海と陸
白夜を受けて藍色に透き通った北の海底を、パンパイプに似て、もっと澄んだ笛の音色が流れていく。
一面に生えた淡い緑の柔らかな海藻が幽かに揺れる。
その中の、一箇所だけ黒くゴツゴツした岩場の洞(ほら)の入り口で、赤銅色の巻き毛を垂らした魔神が、朱色の珊瑚(さんご)の管を横並びに繋げた笛を吹いていた。
この魔神は上半身こそ彫深く小さな顔に太く長い頸、広い肩、そして蒼白い肌を持つ人間の青年だが、下半身は灰黒色の、大振りな刃物に似た尾鰭(おひれ)を備えた鮫(さめ)である。
傍らの黒い岩の上に置かれた大きな銛(もり)が、藍色の海を通した仄かな陽光を反射して冴え冴えと白く光った。
ふと、鳴り響いていた笛の音が止む。
「何だ」
魔神は蔓草じみた紅い髪を泳がせたまま、振り返りもしない。
男が面(おもて)を向けている海草の平原では、ある一株から一斉に抜け出た白い小魚の一団が、そのまま泳ぎ去ると思わせて、また別の一株に身を隠すところであった。
やってきた人魚姫は胸に大きな真珠を抱いたまま、行くも戻らずも図りかねる体(てい)で止まった。
「これを」
やっと切り出した少女の声は蚊の鳴くようだったが、男は太く長い頸を振り向ける。
水の中で顔を半ば覆い隠していた赤銅色の前髪が翻り、エメラルド色の瞳と穏やかに弧を描く眉を顕(あら)わにした。
珊瑚の笛から離した色味のない小さな唇が、物問いたげに僅かに開かれている。
そんな無防備な表情をすると、相対する人魚姫と年の変わらぬ少年のように見えた。
「受け取って欲しいのです」
少女は両の掌で包むようにして、魔神に向かって真珠を差し出す。
大人の拳ほどの大きさを持つ宝玉は、藍色の水の中で七色に鈍く光った。
改めて全身で向き直りながら、宝玉越しに人魚姫を見詰める男の面は、小さな口は堅く閉じられ、赤銅色の前髪がゆっくりとまた被さっていく。
「他にも欲しいものがあれば渡すのでどうか気持ちを収めて欲しい、とお父様がおっしゃいました」
さながら教師に向かって課題の文章を暗唱する子供のように従順な口調で少女は告げた。
魔神を見上げる瞳は、生まれたままの濁りない水色である。
「海王様(かいおうさま)が?」
魔神は先程の振る舞いを恥じるかのように一転して穏やかな語調になる。
笛を持たない左手を優しく伸ばして贈り物を受け取った。
少女は安んじたように顔を綻ばせると、たっぷりと豊かな髪に比して小さな頭を縦に振る。
そうすると、藍色の水の中で金髪が周囲の僅かな光を吸い寄せるように反射して煌めいた。
その様子を目にすると、男の顔に、酷く眩しいものを目にした人に似た痛みが走る。
「もったいないほど良い石だ」
魔神は手にした宝玉を藍色の薄暗がりにかざして瑕一つない表面から七色の光を反射させると、血の気のない唇を微笑ませて人魚姫に頷いて見せた。
「それはもちろんですわ」
少女は海の青をもう一段階明るく澄ませた色の瞳で答える。
連なった小さな真珠を思わせる歯並びを覗かせて両の頬に笑窪が入る。
人魚の末姫は佇む周囲の水まで一段階、清く曇りのない色に変えるかのような笑顔になった。
「お母様が生きていた頃に二人で育てた、一番大きな真珠だそうです」
お母様、と告げる声には、まるで言葉を覚えたばかりの赤子が呼びかけるような無心な響きがあった。
「それも、伝えろと?」
相対する魔神はどこか哀れむように微笑んでいる。
しかし、真珠を持つ手は潰さんばかりに握り締められていた。
右手に持ったままの珊瑚の笛が、僅かにそれと分かる程度に震える。
「いいえ」
