第4話

「もうすぐ、この世界は滅びるんだって」

 季節はいつだったか覚えていない。ただ、とても美しく晴れた日ではあった。部屋の電気をつけなくても、鮮明な日の光が家の窓から射し込んでいたので、僕は照らし出されたテーブルの上に、福音協会が発行している冊子を並べて彩奈に説明していた。彩奈はいつも通り、僕の言うことならば何にでも興味深そうに頷いた、それが余所から見ればあまりにも奇異なものであったとしても。

「今の世界って、イヤなことがいっぱいあるでしょ?」

 「世界」と言う言葉は、小学生が言うにはあまりにも仰々しかったが、僕は「集まり」でさんざん「長老」から、その「世界」の貧困や内戦、犯罪のことを例に出した説法を聞いていたので、比較的に自然にその言葉を口から出していた。そして、彩奈はやはり「たっくん」が言うことということで、その鹿の目をまっすぐにして、大事なことを聞いているのだという表情で僕を見ていた。

「でね、もうすぐ神様が、この世界のイヤなことを全部終わらせてくれるんだって」

 僕がそう言うと、彩奈はそのクリっとした目をより一層輝かせ、「ホントウ?」と興奮気味にこたえ、その輝いた瞳は僕に自分がやろうとしていることに自信を与えた。

「いつころ?それは、いつころ終わるの?たっくん」

 彩菜の考えるイヤなことは、口には出さなかったが、僕には痛い程良く分かった。僕もそれを知って彼女にこの話をしたからだ。貧困も内戦も、彩菜とは関係のないことなのかもしれなかったが、子供の感覚で、「イヤなことが終わる」ということはとても大事なことだった。

「わかんない。でも、長老はもうすぐ終わるって言ってる。多分ね、僕たちが大きくなるころじゃない?」

 僕の「わからない」と言う言葉を聞いても、彩奈の瞳からは全く光が失われなかった。ただ「終わる」という言葉が僕と彼女にとっては殊更大事であり、その言葉だけで、彩奈の顔は心につっかえていた棘が抜けたように安らかな顔になった。彼女は前歯の抜けた笑顔でまっすぐに私を見つめ、そんな彼女の笑顔を見ながら、僕は自分がとてもかけがえのない空間にいるのだと思った。彩奈は足をバタバタさせながら、待ち遠しい何かの到来を待つよう、福音協会が発行しているパンフレットの表紙絵を眺め、その表紙には、大きな庭の真ん中で、様々な人種が笑顔で食事をしている絵が描かれてあった。そこには僕と彩奈が体験した、一切の「イヤなこと」が排除されていて、僕はいつかこの絵と同じ食卓を彼女と囲むのだと信じていた。彼女も僕も、その絵を見ている間は「イヤなこと」から解放され、救われていたのだ。

 それからすぐに、彩奈は福音協会の「集まり」に顔を出すようになった。彼女の父親がこの事に賛成するとは思わなかったので、最初は日曜に開かれるお昼の「集まり」に彼女は出席していた。母は僕が彼女を「集まり」に誘ったことを誇りにして、周りの研究生に「息子が布教したんですよ」と話し、「長老」も私の勧誘を喜び、「拓郎君は将来、きっと素晴らしい伝導者になるよ」と頭を撫でてくれた。しかし僕にはその一切がどうでも良かった。彼女を苦しめるものから彼女を解放したのだという喜びだけが僕にあった。そして、普段は陰鬱なだけだったこの「集まり」が、彼女の参加によって僕にとって大きく意味をなすようになったのだ。

 しかし、本当にそれだけだったのだろうか。僕にとって彼女は、それだけで済む存在だっただろうか。振り返ると、僕も彼女と同じように救いを欲していたのだ。彼女が救われることで僕が救われるという優しいものではなく、救われない彼女が自分の手元にいることが、僕にとっては重要だったのではないか。いちいち邪推をしても仕方がない。しかし、僕は彼女といる時には、綺麗とはいえない、言い表せないような黒い感情を味わっていたのは確かだった。

 そんな僕を尻目に、彼女は熱心に「長老」の話を聞き、より一層研究者として期待され始めた。しかし、彼女の家庭のことは、彼女と近所の「研究生」もよく知るところであり、もちろん母もそのことを知ってはいた。そのせいか、僕の地域の「研究生」達の行動は早かった。僕が知らない内に彼女は、「研究生」夫婦の養子になっていたのだ。ある程度ものが分かるようになってから知ったことだが、「長老」をはじめとする「研究生」達が彼女の現状を役場に訴え、保護された彼女を子供のいない「研究生」夫婦が引き取ったのだという。確かに、いつの間にか彼女の苗字は田原から辻へと変わっていた。今思うと、その手際の良さにはゾっとせざるを得ない。

