ゴルバチョフの午後

鳥海勇嗣

第1話

 喫茶「ゴルバチョフ」。その変わった店名から町の名物となっている喫茶店だが、店名の由来は不明である。以前ローカルテレビが特集を組んで取材をしていたが、店主は面白半分で取り上げられたことを不快に思い、その由来はついぞわからぬままとなっていた。平日の午後四時、この喫茶「ゴルバチョフ」に二人の男女が入店してきた。男は黒のスーツに、青い縞のシャツ、赤と白のストライプのネクタイ、女は赤のワンピースに白いカーディガンを羽織っている。特に目立つ格好というわけではないが、何か気になって仕方ないようで、たった一人のウェイトレスは、時折その二人を見つつその会話に聞き耳を立てていた。


「いや驚きましたよ。あんなところでお会いするというのもそうですが、まさか貴女から話しかけてくるとは。」

 歳は30代後半くらいであろうか、男は懐かしそうに話していた。女性は年齢にして40代後半といった感じである。しかしどう見てもこの二人は夫婦の類ではないし、付き合っているという感じではない。歳が離れているというのもあるが、何よりこの二人はぱっと見、何か違う世界の人間だという風に見受けられる。男のスーツは地味目で、シャツにはアイロンがかけられていないし、ネクタイには皺がよっている。どうもこの男は、スーツにネクタイさえしていれば、人前に立てるものだと考えているようだ。付き合っていない、というのはせめてデートをするならもう少しこの男は服装に気を使わないといけないし、女も女で、買い物には行ける格好ではあるが、少なくとも男に会いに行く格好ではない。そしてそれ以上に二人はまったく違う人生軸、まったく違う生活空間で生きているようであり、そのため見る側としては、この二人が時間を共有することを想像することが難しいのだ。しかし、それでも男はまるで離婚した夫婦が再会したかのように女に、親しげに話しかける。

「あれからどれくらい経つんですかね?」

「3年ですね。」

「ああそう、3年です、そうですよ。あれからどうなりましたか?その……、ご主人とは。」男はこの『ご主人』という単語を口から出すのには何かしら、遠慮があったようだ。

「離婚しました、一昨年の暮れに。」

 この『離婚』という言葉を出すには幾分軽い感じで女は答え、さらに奇妙な言い方で続けた。

「そう『離婚』ですね、世間一般的にいうと。ただ私達からすると『解散』の方がニュアンスが正しいと思いますが。」

 その言葉を意外だという風に男が聞き返す。

「そう……、ですか。ええとそれはなんと言うか、不躾な事を聞いてしまいましたようで……。」

「いえ、良いんですよ。分かっていらしたでしょう?世間一般的にはもう役目を終えていた家庭だということぐらい。」


 仕事をしながら聞き耳を立てていたウェイトレスは、そろそろ納品チェックをしなければならない時間だということを思い出し、盗み聞きも早々に、黙々と雑用に取り掛かり始めた。


一、依頼


 三年前、俺は実に奇妙な依頼を受けた。職業柄、変わった仕事を請けてこなかったじゃない。しかし、それにしたってあの依頼は奇妙だった。


 その頃の俺は以前の事務所から独立して自分の興信所、いわゆる探偵事務所を立ち上げて数年経っていたが、本業は安定せず、自転車操業といった感じで、仕事よりも毎月の支払いの工面に頭を悩ませる毎日だった。その当時の仕事のほとんどが、失踪したペット探しや別れさせ業、見合い相手の素行調査、結婚式・葬式の頭数合わせなどで、到底小説やドラマの材料となりえるものではなかった。決して「明智君、事件だよ」というような展開を望むほど子供でもなかったし、別にシャーロック・ホームズに憧れていたわけではないが、それでも現実の探偵業の日々はなんとも味気なかった。


 その日は、一昨日に連絡をもらった依頼者と喫茶店で打ち合わせをする予定だった。依頼の内容は「自分の身代わり」、要するにいつものように結婚式・葬式の代役なんだろうと、タカをくくっていた。出席して、ご祝儀を渡して、飯を食って、紹介されて、ハイ終わり。どうせ一生会うことのない奴らだ、何の問題もあるまい。そう考えるとなかなかおいしい仕事じゃないか、ついでに滞納した家賃をこれで支払うこともできそうだと、実に足取りも軽く待ち合わせ場所に指定された喫茶店に入っていった。


