第57話(最終回)「力の湧く場所」 妖怪「死の恐怖」(後)
1
天狗面すら真っ二つにされた。構えた小鴉は、火の出ないただの小太刀だ。
天狗の力を失い、ただの「妖怪が見える子供」に過ぎなくなってしまったシンイチの、絶体絶命の危機を「もう一人のてんぐ探偵」が救った。
カラス天狗の面を被り、修験道の白い法衣を纏い、眷属のカラスを連れ、朱柄で黒曜石の大太刀「大鴉」を振るう、炎に包まれた少年。京都から来た「鞍馬光太郎」と彼は名乗った。
「京都から……来たって……まさか
「ピンポーン! 俺は鞍馬総本山を統べ、源義経に剣を教えた通称鞍馬天狗、本名
「……烏てんぐ探偵」
「鞍馬天狗の直弟子には、鞍馬十天狗がおってな。
「
と、肩に止まったハシブトガラスが、光太郎の頭を嘴でスコンと突いた。
「いった! わっかりました! 鞍馬のじいさんは、まだまだ現役ですう! だって見たことないんやもん剣持ってんの!」
二人の会話は、まるで漫才コンビのようだった。
「あ、こいつは
「
「いった!」
光太郎の頭を絶妙なタイミングでスコンとつっこむ様は、二人のコンビの長さを思わせる。
シンイチは真っ二つに割れた朱い天狗面を拾い、合わせてみた。木工ボンドでくっつくかなあこれ。
「しっかし東京
光太郎はシンイチにイライラしているようだ。
「うん。ごめん。……実はオレ、今、天狗の力がまるで出ないんだ」
「ハア?」
「ねじる力もつらぬく力も、不動金縛りも使えない。……かくれみのも葉団扇も、千里眼も一本高下駄も全部壊れた」
「それでもてんぐ探偵かいや。そんなんただの子供やんけ」
「うん。……今のオレは、ただの子供だね」
「かァーッ。あっきれた。ホンマのアホウや!」
「
「大体道具なんて、ただの媒介やぞ!」
「媒介?」
飛天僧正もたしか同じことを言っていた。そのことについて詳しく聞こうとしたとき、ネムカケが警官たちをまいてやって来た。
「ネムカケ様!」
今まで年下の子供に接するようだった光太郎は、突然地面に膝まづき、ネムカケに最敬礼を取った。
「鞍馬の帝金坊の弟子じゃったかの」
「はい、お初に。光太郎と申します。烏てんぐ探偵として、京都一円の『心の闇』退治修行をさせてもろてます」
「罵詈雑も久しぶりじゃのう。この子に今はついとるのか」
「
「そうかそうか。手土産の八つ橋がなくて残念じゃのう。
シンイチはネムカケに聞いた。
「知り合いなの? ネムカケ」
「勿論じゃとも。天狗同士のネットワークは広いからのう。室町時代の最盛期は、十二万四千の天狗がいたとも言うが、今はどんだけかのう。大分減ったじゃろうの」
「あ、でも、鞍馬のお山には、まだまだようけ、いてはりますよ」
「『草葉の陰にも天狗のいる地』か。遠野より多いかもの」
「はい。それより」
と、光太郎は真っ二つに割られた、シンイチの天狗面を指した。
「おう! なんということじゃ!」
シンイチはフォローした。
「光太郎くんが『死の恐怖』から救ってくれてなければ、なす術もなくオレは
「おう。感謝せい」
と、光太郎はドヤ顔で胸を張る。
「……?」
「あ? 感謝の言葉を、この光太郎大先輩に」
「あ、……ありがとうございました」
「おう。ええ子やええ子や遠野のお弟子」
光太郎は葉団扇を日本舞踊のようにひらひらさせて、調子よく踊った。
なんかムカツク。天性のムカツかせの才能か。
「それで、わざわざ東京に何をしに来たのじゃ」
とネムカケは光太郎に尋ねた。
「あ。こっから本題ですわ。自分、『青鬼』を追って来たんです」
「青鬼?」
「正体不明。顔しかない鬼で、青い顔なんですわ。ただそいつが、謎の現代妖怪『心の闇』と何らかの関係がある、と自分は見立てとるんです」
「どういうことじゃ」
「近江
「むむむ。東京に特に『心の闇』が多いとワシらは考えておったが、そうでもないのか」
「はい。で、多摩川を越えて羽田に入ったあたりで、どこへ行ったのか分からず、とりあえず北へ向かおかと思てた所です。でも想像してたより東京には『心の闇』が少なくて、東京担当のてんぐ探偵は流石やなあと思てたら、こんなわしよりちびっこいガキとは」
「ちびっこいガキで悪かったな!」
シンイチはちょいちょいムカツキのツボをついてくる光太郎につっかかった。
「自分、小学何年やねん」
