南国の王宮で
常夏(とこなつ)の宮殿の広間は、香を焚き染めたために本来より甘さを濃くした蓮(はす)の匂いに満ちている。
灯火が蜜色に照らし出す舞台の上で、仏塔と思わせる金の冠に同じ色の長い爪を付け、滑らかな褐色の肌をした五人の舞姫たちが、船を模した形の木琴や鉄琴の音に合わせて踊る。
五人の内、後方で舞う四人は揃って黄土色の紗(しゃ)の衣装を纏い、真珠の耳飾りを着けていた。
しかし、一番前で踊る舞姫だけが、一際ほっそりと手足の長い体を白味の勝った黄の衣裳に包み、また、ふくよかな耳朶(みみたぶ)に赤紫の紅玉(ルビー)を光らせていた。
仔細に眺めれば、この最前の舞姫の肌そのものも他の四人に比して幾分白く、また、頬に丸みを残した輪郭から年配も若干幼いと知れる。
木琴と鉄琴に人の声に似た笛の音色が混ざり、曲が緩やかな調子に転じた。
舞姫たちは一斉に金の爪を嵌めた手を顔の前で重ねて、花が開いていくようにゆっくりとまた両腕を伸ばしていく。
それは、後方の四人の舞姫においては、ほのかに微笑んだ目線を観る者に送る面持ちも含めて、いかにも艶かしい所作であった。
だが、前方の舞姫の、金の付け爪の先にまで神経を張り巡らせたように正確な動作と見開かれた目の黒曜石じみた煌めきは、中性的な美少年と見紛う凛冽さを放っている。
舞台から少し離れた玉座に座す、小麦色の肌に薄紫の絹の衣をゆったりと纏った男は、半ば開いた薄紅の蓮を一輪手にしたまま、大きな目を細めて最も年若い舞姫に見入った。
年の頃は既に五十近く、丸顔にやや小太りな体つきをした、どこか仏像を思わせる風貌の越安(えつあん)王と、舞台の最前で踊るほっそりした舞姫は、遠目には、似ても似つかない。
しかし、真っ直ぐで豊かな髪や黒玉に似た円らな双眸、そして仏像めいたふくよかな耳朶は、両者が紛れもなく父子である事実を示していた。
まるで見比べて清らかさを競うように、越安王は手元の淡紅色の花と舞台で女神に扮して踊る娘を交互に見やる。
舞台の上では、蜜を流したような灯りを浴びながら、年長の四人の舞姫たちが王女の後方で一列に並び、王女が祈るように両の掌を合わせたところで、バッと八本の腕がその背後で広げられた。
その様は、紅玉で耳を飾る舞姫が、どこか思い詰めたように前方を見据える眼光を含めて、本当に十本の腕を備えた生ける観音菩薩であるかのごとく思わせる。
父は眩しげに娘の姿を見守りつつ、華奢な少女の背後に伸ばされた八本の艶かしい腕の動きに一瞬、懊悩じみた色も走らせた。
細い蓮の茎を持つ王の手が僅かにそれと分かる程度に強く握り締められる。
笛の音が、うねるように辺りを流れていく。
やがて、また、木琴と鉄琴の軽やかな旋律に戻り、後方の四人の舞姫がまた元の位置に散らばっていく。
五人の舞姫がゆっくりと沈み込むように跪(ひざまず)く体勢を取ったところで、音楽が止まった。
広間が静寂と濃厚な蓮の芳香に満たされる。
紅玉の舞姫がそっと目を上げるのと同時に、玉座から手を叩く音が響いてきた。
「この前よりも、ずっと良くなった」
目を三日月の形に細めた丸い顔も、ゆったりと語る低く温かな声も、蓮の花を優しく手にした立ち姿も、越安王は正に生ける仏のようであった。
「まだ、少し固いところがあるようだが」
聴く側の娘は、頭に載せた一際長い金の冠をものともせぬように細首を真っ直ぐ伸ばし、大きな黒い瞳をちかりと勝気らしく光らせた。
目張りも口紅も、実際には至極(しごく)大人しめに施されていたが、素地の派手やかな顔立ちは、十六歳の、まだ少女と言っても良い王女の喜怒哀楽を鮮やかに映し出すのだった。
「女神を舞うには、嫋(たお)やかさがいま少し足りぬ」
その評を耳にした娘は打って変わって目を伏せたが、見守る父親の目は、しかし、そうした未熟さをどこかで望んでいるかのようでもあった。
「そなたたちも、いつもながらに良くやってくれた」
越安王は娘の背後に跪いている四人の舞姫たちと舞台脇で控えている楽師たちを見渡して労う。
楽師たちは音もなく頭を深々と下げた。
頭に冠を載せた舞姫たちは、まるでそこまでもが振り付けであるかのように一斉に目張りと紅を濃く引いた顔を微笑ませて返す。
こちらも、いずれも姿かたちの整った、五十近い王からすれば娘ほども年の離れた、妙齢の女たちである。
だが、念入りに天女の化粧を施した顔も、黄土色の紗の舞踏衣裳を隙なく纏った豊満な肢体も、むしろそれ故に、どの女も似たり寄ったりに見せていた。