 店内に入るとちょうど昼時だったというのに、ほとんど人はおらず、目に付く客といえば、老婆が二人と常連だろうか、初老の男がカウンターで店主らしき男と話しているだけだった。さらに見渡してみると、店の端、観葉植物で区切られた席で、身を隠すようにして座っている男が一人いた。歳は30代後半ぐらいだろう、オーダーメイドのピッチリとしたスーツ、几帳面さを超えて神経質さが伺える髪型、何かこの男だけ、この空間の異物といったいでたちだったので、俺は直感的に(別に探偵の勘だとか大げさなものではないが)多分こいつが依頼人なんだろうなとある程度の目星をつけた。

 こちらがそう思った矢先、向こうもこちらを気づいたらしく軽く会釈をしてきた。何とも形容しがたい、なんというか、決して暴力的ではないが、挑発的な会釈だ。俺が近づくと、男は立ち上がり、張り付いた満面の笑みを浮かべて、名刺を差し出しながら自己紹介をしてきた。

「ムカイと申します、よろしく。」

 阿古屋貝みたいにがっしりと閉じられた口、アーチ状になってこそいるが、その奥には温かみを感じない目、なんとも嫌な笑い方しやがる。営業スマイルのようにも見えるが、その実こちらの人間性を値踏みしているといった感じで、なんとも信用の置けない笑顔だ。とはいえこちらも、不快感をこの男に悟られるわけにもいかず、やはり名刺を差し出し営業スマイルで対応する。

「こんにちは、はじめましてサイトウです。」

 こちらはこちらで軽めに笑顔を作っておく。

「立ち話もなんですから、どうぞ。座ってくださいよ。」

 名刺に目をやるとそこには某外資系の会社の名前が、「ふぅん、報酬については心配することはなさそうだ」と安心していると、男は頭を「まいったなぁ」といった感じで掻きながら(しかしその髪形を崩すことなく)話し始める。

「いやいや、今回もしサイトウさんに断られてしまったら、私どうしようかと思っていたんですよ。いえもちろん、まだサイトウさんがこの仕事を請けていただけると決まったわけではありませんがね。」

 声の抑揚から、この男がへりくだってはいるが、やはり自分が下にいるという意識がないことが分かる。

「ええ、引き受けるかどうかは勿論依頼の詳細を伺ってからです。しかし、基本的にムカイさんの代わりに何事かをやってほしいということですよね?結婚式や葬式の代理出席、後アリバイ工作というものもありますが、私たちの世界の仕事では割とどれも一般的なものですよ。」

 そう、どの仕事も一般的で大して難しいものではない。

 一方で俺は、探偵の性というほどのものではないが、受け答えながらムカイヒサオ(名刺にはそう記されていた)という人間を理解するため、彼の体のパーツの一つ一つに、目の焦点を当てずに注目した。肌、ストレスのたまる職場なのだろう、ある程度男にしては気を使ってはいるようだが、やや荒れている。髪は襟足までキッチリと整髪料で固められていて、少しの乱れもない。先ほど頭を掻いた際に、髪が乱れないように気を使うなど、身だしなみには一際気を使う性格のようだ。指には既婚者ということで結婚指輪が、その爪先はやはり男にしてはきちんと整えられていて、気持ちの悪いくらい綺麗だった。

「そうですね、サイトウさんの最後に仰ったアリバイ作りというのが一番近いのかもしれないになるのかもしれません。実は私、数日有給休暇を取るんですよ……、家族に内緒でね。その間代わりになってほしいんです、私の。」

 少し男は遠い目をしながら語った。

 なるほど不倫旅行か、しかし納得しながらも同時に何か男の物の言い方に違和感を覚えていた。この男の代わり?どこで?誰に対して? 