「五年だよ!」
「俺は六年や。一個上やな。光太郎スーパーデラックスギャラクシーウルトラノヴァスパークリング大先輩って呼べや」
「……何それ」
「オイオイ、東京
「……オレ、漫才師じゃないし」
「キミとはソリが合わんわ」
「……すいません」
「ああ、もう! そこもや! そこは『すいません光太郎』『今度は呼び捨てかいっ!』ってボケツッコミする所やんか!」
「???」
シンイチは訳が分からない。
「まあええわ。光太郎でええよ」
光太郎はようやく烏天狗の面を取り、素顔を見せて握手を要求した。大人びた顔で茶色の瞳が印象的な、鼻筋の通った少年だった。
「……オレは高畑シンイチ。……もうてんぐ探偵じゃないけど」
シンイチは握手をためらった。光太郎は怪我しているシンイチの右手に気づき、左手を無理矢理取って三回握手した。
「もうなんなん自分! 調子狂うわ! とりあえず『心の闇』について、知ってることを教えてくれや! 情報交換しようぜ! てんぐ探偵の調査結果報告や!」
2
シンイチとネムカケは、これまでの冒険を光太郎と罵詈雑に話した。光太郎も出来る限り知っていることを話した。知らない「心の闇」の名もときどきあった。が、おおむね西も東も「心の闇」の特徴は同じのようだった。まだまだ見たこともない「心の闇」がいるだろうことについても、二人の意見は一致した。
「オレさ、そもそも『心の闇』の種類は無限にあるんじゃないかって思ってる」
とシンイチはこれまでの経験から考えていたことを、光太郎に述べた。
「え、どういうことや」
「人の心って複雑じゃん? 妖怪って結構単純な奴が多いけど、人って子供も大人も複雑で、さらに大人になるほどより複雑になって行くじゃん」
「ほんで?」
「『別人格』に取り憑かれたときに思ったんだけど……人の心って複雑すぎてさ、いくつかの自分が重なり合って存在して、日々一定じゃなくて、揺れてる存在なんだよきっと。でもそれだと訳わかんなくなっちゃうから、『オレはオレ』って強制的に思うことにしてるような気がするんだ」
「アイデンテテーというやつやな」
「その『オレ』のタガが、ちょっと外れるときがあるんだよね。これはこれで、とか、例外的に、とか」
「ふん」
「そのとき、『オレの枠』が揺れるんだよね。範囲がいい加減になる、というか。で、下層に置かれた色んな自分がわらわらと意見を言いたくなる。そのうちどれかが主導権を握って、『オレ』より強くなっちゃう。『オレ』が命令してもそれより強い衝動、強い欲求、強い渇望が生まれて、それを満たすまでループし続ける」
「お前の言う
「『心の闇』は、その心のループを強化するんだ。そのループが回ることが奴らの餌になるからだろうね。そうやって『強いひとつの、どうしようもない負の感情』に人は支配され、『オレ』が制御しようとしても、その命令を無視するほどに感情が強くなる。
「ふむふむ」
「図にすると、こんな感じ」
シンイチは重なり合う複数の丸を書いた。ひとつひとつが複数の自我の単位のイメージだ。重なり合い、影響しあう。その上にひとつの丸を書いた。これが「オレがオレだ」と思う
「で、どないしたらええねん」
「飛天僧正は、自分の闇の部分を認め、それ以上強い光で制御するって言ってた。でもそんなの、修行僧にしかできないと思うんだよね。普通の人はもっと心が弱いし」
シンイチは「オレ」をぐるぐる囲み、次第に大きく強くしていく。
「ふむ。たしかにな」
「オレはさ、横から光を当てればいいんじゃん?って言ったんだ。つまり、『オレ』じゃない『オレ』が『オレ』になるのさ」
シンイチは、大きな白丸と黒丸の横に、別の大きな丸を書いた。
「……それは、どっから来るんや?」
「うーん、心の奥底から、湧いてくるんだと思う」
「湧いてくるって、虫かい」
「虫よりは、泉に近いかな。でも、そうとしか表現できない。人は、風邪を治す力みたいに、自分で治る力があるんだよ」
光太郎は腕を組んで考えた。
「原理は分からいでもないけど、実際問題、そんなうまいこと毎回いくわけないやんか。都合よく解決法が湧いて来んかったら、どうすんねん」
「シンイチは頭のいい子じゃからのう」
とネムカケは横から割って入った。
