名前も知らぬ花なれど
くすり
花園の君
「やっぱり、花の名前を書いたプレートぐらいは置いたほうがいいんじゃないかな」
僕は運んできた重いプランターをなんとかして床に下ろすと、額にうっすら浮かんだ汗を拭いながら言った。もう六月だ。今日は雨こそ降っていないけれど、梅雨に入ってからこっち、すっかり蒸し暑い。
「そんなこと、してるヒマないわよっ」
美咲はさっき僕が持ってきたプランターに植わっている大根の間引きに骨を折っている。屈んだまましなきゃならない作業だからえらく腰が痛くなるのだ。はじめは僕がやっていて、五分で音を上げたので美咲に代わってもらった。結局はプランターを運ぶこの仕事も、予想よりキツくてギブアップ寸前なんだけど。
いくら美咲が園芸学部でいちばんの力自慢だと知ってはいても、これじゃ僕だって男として、ちょっと情けない。あの細腕にどうしてあんな力があるのか、はっきり言ってわけがわからない。
美咲は、そんな僕の葛藤も知らないで続けた。
「ただでさえ出入りが激しくて、配置が変わりやすいんだから。うちは植物園じゃないのっ」
「でも、花を見に来てる人はいるじゃないか」
僕の指摘に美咲は手を止めて立ち上がる。
「……はあ? そんな人、ほんとにいるの?」
訝しげな声も無理はない。だってうちの温室は本当に上等なものじゃないのだ。大学の研究のために使われる農作物や園芸作物を少し育てるだけの小さなガーデン。
だけど、僕は確かに見た。
「いるよ。いつも白い服着た、女の人」
「……お、ん、なぁ?」
その一言に美咲はずいっとにじり寄ってくる。僕は思わずたじろいだ。
「な、なに。どうしたの、美咲」
「あーあーそうですかっ。女の人のためにお花のネームプレートをねえ……?」
「ちょ、ちょっと、美咲。ちかいって」
美咲はじっ、と僕を見つめてくる。その目は心なしか恨めしそうで、困惑した。
「そっか。そうだよねえ……あたしになんか興味ないですよねえ? あんたはそうやって、よそ見ばっかりして……もう、もうっ」
美咲が僕の二の腕をぎゅっとつねる。痛い。普通に痛い。でも美咲の視線のほうがずっと恐くて何も言えない。僕は美咲の前だといつもこうだ。仕方なく痛みと不甲斐なさに耐えるけど、せめて誤解を解こうと僕は説明を試みた。
「……いや、なに怒ってるんだよ。ていうか僕は、その人が誰かも知らないし、その人のために花の名前を掲示しようってわけじゃなくて」
少しずつ、言葉を尽くすにつれて、二の腕の痛みは弱まる。やがて美咲が小さな声で言った。
「…………ほんと?」
「本当だよ。どうして僕が美咲に嘘をつくんだ」
「ほんとに、ほんと?」
美咲は変わらず、じっと僕を見る。その目は何故だか少し潤んでいるような気さえして──
「大丈夫だって。ただ、見に来る人がいる以上は案内くらいはあってもいいんじゃないかって思っただけだよ。他意は何にもないから」
「…………っ」
じっと同じように美咲を見返して僕が言うと、美咲は安心したようにほっと息をついた。
「そっか。なら、いい」
僕の肩をぐっと押して、ようやく離れる。
「……ネームプレートのことだけど、ほんとにうちの温室なんかみにきてる人がいるんだったら、その人に訊いてみたらどう? 花の名前とかの案内が欲しいと思いますか、ってさ」
「あ……ああ、そうだね」
僕がおずおずと頷くと、
「よーしっ。あと少し、片付けちゃおう。サボってないであんたも働くのよっ」
さっきまで僕に迫っていたことは棚に上げて、すっかり機嫌を直した美咲は、プランターの前でもう忙しく働いていた。
僕は仕方なくため息をついて、次の重たいプランターを取りに、温室の外へ出た。
◯
僕は、彼女のことをそう呼んでいた。
A大学は地方の総合大学で、いくつかのキャンパスを持っている。その中でもここは一番大きなキャンパスで、僕の属する文学部や、理学部や工学部、医学部の学生も一年次のいわゆる
仁村美咲はA大の園芸学部の一年生だ。園芸というのは簡略化された字で、正しくは園藝と書くらしい。