「はい、アリバイ作りでの身代わり……、というのは分かりましたが具体的には?」

 ふと、さっきの言った今まで断られていた、という言葉が頭をよぎった。

「ええ、私の代わりに父親をやってほしいんです。三日間。」

「つまり?」

「はい、ですから私がいない三日間、家族が怪しまないように私の代わりに父親として家にいて欲しいということです。だってあなた、何も言わずに亭主が三日もいないなんて、普通の家族だったら怪しむでしょう?出張ということにしてもいいんですが、出張の場合、いちいちその用意をしなければなりませんからね。」


 え、何言ってやがるんだこいつ?男の無茶な依頼に頭が一瞬くらっと来た。もう帰ってしまおうかとも思ったが、いやいや向こうの言い回しが紛らわしいに違いない、まぁ話を確認してみよう。

「ええっと、私の勘違いかもしれないんですが…、もしかして依頼というのはムカイさんのご家庭にもぐりこみ、三日間ムカイヒサオさんとして過ごす、ということで宜しいのでしょうか?」

「はい、そうです。」

 男のはっきりした口調が余計俺を絶望的な気持ちにさせた。

「仰っている意味がわかりませんね?ムカイさんと私が瓜二つの人間ならまだしも、いやもしそうだとしても実の家族を騙し遂せるとでも思いますか?無茶苦茶言わないでください。こういった依頼でしたら、なるほど、どこからも断られるわけですね。ちょっと、まともじゃあありませんよ。ふざけているんですか?」

 実際、俺とこの依頼人は全くといっていいほど似ていない。年齢も背丈も、そもそも似ているところを見つけ出せということが難しい。同じ人類だという共通点しかないんじゃないのか。俺が呆れながらその男を見ているにも関わらず、しかし向こうは相変わらずの笑顔でこちらを見ている。

「いえいえ、分かっておられないのはサイトウさんのほうですよ。サイトウさん、ご結婚は?」

 商談の相手に話すかのように男は話し始める。

「……いえ。」

 こう俺が答えるや否や、それ見たことかといった調子で男は続けた。

「ご結婚されたら分かりますよ。結婚して家庭に入ると、男は一人の名のある人格ではなく、某家庭の『旦那』さんになるんです。某家庭の『旦那』さんは何処の大学出身で、何処の企業にお勤めで、年収はおいくらで……、と一つ一つ記号を与えられていくんです。近所から、会社から……、女との違いなんてその記号の種類の多さぐらいですよ。実際の主体として何たるか、なんて誰も見ちゃいないんです。」

 男は窓の外を見て(実際には視界に何も捉えてないのだろうが)自嘲的に口を歪めて笑い、さらに続ける。

「で、それは家庭の中だって一緒なんです。私はあそこで『夫』という記号を、『父』という記号を与えられているだけなんんですよ。彼らの見ているのはあくまで記号であって……、私そのものなんかじゃありません。逆に言うと彼らは、記号を引き受けた人間なら誰だって『夫』もしくは『父』として受け入れるんです。多少容姿が似ていないなんて大した問題ではありません。ねぇ、どうですサイトウさん?騙されたと思って私の家に『帰って』みて下さいよ。もし妻を騙せなかったなら、とっとと出て行けばいいんです。もしそうなった場合でも、依頼費の半分は払わせていただきますよ。」

 どう考えたって、男の話はまともじゃない。しかし、このおそらく優秀なビジネスマンなのだろうこの男の話口は、その「まともじゃない」と思っているこちらこそが、実は間違っているのではないだろうか、と思わせるような不思議な力を持っていた。そんな感じで俺がムカイヒサオの話術にはまり始めたところに「コーヒーを持ちしました。」と、少しやる気のない感じの、舌足らずに話すウェイトレスが、二人の空間に割って入ってきた。

 俺はこのまともではない空間に、少なくとも一般的な人間であろうこの女性が割って入ってくれたことで、少しの休符がついたような気がして内心ほっとした。しかし、正面のムカイヒサオの方はというと、せっかく話術に俺を嵌め込んでいた最中にその邪魔されたように感じているようで、顔から苛立ちが若干滲み出ていた。少し会話を有利にしようと俺はポケットからタバコを取り出す。