「大体、いつもうまいこと思いつきよるのじゃよ。でも一人では駄目なときもある。必死に考えることで、周囲が助け舟を出してくれて解決に向かったときもあった。シンイチは友達をつくるのもうまいからのう」
「うん。一人じゃ心は立ち直れないし、みんなの力が心を助けるときもある。月並みだけど、ケースバイケースさ。……人の心だもんね」
「ふうむ。……それが東京
「関西は違うの?」
「せやな。そんな難しいことは一々考えへんな。ショック療法言うか、『アンタの心の闇はこうです、ドーン!』『うわあ大変や』『じゃぶった斬ります! 真向唐竹! シャンシャンシャン、
「え?」
「え?って?」
「それじゃ、また生えてくるじゃん」
「そうなん? 大体みんな反省するから大丈夫やで?」
「関西の人はみんなそんな感じ?」
「東京
「ああ……人の多さも関係するのか」
シンイチは田舎へいったときの人の少なさに、びっくりすることがある。逆にその人は東京にきたら同じぐらいびっくりするんだな、と今気づいた。妖怪「横文字」のときに訪れた京都は、たしかに東京ほど人は多くなかった。それよりも関西人には楽観主義者(光太郎風に言えば、オモロがり)が多く、関東人には悲観主義者(光太郎風に言えば、心配シイ)が多いのかも知れなかったが。
「あ、そや。妖怪『死の恐怖』絡みの事件、お前追っかけてんねやろ」
と、光太郎は思い出したように言った。
「あ……そうだった」
シンイチは北川の自殺を止めたときに噛まれた右手を見た。もう血は止まっていたが、飛び散ったあとの乾いた血塗れだった。それは一種の聖痕のようだった。
「ネムカケ。やっぱり、同時多発通り魔殺人は、『死の恐怖』のせいだと思う。殆どの犯人は自殺して……恐らく子供を生み、各地へ散ったんだよ」
「……ということは、また『死の恐怖』に取り憑かれた通り魔が、どっかで暴れることも、あり得ると」
「うん。……たとえば、駅前とか、
「きょう日曜のホコテンは、銀座、新宿、秋葉原……」
「……一応、パトロールに行ってみるか」
3
「うわ! 人めっちゃ多い! なんやこれ!」
足立の拘留所から最も近い歩行者天国、日曜の秋葉原には、人々がごった返していた。
「祇園祭の四条通り並みやんけこれ! 東京は毎週こんなんか!」
光太郎は、さっきから観光客のようにはしゃいでいる。
「ほんまにメイドさんがおるし! あれがAKB劇場か!」
普通の人混みの中に修験道の法衣は異様だろうけれど、コスプレ天国のアキバのホコテンでは、むしろ地味なコスプレに過ぎなかった。カラスの罵詈雑は空気を察し、「肩に乗ったプラスチックの烏のつくりもの」のふりをしている。烏の視界は広いから、光太郎みたいにきょろきょろする必要もないし。
七色の店から七色の音楽が流され、高架を電車がけたたましく通り、秋葉原電気街は表通りも裏通りもカオスに支配されている。しかしこの人混みにも関わらず、「心の闇」に取り憑かれた人は一人も見当たらなかった。人知れず「心の闇」を斬ってきたシンイチは、それが誇らしく思えてきた。
突然、中央通りの向こうで悲鳴があがり、狂刃を中心に、人々が引き波のように引いた。
「近寄んなコラ殺すぞ!」
サバイバルナイフを持った男が暴れている。女子高生を人質にし、近寄る人を切りつけようと長く太いナイフを振り回していた。
「俺が死ぬ前に、一杯道連れにしてやるううううううううう!」
目の色を変えて暴れるその男に、案の定、妖怪「死の恐怖」が取り憑いている。その男の白い死顔が、巨大化して肩に憑いていた。もし自分のこんなものを鏡で見てしまったら、たしかに正気ではいられないだろう。
シンイチは緊張した。今の自分はただの子供だ。何が出来る。しかしこれ以上妖怪のせいで不幸は起こしたくない。
「行こう」
シンイチは小鴉を構えた。ただの小太刀でも、サバイバルナイフの一撃位なら、防げるかも知れない。
「一緒に来てくれ。てんぐ探偵光太郎」
「よっしゃ!」
光太郎は黒い烏天狗の仮面を被った。シンイチは木工用ボンドで修理した、朱い天狗の面を被った。
シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である筈だ。しかし今は、増幅するべき天狗の力などない。
増えたのは、勇気だけだ。
「おいコラ! 人質を放しいや!」