どうして学部のちがう僕が美咲の、園芸学部の温室作業を手伝っているかといえば、まあ簡単に言ってしまえば美咲に頼まれたからで、僕と美咲は有り体に言って幼馴染というやつなのだ。とは言っても幼稚園とか小学校からの付き合いというわけじゃなく、中学に入学してから仲良くなったので、家族ぐるみの親交があったりもしない。なのにどうして大学まで仲良しこよしで同じなのかと言えば、まあいろいろあるんだけど、長くなるので割愛する。
いや、美咲に頼まれたから、というのは少しちがうかもしれない。身も蓋もなく言ってしまえば、特にサークルにも入っておらず、講義が終わったあとは絶賛ヒマを持て余し中だった僕を自慢の俊足でとっ捕まえて、みごとにタダで労働力を手に入れた美咲は、一年生ひとりに任せるには明らかに荷が勝ちすぎている温室の管理を、幼馴染の僕に手伝わせている、というわけ。
ひどい話だ、本当に。
そのうえ温室の手入れは当番制になっていて、業者が入る土日を除いて、火曜日と木曜日が美咲の当番。で、残りの月・水・金が僕の当番。
「……おかしいよな。やっぱり」
温室の落ち葉や砂を掃き出しながらぼやいた。どうして僕のほうが当番の日数が多いんだろう。いくらなんでも横暴じゃないか。これじゃ手伝いとは呼べないと思う。
かと言って僕には用事がないので、美咲の頼みを断る理由もないのだ。ぎゃくに美咲には、温室の手入れ以外にも山ほどサークルの仕事が割り当てられているらしい。そんなに積極的に働くなんて僕からしてみれば信じられないことだけど、美咲は楽しんでいるみたい。本人が楽しいならそれが一番だとは言うけど、とばっちりを受けている僕からすると複雑だ。
だけど、最近は、温室の手入れも悪くないかな、と思いつつある。休暇信仰の僕がどうしてそんなことを言うかと言えば──
「あ……今日も来てる」
真っ白いコットン生地のワンピースに、茶の革サンダル。いつも通り荷物は何も持たないで、ただぼうっと花を眺めている。花を、と言ってもうちの温室にはたいした花があるわけじゃなくて、僕も名前を知らない、冴えない小さな花々があるばかりだ。その花たちを、彼女は静かに、ただそれだけをじっと、見つめている。見つめている。
──僕は彼女を『花園の君』と密かに呼んで、静かに焦がれていた。
焦がれる、と言っても恋愛感情なんかがあるわけじゃない。ただ、どうして毎週金曜日に、こんな小さな、ちっぽけな温室まで、欠かさず花を見に来ているのか、それが気になっているだけ。好奇心というべきか、誰しも人には謎めいたものに惹きつけられる性質があるらしい。この僕にもあったのだから、およそ人類にはみな備わっているのだろう。だけど、僕にはやはり欠けている。
どうして花を眺めるのか。花園の君に、それを直接尋ねるための、勇気が。
「…………はあ」
ため息をついて、温室から出ようとした。
不意に、昨日のことを思い出す。臨時の作業があるからと言って非番の日に呼び出されて、美咲にこき使われた木曜日。美咲はこう言っていた。
『その人に訊いてみたらどう? 花の名前とかの案内が欲しいと思いますか、ってさ』
そうだ、これはチャンスなんじゃないか。僕が勇気を出して、話しかけるためのきっかけ。今までの僕は、どんなことにも消極的だった。だから友達と呼べるような人だって、美咲以外には一人として居なかったし、美咲と出会うまでは本当に一人きりだったのだ。
「……でも、これじゃダメだ」
僕は唾を飲んで、重い足を踏み出した。喉はからからで、いやに舌が張り付く。それでも、ずっと言えなかった一言を、口にした。
「……あ、あのっ」
花園の君は、ゆっくりと振り返った。その表情には、リラックスしきった柔らかさと、僕を訝る少しの警戒心が、混ざり合っている。
彼女は、静かに透き通る声で言った。
「ええ、はじめまして。こちらの管理人さん?」
「あ、はい。園芸の学部生で」
「……なるほど。大学の温室は手入れも学生がなさっているんですね。では、私たちは同じ大学の学友ですか」
そう言うと彼女は、警戒心を取り去って朗らかに微笑んだ。その笑顔はひどく眩しくて、僕には直視できなかった。
というか、あまりにも緊張して何の意味もなく嘘をついてしまった! 僕の馬鹿!