「申し訳ありませんが一服よろしいですかね?」と言いつつも、俺はすでにライターを手に火をつける準備をしていたのだが。

「ええ、どうぞ。私も吸わせていただきます。」

 そういうと男は胸のポケットから、フィリップモリスを取り出し、安いのか高いのか分からないライターでそれに火をつけた。一応依彼は頼人、お客様なのだし、ライターを差し出し火をつけてやるべきかとも思ったが、この男のために利害関係以外で何かをしてあげるということがなぜだか憚られたので、そのまま何も言わずに俺は自分のタバコを吸い続けた。

 お互い目を合わせずに、ただタバコを吸っていると、男の方が痺れを切らしたらしく「ところで依頼の方は……、」と言い出すような兆しを見せた。しかし俺は何らかの形で、会話のアドバンテージを取りたかったので、

「フィリモですか?」と、彼が切り出す前にこっちから話してそれを打ち切った。

「ええ……。」

 男は「どうでもいいだろう」といった感じで受け応えたが、それでも俺は、

「うまいんですか?」

「いつから吸い始めているんですか?」

「自分はLARKを吸っているんですがそれは……という理由で……」

「千円に値上がりなんて冗談じゃないですよね」などと、完全にタバコのほうに話をシフトさせた。男は先ほどと同じ、やはり張り付いた笑顔で会話をしていたが、さっきよりも笑顔の張り付き方にハリがないように思えた。その男の僅かな表情の変化を読み取ってから、本題に話を移す。

「……ところで依頼のほうなんですが……。」こう切り出すと、少し男の目に光が戻った。

「確認なんですが、私はムカイさんのご自宅にただ居るだけで良い。なるほどよく分かりませんが、ムカイさんの言うようになぜだかムカイさんのご家族はそれでも私のことをムカイさん、つまりムカイヒサオと認識するわけですね。……わかりました。お受けいたしましょう。しかし、ムカイさんの言うようにもし奥様、もしくはご家族に私の正体がばれてしまったなら、その場で依頼は打ち切らせていただきますよ?そしてそれでも報酬はやはりいただきます、半分ほど。それでよろしいでしょうか?」

「そうですか、受けていただきますか。いやぁ、ありがとうございます。」

 俺の受諾の言葉を聞くと、男は俺と会って初めて目に光を宿して微笑んだ。しかし、その笑みはやはりどこか挑発的であり、俺の不安はより大きくなってしまった。なので、一応の釘は刺しておく。

「ええ、しかしばれた場合はどうします?裁判沙汰、警察沙汰なんかはごめんですよ?」

「ばれるねぇ、そういったことがあるかどうか……。いや、そういった場合にはもちろん、こちらで手は打ちますよ。サイトウさんは何の心配もなさらず、私に成りすましてください。」

 だんだんと男は元の調子を取り戻したように話し始めた。

「いやいやこれで3人目なんですよ、こういった依頼をしたのは。しかしどこからも断られてしまいましてねぇ。いえ、。」

 昔、テレビである心理学者が「言葉尻に『本当に』をつけて話す人間は、概して何か本当のことを隠しながら話している」と言っていたことを思い出した。そういえば俺の興信所の電話番号は、アイウエオ順に並んでいる電話帳になら、一番最初に来るはずだ。とはいえ、いちいちこんなことに疑惑を抱いてもどうしようもない。

「それで具体的に私はどういったことをすればよろしいでしょうか?いきなりこの格好で家に入って『ただいま』というわけにはいきませんよね?」

「ええ、もちろん。まず、私のスーツ、愛用のオーデコロンと整髪料を使っていただきます。あと、ある程度私の家庭での立ち振る舞い、あと話すことですね。それをサイトウさんには、予習というわけではありませんがある程度知っておいていただきます。……流石にその格好はまずいですよ。私、そんな格好しませんもの。そんなネクタイもまず締めませんし……、ところでそれどこでご購入なさったんですか?」

 こんなことをやるのに今更格好のことを言われるとは。

 結局自分には何もリスクはないのだから、そういう話に落ち着き、俺はこの「まともじゃない」依頼を受けることにした。

「ではいつから、ムカイさんのご自宅に伺えばよろしいでしょうか?」

「はい、今日からお願いできますか?」

 今日から?俺は「ふざけんな」と一喝したくなったが、もうどこからどこまでがふざけているのかさえ分からなくなっていたので、その言葉は発するまでもなく、心の中で消え去っていった。