光太郎は、天狗の葉団扇で男を指した。
「うるせえ! 刺すぞ!」
「おう! 刺してみいや!」
逆上した男は、サバイバルナイフを振り下ろした。
光太郎は、それを葉団扇で受け止め……いや、ふわりと葉団扇で、凶刃の方向を微妙に変え、流した。
「糞! 糞!」
ふわり。ふわり。何度斬りつけようが刺そうが、刃の流れを葉団扇の風が巻きこむように、半円を描いて力を流してゆく。
「鞍馬流奥義、
日本の剣術流派は、失伝したものも含めれば一千とも一万とも言われる。その最古の流派は
現存する鞍馬流剣術は、時代が下ること戦国時代、
その奥義のひとつ、「変化」が最も有名だ。相手の剣を巻いて落とす、現代剣道で言う「巻き落とし」技術の祖である。正面の面打ちを鎬で横から半円を描いて巻き落とすさまは、鎬や刃筋が失われた竹刀剣道でも有効な技である。
幕末の動乱が明けた明治時代、全国の剣術流派の粋を集めた形が、新しく発足した警視庁で創編された。これを警視流剣術という(現代剣道の形はこのあと制定された)。すなわち「警視流木太刀之形」。これは十の技で構成されるが、その二本目に「変化」が採用されている。それほど幕末の実戦で使えた技ということだ。
ちなみにその十の技とは、
光太郎の鞍馬流は、人間の間では失伝している天狗直系の技である。その足捌きも巻きも、長年の練りを感じさせた。
つまり、殆ど動かない。剣の達人が中段の構えのまま動かないのに似ている。殺人鬼の凶刃を巻く瞬間だけすうと動く。それは日本舞踊をも思わせた。
刃物の男は暴れ回って疲れ、動きが鈍くなってきた。対する光太郎は汗ひとつかかない。無駄な力を使わない、舞で人を制するやり方だ。
「ぼちぼちかな」
光太郎は左腰の朱鞘に納められた大鴉の鯉口を切り、一瞬で間合いを詰めた。縮地の捌きだ。すれ違いざまに大鴉を抜き、男に取り憑いた「死の恐怖」の魂の緒を切断。居合いだ。炎が大鴉から出る暇もないくらいに太刀は速く、あとから紅蓮の炎が湧いて来た。
「とりあえず、めでたしやん?」
巨大な「死の恐怖」は、可燃性の液体でもかけたかのように一瞬で燃え上がった。その一瞬後に、同じ形の塩が残り地面に落ちる。
男は力が抜け、ヘナヘナと膝をついて人質を放した。
「え? そんなんでいいの?」
シンイチはびっくりした。「心の闇」の斬り方が、剣術としては鮮やかだが、心の扱いとしては雑だと感じたからだ。この人が「死を恐がるパニック」は、今はおさまっただろうけど、必ず再発する筈だ。だって「根」はまだ残っている。
それを光太郎に言おうとした刹那、後方でも悲鳴が上がった。振り向いた二人の小天狗の前に、四人、五人……八人の通り魔が暴れていた。
「なんやこれ! 東京のホコテンは、通り魔のバーゲンセールかい! 今なら五十パーセントオフってか!」
中央通りの歩行者天国はパニックだ。万世橋警察までまだ情報は伝わっていないのだろう。警官が到着する前に、誰かが殺されるかも知れない。
包丁を持って暴れる男。カッターナイフ二本で暴れるコスプレの女。柳葉包丁で暴れる若者。誰も彼も切りつけ、道連れを一人でも増やそうとパニックになっている。
そして彼ら八人ともに、それぞれの白い
「アカン! 行くで!」
光太郎はすっ飛んでいく。
シンイチは先程「死の恐怖」の根が残っていることを気にしたが、考えてみれば、人が自分の死が恐いのは当たり前ではないか、ということに気づいた。どうやったらそれを治せる? 治せやしないじゃないか。誰だって死ぬのは恐い。その恐怖にこの妖怪が取り憑くのだとしたら、根絶は不可能なのではないか。光太郎のやり方は、現実的には正しい。正しいが。
黙って見ている場合ではない。光太郎に、何か協力できることはないだろうか。
4
一瞬前まではごく普通の平和だった秋葉原の歩行者天国は、地獄絵図寸前であった。死の恐怖に怯えた男女八人が、刃物を振り回す通り魔となっている。
そこへ黒いカラス天狗面と、朱い天狗面の少年がすべりこむ形となった。
八人の狂人は意味不明の言葉を口走る。人々は被害が及ばぬよう、八人を中心に後ずさり、歩道まで下がった。八人と二人が、衆人環視の中で対峙する。
「皆さん落ち着いてください。これ、ショーの撮影なんですわ。隠しカメラがありますんで」
