第56話 「鞍馬よりの使者」 妖怪「死の恐怖」登場(前)
1
心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る
金曜の夜、気絶するように眠ったシンイチは内村先生に家に届けられ、心身の限界を通り越したか、こんこんと眠り続けた。眠ることを至上とするネムカケ以上にだ。あまりに深い眠りで、目が覚めたら日曜の朝だと聞いて、しばらく意味が分らなかったほどだ。
「そんな! オレ、まる一日寝たの?」
「わしの居眠り限界を越えるとは、なかなかの眠り勇者よ」
「冗談じゃないよ! 遠野へ行こう!」
この一週間、怒涛の妖怪退治だった。
土曜。
日曜。高尾山へ行って雨の中「全知全能」を斬り、葉団扇と千里眼を失った。
月曜。
火曜。妖怪「カリスマ」が蔓延。
水曜。第二のカリスマが生まれ、なんとか収束。一本高下駄壊れる。
木曜。夜に父ハジメの「バレてない」事件。
金曜。
もはや天狗面とひょうたんしか機能していない。天狗の火の剣「小鴉」は、折れも欠けもしてないのに、冷たい黒い刃は沈黙を保ったままだ。水鏡の術も失われたので、こちらから大天狗に助けを求めることは出来ない。天狗たちは千里眼でこのピンチを見ているだろう。本当の絶体絶命なら、きっと飛天僧正が来てくれる。だから、まだほんとのピンチじゃない筈だ。
天狗の力を使って人の運命を変えることは、そもそもおこがましいのではないか、何様のつもりだ――そう感じたことが、天狗の力を失った原因だ。そもそもそう考えること自体が、「天狗になっている」。
論理的には、「天狗の力で人の運命を操ることは素晴らしいことだ」と思えばいい筈だ。だが心からそうは思えないのだ。頭で分っていても、心で思えない。高い所や暗い所は、仮にそこが安全だと頭で知っていても、足がすくみ、恐怖で体が動けなくなるだろう。そんな感じだ。今シンイチの体が、天狗の力を出すことを拒否しているのだろうか? 「分かる」と「思う」は違う。頭と心と体の不一致が、「心の闇」を生み出す原因なのだろうか、とシンイチはふと考えた。
無意識というのは、心にはあっても、頭で把握していないことだと思う。そもそも頭と心が、「一致する時」と「しない時」があるのか、とシンイチは気づく。
妖怪「カリスマ」が、人の影と影の間から生まれる瞬間をシンイチは目撃した。それまでどこかの井戸からでも湧いてくるかと思われた「心の闇」が、人影から生まれる瞬間を確かに見たのだ。だが後にも先にもあの一度きり。
鏡を見ても、自分に「心の闇」は憑いてはいないようだ。ただの「悩んでる人」に見える。シンイチは大天狗たちに尋ねたい。天狗の力で人の運命を操ることの是非について。人を超える「力」の存在の意味。
さて、ネムカケも一緒に遠野へ連れて行こう。電車で行くから猫キャリアに入れていかなきゃ。長い間閉じこめられて嫌がるだろうな。でも遠野から戻るとき、「遠野楽しいよう。まだ居たいよう」とぐずったネムカケを思い出していた。きっとはしゃぐに違いない。
つけっ放しのテレビから、朝のニュースが聞こえていた。
ここの所関東地区では、無差別通り魔殺人が、七件立て続けに起きている。池袋、足立区、さいたま市、松戸、藤沢。それらから遠いこことんび野町では、まだその警戒レベルは低く、物騒だなあぐらいにしかシンイチは思っていなかった。だがおかしなことに、「その犯人たちが次々と拘留所内で自殺を図った」という不可解なニュースが流れて来たのである。
「連続通り魔の連続自殺」。足立区拘留所の犯人、
その北川が、奇妙なことを漏らしていたという。
「妖怪に取り憑かれた」と。
ネムカケもシンイチも、その言葉を聞いて同時に振り返った。
「シンイチ、妖怪は映っとるか?」
「デジタル映像には映らないからね。本人を見てみないとなんとも……」
「また自殺を図るかも知れんの。もし『心の闇』のせいなら、宿主が死んだら、子を沢山産んで増えて……」
「うん。連鎖反応。……ループだ」
「むむむ。遠野行きは中止か」