「それでは、先ほど言いました私、つまりムカイヒサオの『父』、『夫』としての立ち振る舞いなんですが……。」

 ムカイヒサオによるムカイヒサオのレクチャーが終了した後、ムカイヒサオは用事があると言い、すぐに喫茶店を後にした。俺は一人、喫茶店の窓からムカイヒサオの後姿を眺めながら、そこのビルの角を曲がったあの男が別の『記号』を身に付け、また別の何かに変身する姿を想像した。


2、ムカイ家

 

 T市の新興住宅地Sタウン、所謂「閑静な住宅街」の一角に依頼人・ムカイヒサオの家はあった。彼の指示で彼の名刺を持ち、彼のスーツを着用し(体に全くあっていないので、その格好で途中まで来るわけにもいかず、家に入る前に、人目に付かぬようにこっそり着替えた)、指輪や腕時計といったの装飾品の類をつけ、そしてなぜか愛用のオーデコロンと整髪料をも使わされることになった。彼の言うところの、彼の『記号』を俺が身につけるための必要なものらしい。

 家の前に立ってみると、やはり落ち着かない。ばれたならとっとと出て行ってしまえばいいと彼は言ったが、ことはそんなに簡単なものではない。まず彼の家は常に玄関の鍵を閉めているという。ならば、なぜ赤の他人の俺が鍵を持っているのか……、笑って済まされる事態ではないだろう。口の奥に嫌な感じの唾液がたまっているのを感じながら、扉までなぜか忍び足で歩み寄り、鍵を開けムカイ家に俺は『帰宅』した。

 

 ムカイヒサオは言う、『記号』としての行動から外れない限り決してばれはしないと。


 玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩き、一旦家の見取り図で確認していた自分の部屋に待機し、何とか戦闘態勢を、心の準備を整える。さてこれからいよいよ家族との対面だ、もし一瞬でばれてしまったらどうしよう。酔った振りをして、帰る家を間違えたとおどければ良いのだろうか、など、様々なシュミレートを脳内で試みながらテレビの音の聞こえる居間へと向う。居間に隣接している台所には妻・ムカイサチコが食器洗いを、そして居間のテレビの前のソファには、二人の子供、タカシとリエが無表情でテレビを観ていた。


 家族を騙し通す為にも、彼らの基本的な情報をくれとムカイヒサオには頼んだのだが、あいつときたら名前と年齢以外の何も教えやがらなかったし、それならどう会話を組み立てりゃいいんだって聞きゃあ、基本的に俺は、つまり父親は家族に話しかける必要はなく、何か話しかけられたら喫茶店やバーで女の愚痴を聞いてる感じにすれば良いとのことだった。要するに殆ど聞き流して、たまにそれらしいリアクションをとって、聞いてる振りを演出すれば良いのだということだ。

 「晩御飯、食べるよね?」と、いきなり(と俺には感じられた)ムカイサチコ、つまり妻が聞いてきた。あまりにもそれが突拍子(と俺には感じられた)だったので俺は慌てて「ああ、うん。」と、くる途中に食べてきたにも関わらず答えてしまった。妻はそれ以上は何も聞かず鍋にあったシチューを温め始めた。子供達は俺と妻との会話で俺の、つまり父親の帰宅に気づいたらしいが、俺を一瞥してその存在を確認すると、また無表情でテレビを観はじめた。


 実に奇妙なことだった。これは一体どういうことだろう、このムカイ家全員で俺を担いでいるのではないだろうか。そう、ムカイヒサオの言ったように、この家の人間は俺を『夫』として『父』として、然も当然に受け入れたのだ。体の感覚にまで影響するこの奇妙さ、例えば風邪なんかで数日間学校を休んだとき。自分としては結構な違和感を覚えているにもかかわらず、周囲には普通に時間が流れているあの感じ。その普通に流れている時間が余計にこちらをおかしくするあの感覚、それが学校という「みんなの場所」ではなく、家族という「他人様のもの」だけにより一層こちらの気が変になりそうになった。

 いくらムカイヒサオの言うように決してばれないとしても、やはりどうもこういうのは心地の良いものではない。俺は極力ムカイ家の人間とは話さないように努めていたのだが、その夜に寝室でムカイサチコと二人っきりになってしまった。いや、夫婦が寝室に二人きりになるのは、当たり前といえば当たり前なのだが。しかし、この寝室でのやり取りが、一番ぼろの出やすいのではないだろうかと異常なまでに緊張してしまった。つまり、所謂夜の生活においては、ムカイヒサオの言うような『記号』は当てはまらないのではないかという疑念が、いざその場になって出てきたのだ。女と二人っきりになってここまで緊張したのは、後にも先にもこれっきりだ。

 ただ二人ひたすらの沈黙、夫婦ならこれでも何の問題もないのかもしれない。しかし、実際は俺とこの人は他人、それどころか今日始めて会った人間同士だ。緊張と気まずさがあいまって、彼女が化粧台の前に座って髪をとかす音さえも、耳をチリチリと刺激した。俺は気を紛らわせるため、沈黙していても自然なように、本棚にあった経済誌をベッドの上で読んでいた。正確に言うと、雑誌の内容が理解できなかったので、ただ紙面に並んでいるグラフやらを眺めていただけなのだが……。それにしてもムカイヒサオはこんな本を読んで何が楽しいのだろうか。こんな男が結婚して、更には不倫旅行とは……。そんな感じで脳内で悪態をついていると、ムカイサチコが寝支度を整え俺の横に入ってきた。あくまで俺はここでは彼女の夫でこれは自然なことなのだ、と平静を装っていたが、明らかに俺の心拍数は跳ね上がった。

「それ、どう?この間買ったんだけど。この間株をやろうって言ってたじゃない?その参考にって思って買ってみたんだけど……。」

 このムカイサチコの言葉を聴いた途端、鼻から電流が飛び出そうになった。

しまった!ムカイヒサオの本じゃなかったのか!なんという墓穴だ!

「うん……。」

 もうこんな簡単な返事をするのにも若干裏返ってしまうくらいに焦ってしまっていた。

 もうだめだ、これ以上何か突っ込まれたら確実に正体がばれるだろう。このまま外に飛び出して逃げてしまおうか。しかしムカイサチコは何も気にする様子もなく。

「電気消すけどどうする?電気スタンドつける?」と、俺にとっては助け舟とも言える提案をしてきてくれたので、次は「うん」と、裏返ることなく返事することができた。

 一人相撲のようにびくつきながらも三日間、俺はその家族の『父親』『夫』として過ごした。付かず離れず、ムカイヒサオの言ったような記号的な会話、妻には「風呂・飯・寝る」を少し変えた程度のものを、たまに変則的なものが来たとしても「そうだね、そうかね、考えとく」、究極的には「家の事はお前に任せているだろう」で逃げ切れる。子供達に至っては「だめだよ」の延長線上にあるものを言うだけで何とかなる。ムカイヒサオの言うとおり、確かに記号として座していれば『父親』『夫』になるのだ、少なくともこの家庭では。これがムカイ家の俺に対する悪巧みという可能性も考えられなくもなかったが、それ以上にムカイヒサオの言っていたことが、俺にとってはますます説得力を帯びてきていた。ある意味あの男は『父親』『夫』であることのプロだったのかもしれない。あいつは自分の家庭を完全な記号の集合体として築き上げ、自分すらを代替可能な存在にしてしまったのだ。もしかしたら、ムカイヒサオが誰かを身代わりにするのは今回が初めてではないのかもしれない。いやそれ以上に、ムカイヒサオのようなやつは実はもっとこの国にはいっぱいいて……、やめよう。そう考えていると、俺自身、何だか自分の父親の顔やその他諸々をを、はっきり覚えているかどうか怪しくなってきてしまった。


3、再会


 それから数年後、俺はムカイサチコに再び会うことになった。いや決して意図して合おうとしたわけではない、街を歩いていると偶然向こうから声をかけてきたのだ。この数年間、あの時のあの依頼は完全に全うした、と思っていた俺にとって、それはかなり意外なことだった。街で歩いている俺に、ムカイヒサオの『記号』を何一つ付けていないムカイサチコが話しかける、それはつまり、あの時の依頼は失敗していたということに他ならない。


