方へと歩き続けただけだということは、分かっている。

「ああ、お帰り。飛行機どうだった?」

 相変わらず女性が一人暮らしするには少し大きい実家に待つ母、久しぶりに見る彼女は、骨が縮んだのではと疑ってしまうくらい、僕の目には小さい。かつては厳罰な処罰を僕に与える存在だった母は、今ではただ息子の帰郷を喜ぶ、どこにでもいる母親になっていた。そして僕にとっての目下の心配は母と僕との信仰の壁ではなく、この母の老後の心配のほうがずっと強い。信仰で片意地を張れるほどこの社会は老いに寛容ではないのだから。

「シーズン前だったからね、簡単に予約できたよ。……庭の木、殆ど切っちゃたんだ」

「そうね、私一人じゃ手入れが無理だからね」

「そっか……」

 椅子に上着をかけると、子供の頃何度も食事を取ったテーブルに座り、今の中の微妙な変化に目をやった。しかし、一人で生きる空間には余程のことがない限り変化は必要ないようだ。

 父を早くに亡くなったが、それでも僕も母も姓はずっと「幸田」だった。父は資産家の出で、幾分前時代的な風潮のある家だったので、父が他界した後、祖父たちは跡取りとなる僕をどうしても手放したくなかったらしく、母にさまざまな条件をつけて「幸田」に縛りつけようとしたのだ。今となっては確認する手段はないが、母が福音協会にのめり込んで行ったのと父の死は符合しているように思う。祖父たちは母に様々な物を与えたのだろう、その名残が実家の押入れや箪笥の中に散在している。しかし、母はただ「幸田」のために自分の有り得た可能性を削っていたことを考えたならば、その多くの与えられた「物」が一体何になっただろう。母は妻になることを選択した時点で何かを諦めた。そして母であること未亡人であり続けることも彼女に何かを諦めさせ、最後に残ったものは諦めることがかなわないものだった。

 もし全ての諦めきれぬ物の極北に僕があるのだとしたら、僕は何事をも憎悪する理由がない。それはあそこで働く清掃員達にも言えることではないだろうか。

「お酒。飲む?」

 久しぶりだとか、どうして今まで帰ってこなかったのだとは一言も言わないのは、恐らく、そう言うことが何らかの、僕と母の間でギリギリに担保されている、薄いオブラートのようなものを破ってしまうからだ。どこにでもある光景であっても、それほどまでに僕と母の間は危ういのかもしれない。

「そうだね……」

母が台所の冷蔵庫からビールを取り出し、それをグラスに注いで僕の前に置いてくれた。僕はそのグラスの中身の半分以上を一気に飲んだ。

「何?」

 そんな僕を物珍しそうに母が眺めている。

「まさかアンタが酒飲むようになるとはね……」

「下戸だけどね」

「下戸ぐらいがちょうどいいのよ……」

 そう言うと母は、台所に向かって料理の準備をし始めた。それは彩奈にとってのではなく、僕にとっての普通の家庭の風景だ。こうなるまでに、なぜ僕たちは遠回りをしなければならなかったのだろうか。

「最近どう?」

「どうって?」

「何か変わったことあった?」

 母はまな板の上で魚をさばきながら考えて、「そうそう、彩奈ちゃん結婚したのよ」と言った。

「……彩奈ちゃんって?」

 とっさに知らない人間の話を聞くような口ぶりになってしまった。

「やだ、覚えてないの?彩奈ちゃん。アンタと仲良かったじゃない」

「ああ、あああ、あの彩奈ちゃんね。結婚したんだ?誰と?」 

「ほら、同じ地区の教会にいた竹原さん。竹原さんは覚えてる?」

 知ってるも何も、僕たちよりも十五歳以上も上の男だ。何かの聞き間違いではないかと「竹原さんって、竹原健二さんのこと?」と確認した。

「そうよ」

 母は当然のように言う。

「そうよって、えらい歳の差じゃない?大丈夫なの?」

「う~ん、でもあれよ?私達から見たら、彩奈ちゃんのほうがかなり積極的だったけどね?写真あるけど見る?四ヶ月前のやつなんだけど」

「……いや、いい」 

 掌が、妙に軽かった。

その日の晩、夜の街に繰り出した僕は初めて女を抱いた。金銭を介しての初体験だった。名前も歳も、笑顔さえも偽物の女を抱いた時、僕は自分が何を得たのかを知った。いや、何を失っていたかを知り得たのだ。

 行為の最中、手荒れだけが僕に正直だった女の手を眺めながら、あの緑色に輝いていた彩奈との庭は、随分と前から過去になっていたのだということを思った。


          ――――――――――――――――


――そういや幸田ぁ、くじ当たった?

――多分外れてますよ

――見なきゃ分かんないジャン

――分かりますよ、それくらい。三枚しか買わなかったんですから

当たるかどうかは問題ではない、選んだという事実だけがただ残るのだ。僕は選び、彩奈は選んでもらった。明確な意思をもってそうしたのではない。しかしくじは配られた。「僕たち」はただ待つだけだ、それぞれのやり方で。僕がやろうとしたのはくじの買い替えだった、それもまた明確な意思の無い。ただ待とう、そもそも当たりの無いくじで、彼女のくじも僕のくじも外れているのだけれど。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神を待つ子どもたち 鳥海勇嗣 @dorachyan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