少女は相手の様子に急に漠とした不安を覚えたのか、水色の目から笑いを消して、長い睫毛を伏せた。
そんな風に俯くと、白い頬の丸みとふっくらした小さな下唇がいっそう人魚の末姫の顔を幼く見せる。
「ただ、お父様がそう教えてくれました」
お父様、に込められた曇りのない信頼が、黙した魔神の拳をいっそう強く握り締めさせた。
珊瑚を繋ぎ合わせた笛は、蒼白く骨太い手の中で撓(たわ)んでしまうかに見える。
「海王様は」
男は低く押し殺した声で言葉を継ぐ。
「ご存知なのか」
再び円らな目を上げた少女の顔には恐れが滲んでいた。
骨の細い、華奢な骨格の人魚姫の腰から下は、瑠璃色に輝く鱗に覆われた、体形としては鮎(あゆ)に似たしなやかな姿をしている。
先の透き通った薄青の紗に似た尾鰭は、ごつごつした岩場の上では、どこかに擦(こす)れればたちまち裂けてしまいそうに見えた。
「お前が私を拒んだ理由を」
耳を澄ましてやっと聞き取れるほどの言葉であったにも関わらず、人魚姫はか細い肩を竦める。
薄青の尾鰭も岩の上でピクリと震えた。
「まだ話していません」
まるで聞きつけられるのを恐れるかのように、少女も密やかな声で告げる。
岩の上で青く透き通った尾鰭を所在なげに揺らし、魔神が前髪の奥から鋭く光らしているエメラルド色の瞳とは視線を合わせないまま。
「話したら、きっと宮殿の外に出してもらえなくなりますから」
言い出してから、急に思い当たったように、人魚姫は水色の瞳を魔神の目と合わせて懇願した。
「どうか、お父様には内密に」
沈黙が流れた。
時折、二人の口から小さな泡の粒が連なって立ち上る以外は、藍色の海の底には何の変化もない。
「それで、お前は一体、どうしたい」
まるで隠れた瑕がないか検分するように手の中の真珠を回して反射する虹色の光に瞳を眇めながら、魔神は再び訊ねた。
「その、私も陸に上がって、想う人と……」
勇気を振り絞って勢い込んだ少女の言葉が途切れる。
人魚姫に向き直った魔神の蒼白な顔には嘲るような笑いが浮かんでいた。
「それはない」
突き刺すような声音である。
大きな手が、真珠を輝きごと覆い隠すように再び握り締められた。
向かい合う二人の間がまた薄暗くなる。
「あの男は恐らく生きて陸に上がれまい」
少女は、まるで自らが死の宣告を受けたように、黄金色の髪の先から瑠璃色の尾鰭の先まで強張らせた。
「私が手を下すのではない」
用済みとばかりに手に持っていた宝玉を傍らの岩の上に置くと、青年の顔をした魔神は静かに首を横に振る。
「人間同士の事情で命を落とすのだ」
人魚姫は理解しがたい風にあどけない顔で相手を見上げている。
辺りを取り巻く潮の流れが微かに変わったらしく、金色の髪が丸みを帯びた白い陶器きじみた頬に僅かに掛かった。
「あれから、鮫(さめ)に化けて、お前の跡を付けた」
魔神の言葉に、海王の末娘は手を胸に当ててぎくりと身を震わせると、人の足にすれば数歩分だけ、海草の平原へと後ずさる。
すると、その辺りの藻の株に隠れていた色とりどりの魚たちがワッと姿を現して、まるで人魚姫を守るかのように取り巻いた。
人魚姫の尾鰭は宙に浮いたまま、潮の流れに揺られて僅かにそれと確かめられる程度に震えている。
背にした藍色の海の色にそのまま紛れてしまうかのような透き通った青だが、震える度に鱗の下で白い煌めきを放つので、優しい形が浮かび上がる。
「気付かなかったのか」
男は遠のいた少女を見据え、自らをも嘲る風に小さく薄い唇を歪めると、大振りな灰黒色の尾鰭で立っていた岩をバサリと打った。