光太郎は皆のパニックを抑えようとした。落ち着いているのは流石だ。オレ一人でここまで出来ただろうかと、シンイチはまたも心が挫けそうになる。
人々は遠巻きに、スマホで写真や動画を撮っている。しかしデジタルには妖怪は写らない。肉眼でも、カメラでも、彼らには八人の狂人対コスプレ仮面少年コンビの対決に見えていることだろう。
しかしシンイチにははっきりと見えるのだ。彼らには全員、白いデスマスクの「死の恐怖」が取り憑いていることが。死が恐くなればばるほど、妖怪はその恐怖を吸ってますます成長し、更に恐怖が増し、ループを強化する。これまで闘ってきた「心の闇」とは格の違う負の感情を前に、シンイチはなす術を知らなかった。
「光太郎。さっき、なんで不動金縛りを使わずに、相手に斬らせては返したの?」
「は? 心を折る為やんか」
「心を折る?」
「自分のやろうとすることがことごとく失敗したら、やる気もなくなるやろ? 体が先に絶望する。そしたら心も折れ易い。そういう時は心の闇も再発しにくいんや」
「そうなのか。でもこれだけの人数を……」
「せやな」
光太郎は九字の印を組んだ。
「臨兵闘者皆陣烈在前、不動金縛り!」
まず八人を一斉に不動金縛りにかけた。光太郎は跳び、「死の恐怖」の魂の緒を次々に切断する。まるで八艘跳びである。八体の「死の恐怖」は燃え上がり、塩と化した。だが、残った根から、じわじわと再生がはじまった。
「集団心理か、パニックの度合いが深いわ。一人ずつ丁寧にやるか……」
光太郎はまず一人、カッターナイフ二本で暴れるコスプレ女の金縛りを解き、葉団扇を持ち、先程と同じ「心折り」作戦をしようとした。
「
空を周回していた烏の罵詈雑が、ひときわ高く鳴いた。
人混みの中からもう一人、「死の恐怖」に取り憑かれた男が出てきたのだ。虚を突かれた。敵は八人ではなかったのだ。
九人目のその男は、見物していた子供を出刃包丁で刺し殺そうと、腰だめに構えた。
「あぶない!」
いつものシンイチなら、つらぬく力で止めるなり、縮地の力で飛んだだろう。しかし今のシンイチは、木工ボンドで修理した天狗面を被っているだけだ。男を止めようと必死に走るしかない。
「まさはる!」
子供の母親が覆い被さり、代わりに凶刃を背中で受けた。
辺りに悲鳴が響く。
「くそっ! 不動金縛り!」
光太郎は早九字を切り、その男の時を止めた。母親の背中からは、どくどくと鮮血が流れる。傷は深い。
「シンイチ、天狗の薬草持っとるか!」
「多少は、ひょうたんに!」
シンイチは腰のひょうたんに入れた止血の膏薬を出し、母親に塗った。
「大丈夫です、血は止まります。早く病院へ!」
母親は苦痛に顔を歪めながらも、息子を離さない。
「まさはるは大丈夫? まさはるは大丈夫?」
「大丈夫! お子さんは無事です。早く病院へ!」
彼女の夫が走ってきてお礼を言い、救急車を呼んだ。
シンイチはふと思いつき、光太郎に言った。
「光太郎、この人の金縛りを解いて」
「あ? お前、ノー天狗やんか! 何のつもりや!」
暴れるコスプレ女の二刀流に、光太郎は苦戦中である。
「彼に聞いてみたいことがあるんだ。駄目だったら、すぐ金縛りを」
シンイチは小鴉を構えた。彼の出刃包丁の一撃を受け止めきれるだろうか。失敗したら死か。
「こういう時のシンイチは、なんかやるぞい!」
状況を見守っていたネムカケは言った。
「考えがあるんやな? よっしゃ、ホイ!」
コスプレ女に金縛りをかけ、逆に男の金縛りを解く。
男は、まだパニックの嵐の中にいた。
「糞! 殺してやる! 殺してやる! なんだお前は! やるのか!」
「……ひとつ、聞きたいことがある」
シンイチは一歩前に出た。男は、その迫力に一瞬気圧された。
「な、なんだよ?」
「アンタさ、何で自分の死ばっか考えてんの? 自分が死ぬのが恐いとばっか思っててさ、他の人も死ぬの恐いって考えてないね?」
「は?」
「アンタの母親が、凶悪犯に殺されそうになる。そしたらどうする?」
「は?」
「どうする?」
「……決まってるだろうが。助けに行く」
「……今、その一瞬で心が変わったね? 今『自分が死ぬの恐い』っての、一瞬忘れたでしょ。『オレ』が、自分以外の事を考えたからね」
「?」
「母親を助けたら、死を恐がる彼女に何て言う?」
「大丈夫、俺がついてる」