「あ、あはは……そうなりますね」
どうしてだ、どうしてこんなに、上手くいかないんだ、僕の人生は──
うふふ、あはは、とひとしきり笑いあってから彼女が尋ねた。
「それで、管理人さんはどんな御用向きで?」
「あ、ああ……そうでした。すみません」
危うく本題を忘れるところだった。彼女に思い出させてもらうなんて、つくづく情けない。
「あの、毎週金曜日、ここで花を見てますよね」
しまった、と思った時には遅かった。こんな、ずっと見ていますよ、というような、ストーキングを告白しているようなことを言っては気持ち悪いか、引かれてしまうか、と身構える。
「……ええ、そうですね。だいたいは」
だけど、花園の君は、何でもないことのようにそう答えた。僕は拍子抜けする。
だからこそ、言えるような気がした。このまま勢いに任せて、口から滑り出すように。
僕は、ようやく饒舌に話し始めた。
「ええと、うちの温室、置いてあるものがいつも入れ替わるんです。だから、どれがなんていう花かわからないと思って。もしよかったら、名前とか書いたプレートなんかを用意しようかと思うんですけど、どうかなーって……」
言い終えて、深く呼吸をする。息継ぎをしていなかったからわりと苦しい。僕はうるさい心臓を落ち着かせて、彼女の返答を待って──
「要りません」
僕の恐るおそるの提案に、彼女は即答した。それもあっけなく、つれない返事で。
「あ、はい。そうですよ、ね……はは」
彼女は視線を花に戻して、平坦な声で続けた。
「あくまで私は、ですけれど。必要ないです」
うわ、やばい。なんか、目の奥から、熱いのがじわじわ沁みてくる。このままじゃ、やばい。
「すみません、突然……し、失礼しましたっ」
「あれ、管理人さんっ?」
僕は駆け出してしまった。あまりにも情けない無様だった。僕の耳には、結局花を見に来ている理由を訊けなかった、焦がれていたはずの花園の君の青く澄んでよく響く声が、いつまでも残っていて、僕の情けない背中を執拗に責め立てているような、そんな気がしていた。
◯
「……はあ? それで逃げ出してきたっての? あんた、ほんっっっとにダサいね」
「……なんでそんな嬉しそうに言うんだよ。性格わるいな美咲は」
「な、なにを……っ。あんたね、せっかくあたしが、あんたの失恋ご愁傷様お茶会をひらいてあげてるんだから、感謝と謝罪とついでに今日のお茶代ぜんぶ僕が出すよ、くらい言いなさいよっ」
「いや、そもそも失恋じゃないし。それに失恋だとしたらなおさら僕がぜんぶ奢る理由がわからないんだけど……」
「こまかいことはいいのよっ。ほら、こっちのケーキあげるから食べなさいっ」
無理やりスポンジを詰め込まれてもがふご言いながらケーキを食べているのは、大学の近くにある美咲のお気に入りの喫茶店。
金曜日、無様に花園の君から逃亡した僕は、翌土曜日にまたもや美咲からの呼び出しを受けていた。甘いものが食べたいから来い、と電話があったときには、流石に一人で行けと怒鳴りそうになったけど、すんでのところで思いとどまった。それは昨日のことを、駄目元で美咲に相談してみようと思ったからだ。
そして今、昨日の顛末と、誰かに積極的に話しかけられるようになってみたい、という僕の密かな目標をそれとなく美咲に話したところ、こうしていやに嬉しそうに嗤われた。率直に言って散々な気分だった。
「まーまー、突き放されたってことは後腐れなく諦められるってことじゃん? よかったよ、よかったんだよっ、きっと」
「諦めるも何もないんだってば」
「はー、心配して損したっ。よく考えたら、あんたみたいなネクラと自分からつきあう物好きなんて、あたし以外に知らないや」
美咲は満面の笑みを浮かべている。僕は精一杯文句を言った。
「……ねえ、それって僕を貶してるよね?」
「褒めてんのよっ。あんたが友達いないネクラでよかったって意味」
「どういう意味だよっ」
ふと、美咲は視線を落として、静かに言った。
「……ほんとに、よかった。あんたに彼女なんかできちゃうかと思った。似合わないくせに」
「そういう話じゃないって言ってるだろ……さっきから真面目に聞かないなら、僕はもう帰る」
「あー待って、待ってってば。ごめん、あたしがわるかったからさっ……」
席を立とうとした僕は、美咲の腕に絡みつかれて、ミルクティーのカップを渡されて、思わずまた座ってしまう。落ち着くためにカップを傾ける。ミルクの風味がほどよくて、おいしい。なんだか、どこか安心できる味で──
