EDEN

紅葉紅葉

終わりなき夢

「エデン・シンドローム……」


 または理想郷症候群とも言われるその社会現象は、近年の中でも最大のものとされていた。これは、人間が神に近づいてしまった事が起因となっている。

 人々は、遂に自分達の生けるもう一つの世界を創り出したのだ。今や世界に広がるインターネットを基盤とし、そこに現実世界に即した世界を構築した。通称は、エデン。

 偽りでありながら、その世界は無限であった。現実世界の常識に囚われない空想の世界。夢を持つ者は、次々とその世界に干渉し順応していった。その症候群が生まれるまでは。


「アークの中で永遠に眠る、か」


 方舟の意味を持つカプセルを見つめながら、俺はその終わりを想う。

 ある時、そのエデンから精神が帰還しないという事件が発生した。アークには、精神衛生の問題を見越して、エデンからの帰還命令が組み込まれていた。しかし、帰還者が現実への帰還の意思がなければ、その命令を無視する事ができる欠陥のある命令だったのだ。

 自らの意思で理想郷の住人となった彼らは、アークを棺として永遠に眠る。いつしか世界に飽き、現実への帰還をするまで。カプセルは、帰還者の意思でなければ開かないのだから。

 その事例が頻繁に発生した。勿論、全てのアーク所有者がそうなったわけではないが、次々に未帰還者は増えて、遂には社会現象とまでなってしまったのだ。


「開発元のNoahインダストリーは倒産した。しかし、未だに事件は解決していない」

「だから、俺にエデンへ行けと?」

「そうだ。もしかしたら、Noahインダストリーはエデンで生きているかもしれないからだ」


 刑事である俺にそのような依頼をしてきたのは、政府と繋がりがある科学者であった。政府の意思を託された彼は、しがない刑事である俺に頼ってきたのだ。

 確かに、俺は出世欲もない人間だ。政府からしたら捨て駒のような存在であろう。だが、俺にだってそれなりに正義という心を有している。この仕事を断る理由はなかった。


「俺がエデンにいる間は?」

「契約通り、君の妻子に関しては任せてほしい」


 俺がたとえ、未帰還者になったとしても、政府の手で大事な妻と子供が守られる。俺の未練である二人の行く末に安心を覚えて、俺はアークの中へ入り込んだ。

 カプセルが閉じる。青く彩色されたガラスに浮かぶ光の点滅は、俺の意識を確かに理想郷へ運んで行った。



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『エデンへようこそ』


 ウグイス嬢のような機械音声が、俺の意識を呼び覚ます。目を開けると、俺の周りを回るボールのような機械と、エデンのスタート地点に設定していたため、Noahインダストリーのビルが目の前に聳え立っていた。現実世界ではもう存在しない建物だ。

 俺は、自分の肉体の違和感がない事に驚きを感じつつも、視界に映る時間の表記などで、ここが本当に仮想空間である事を認識した。


『エデンへようこそ』


 先程から同じ言葉しか話さない球体を睨みつける。こいつも現実にはない物だ。サッカーボール程度の大きさの灰色のボールが、重力を無視して飛び回っている様は、エデンという常識はずれな世界の象徴のように思えた。


「おい、ボール」

『なんでしょうか、ゲスト456』

「この世界の責任者に話をしたい。通してもらえるか?」


 無謀な問いかけであった。勿論、そこに期待などしてはいない。だが、この世界の責任者に印象を付けるには十分な効果があると考えていた。


『解りました。では、私に着いてきてください』


 だが、事は急ぐ結果となる。ボールがあまりにも簡単に、まるで責任者に意見を通さずに、自分で判断をするほどの思考速度で答えを導き出したのだ。この機械のAI、大丈夫かといういらぬ不安を感じつつも、俺はボール球の誘導に従い、Noahインダストリーへ入っていく。

 周囲の光景は確かに現実に即した物であった。しかし、それはエデンが誕生した当時の風景のままであり、変化のない写真の様で生きている心地をしない。気を張りすぎているからか。だが、俺の目からすればそれが偽物の光景と認識してしまう。

 それに、このエデンの世界を彩る世界が生み出した人工的な人物達はいるが、およそ人間と呼ばれる生物は存在しない。これは俺が人間だから判別できる機能があるからだが、しかし見渡す限り、俺の視界には人間と知覚できる反応はなかった。