 それから彼女は水を得た魚のように「集まり」顔を出し、あっという間に布教活動に参加するようになっていった。彼女を誘った僕でさえ、母に連れられて嫌々行っていたのに、彼女は殆ど自主的に布教活動に従事したようだった。いつしか彼女の袖から覗いていた痣は完全に消え、彩奈は年相応の体系になっていった。とても喜ばしいこと、の筈だった。しかし、僕にとって必要だったのは彩奈の中にあったものだった。けれど、彩奈に必要だったものはそうではなかったのだ。

 あれは僕の初恋だったのだとは思う。しかし子供の時分、感情といううものが未分化だった頃、僕にあったのはただ一重に彼女への想いだけだっただろうか。

 そのまま僕と彩奈は同じ学区の中学校に行くようになった。彩奈はますます模範的な信者になり、そのまま正式に組織から認定を受けた「研究生」になった。一方で僕は、彼女と反比例するかのように「集まり」にはあまり顔を出さなくなっていた。同じ二世会員も同じ学校にいたにはいたが、僕は中学校で、自分で作った仲間との遊びに夢中だった。タバコを吸ってみたり、不必要な万引きでスリルを味わったてみたりと、その友人達は僕にとって一つの「出口」だった。もちろん彼らには自分の家が福音協会の信者であることはひた隠しにしていたのだけれど。

「オウムやべぇよな……」

 僕が中学校の頃は、丁度オウム真理教が世間を騒がしている真っ只中だった。遠く離れた東京での事件だが、当時中学生だった僕たちの関心を引くには十分だった。ワイドショーの扱うネタもそういった宗教がらみのものが増え始め、必然的に少年だった僕たちの話す内容もテレビに比例していた。

「西区にさ、○○教の事務所あるじゃん?あれって大丈夫なの?」

「ああ、あそこさぁ、ガキの頃お袋に近寄るなって言われてた」

 へぇ、まじで?そんなことを繰り返しながら、僕は仲間に白々しい相槌を打っていた。幼少のころに感じていたあの薄く、そして丈夫な透明の壁を教室でも感じながら。

「そういえば、福音教ってのもあるよね?」という友人の言葉に対して、「なにそれ?」と僕は初めて聞く言葉のようにそれに興味を示した。

「なんかさぁ、あそこって生の肉食べちゃいけないらしいよ」

「まじで?なんでよ?」

「アイツら血を食べちゃいけないらしいんだ。だから生の肉には血がまだ入ってるから食べれないんだって」

「うへえ、じゃあステーキとか毎回ウェルダンなんだ」

 一つ一つを頭の中で訂正をしながら、僕は笑い頷く。

「あ、そうそう。四組の辻って福音教の信者らしいぜ?」

 その名前と一緒に僕の表情は固まった。

「マジで?あの可愛い子だろ、何でわかんの?」

「マジマジ。だってこの間、俺んちにアイツがパンフレットみたいなの配りに来たんだって。何か、表紙に黒人とか白人が載ってる気持ち悪いやつ」

「ショック~。アイツの事結構好きだったのに~」

「つーかもう宗教とかなくなりゃいいのにな、いらなくね?アイツら」

「だよね、マジうっぜぇ」

 僕は笑う。くるくる笑う。今思い返すだけでも、あれ程までに下種びた笑いを僕は知らない。それ以来、その話を聞かれたわけでもないのに僕は彩奈との距離を極端に置き始めた。

「あ、たっくん。今度、竹原さんちでレクリエーションやるんだって。行かない?」

 それでも、どうしても同じ学校にいる限りは彩奈とは顔を合わせざるを得なかった。その頃には、あんなにも自分にとって大事だったはずの彩奈は、その「たっくん」という声は、あの校舎では異物のように響くようになっていた。