「…………ね、それでいいんだよ」
ため息をつくと、美咲がなにげなく、ぼそりと呟くように言った。僕は訊き返す。
「どういうこと?」
美咲は、にっと笑って、僕の腕にますます強く絡んできた。
「……あたしがいるじゃん、ってことっ。無理して新しい友達つくろうとしなくてもさ、あたしはずっと、あんたのそばにいるからね」
「その、美咲……僕は」
美咲の笑顔はいつもとちっとも変わらなくて、だけど、だからこそ僕をひどく安心させてくれる。暖かい陽の中に横たわるみたいな、懐かしい心地よさ。ずっとここにいたいと、心から、そう思えるような、穏やかなあかね色の世界──
「……それとも。あたしじゃ、だめ、かな?」
美咲はそう言って、少しだけ切なく目を細めて笑った。
◯
ずっと美咲に頼りきりじゃ駄目だ。いくら美咲が幼馴染だとしても、いずれは離れてしまう日が来るのだ。その日のことを思うとひどく胸が苦しくなるけど、どうしようもないことで。
今は僕も美咲も一年生だけど、いつかは二年生になって、三年、四年生になって、大学を卒業する。一年生の今はたまたま、キャンパスが被ることが多くて、毎日会う機会があるだけ。二、三年生になって
──美咲はそれを、わかっているのだろうか。わかっていて、ずっと一緒にいる、なんてことを言っているのだろうか。
だとしたら、それは。
日曜日はやり残していた課題のレポートを適当に片付けたり、部屋で音楽を聴いたりして過ごしていた。憂鬱な月曜日はお気に入りのワイルドの童話集でやり過ごして、三周した頃には気付けば木曜日だった。僕の当番じゃないけれど、何故か自然に足は温室へ、美咲を手伝いに行っていた。
開口一番、何も言わずに温室の掃除を始める僕を見た美咲はそっけない声で言った。
「金曜の当番なら、代わらないからね」
「……まだ何も言ってないよ」
「言うつもりだったんでしょ。ていうか、べつにもうフラれたんだからさ。いちいち気にしてたらキリないわよ、あんた」
「……告白もしてないのにどうしてフラれなきゃいけないんだ」
「告白するつもりなのっ!?」
「なんで美咲はいっつもそうなのさ……」
僕が呆れてため息をつくと、美咲はしたり顔で言う。地味にむかつく。
「ま、フラれちゃったもんは仕方ないのっ。観念して無視しときなさいよ」
「……先週、僕のほうから何も言わないで逃げちゃったんだけど、それは謝らなくていいのかな」
美咲は、ばっかねー、と嘆息した。
「そっけなく断ったんだから、あんたには話しかけてほしくないってことでしょうがっ。そういうキレイ系の澄ました女はだいたいお高くとまってるのよ。あんたは見向きもされてないのっ」
美咲の言葉は乱暴だったけれど、真理に思えた。要するに僕は相手にされなかったのだ。べつに悔しくもない。はじめから、僕のほうにそんな感情がない。
「とにかく、明日はいつも通りよろしくねっ」
それだけ言い残すと、美咲はいつも通り忙しく温室を出て行った。さりげなく残りの作業を全部僕に押し付けるのも、見事な手際だった。
◯
金曜日は、朝から雨だった。
梅雨にしてはしばらく雨が降らなくて、それに梅雨に入る以前から雨が少なかったせいで、ニュースではしつこく水不足が訴えられている。ダムの貯水量は例年の何パーセントしかなくて、この梅雨のぶり返しは世間にも待ち望まれていた。
講義は退屈で、机の上で教科書に隠して文庫本を読んだ。ナイチンゲールとばらの花。ワイルドの童話の中でもとびきり悲しいお話だけど、僕にはナイチンゲールがうらやましかった。恋のために命さえ躊躇わずなげうてる。それはきっと、すばらしいことなのだ。何かのために他のすべてを犠牲にしたってかまわない。そう思えることは、たったそれだけで何より尊いことだ。
講義を終えて温室のビニールの壁を打つ雨粒を眺めながら、プランターに水をやる。雨が降っても温室の中には水が届かないから、こうして僕が水をやらなきゃならないのだ。だから、雨の日でも当番はいつも通りやってくる。
金曜日は、僕の担当だ。
この雨なのだから、わざわざ濡れてまでこんな温室には足を運ばないだろう、と思った。だからどこかで、安心していたのだ。
──だけど、彼女は今日も、そこにいた。
「……あ、管理人さん」
「えっ、あっ、はい。こ、んにちは……」
不意に彼女から話しかけられて、思わず返事をしてしまった。花園の君。毎日花を見に来るくせに僕なんかには手の届かない、高嶺の花。彼女は白い品のいいブラウスに長いスカートを着て、いつもとちがって手に水色の傘を持っていた。僕は相変わらずのあがり症で、喉が詰まるのを感じる。けれど花園の君はそんなことに御構い無しで、朗らかに言葉を続けた。
「……あの。先週は、言い忘れてしまったことがあるんです。わたし」
それで不意に、僕は先週のことを思い出した。
「僕もっ、言わなきゃいけないことがあります」
文学部のくせに、僕は園芸学部だと、よりにもよって彼女に向かって、嘯いていたのだった。言うべきか言わないべきか、虚偽の告白を迷う僕に、花園の君は落ち着いて頷いた。
「では、管理人さんからどうぞ」
「いやっ、いやいやっ、あなたからどうぞ」
僕は舞い上がって大げさにかぶりを振る。気後れする。自分が嘘をついていたのだ、と告白することは簡単じゃない。恥ずかしい。ますます幻滅されるだろうか、と思うと花園の君は、そんな僕を見てくすくすと笑っていた。
「……では、僭越ながら私から。先週のわたしは少し、説明不足だったように思いましたから」
──花園の君は、僕をじっと見ていた視線を、花に戻していた。
目立たなくて控えめで、言ってしまえば地味な花々を眺めながら、彼女は唐突に尋ねる。
「管理人さんは、花がお好きですか?」
「え、ああ……嫌いじゃ、ないですが」
「……よかった」
僕がおずおずと返事をすると、彼女は、ふにゃっと、柔らかく笑った。素手で直接つかまれたみたいに、僕の心臓は跳ね上がった。
「わたしは、花が大好きです」
花園の君は、静かに、噛みしめるように、そう言った。僕は彼女に、見惚れるしかなかった。
「……管理人さん。わたし、花にネームプレートは要りません、って。そう言いましたよね。わたし、自分がどうしてきっぱり要らないって言ったのか、きちんと説明できなくて……そのせいで管理人さんに、なんだか心配をかけてしまいましたよね……ごめんなさい」
彼女は僕の目を見つめる。僕は顔から火が出るほど羞恥に苛まれながらも、彼女の強い光をもった瞳から、目を離すことができなかった。僕は謝られるような立場じゃないのに。むしろ僕のほうが彼女に謝らなければならないはずなのに。
花のプランターの間を歩いて、彼女はゆっくりそれらを眺めていた。小さな花々のひとつひとつを、花弁のひとひらまで。その姿はどこか必死なようにさえ見えた。
「でも、わかったんです。ずっと考えてたら一週間もかかってしまったんですけど」
──冴えない花々の中で、彼女の笑顔だけが、ひと際白く、美しく輝いている。
「わたし、思うんです。わたしたちが花を見るときに、その花が綺麗だな、美しいな、って思うのは、どんな心のはたらきなんだろう、って」
僕の目は、頭は彼女に囚われて、もはや他のことを考えるのすら、できやしない。
彼女は、ひとつの花の前にかがむ。
「小さい頃から、花が好きでした。公園や、小さな花壇。並木道……どんな花でも、じっと見つめると、すごく美しいんです。けれど、幼かったわたしには、どうしてそれがそんなに綺麗なのか、わたしの心にどうしようもなく強く起こっている衝動が何なのか、わかりませんでした」
彼女は嫋やかな指で、花びらに優しく触れた。
「でも今は、わかるような気がします。わたしは美しい花が好きだったんです。ただ、心をうつろにして見つめる、美しい花が……」
「心を、うつろに……?」
僕の不用意な声に、彼女は顔を上げて。
「そうです。頭の中をからっぽにするんです。管理人さんは、何気なく路を歩いていて、コンクリートの隙間や、わずかな土塊のうえに懸命に咲いた花を見たときに、まず何を考えますか?」
僕は困惑して答えあぐねる。しばらく張り詰めた、だけど不思議と嫌な感じのしない沈黙があって、花園の君は微笑んだ。
「コスモスです。ピンク色の花びらが小さく、かわいらしく拡がって、黄色い花粉がふさふさついています」
それならわかる。さすがの僕もコスモスくらいは知っている。見たこともあるし、むしろ好きな花だと言っていいかもしれない。
「それは……」
綺麗ですね、と言いかけた僕の言葉を遮って、彼女はめずらしく強い語調で言った。
「でも、これでは駄目なんです」
「……それは、どうして」
気圧された僕は、躊躇いつつも尋ねる。
「これは美しい花ではなくて花の美しさだから。わたしがみたいのは、美しい花なんです」
僕はいよいよ困惑した。それを察したのか、彼女は申し訳なさそうな顔をして、かがんだ花の前から立ち上がった。
「目の前にある花を見て、これはコスモスだ、と思ってしまったら、わたしたちは花を見ることをやめてしまう。コスモスは知っている。その言葉が、記憶が、知識が、花の本当の姿を、美しさを遮ってしまうんです。それは、わたしたちが心のなかでおしゃべりをしてしまったということ。言葉はわたしたちの目をふさいでしまう。穏やかに、静かに心の口を閉ざして、黙って目の前のものを見つめることは、本当はとっても難しいことなんだと、わたしは思います」
言葉を失った。確かに僕は、コスモスだと聞いた途端に、なんだ、コスモスか、と興味を失ってはいなかったか。その花がどんな形をしていて、どんな美しさをもっているのか、じっくりと見極めようともしなかった。それはまさに彼女の言う、心がおしゃべりをしてしまったということにほかならないように思えた。
「だから、わたしは花の名前を全然知りません。ここにある花だって、名前を知っているのがいくつあるか。けれど、わたしはこの花の美しいのを十分に知っています。わたしは、それでいいんじゃないかって思うんです。それがいいんじゃないかって思うんです」
長い、告白だった。途中でつっかえながらだけど、必死に考えながら話してくれているのがわかるような、真剣な口調だった。
話し終えた花園の君は、静かにため息をつく。そして、さっきまでの熱心な表情を少しだけ曇らせて、僕を見た。
「管理人さんは、どう思いますか……?」
言うまでもなかった。僕は彼女の考えかたを、その美しさを真摯に求める姿勢こそを、美しいと感じていた。何よりも、美しいものを求める彼女の姿は、それだけ美しかったのだ。
だから、僕は思ったことを、思いのまま、伝えることにした。そうすることが、いちばん美しいと思ったから。
「……綺麗、だと思います」
裏返りそうになる、力の入った声。花園の君はそれを聞いて、また柔らかく笑った。
「こんなこと、
僕に向かって笑いかけるその笑顔も、緩んだ頬だって、みんな眩しい。僕はただ、頷くことしかできなくて──
「あっ、また忘れるところでした。そういえば、管理人さんの言いたいことって何ですか?」
「……それは、その」
本当にそれを言うのか、迷った。だけど、僕が嘘をついていたことは間違いなくて。それは彼女を、騙していたことにちがいなくて。
口からどうしても、それが出てこない。喉元で詰まっていて息苦しい。僕は──
「あの、お名前っ」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「……名前、ですか?」
花園の君は戸惑ったような顔をする。僕はもう吹っ切れて、思い切り言ってしまった。
「あなたの名前を、教えてくれませんかっ」
こんなことが言いたかったわけじゃない。だけど、口をついたのはそんな言葉だけで。もう仕方がなかった。断られたって仕方がない。もう二度と会うことがない可能性だって当然ある。
それならせめて、最後に名前くらいは──
「いいですよ。わたしたち、もう友達ですから」
「…………へっ、友達?」
思わず、変な声が出た。彼女はそれを聞いて、くすっと笑う。僕はそれでも、その言葉が簡単には信じられなくて。
「ええ、友達です。だって、誰にも話したことないようなことを聞いてもらってしまったんですから。友達になってくれないとわたしが困ります」
「は、はあ……そういう、ものですか」
「そういうものですよ」
花園の君はにこにこしている。僕は夢を見ているような心地で──
彼女はぐるりと、温室の中の花々をじっと見回して、それから僕を見た。その表情は、新しいことにわくわくした小さな女の子のような、どこか期待に満ちたまなざしだった。
「わたしの、名前は────」
彼女の透き通った声が耳朶を撫ぜたとき、気付けば温室の外をうるさく暴れ回っていた梅雨の雨はすっかり上がってしまって、どこまでも広がる青い空が高く、満たされていた。
名前も知らぬ花なれど くすり @9sr
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