ネムカケはうなだれる。狭い猫キャリアに入って長いこと電車に揺られる覚悟を、せっかく決めたというのに。
「遠野は行くよ。大天狗に会わなきゃ」
「そうよな。そうじゃとも!」
「足立区の拘留所に行っても何も出来ないかも知れないけど……」
「む?」
「遠野の前に、立ち寄らなきゃ」
2
その拘留所の前には、マスコミが集まってものものしくカメラを構え、子供と猫が堂々と侵入できる雰囲気ではなかった。
「ちょっとワシが行ってみる」
ネムカケが塀に登り、中を覗き見ようと試みたが、一通り見ても、外から見える場所に北川容疑者はいないようだった。
「うーん、直るかなあ」
物陰で、シンイチはバラバラになってしまったかくれみのを、三つ編みにしようとより合わせる。十本ほどつくり、体に巻きつけてみた。
「どう?」
「上半身だけは透明じゃな」とネムカケは答える。
シンイチはカーブミラーに映った自分に苦笑いした。下半身だけ残っている。
「下半身だけの幽霊ってこんな感じかな」
「わしが警官の注意を引きつけるから、その隙に侵入せい」
「OK!」
入り口の扉を手であける猫を見て、みんなが注目した。その隙に、下半身だけの子供がたたたと走っていく。何人か気づいたが、誰もが幽霊を見たのではないかと思い、うっかり口には出さなかった。
シンイチは窓のなさそうな地下へ降りた。漫画みたいな檻の牢屋があるのかと思ったら、そこはホテルのような廊下で、個室の白い扉が並んでいるだけだった。
端から順番に見ていくと、四番の部屋に、ニュースで見た北川がいた。白い拘束着を着せられ、身動きが取れないようになっている。そして彼の肩に……いた。巨大な妖怪「心の闇」が。
「妖怪……『死の恐怖』……」
シンイチは一連の通り魔殺人犯のニュースを思い出していた。
「一人で死ぬのは恐いから、他の人を巻き込んで死にたかった」
と、誰もが口にしていたことを。
「……一連の通り魔殺人は、『死の恐怖』に取り憑かれたせいか……」
妖怪「心の闇」は、不安や恐怖をもつ人々の心を利用する。シンイチはそう仮説を立てている。だとしたら「死の恐怖」は、最強クラスの恐怖ではないか。それを拭うにはどうすればいいか、咄嗟に答えは想像できなかった。
上半身透明のシンイチは、看守の背中から忍び寄り、鍵を盗んで素早く走り、四番の部屋を開けて中へ入った。監視カメラが作動していたが、これを見た人は確実に幽霊だと思うだろう。
3
「おやおやおや」と、北川は落ち着いて言った。
中は白い部屋で、思ったより狭かった。
「変な妖怪に取り憑かれたと思ったら、今度は子供の下半身の幽霊かよ」
白い拘束着のままの北川は、シンイチの下半身に目を向けた。土気色の肌で、げっそりと痩せて、窪んだ眼窩に目だけが光る。まるで「弱気」に取り憑かれた「あの人」――
シンイチは三つ編みのかくれみのを取り、姿を現した。
「鏡で自分の心の闇を見たんだね? 自分の白い死顔みたいな、巨大な顔の妖怪を」
北川の肩に居座る巨大な妖怪「死の恐怖」は、宿主の北川と同じ顔をしていた。肌が真っ白で目を瞑ったままで、まるで彼の
これまでの妖怪「心の闇」のような手足はついておらず、霊魂のような、魂の緒のようなものがついている。それが直接北川の心臓の奥に、深く刺さっているような感じだ。
「俺の死顔が、日に日に大きくなっていく。これが妖怪だって? ……お前は幽霊か? それとも妖怪か?」
「ちがう」
シンイチはひょうたんから天狗面を出して被った。
「オレは高畑シンイチ。天狗の妖怪退治の代理人、てんぐ探偵だ」
そう言ったのはこれまでの習慣かも知れない。果たして自分は何なのか。天狗の弟子ではあるものの、天狗の力は今や何ひとつない。しかも、天狗の力の行使に、疑問すら抱きはじめている。
「ははは! 今度は天狗かよ! ははははは!」
北川は笑った。げっそりとした顔で、死神のような笑いだった。
「オレの狂い方も、どうやら末期だな」
「違うよ! それは妖怪『死の恐怖』のせいなんだ! 妖怪のせいで、あなたの心は、負のループに入ったんだ!」
「俺の心? ……そんなもの、とっくの前から壊れてるけどな」
「え?」
「俺は