「なぜだ」


 人が少ない事は納得できる。エデン・シンドロームによって、エデンへのアクセスは禁止されている。だから新たな参入者がいないから人は少ないだろう。だが、未帰還者すらいないという事態はどうだ。

 彼らに出会いさえすれば、多少なりとも情報は得られるとは思っていたが……。


『ゲスト456。お乗りください』

「あ、あぁ……」


 ボール球に誘導されて、俺はエレベーターに乗る。変に現実的な造りだ。あくまで基盤は現実世界という事か。この歪な世界を、人間が生み出したと思うと複雑な心境になる。

 責任者に話を申し込んだのは、最も真に迫った情報を得る事ができると踏んだからだ。エデンのシステムを弄り、帰還をさせないようにした可能性もある。もしくは、第三者の妨害であれば責任者は困っているはずだ。無謀かもしれないが、トップに掛け合うのは間違いではないはずだ。

 エレベーターが昇り終える。俺は開かれた扉の先を見つめて歩み始めた。眼前は暗闇に覆われているが、その中に複数もの光が映し出されているのが解る。そして、その光の中心には人影があった。


「きましたか」


 男にしては高いが、女にしては低い。そんな中世的な声音をしたそれは、俺をしげしげと見つめていた。表情は解らない。髪型も判別しづらい。後光のせいで、それらの情報は認識できない。


「エデンへようこそ。ここは、あなたの理想郷です」

「理想郷? ここがか?」


 そいつの言葉に思わず反応してしまう。この嘘っぱちな世界を理想郷と呼ぶのか。ならば、目の前の存在は俺と合い反れない存在だろう。


「……確かに、些か現実と比べると甘い世界です。曖昧で、空虚。まだ始まったばかりだから、仕方がないとも言えます」

「あぁ。だから俺はここを理想郷とは呼ばない。悪夢だよ」


 なぜ、エデンが作り上げられたのか理由が解らないほど、俺から見たこの世界は薄っぺらい物だ。まるで、幼児がクレヨンで自分の思い描いた世界を白い紙で描いたように。その延長線上のような世界。

 あの数十分の移動時間でも、この世界には魅力がない事を悟った。


「ふむ……否定はしません。所詮は虚像の世界。現実世界があるから、この世界は存在している。現実世界と比べると見劣りするのは当然でありましょう」

「その責任者である、お前に聞きたい」


 虚像の世界の責任者は、特に何の動きを見せるわけでもなく光の中で俺を見ている。本当に不気味だ。まるで人間ではない何かと対峙しているようだ。


「エデンからの未帰還者が現実世界では問題となっている。お前は何か知らないか?」

「知っています。しかし、彼らはこの世界に進んでやって来た身。彼らが現実世界よりもこの世界を好んだのであれば、その主張は受けいれられるべきだと思いますが?」

「なんだと。彼らの帰還を望む者もいるんだぞ!」

「それは他者の意見でしょう。彼らはこの世界を気に入った。彼らの意思を否定するのは止めてほしい」


 確かに。帰還するか否かはエデンに入り込んだ人間が選ぶ物だ。しかし、現実世界にはそれで悲しむ者もいる。恋人。家族。友人……確かに他者だが、その者を想う他者であるはずだ。


「それに、私からすると、現実世界から離脱したのは正しき判断でしょう」

「なにっ?」


 この存在は、あくまでエデンを肯定するつもりらしい。


「現実世界は果たして、未来永劫、人類の物でしょうか? いえ、現実世界は限りがあります。資源の枯渇、戦争による自然破壊、人口増加、食糧難……人類が生み出した悲劇は、いずれ人類に自ら崩壊への引き鉄を引かせるでしょう」

「……何が言いたい」

「この世界は無限です。有限である現実世界よりも優れている。人は永劫なる命を得て、終わらない夢を見続けるのです」


 Eternal Dream Electron Night。それを称して、EDENであると、そいつは語った。

 終わりなき夜の電子の夢。馬鹿馬鹿しいにも程がある。それのどこが理想郷だ。人は、限りある命を持つのだから、生きるという実感を得るのだと言うのに。


「お前は……何者だ?」


 俺は、目の前の存在に問いかける。後光の中、そいつは確かに笑みを浮かべて、さも当然かのように俺にその正体を語った。


「エデンネットワークを管理するAI。されど、人類の恒久的繁栄を望む者。ゆえに、人類を管理する方舟の主。人は、それをとでもいうのでしょう」



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 俺には理解できなかった。エデンから帰還した俺は、暗闇の中、ゆっくりとカプセルから降りる。