「じゃあオレも言うぜ。大丈夫、オレがついてる」
「お前と俺は、関係ねえだろ」
「そうだね。でもオレがついてるよ?」
シンイチは北川に噛まれた右手を見た。歯形が黒く赤く残っていて、傷跡が痛々しかった。
「周りを見てよ。あの人も、あの人も、死の恐怖に取り憑かれて、誰かを殺そうとしてる。その前にあなたの母親がいる。どうする?」
「助ける」
「そうだよね?」
シンイチは、これまで自問自答してきたことの答えが、ようやく出たような気がした。
「……オレ、今天狗の力が出ない。でもさ、そんなのあろうとなかろうと、人は人を助けるんだよね。天狗の力がなくたって、手を握って、話を聞いて、闇や不安や恐怖がどこにあるのかを探って、光がどこにあるかを探せばいいだけなんだよね。心の闇は苦しみだ。助けてくれと手をのばしてるんだ。オレはその手を、二度と離しちゃいけないんだ」
そこへ、空から玄田洋が落ちて来た。大きな音を立てて全身の骨が折れた。よろよろと立ち上がり、また助けてくれとこちらを見た。妖怪「死の恐怖」が見せた幻影に違いなかった。
「オレは、あなたの心は分るよ」
柵をつかんだ玄田の手を、シンイチは握った。
「……」
玄田はシンイチの手を払った。冷たい感触の手だ。夢で、記憶の中で何度もさわった手の感触だ。
「あなたは、弱気に取り憑かれている。そう自覚すれば、その妖怪はつかまる所がなくなる」
シンイチは、払われた手をもう一度つかんだ。
「……」
「……」
玄田の幻は、微笑んだような気がした。シンイチも、玄田に笑いかけた。
「心は、多分単独では存在しない。僕は、あなたの心が少しわかる。それは、人間だからだと思う。人の心を助けるのは、天狗じゃない。人の心だ」
玄田の幻は笑い、ゆっくりと消えていった。シンイチは、彼と心が通じた気がした。シンイチの右手は、「死の恐怖」に取り憑かれた目の前の男の手をつかんでいた。
何の為に、自分はこの運命を背負ったのか。
天狗の力は、何の為にあるのか。
その答えがようやく出た気がした。
もう恐くなかった。
「オレは、あなたを助けに来ました」
その瞬間、シンイチの右手から突如炎があがった。
赤く、熱い炎だった。
「え? 何これ?」
「浄火に決まっとるやん!」
「
シンイチには、今、全てが分かった。
火は、小鴉から出るのではない。シンイチから出るのだ。シンイチの、心から出るのだ。
彼を助けようと思った、心そのものから出るのだ。シンイチは小鴉を構えた。「剣は媒介」と言っていた、飛天僧正の言葉の意味が分った。
「人は皆死ぬ。それはしょうがないよね。でも、だから、人は、人を助けようとするんじゃないかな」
男の「死の恐怖」は、ゆっくりと外れた。パニックがおさまったのだ。
「火よ、在れ」
シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
小鴉の刃の芯から紅蓮の炎が静かに湧き出で、巻き上がる炎となった。
高尾山の遭難のときも、学校のみんなに取り憑いたのを廊下でみじん切りにしたときも。父さんや真知子先生の心の闇をみじん切りにしたときも。そして今までの、全ての闘いでも。彼らを助けようとしたから炎は出たのだ。小鴉から炎が出ていたのではない。シンイチ自身からこの炎は生まれていたのだ。
「一刀両断!」
炎を纏った朱き小天狗は、小鴉を一息に走らせた。小鴉は斬るだけだ。燃やすのは、清めるのは、心なのだ。
巨大な白いデスマスク、「死の恐怖」は中央から真っ二つになり、真っ赤な炎を上げた。
それはシンイチの心だ。
真っ赤に燃える、正義の炎だ。
シンイチは深呼吸し、胸の前で印を組んだ。
獨古印、大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印、隠形印。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛りの術!」
シンイチの声は秋葉原中に響いた。術の力は物理的な力ではない。心の力の大きさなのだとシンイチは理解した。
秋葉原の歩行者天国は、ごおんという音とともに時を止めた。
「光太郎、
シンイチは残りの八狂人に向かい、歩き始めた。
「やるやんけ。一人ずつ金縛りを解いて、丁寧に説得するつもりか?」