北川の目からは、周囲にピンクのカバや巨大なムカデや幽霊が沢山見えている。天井や壁は歪み、まともな部屋には見えていない。そのおぞましい世界に、天狗が一人増えようが増えまいが、どうでもいいのだ。
「早く死刑にしてくれよ。この世界から早く消えてえよ!」
「死の恐怖」は徐々に大きさを増してゆく。と、北川の態度が激変した。
「嫌だ! 死ぬのは恐い! この『白い顔』が俺を苦しめる! オイ天狗! この拘束着を取ってくれ! 自殺するんだ! いや、死ぬのが恐いから、他の奴も殺す! 恐い! この恐怖から逃れる為に、死にたい!」
論理も何もめちゃくちゃだった。
「俺なんて死んで当然だ! いっぱい殺した! 反省してねえ! 死なせてくれ! 恐い! 死ぬ! 死ぬ!」
北川は涙を流し、口から涎を垂らしてパニックに陥った。「死の恐怖」はますます巨大化し、北川の命を吸い取ってゆく。
突然、シンイチの周りに異常な景色が広がった。妖怪「ボケ」の時もそうだった。宿主の見ている風景が、幻影として見える。シンイチの想像力や共感力でそう見えるのか、この妖怪の能力かは定かではない。
天井や壁が黒く歪み、ゆっくりと変形しながら動いている。巨大なピンクのカバと白いワニが交わっており、体に虫がびっしり蠢いている。床は血まみれで、足の長いムカデやクモがさっと走った。半透明の人がずっとこちらを首を傾げて見ていたり、頭の中を覗きこもうとしている。ラジオノイズのような雑音が耳のそばで聞こえていて、空中に派手な色の模様が浮かんでは消えていた。
「……」
シンイチは怯んだ。だが恐れている場合ではない。「死の恐怖」で彼は死んでしまうのである。
「……ここが、あなたのいる地獄なんだね」
北川は意外そうな顔をした。
「見えるのか?」
「うん。この妖怪が、オレにも同じ光景を見せてくれてる」
シンイチは地獄の中を歩いた。
「ここにカバとワニ。そこにクモとゲジゲジ。ちいさい羽虫が壁にびっしり」
「窓の外は?」
「ホントはこの部屋に窓はないんだけど、何故だかそこに窓があって、外にいっぱい目が貼りついてる」
「……どうやら、本当に見えてるな」
「こんな所で死の恐怖におびえ続けてたら、本当におかしくなっちゃうよ」
「もうどうでもいいよ。どうせ人は死ぬ。俺は壊れた。人生に意味はない。消えてなくなればいいんだ」
シンイチは再び大きくなってゆく「死の恐怖」を見た。
「……オレは、死を知らない訳じゃない」
タケシの犬シロのこと。将棋の達人源じいさんのこと。大スタアハチカンさんの思い。シンイチは彼らのことを思い出していた。
「だからなんだよ! 悟ったとでもいうのか?」
突然、床がひび割れて、中から「屋上」がせりあがってきた。
錆びついた手すり、焼けたコンクリートの匂いと、その隙間から生えた背の高いセイタカアワダチソウ。少し広い空まで。
「……この妖怪、オレの恐怖を利用してるのか」
それはおそらくシンイチが「一番恐い場所」であった。突如、痩せた手首が手すりをつかんだ。血まみれで首の骨の折れた玄田洋が、登ってきたのだ。
北川はあざ笑った。
「なにが死を知ってるだよ! 偉そうな子供が! ブルブル震えてるじゃねえか!」
指摘されて、シンイチははじめて自分の震えに気がついた。膝が笑い、指先が震えている。自分の意志と関係なしにだ。「弱気」に取り憑かれた症状に似ていると思った。
今オレは、弱気に取り憑かれていてはならない。
シンイチはそう思い、膝に力を入れたが入らなかった。
手も足も、自分の意志を離れた。体が、本能的に恐怖して震えているのだろうか。頭と心の不一致。「心の闇」はこの隙間にすべりこむ。
「もういいよ! 死なせてくれよ!」
北川は大きく口を開け、舌を力の限りのばした。
「舌を噛んじゃダメだ!」
シンイチは咄嗟に、右手を北川の口に突っ込んだ。
電撃のような痛みがシンイチの手に走った。
「!!!!!…………」
シンイチの手のひらが北川の歯を止めた。中途半端に指だけ入れていれば、指を落とされていたかも知れない。勢いよく手のひらまで突っ込んだから、手の甲を噛まれて千切られずに済んだのだ。手の甲とてのひら、両方から鮮血が流れる。まるで北川がシンイチの右手を、口から血を流して喰らっているようだった。
玄田が、自分を助けなかったシンイチを柵の間から見ていた。
シンイチは右手の痛みに耐えながら答えた。
「ごめんなさい。あなたを助けられなかった。厳しいけれど、事実は変わらない。あなたは死んだ。それは本当で、もう変えようがない。けれど、今目の前のこの人を助けることは出来る」
北川は口に手を突っ込まれたまま、シンイチに叫ぶ。
「死なせろよ! 死なせろよ!」
「心の闇は、その人の苦しみなんだ。あなたは死ぬのが怖い。それだけで暴れてるんだ」
シンイチの右手に食い込んだ歯の力が、少し緩んだ。ぬるりと血が滑り、シンイチの右手は北川の口から抜けた。鋭い痛みのあとから、鈍い痛みが来た。
「……そこの屋上の人は、見えてる?」
「……ああ」
「あの人は、俺が助けられなかった人だ。オレが妖怪『心の闇』のせいだと分ってたら、助けられていたかも知れない。オレは今でもこの光景を夢に見る。この光景は、その妖怪が見せてる幻影だと思う。自分の一番『恐い場面』を見せることで、恐怖のループをさせるために」
「……幻影だって?」
「……うん」
「この光景が、全部」
「うん」
「クスリじゃなくて?」
「クスリで壊れた心を、この妖怪が再現してるんじゃないかな。だからオレの『光景』と混ざったんじゃない?」
「俺は、麻薬で見たこんな光景が一番恐いってことか」
「……多分」
右手の血はぼたぼたと止まらず、床に撒き散らされた血の幻影に合流した。
玄田は笑って屋上から飛び降り、地上で破裂した大きな音を立て、今度は天井の裂け目から落ちてきた。
「恐怖の正体を自覚すれば、大体の大きさが分る」
シンイチは冷静に言った。
「恐怖の正体……」
北川は笑った。
「はははは!」
血まみれの口で笑う表情は狂ったピエロのようだった。
「お前、面白いこと言うな」
その瞬間、北川の「死の恐怖」の根がずるりとゆるんだ。
「妖怪が……外れる?」
だが「死の恐怖」は彼の肩からは離れず、閉じられていた目を開けた。
目には眼球がなく、その中に黒い空間だけが広がっていた。中身がないのか、いや、そこには「闇」が充実しているような圧力があった。死人のような口を開き、妖怪は突然こう言った。
「お前は、誰だ?」
「……は?」
「お前は、誰だ?」
「何だよ……何を言い出すんだよ」
「お前は、誰だ?」
「天狗の力の代理人、てんぐ探偵シンイチだ」
「お前は、誰だ?」
「だから、てんぐ探偵シンイチだ」
「ちがう。お前は、誰だ?」
痛い所を突かれた。シンイチは天狗の力に疑問を持っている。シンイチは自分の足場がぐらついた。
「天狗じゃない。高畑……高畑シンイチだ」
「お前は、誰だ?」
「だからシンイチだっつってんだろ!」
心を狂わせる簡単な方法がある。毎朝、鏡に向かって「お前は誰だ?」と問い続けるのだそうだ。一週間もすれば様子がおかしくなり、その先は自分が誰か、分からなくなってしまうという。「お前は誰だ?」と無限に問うことは、自我の崩壊を招くのだ。
シンイチは小鴉を抜いた。無意識に自分を守ろうとしたのだ。火などひとつも出ない。火の出ない剣を構えている自分が哀れに思えてきた。
「お前は、誰だ?」
妖怪は虚無の目で、同じ言葉で問い続ける。
「オレはシンイチだ!」
小鴉を握るシンイチの右手は、北川に喰われた傷から鮮血がしたたり落ちている。きつく小鴉を握るほど、赤い血は池のように床に広がってゆく。
「お前……大丈夫か?」
突然、北川が口を開いた。
「その血、ひどいことになってる。血が止まらないのか? 誰か呼んで治療してもらえ。俺をその手で……助けてくれたんだもんな」
その瞬間、妖怪の根が北川から抜けた。
「今度はお前を、俺が助けなきゃ」
北川は拘束着のまま暴れ、非常ベルのボタンを押した。
けたたましい音が響いた。
その音とともに、北川の壊れた心の世界も、屋上も玄田もあとかたもなく消え、白い部屋と赤い鮮血の床という現実に戻った。
「……あなたにも人間の心が残っていたんだね」
「……人間の、心」
シンイチは笑って、開いた扉から逃げる、遊離した「死の恐怖」を追った。
廊下に看守たちがやって来た。シンイチは三つ編みのかくれみのを被り、再び下半身だけに
4
白い
拘留所を飛び出た。三つ編みのかくれみのは次第にばらけ、地面に散っていった。小鴉を握るシンイチの右手は、激痛を過ぎ、握る感覚が薄れてゆく。これだけの大きさの妖怪、何回みじん切りにすれば斬れるのだろう。
狭い路地に妖怪は逃げこんだ。走ったせいか、血はまだどくどくと流れて止まらない。失血死ってあるんだっけ。そう思った頃、行き止まりにたどり着いた。
シンイチは天狗の面を被った。天狗の力などもうないのに、それでも小鴉から火が出ればと思ったのだ。「死の恐怖」は、再びシンイチに尋ねた。
「お前は、誰だ?」
「オレは高畑シンイチだ。またの名をてんぐ探偵。……遠野大天狗の名において、お前を斬る!」
シンイチは名乗ることで、自分を確定したかった。「てんぐ探偵」であることに自分をすがりたい。そんな力はひとつも残されていないのに。
息は切れている。右手は痛い。両手で小鴉を持っても、取り落とすかも知れない。
「名前なぞ聞いていない。お前は誰だ?」
「オレはシンイチだ!」
シンイチは小鴉で斬りかかった。妖怪は避け、体が入れ替わる。シンイチは壁を背負った。
「大事なことだろう? お前は誰だ? お前はどこから来て、お前は何で、お前はどこへ行く? つまり、お前は誰だ? 名前は聞いてないぞ。お前は、何の為にこの世にいるのだ? お前の生きる意味は何だ?」
妖怪は巨大な口を開けた。真っ暗闇が口の中に広がっていて、無数の黒い牙が喉の奥まで生えていた。
ばくん。シンイチの首ごと喰らおうとした。
間一髪シンイチは避けた。妖怪は再び問う。
「お前は、誰だ?」
またも巨大な口を開け、飲み込もうと襲ってきた。シンイチは左手で小鴉をひと太刀。無数の牙のうちの一本に当たり、がいんと音が響いた。固い。黒曜石の刃と牙の固さは同じぐらいだ。つまり、牙がかすればシンイチの皮膚は簡単に裂かれるだろう。
右手はもう握力が残っていない。左手もしびれた。心はすでに折れそうだ。
妖怪は真正面から飛びかかってきた。右に避けるだけで精一杯だった。べきりという音とともに、天狗面が真っ二つに割れて左半分が飛んだ。額に掠った牙が、裂傷を負わせた。血が流れる。目に入った。痛い。霞む。
「お前は、誰だ?」
もうシンイチはてんぐ探偵ですらない。半分だけの面と、火の出ない小太刀を持った、ただの迷える小学生だ。右手が痛い。足はもう動かないかも知れない。
オレは誰だ?
天狗ってなんだ?
何の為にオレはここにいる?
何の為に、たたかう?
妖怪が襲ってきた。シンイチは反応できず、やられたと思った。
その時。
紅蓮の炎が横一直線に薙がれた。シンイチを呑み込もうと大きく口を開けた妖怪は、その口から、真っ二つに切り裂かれてゆく。まるでスローモーションを見るように。
「何? え?」
シンイチは顔を上げた。
「なんや東京
真っ二つになったまま、口に火がついた妖怪「死の恐怖」は、なお襲いかかった。
「しっつこいわ!」
その者は、黒光りする黒曜石の火の剣を構えた。
「火よ在れ!
朱の柄に黒曜石の刃。小鴉が小太刀ならば、大鴉と呼ばれたその剣は大太刀。その黒い太刀から、紅蓮の浄火が巻き上がった。
「真向唐竹! めでたしやん!」
大鴉は、体ごと深く斬り込む古流の太刀筋で、妖怪「死の恐怖」を唐竹割りに両断した。小鴉の何倍もの大きな炎が「死の恐怖」を包み、螺旋の火柱を描きながら清めの塩へと変えてゆく。
螺旋の炎の中から現れたその者は、黒い鳥――カラス天狗の面を被った少年だった。
シンイチより少し背が高く、全身が真白な修験道の山伏装束。黒い
肩に乗せた眷族は、黒くて大きなハシブトガラス。
「
「君は……誰?」
思わずシンイチは尋ねた。
「俺か? 俺は……」
黒い面の少年は答えた。
「
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