「私も……クッキーとか持ってくんだ。自分で作って」

「へぇ、そう……」

 僕の体は彩奈からすぐに逃げられるよう後ろ足に力がこもり、体の軸は待ち合わせを急いでいるかのように彼女から反対の方向を向く。

「最近あんまりさ……、たっくん来ないでしょ、こういうの。みんな心配してた……よ?」

「皆って?」

「え、うん。その……竹原さんとか」

「行けたら行くよ」

女性というのは敏感だ。例え彼女がこれまで人とは離れた生き方をしていようとも、僕の変化を感じ取った彩奈は、僕との会話を人目につかないところでばったり会ったとき以外は話しかけず、しかしそれも次第になくなっていった。ただ必要なものが変わったのだ、僕たちは。彼女には目に見えないものが必要だった。僕には目に見えるものしか必要ではなくなった。ただ服を季節で着替えるように、それはごく自然な事だった。誰にでも起こる事だし、経験する事なのだが、それは僕に、成長する手首の傷のように痕をつけ続けている。

 高校に上がると完全に彩奈とは離れ離れになった。その時、僕は一つの過去から自由になったのだと思った。そして全てを過去に変えるため、僕は受験勉強に励んだ。あの当時の僕には、あの彩奈を含むすべての思い出を、過去にすることでしか、自由を得る手段が見つからなかったからだ。母は僕の不穏な態度を感じ取ったようだったが、父を早くに亡くし、女手一つでここまで僕を育て上げた母は、何と言って僕を引き戻したらよいか分からないようだった。他の熱心の信者のようにしようとも、それ以上に子供に嫌われてしまうのが、母としては恐ろしかったにちがいない。大学受験には失敗したが、僕はそのまま専門学校に行くために故郷を離れた。相変わらず僕には目に見えるものが必要で、彩奈にも母にもそれは必要ではなく、必要なのは喪失を補う手段であり、僕には喪失すべきものがまだ無かった。

 故郷を離れる当日に、きっと母に呼ばれたのだろう、駅まで彩奈が出迎えにきてくれていた。彼女が僕に渡した手提げ袋を電車の中で開けると、そこにはあの日僕が彩奈を勧誘するために使ったパンフレットと、女の子らしい便箋に入れられた手紙が一通入っていた。「たっくんへ」と書かれたそれを空けて数行読んだけれど、彼女の僕に対する想いと彼女の信仰を綴った手紙を、僕はすぐにまた手提げ袋に放り込んでしまった。それ以来、その手紙とパンフレットは、手提げ袋ごと押入れに入れたままだ。

 どうしてだろう、彩奈と遊んだあの庭の色はあんなにも鮮明なのに、あの彩奈と別れたあの日は晴れていたのか、どんな色だったのかすら覚えていないのは。


                ※※※


 勤務者に欠員が出たという田辺の連絡を受けて、拓郎は久しぶりに清掃員として現場に出勤した。鼠の様な作業服に身を包み従業員の朝礼に参加したが、久しぶりの現場は数日間風邪で休んだ後の学校の様だった。

「おお、幸田ちゃんじゃないの久ぶり~。なに、とうとう降格でもされた?」

 先日、交通費の件で拓郎に突かれた宮本だったが、そんなことを根に持つという発想すらないのだろうか、それとも普段の印象を良くしておこうという腹づもりだろうか、気安く拓郎には話しかけてくる。

「そんなんじゃないっすよ、柴田さんが欠ったんで」

「まぁたあのオヤジかよっ。前もやったじゃねぇか。もうクビだなっ」

 十分お互いにオヤジなのに、何を張り合ってんだろうと拓郎は疑問に思いながらも、宮本に合わせて首を軽く振りながら笑った。

 勤務開始の十五分前、柴田が受け持つはずだったフロアを確認すると、拓郎は同僚たちと従業員専用のエレベーターに乗り込む。

「あれ?飯島さん、この掃除機なんか……、」

 同じフロアを回るはずの飯島の掃除機の吸引部分が、会社で使っているものと規格が違う事に気づいたが、周りには清掃員以外、カフェテリアのスタッフ等もいたので小声で樹は話しかける。

「ああ、これね。これ、俺専用にカスタマイズしてんのっ」

 飯島の声は全然小さくない。

「カスタマイズって、これ会社の備品……」

「こまけぇこたぁ気にすんなっ」

「はぁ……」

 久しぶりの清掃現場だったので手際が悪く、一緒に回っていた飯島は「支社の人間のクセに使えねぇなあ」と拓郎を笑う。今日回っているフロアは、オフィスのテナントが設置している棚や増設部分が多いため奥まったスペースが多いので、飯島のやるように細い吸引先の方が作業がはかどるらしく、規定のものを使っていた拓郎は余計に時間をかけてしまったのだ。