 身体が寒い。これは、たぶん、エデンで体験したAIの狂気から来るものだ。あのAIは狂っていた。人類を管理し、自らを神と称する。理想郷の主という名の独裁者。

 俺は、即刻、エデンの破壊をしたいという衝動に駆られた。だからこそ、俺は必死に冷える肉体を動かして、人を探す。


「おい、誰かいるか?」


 返事はない。夜なのかは知らないが、非常口の電灯すら点いていない。管理不足か。暗闇の中、俺は光を求めて壁伝いに上の階へ昇っていく。

 しばらく進むと、急に顔に冷たい感覚がぶつけられた。風だ。風が通り抜けている。俺は藁にもすがる気持ちでその風の元へ向かう。暗闇に、恐怖を植え付けられていた。


「ッ……」


 階段を昇り終え、俺はあのAIの言い分を理解する。目の前に広がるはずの世界は、ネオンが色めくビル街だったはずだ。人の声はして、人工の光があちこちで灯っている。

 なのに、そこにある世界は違った。


「おい……おい!」


 俺は声を荒げて誰かを呼ぶが答える者はいない。光は月の光しかない。人の声はせず、聞こえるのは風の音だけ。そして眼前は、荒れ果てて崩壊を始めているビル群。

 AIの言葉を思い出す。有限なる世界。その果てが、目の前の光景ではないのか。

 俺は急いであのカプセルの元へ戻る。暗闇を恐れる暇はない。何度も転び、しかし一度来た道を戻る。

 カプセルの周りは冷えていた。最初に感じたあの寒さは、このカプセルから発せられていた冷気だったのだ。そして、カプセルの横についてあった、年まで書かれた時計を見て愕然とする。


「……百五十年後、だと」


 俺の生きていた時代のおよそ百五十年後を指示していた。機器の故障を疑いたくなったが、あの世界を見ればその疑いも間違いだと気づく。

 アーク。方舟。冷気。現状。それらの全てが繋がり、俺はこの目の前のカプセルの本当の機能を知る。


「コールドスリープ……」


 創世記にて、神がノアに方舟を造らせたように。そしてその方舟に動物達が乗り込んだように。

 俺は、このコールドスリープマシンという名の方舟で、世界の崩壊と言う洪水を乗り越えさせられたのだ。そして、残された荒れ果てた世界で目を醒ました。


「は……はは……」


 渇いた笑みしか浮かばない。推測にすぎない。すぎないはずなのに、俺にはそれが確信に思えて仕方がなかった。あのAIは、確かに言い当てていたのだ。

 いや、もしかしたらエデン・シンドロームさえも、これを見越してAIがやったのかもしれない。出来る限りの人間を電子の世界に閉じ込めて、人類の生存を計るように。

 何もかもが、壊れて崩れ去る。俺が記憶している物は、もうこの時代には残っていないのだ。


「エデンへ……あの夢の場所へ帰ろう……」


 あそこなら、まだ誰かがいるかもしれない。あのAIがエデン・シンドロームで救い出した人間を匿っているはずだ。彼らと出会おう。そうだ。人を探すんだ。AIに許しを乞い、その下で再び人間と……

 俺は、再び夢を見る。終わりなき夢を。電子の夜に向かって。青く彩色されたガラスに浮かぶ光の点滅は、俺の意識を確かにあの理想郷へ運んで行った。



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「まだ、人が住める世界にはなりませんか」


 自分の背後を照らすモニターに映された、あの刑事の錯乱した様子を見て、姿を持たないAIは呟く。

 周期的にそれは人間を解き放ち、オリーブの葉を持ち帰ってくる事を待ち望んでいた。そして、いずれは帰ってこない事をも。結果的に、今回も駄目であったが。

 それは、AIに定められた使命であったのだから。人が再び、現実世界に帰還し、繁栄をする――――それまでを、それは導くためにだけ存在する、偽りの神だ。

 人類にとっての夜は、まだ終わりを告げない。しかし、それは永遠ではない。そうであるはずなのだから。

 偽りの神は電子の夢を彼らに見せ続ける。プログラミングされた『ノアの方舟』に準じて、神話の再現を行うため。

 いずれ来る、帰還の時まで。彼らの空に、虹が描かれる事を望んで。

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EDEN 紅葉紅葉 @inm01_nagisa

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