鮫(さめ)の迫る気配を受けると、人魚姫のか細い体の周りに集まっていた魚たちが四方に散っていく。
逃げ去る魚たちの生み出した水の流れが魔神の険しくなった目を片方だけ一瞬、顕わにしてまた隠した。
「あの男の周囲には鉄や銅を身に纏った者ばかりだったではないか」
魔神は感情の消えた声で続ける。
右の手にはまだ朱色の笛が行き場を失ったように握られていた。
だが、鮫の体をした半身はもうピクリとも動かない。
「あれは、人同士で殺し合う時のいでたちだ」
少女の目が男の首から胸にかけての切り裂き傷の辺りを移ろう。
それは通常の人体ならば致命的な打撃を与えうる傷であった。
「お前が生まれる少し前にも、この海底にもそんな水死体がたくさん沈んできたことがあったよ」
一切の温かな血を抜き去ったように蒼白い肌をした魔神は続ける。
「海面の方が赤く染まったと思ったら、鉄や銅を纏い、剣や矢を突き刺した若い男の死体ばかり次々と」
濁りのない藍色の水の中、魔神が見詰める人魚姫の背後では、淡い緑の海藻が変わらず水の流れにそよいでいる。
平原の遠い一角で、群れた小魚たちがちらと鱗を光らせてまた泳ぎ去って行った。
「おかげでお前が生まれた時には、姉姫たちの時よりたくさんの魚が迎えてくれた」
兄のように若い風貌をした魔神は、人魚姫のなだらかな肩越しに遠ざかっていく魚たちの群れを見送りながら、哀しく笑った。
「海王様はお前にそんなことは教えないのだろうな」
少女は言葉を失ったというより、問い質したくても言い出せない風情で、男の胸に斜めに刻まれた傷跡を見詰めている。
「悲しむことはない」
魔神は薄い唇にだけ笑いを残したまま、首を振った。
「人間が自分たちで勝手に殺し合って魚の餌になったのだから」
鮫の尾鰭が岩の上で乾いた音を立てる。
人魚姫は咎められたように俯いて、自らの瑠璃色に輝く鱗と透き通った青の尾鰭を見やった。
「どこの海でもその繰り返し」
魔神は白夜の海面を見上げて嘆息すると、掠れた声で付け加える。
「あの男もその例に漏れぬ」
あの男、と耳にした瞬間、少女は岩場に立つ男に目を戻したが、視線を受けた当の相手は火の粉が飛んできたように苦い表情になった。
「そうでなくとも、東の海はこの時期荒れやすい」
まるで許しを乞うように人魚姫は再び岩場に近付いてくる。
だが、魔神の抑えた声には醒めた苛立ちが滲んだ。
「もうその兆候が出ている」
ゴーッと波の上を風の吹き抜ける音が海面から響いてきた。
しかし、二人は決闘前の敵同士さながら互いから目を離さない。
「下手をすれば、目的地に着く前に嵐に見舞われてあの船は沈む」
胸に傷を持つ男の声は、これから生じる災厄ではなく、既に収束して覆せなくなった過去について語るようであった。
少女の背後に広がる苔緑色の平原では、新たに泳ぎ着いた魚たちが海藻のそこかしこに身を隠す。
「まるで、死の船路(ふなじ)だ」
静けさを取り戻した水面を見上げて、魔神は乾いた声で笑った。
そんな風に頸を上向けると、胸の傷跡が余計に口を開けてしまうかに見える。
水の流れは人魚姫の優しい金の髪と薄青の鰭を相手から遠ざける向きにそよがせた。
「あの船の航路から割り出した目的地では、海辺に壁を築き、もっと沈みにくい型の小舟をたくさん浮かべて演習をしていた」
改めて人魚姫を見やる魔神の目は少しも笑っていなかった。
「年寄った男とお前くらいの若い娘が並んで高台から見下ろしていた」
若い娘、と耳にした人魚姫の白い手が胸の上できゅっと握り締められる。
「どうやら敵の方が一枚、上手(うわて)のようだな」
遠目には素肌と見分けが付かないほど滑らかな白い貝に守られた少女の乳房は、握り締めた拳と大きさを競うかのように未熟な膨らみを示していた。
「追いかけるなら、相手の行き着く先まで良く確かめることだ」
魔神が言葉を続けるほど、彼を見上げる水色の瞳は凍り付いていく。
黄金色の髪は変わらず水の中で輝きながら揺れ、下半身を覆う瑠璃色の鱗は煌めいていた。
しかし、それらはまるで水に投じられた氷のように次第に輪郭を失い、背景の藍色に消え入ってしまうかに見えた。
「どのみち、あと数日で、あの男は死ぬ」
表情の消えた少女の顔を見下ろす男の面持ちも石像のようになる。
岩場に下ろした鮫の尾鰭は、まるで岩の一部と化したかのように微動だにしない。
「もう、上辺(うわべ)しか知らない相手に夢を見るのはやめろ」
人魚の王女はまるで見知らぬ相手を眺めるような目を魔神に向ける。
白く細い頸から肩にかけてのなだらかな線は彫り込んで磨いた氷のようであった。
「あの男はお前に気付いてもいないだろう」
魔神は太く長い頸の頭でどこか挑むように、自分より体格も見た目の齢(よわい)も一回り小さい人魚姫を見下ろす。
「だから、夢が持てる」
魔神は小さく薄い唇を再び歪ませて笑った。
下から眺めると、白く揃った男の歯は酷く尖って見える。
人魚姫は凍った双眸で哄笑する魔神を見上げた。
「あの男から見れば、お前は化け物だ」
少女の目が一瞬、鋭い刃に刺し貫かれたようにいっそう大きく見開かれたかと思うと、次の瞬間には顔全体がくしゃりと崩れた。
「奴らと我らは折り合わない」
魔神は珊瑚の笛を放ると、少女というより幼女に相応しい顔つきで泣き出した人魚姫の肩を掴む。
「仲間同士で殺し合いを繰り返す連中に夢なんか見るな」
掴んだ肩を揺さぶり叫ぶ男を少女は全身で振り払った。
水の中で、少し離れて向かい合う二人の髪が逆立つように翻る。
まだ目に涙を宿した人魚姫の顔には、冷ややかな敵意が漂っていた。
再び眉と瞳を全て顕わにした魔神は、腕に空を抱いたまま、まるで理不尽に打ち据えられた子供のような面持ちで、自分より幼い相手を見詰める。
「私の思いは変わりません」
表情を再び石にした男を残して、少女は透き通った瑠璃色の鱗に覆われた半身をさっと翻すと、逃げるように洞窟を後にする。
元の形に収まりつつあった魔神の赤銅色の髪が、煽りを受けて水の中でまた逆立つ。
「全てはその男が生きて陸に上がってからだ」
顔を上げた魔神がその言葉を言い終えない内に、瑠璃色の優しい尾鰭と金色の髪は残像だけを残して藍色の海の中を遠ざかっていった。
「出来るものなら」
男は自分にだけ聞こえる声でそう呟くと、忘れられたように置かれていた傍らの銛を取り上げる。
凶器を構え、大粒の泡を吐き出しながら、燃え上がった緑色の目で人魚姫の去った方角を見据えるが、もう光り輝く少女の姿は影も形も見えなかった。
地上では朝の時刻を迎えたらしく、四方の藍色が一段階また白んで、贈られた真珠が七色の光彩を放っている。
魔神は急に赤銅色の髪を逆立てて振り被ると、大粒の宝玉に鋭い刃先に突き立てて叩き割る。
砕けた真珠の欠片が、七色に煌めきながら、泡に紛れて散っていく。
男は紅い髪を揺らしつつ、遥か上から射してきた陽の光で陰になった眼窩の奥からその様を眺めた。
人魚の舞 吾妻栄子 @gaoqiao412
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