「なるほど、自前でノズルを用意したのはこのためか」と、無駄に吸引先を何度も取りはずながら拓郎は苦虫を噛む思いをすると同時に、数本、支社に頼んで先の細いノズルを用意することを考えた。

 昼休み、量が取り柄のカップ焼きそばを従業員専用のコンビニで購入して休憩所へと向かう途中、宮本が通路の端で携帯電話をかけていた。別の業者も使う共有部での電話は会社から禁止されているので、拓郎は宮本に声をかけようとしたが、「はいっはいっ、すみま……申し訳ありません。明日には必ずお支払いしますので」と、抜き差しならない電話の内容だったので、拓郎は見て見ぬフリをした。その場を去りながら、拓郎は宮本が放置していたカバンから、各種の支払い用紙が顔を覗かしていたことを思い出した。

 カップ焼きそばを平らげると、拓郎は現場の人間とのコミュニケーションの為に喫煙室に足を運んだ。給料も現場の人間と変わらない上に、会社のためにそこまで従業員に気を使う必要もなかったのだが、そうしたほうがいざ電話でやり取りをやる場合に人間像が浮かびやすいという配慮からだった。タバコを吸わないのでただ椅子に腰掛け、窓から漠然と景色を眺める。窓から見える濃い緑は、今が夏であることを拓郎に思い出させた。室内で作業し続けているので、いつの間にか肌で季節を感じることを忘れていたことに拓郎は愕然とする。いや、肌で感じることを忘れているのは、何も景色だけではないのではないだろうか。いつの間にか自分はゆっくりと様々な感覚を閉ざしているような、そんな下り坂のような毎日を拓郎は過ごしていたのだから。

「お、幸田ちゃぁん。タバコ?」

「いえ……、ここからだと、景色がいいんですよ」

 宮本が差し歯の入れていない笑顔を浮かべながら「風流だねぇ」と拓郎の正面に座り、胸ポケットの中からクシャクシャになったセブンスターの箱を取り出す。取り出したタバコはやはり気の抜けたように曲がりくねっていて、まるで彼の背骨そのものがそうなっているように拓郎に思わせる。

「……なんですか?」

 宮本が景色ではなく、自分の顔をまじまじ見ているのに拓郎は気づいた。

「いやぁ、幸田ちゃん見てるとさ、若いっていいなって思うよ、ほぉんと。悩みなんて大してないだろ。大体体力で乗り切れちゃうもんなっ」

「ははははは」

 タバコの煙を吐き出す宮本以上に、拓郎の息は乾いていた。

「ホントだよっ。この歳になってくっとなぁ、鏡見るのもいやになってくんだよ……毎回映るのがこんなジジイだぜ?この顔がなぁにを積み重ねてきたのか、そんなこともあやふやになっちまうよ」

「はぁ……」

「色んな思い出がな、単なる過去になっちまう。そうなっちまったら人間おしまいだよ」

 モゴモゴ言う宮本の抜けた歯を見ながら、多分この人は国民健康保険を払っていないから差し歯を入れられないのだろうということを拓郎は思った。

「……幸田ちゃんは何?彼女とかいんの?」

 出し抜けに、抜けた歯の黒い部分を覗かせながら宮本が言う。

「いえ……」と、クールに答えたつもりだったが、

「おいおい、もしかして童貞じゃねぇだろうなぁ?」

 という、宮本の遠慮のない一言で思わず拓郎は声を上ずらせてしまった。

「んなわけないじゃないですか。俺、もうすぐ三十ですよ?この歳で童貞とか……」

「ほんとかぁ?……誰かいい人いないの?」

「いえぇ……」

 喫煙室に来たことを少し後悔しながら、拓郎は宮本の口にあるセブンスターの火を見つめながら宮本と話す。

「なんか相談あったら話しなよ。ダテに俺だって結婚をしてないんだからさ」

 宮本は自信を持って言ったようだが、宮本の結婚相手がフィリピン人で、しかもすぐに別れてしまったという、イリーガル臭の凄い事は職場では周知のことだったので、相談する気などはまったくなかった。しかし拓郎は、「ずっと……忘れられない人がいるんですよ」と、どうも自分を低く見ている宮本に、自分は宮本が思っているよりも重いものを抱えているんだということをアピールする為に、敢えて宮本に乗ることにした。

「お、初恋の人とか?」

 鈍いのか鋭いのか、妙なポイントを宮本は突いてくる。

「そういうわけじゃ……ないんですけどね。ただ、どういった形でもそのコとのケリをつけないと、前に進めないんじゃないかなって……」

「なに?妊娠とかさせちゃったの?」

 グムッと喉に痞えながら拓郎は否定する。

「彼女とかじゃないんだ」

「まぁ、そうです。彼女とかじゃないです。ただ、その子のことがどうにも消えなくて。なんかいろんな意味で……。もしかしたら自分のやったことが、彼女の人生に大きく影を落としてるんじゃないかって思うことが……、まぁ多々あるんです」

 うまく言葉にはならなかった。そもそも、それが言葉になるのなら拓郎は今とは違う歩みを続けているのだが。

「自分、その子に対して本当にやらないといけないことを……やってないような気がして……。それをほっぽり出して恋愛だとかなんだとかは筋が通らないんじゃないかとか思ってるんです……」

 宮本は、神妙な顔つきから一転して言う。

「そうか……うん。お前、ソープ行け」

「はぁい?」

 拓郎は呆れながら周囲を見渡した。幸い警備員が一人、携帯電話をいじりながら音楽を聞いているだけだった。

「綺麗なオネエチャンに抜いてもらえ。イチモツから全部出てくぞ、そんな悩み」

 机の下でガコガコと腰を動かす宮本を視界に入れながら、とりあえず拓郎は今日欠勤した柴田を激しく恨んだ。

 PSPで通信対戦をしながら、「『スレイヤー&ソード』の新作買う?」と、舛添が咥えタバコで言う。就業後は支社のすぐ近くにあるマクドナルドで、拓郎と舛添はポータブルゲームに勤しんでいた。会社周辺で数少ない煙草を吸える店なので、その部屋の空気は白み、軽くフィルターが掛かっているようだった。

「どうでしょう、様子見ですねぇ」

 新作の発売されることを拓郎は失念していた。というよりも、亀田からのメールになんと返信して良いかわからないまま数日が過ぎ、拓郎はポケットの存在感ばかりを気にしていたからだ。問題の先送りのための緩和剤として、拓郎は舛添に誘われるまま、彼のクリアできないクエストの攻略に付き合っていた。

「新作ってさ、ダークエルフ出ないらしいよ?」

「マジっすか?糞じゃないですかっ」

 フェッフェと舛添が独特の笑いを浮かべながらPSPのボタンを連打する。

「ダークエルフと……、後サイボーグもなんか変更があるんだって」

「まぁ別、サイボーグは使わないからいいんですけどね。でも、ダクエル(ダークエルフ)がないのは痛いですよ」

「お前、ダクエル使いだもんな。……間違いなくファン失うよな、スレソ(スレイヤー&ソード)は」

 空になって時間の経ったコーヒーカップを挟み、何気ない会話を舛添と交わしながら、拓郎は二世会員の手記や藤森との会話を気にしていた。なるべく妙な聞き方をしないよう、自然なつもりで舛添に聞く。

「舛添さん。俺ってコミュニケーションの取り方変ですかね?」

「変だねっ」

 舛添は口のタバコが落ちるのではないかというくらいの勢いで即答する。

「……どのへんが、変ですか?」

「も、全部」

 画面からまったく目を離さない舛添は、完全に真面目に答える気はないようだ。相談する相手を間違えたと拓郎は思ったが、そもそも親身に相談する相手が自分にいただろうかとも思った。

「何?なんか誰かに言われた?」

 上目遣いで、睨むように舛添が言う。

「ええ、まあ、そんなところです」

「……変じゃない奴なんていないよ。特にこんな仕事やっててさ、ゴミなんか漁ってると、よくこんなもの平気で捨てられんよなってものが結構あんじゃん。捨てた奴としてはなんとも思ってないんだろうけどさ。当然のことを当然にやってるって時点で変なんだよ。まともな奴は、別のまともな奴から見たら変なの。みぃんな変、狂ってる。……てかさぁ、早く援護に回ってくれよ?俺、死にそうなんだけど」

「おっと、すいません。イグニス(拓郎のキャラ名)様が今参りますから、持ちこたえてくださいなっ」

「は~や~く~」

 舛添は聞き分けの悪い彼女のように、甘く駄々をこねた。それが気持ち悪かった。

「……そういえば、就職先みつかりました」

 舛添の手首を隠すために填められている真っ白なサポーターを見てしまった拓郎が訊く。

「……まだっ」

 一時期は会社のPCで職探しをしていた舛添だったが、最近はまた元のウィキペディア閲覧に戻っていた。

 自称「タランティーノに影響を受けた男」で、出来の良い映画を観る度に「才能に嫉妬した」という類の映画批評などをブログに公開していた舛添だったが、拓郎がその関係の会社、映画配給会社などを薦めると「あそこブラックだからねぇ」と、結局何も動こうとはしなかった。しかし同時に拓郎は思う。目の前のこの男と自分に大差はないのだと。

「そういや、幸田ってどこ出身だったっけ?」

「……山口です」

「山口といえば岩国、政治家が多いな」

 ウィキペディア閲覧が趣味の舛添は、妙な情報に詳しい。あまり迂闊なことを言うと、事あるごとに反論を受けてしまうことを拓郎は知っていた。

「へぇ、そうなんですか。はじめて知りました。どんな人がいます?」

「……知らない」

 そしてざっとしか目を通さない舛添は、大体細かいことは知らなかった。

「帰んないの?お前が帰ったって話全然聞かないけど?」

「飛行機代がバカ高くって……」

PSPの操作を少しミスりそうになりながら拓郎が言う。

「親不孝もん」

「んなこと言ったって、舛添さんだって長いこと帰ってないんでしょ?」

 拓郎がそう言うと、舛添は咥え煙草の口を歪ませ、フィルター部分を噛み潰すように答える。

「親ともめてんだよ」

「なんと……」

 拓郎はこの職場では各々の過去には殆ど言及されないことに改めて気づかされた。ゴミあさりの清掃員たちは、皆好き好んでこの職場にいるわけではない。特に年配者ならばなお更である。お互いに、話したくない過去があることは暗黙の了解なのだろう。そんな職場だからこそ、拓郎は長い間ここに勤務できたのかもしれない。抱えているものの共感はできないが、抱えているという事実の共有によって、それを耐える原動力が僅かながら生まれる場合もある。

「勘当されてるとか?」

「そうじゃねんだけどさ、こっち飛び出してきて?ダラダラやってたらもう三十も後半、いわゆるアラフォーよ。自分には何かあるんじゃねぇって勇んでたのはいいが分かったのは……」

「自分には何もないってことが分かったくらいですか」

「てめぇ、皆まで言うんじゃねぇよ」

 そう言うと舛添はもう火のついていない煙草を樹に投げつけるふりをした。

「すいませぇん」

 舛添はソフトケースに残っている最後の一本を取り出した後、それを思い切り握りつぶした。まるで嫌がっている口に無理矢理煙草を突っ込んだようだ。

「まぁ、ぼちぼちやることもやったんで、そろそろ実家に帰って農家の後でも継ごうかなって帰ったわけよ」

「すごい根性ですね」

「あそう?で、帰ったのはいいんだけど、親父に言わしてみれば、散々ほっつき歩いた挙句、いまさら家継ごうってのは都合がよ過ぎるんだと」

「親父さんの気持ち、すごい分かります」

「お前、どっちの味方だよ」

「まあまあ。で、それから実家には帰ってないと」

「それ以外にも色々あるんだよ……、てお前、死んじゃったじゃん。ちゃんと援護しろよっ」

 興奮した舛添の口から煙草が彼の膝に落ちた。舛添は「うわっち」と驚きながら、落として汚れた煙草を恨めしそうに睨んだ。

「踏んだり蹴ったりですね」

「っせえな」

 色々ある。舛添は軽く言ったかもしれない。しかし、年を重ねれば重ねるほど、色々の「色」は増えていく。例え凡庸な、単調な人生であろうとも。そしてそれはどうしようもなく人の立ち振る舞いに滲み出てしまう。幾層にも重ねられてマーブル模様になった人の色は、常に渦巻いてその時折に違った発色をする。年配者の多い職場でその色を見続けた拓郎は、時折彼らの抱えているものの中に、自分の色など比較にならないほどに歪なものを感じることがある。いや、もともとは歪ではなかったのかもしれない。だが、ただ冷ややかに流れる時間は、孤独の中、真っ直ぐだったものを歪に変えてしまうのだろう。拓郎がそんな彼らに取れる態度は、優しさでも誠意でもなかった。

「……帰っとけよ」

「舛添さんが帰ったら帰りますよ」

 フハッといつもどおりの笑いを舛添は浮かべたが、いつもよりは強くはなかった。

「あんまり時間かさねっとな、親が死ぬ以外じゃ帰れなくなんぞ……」

「はぁ……」

 それからの一時間弱、二人の会話は次回に配信されるダウンロードクエストの話題に終始した。

 拓郎はその日晩、初めて自分から母に電話をかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る