「いや。鏡を見せよう。これがあなたたちの心の闇、『死の恐怖』だ、そして他人を思えって」
「鏡なんて、どこにあんねん」
シンイチは左手を宙に向け、「空間をねじった」。
「ねじる力!」
空気の層がねじられ、巨大な丸い鏡になった。蜃気楼と同じ原理だ。
「やるやん! じゃあ行くで! あいつらの金縛りを解くぞ、エイサー!」
八人の金縛りが解けた。シンイチは八人に言った。
「あなたたちは、妖怪に取り憑かれてるんです。鏡を見て下さい」
「ハア?」
八人は、空中に出現した鏡の中の己の姿を見て、自分に取り憑く「死の恐怖」を見た。
「それは、妖怪『死の恐怖』。死ぬのが恐い人に取り憑いて、パニックを起こさせるんです。みんな死ぬのが恐い。だから暴れるんだ。あなたたちが悪いんじゃなくて、それは妖怪のせいなんです」
「だから何なのよ! 死ぬのは恐いわよ!」と、コスプレ女が叫ぶ。
「あなた一人じゃない。みんな八人が、死ぬのが恐い」
「は?」
八人はようやく視野狭窄から、周囲を見渡す余裕が生まれた。八人とも、全員に「死の恐怖」が取り憑いている様を確認できた。
「人は裸で生まれ、裸で死ぬ。それは大自然の法則さ。でも人間は文明を築いて、なるべくそれを隠して生きようとしてるんだね。だって文明の外は恐いもんね。あなたたちは、今丸裸で暴れているようなものさ」
八人は八人で目を合わせ、鏡に映る自分と七人を見た。そして周りにいる、恐れた顔のまま静止する人をも冷静に見た。なんだか滑稽だった。
「自分の死だけを考えるから、パニックになるのさ」
八人は恥を知った。こうして、「死の恐怖」は彼らから外れた。
「ふうむ。取り戻させたのは、客観的な理性ということかのう」
大天狗の膝の上でネムカケが言った。
いつの間にか、大天狗が遠野からやって来ていた。赤いビルの看板の上に座り、この様を目を細めて見ていた。
「お見事。わしが来る必要もなかったかな」
大天狗は一枚のチラシを携えていた。
「巨匠玄田礼、花器制作をやめ、『家族の食器』シリーズを始めることに」という、新たな展覧会の予告だった。
「お前のやったことは無駄ではなかった」と教えてやろうとしたのだが、シンイチは自力で自分の心の闇を晴れさせた。
「最初からそうだった。お前は自慢の弟子だ」
その大きな吼え声は町中に響いた。
「大天狗! 来てくれたんだ!」
「ふん。
上空に飛ぶ赤い衣。
「飛天僧正!」
「儂の火力は遠野一じゃい」
「流石アタイの見込んだ子だねえ!」
「
反対側のビルに腰掛けるのは、遠野二の天狗
「へへへ。全員来ちまったぜ!」と、白い狐を連れた四の天狗、
「十天狗……!」
大長老天道坊は、額の中央の、金色の第三の目を見開いて言った。
「これだけの天狗を心配させといて、結局自力で火を在らしめるとは、恐るべき人間の子シンイチ。儂は、人の力を甘く見ていたのかも知れぬ」
「ひと揃え、持ってきたぞ。もう必要ないかもだが」
大天狗は真新しいひょうたんをシンイチに投げた。新品の七つ道具が入っていた。
ぴかぴかの天狗面を出して被り直し、一本高下駄を履いた。
シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「光太郎、ねじる力で竜巻を起こそう」
多数の「心の闇」が宙に浮いたとき、逃げられないようにする技だ。
「おう。グルグルミキサーやな?」
「え、なにそれ」
「関西ではその技をそう言うんや」
「ええー、もっとカッコイイ技の名前にしようよ」
「どっちゃでもええやん。ねじる力は、手を重ねると増幅するぞ」
光太郎はシンイチの右手に、左手を重ねた。
二人は同時に叫んだ。
「ねじる力!」
遠野十天狗(と番外の一名)も、面白くなって全員掌をねじった。
「ねじる力!」
強大なねじる力が空間に作用した。いつもの「ねじる力」の、十倍、百倍。秋葉原の上空ごと、ビルに囲まれた空間がねじれ、時空の渦となった。
濁流に呑まれる木の葉のように、「死の恐怖」たちはきりきりと宙に舞う。
「火よ在れ! 大鴉!」
「火よ在れ! 小鴉!」
二人のてんぐ探偵は、火を噴く得物を同時に構えた。
「つらぬく力!」
同時に右手から「矢印」を出し、妖怪たちをつらぬく。
「たあ!」
朱い仮面と黒い仮面。