「それでは、皆にも酒を……」
「失礼仕(つかまつ)ります!」
王の言葉を遮る形で若い男の声が響き渡る。
広間にいる皆が驚きを浮かべて、声の主を振り返った。
「ただいま、周国より密偵が戻りましたので、ご報告に上がりました」
御前に出る前に急ごしらえで整えたらしく微妙に解れた鬢(びん)といい、乱れた息を抑えた声といい、広間に現れた若い臣下の様(さま)は、携えた情報が非常な内容であることを裏書していた。
辺りがシンと静まり返る。
玉座の男は手にした蓮の花を傍らに置かれた蛇の彫りこまれた壷に挿すと、微笑を崩さずに告げた。
「述べよ」
「周国の水軍が、我が国に向かっております」
自らの発した言葉に改めて慄いたように、青年は上擦った声で続けた。
「数日以内に、喃城(なんじょう)の沖合いに到着する見通しかと」
蜜色に照らし出された舞台の上で、王女は大きな目をいっそう見張った。
背後に控える年嵩の舞姫たちの顔も凍りつく。
舞台脇の楽師たちも黙したまま互いの顔を見合わせた。
「大将は何者で、兵の数はいかほどか」
玉座の男の平らかな声は、額面通りの問い掛けというより、むしろ皆に対して落ち着けと窘(たしな)める風に響く。
「率いるは、雍嘉帝(ようかてい)の第五皇子、嬰宗(えいそう)。兵は三百余りとのこと」
若い臣下がまるで一つでも言い誤れば首を斬られでもするかのように血の気の引いた面持ちで告げる姿を眺めながら、王は笑顔のままゆっくり頷くと、急に吹き出した。
「この時期に船まで出して、要らぬ童(わっぱ)の口減らしか」
哄笑に苦さの混ざった声で言い捨てると、玉座の男は、自らの傍らに挿された蓮の萎れた花びらを一枚抜き取る。
すると、まだ若々しい花びらが四、五枚、床に散じて落ちた。
「北伐、西討と来て、こちらに兵を寄越さぬわけはないとは思ったが、あの男も、三十年で随分、耄碌(もうろく)したものよ」
越安王は摘み取った萎れた花びらを足元に落として靴の踵で踏み潰すと、口の端だけで笑う。
そうすると、片頬の線が酷く歪んで、急速に顔全体の弛みが目立った。
傍で父の姿を見守る娘の大きな黒い瞳にちらと暗い陰が差す。
しかし、少女は瑞々しい頬にすぐ笑窪(えくぼ)を戻して他の舞姫たちに告げた。
「私たちは、もう、お開きとしましょう」
その朗(ほが)らかな声を聞くと、それまで跪いて静止していた舞姫たちは待ちかねたように、しかし、念入りに化粧を施した顔にはある種の緊張を残したまま、広間を辞し始める。
中には、ごくさりげない風に王に目線を向ける女もいたが、王の視線が片膝を着いた若い臣下の男に注がれているとあっては、諦めて前を向き直るよりほかはなかった。
老若の楽師たちも国王父娘に拝礼すると、めいめい片付けを始める。
すると、それまで広間の端で漆塗りの箱を携えて控えていた中年の乳母が王女に近づいてきて、箱を足元に置き、王女の舞踏用の金冠を取った。
王女は金の付け爪を自ら外すと、乳母に手渡す。
乳母は漆塗りの箱の蓋を開けると、付け爪を箱に敷き詰めた紫の絹の上に収めて蓋した。
「お前の言う通りだったわ」
王女の囁く言葉に、乳母は何のことか図りかねる顔つきで見上げる。
「振り付けは完璧に出来たつもりだったけど、私の踊りにはやっぱり女らしさがなかったみたい」
紅の半ば剥(は)げた唇から生(き)のままの白い歯を覗かせて笑う少女に対し、中年の乳母は肯定も否定もせずに、目尻の皺を深めて微笑んだ。
「沿岸の土塁はもう完成したか」
人気が急速に疎らになっていく中、越安王は元の円満な面持ちに戻って、息子ほども若い臣下に再び問うた。
「まだ、完成には」
臣下の青年は相も変わらず恐れを滲ませて答える。
漆塗りの箱を抱いた乳母が廊下に姿を消す一方で、王女は金の冠を抱いて向こうに行きかけた足を止めて、父親と廷臣の様子を見詰めた。
両のふくよかな耳朶(みみたぶ)に下げた赤紫色の宝玉を微かに震わせながら。
「簡単で良いのだ」
初老の王は生ける仏像のような笑顔で、固い面持ちを崩さない臣下にゆっくりと頷く。
王女もその様子に安堵したように円らな黒い瞳を細めた。
「周国(しゅうこく)の兵に、一歩たりともこの喃城(なんじょう)の土は踏ませぬ」
強まりつつある風が、王宮の広間を満たしていた蓮の香りをいつの間にか消し去って、湿った土の匂いを新たに立ち上らせた。
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