 そこまで俺は仕事熱心というわけではないのだが、結局のところあの依頼はなんだったのか、そして依頼の結果は失敗だったのかそうでないのか、それを聞きたくて彼女を目に付いた喫茶店で話をしないかと誘ってみた。喫茶「ゴルバチョフ」、ふざけた名前だが他に店も見当たらず、何よりこのあたりに俺が明るくなかったので仕方なしにその店に入ることにした。


「いや驚きましたよ。あんなところでお会いするというのもそうですが、まさか貴女から話しかけてくるとは。」席に着くなり会話を始めたが、あの件の気まずさから核心から話すのがやや憚られた。形、結果はどうであれ、俺はこの人を騙そうとしたのだから。


「あれからどれくらい経つんですかね?」

「3年ですね。」

「ああそう、3年です、そうですよ。あれからどうなりましたか?その……、ご主人とは。」ご主人?俺がこの人に対して『ご主人』ということのなんと白々しいことだろう。一週間とはいえ、俺はこの人の『ご主人』だったのだ。

「離婚しました、一昨年の暮れに。」

 ムカイサチコ、今はもうムカイではないのか、は極めて端的にあの家庭の結末を話し始めた。

「そう『離婚』ですね、世間一般的にいうと。ただ私達からすると『解散』の方がニュアンスが正しいと思いますが。」

 話を聞きながら俺は、この元ムカイサチコから、その受ける印象は全く違えど、どこかあのムカイヒサオと同じものを感じ取るようになってくる。『解散』だとか何とか、まるで彼が『記号』を使って家族を表現しながら俺に話していたのに似ているのだ。

「そう……、ですか。ええとそれはなんと言うか、不躾な事を聞いてしまいましたようで……。」

「いえ、良いんですよ。分かっていらしたでしょう?世間一般的にはもう役目を終えていた家庭だということぐらい。」

 世間一般的も何も、あんな風に旦那が入れ替わるのが普通の家庭であるわけがない。大体この会話だって普通ではなく、何とも傍目から見たら奇妙な会話にきまっている。さっきからウェイトレスは気付かれていないつもりだろうか、仕事をしてる振りをしながらこちらの会話に注目しているし。


 喫茶店を出て元ムカイサチコと別れたあと、俺は足元がふらついたので、喫茶店の近くにあった公園のベンチに腰を下ろした。それは寄る年波に勝てずとかではなく、元ムカイサチコの話が、あの時の依頼以上に俺の常識を乱したために、精神的に参ってしまったのだ。

 彼女によれば入れ替わっていたのはムカイヒサオだけではない。ムカイサチコも、ムカイタカシも、リエも、時々別の誰かがその代わりをやっていたという。何のことはない、家族のことを一番知らなかったのは他でもなく、ムカイヒサオだったのだ。彼は『記号』を操ることにばかり気をとられ、その実彼こそが、最も記号に操られていたのだ。

 呆れている俺に対して、元ムカイサチコは笑いながらこう締めくくった。

「家という『箱』を想像してみて下さい。そしてその中にムカイヒサオの言うところの『記号』がいっぱい転がっているんです。そしてそこに、誰でもいい、何のつながりもない数人の人間が中に入って、各々がその記号を身に着ける……、そうするとね家族ができちゃうんですよ、サイトウさん。たぶん、昔誰かが何らかの意図を持ってその『箱』、私達の住んでいたあの家に『記号』をいれたんです……。それはそう遠くはない昔のことだけども、でも今ではもうその意図が何だったのか誰にも分からないんです。そう、その意図が分からなくなってしまったから、私の家族は『解散』してしまったんですよね。でも、これってどのご家庭でもやっていらっしゃることでしょう?」

 もしかしたら、あそこの人間は常に入れ替わっていて、いやそれどころか入れ替わりすぎて、既にどれが本人かもう分からなくなってしまっていたのではないだろうか。そしてあのムカイヒサオもサチコもタカシもリエも、俺が会った時には、実はもう何代目かの彼らだったのかもしれない。そんな意味の無い想像を、ベンチに深々と座りながら頭の中で巡らせていた。

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