二人は思い思いの軌跡で跳び、思い思いの太刀筋で、宙に舞う妖怪「死の恐怖」を次々に真っ二つにしてゆく。
「真向唐竹!」
「一刀両断!」
二人は地面に着地した。爆炎を上げて妖怪たちは清めの塩へと化した。
それは、秋葉原に散る桜吹雪のようだった。
「めでたしやん!」
「ドントハレ!」
5
「結局、青鬼はおらなんだなあ。いっぺん京都帰って仕切り直すわ。俺がいてない間に『心の闇』も増えとるやろし」
鞍馬光太郎は、肩の罵詈雑に好物のビーフジャーキーをやりながら言った。
「オレも遠野へ行く必要がなくなったし、ついてこうかな!」
「やめてくれや気持ち悪い。東京はお前のエリアやろ。ちゃんと守っとけ。天狗の力のない時に増えた妖怪斬って回れや。落ち着いたら、鞍馬寺を訪ねろ」
「うん。……東京と関西以外にも、『心の闇』退治をしてる人はいるのかな」
「おるやろな。天狗はまだまだ全国の山にぎょうさん残っとる。その弟子のてんぐ探偵も、色々いてると俺は思うで」
「そっか。……まだまだ世界は広いなあ」
シンイチは自分の世界の小ささを反省した。いつか、その天狗たち、てんぐ探偵たちにも会いたいと思った。
「では、わしらは遠野へ戻るぞ。来週にでも遊びに来い」
大天狗は笑い、十天狗たちは去って行く。
「わかった! 河童のキュウにもみんなにも会いに行くって言っといて!」
シンイチは天狗たちに手を振った。
「……じゃ俺も、このへんでサイナラやな」
「……うん」
光太郎もシンイチも、なんだかもう少し話したいと思っていた。
「……あのな、人間が悪いんちゃうで。結局、
「うん。……オレたちの役目は、魔が差す心に、光が差すようにすることかもね」
「ははは。さっすが東京
光太郎は笑って、シンイチの肩を叩いた。
シンイチも笑って、光太郎の肩を叩いた。
光太郎は拳を握って見せた。
「天狗の力は、結局命の力やと俺は思う。不老不死って、命が無限に湧いて来ることやと思うんや」
「……そうだね」
シンイチは、拳で自分の左胸を、どんと叩いた。
「全部、ここから湧くんだ」
二人の男は微笑んだ。
「またな!」
「バイバイ!」
光太郎は一本高下駄で高く跳び、罵詈雑とともに西の雲の彼方へ消えた。
その空をしばらくシンイチは見つめていた。ミヨちゃんやススムや、大吉や公次や、春馬や芹沢や、内村先生や真知子先生や、タケシや深町のにいちゃんに、急に会いたくなった。
都会のどこかの、路地の路地。真っ暗闇の暗闇で、子供が一人泣いていた。
膝を抱えてうずくまり、がたがたと震えている。何が悪いのか分からない。分からないことだけがループする。その肩には、巨大でカラフルな「心の闇」が取り憑いていた。
闇の中に火柱が立ち、炎の中から、朱い天狗面のシンイチとお供の太った虎猫ネムカケが現れた。
「大丈夫。落ち着いて。それは君のせいじゃない。妖怪『心の闇』のせいなんだ」
シンイチは天狗面を外し、子供に笑いかけた。シンイチの笑顔には、何故だか人を安心させる力がある。
「いいかい? 世の中には、『心の闇』がある。それが何か分かれば、対処法がある。『弱気』なら、いつもの調子乗ってる明るい心を取り戻せばいい。『あとまわし』なら放置する。『ねたみ』はグルグル回して吐き出さす。『誰か』は自分の責任を思い出す。『なかまはずれ』は、全員違う個性なんだって知ること。『さみしい』なら友達をつくろう。ケンカして同じ方向を見ればいい。『いい子』はいい子のふりをやめよう。『どうせ』は全力を尽くす経験をしてから考えればいい。『別人格』なら、全部自分だって識ること」
「……」
少年の瞳に、輝きが戻ってきた。心が落ち着いてきたのだ。
「そうだ。恐がることなんか何もない。もし名前が分からなくたって、しばらく観察してれば絶対分かるさ。人と人がつきあう限り」
シンイチは火の剣を抜いた。
闇にかざすのは、炎だ。深淵なる闇を覗きこむとき、人は火をかざし、何が
それは智恵の炎だ。文明の炎だ。理性の炎だ。心を暖め、晴れさせる、勇気の炎だ。
「僕は、きみのこころが少しわかる」
てんぐ探偵只今参上
次は何処の暗闇か
てんぐ探偵 大岡俊彦 @OOOKA_Toshihiko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます