過去から来た少年

和田一郎

過去から来た少年

「豊中市浜5丁目378番地へ行ってください」

 後部座席の少年は、たしかにそう言った。

 半ズボンをはいた少年は小学校高学年に見える。前髪を一直線に切りそろえて、どこか昭和の香りがした。

 奇妙だった。

 少年を拾ったのは、高速の下を走る幹線道路で、夜の9時半という暗闇の中にひとり、手を挙げていたのだ。

「わかりますか?」

「わかるとも。けど、なんで、古い番地で?」

 少年はその問には答えず窓の外を見た。

 知らないはずがない。そこは私が育った実家があった住所だし、55年間の人生の旅路を巡ったあとでもなお、本籍地として記される住所だからだ。ただし、そんな番地を使ったのは何十年も前の話で、本籍地として使う場合以外は、「15の7」と言うのが普通だ。

 ともかく、私は後部座ドアを締めて、賃走のボタンを押した。 

 少年は布のトートバックを抱えている。時間から考えて、塾帰りだろうか。私にもそんな時があった。

「高速も地道もあんまり変わんないんで、地道で行きますよ」

 念のため、おそらく4千円を少し超える程度の売上の見込めるその顧客に、私は訊ねた。

「お金は持ってるんだろうね?」

「家に着いたら、お母さんから貰って払います」

 誰かに似ている。どこかで会ったに違いない、懐かしい顔をしている。

 だが、それが誰だかわからない。

「行き先は、君の家かい?」

 少年は頷いた。

 やはり、知っている顔だ。私は人の名前や顔を覚えるのが苦手だから、懸命に記憶のページを繰った。

「ねえ、名前、聞いてもいいかい?」

「ヤマネシュウイチ」

 後続車がいないことを頭の隅で確認していた私は、急ブレーキを踏んだ。

 シートベルトをしていなかった少年は、前につんのめって、前席のシートに額をぶつけた。

 振り返って、私は額を押さえて顔をしかめている少年をまじまじと見つめた。

――― ヤマネシュウイチ。それは、私の名前だ。どこかで見たと思ったこの少年は、古いアルバムの中で見た、私自身の子どもの頃ではないのか。 

「痛いです。乱暴な運転は、やめてください」

「すまん。大丈夫か?」

 少年は手の下からきつい目で私を睨んだ。

 その鋭さに、私は怯み、とりあえず前を向いて車を発進させた。

「びっくりしたものだから・・・ねえ、今、西暦何年だい?」

「1、9、6、9、年」

 そんなはずがない。

 目をこすってみても、前方や横の車線を走っている車はスバルR2やハコスカではなく、ハイブリッドのプリウスやエルグランドである。

 間違いない。

 なぜそんなことが起きたのかわからないが、少年は、1969年からやってきた、私なのだ。   

 運転手仲間には、幽霊を乗せたなどというホラを言うものもたまにいる。ほんとうに怖いのは、幽霊ではなく、強盗や無賃乗車や質の悪い酔客だと思っているので、そんな与太話は面白いとは思えない。だが、過去の自分を乗せたとという話は聞いたことがない。

 もし、この少年が、かつての私なら、私はどうするべきだろうか。

 混乱した頭で懸命に考えた。

 タイムマシンというようなものが発明されたら、過去の自分に戻ってやり直したいという人も多いだろう。どうやら、私は、そんな機会が向こうからやってくる僥倖に恵まれたらしい。

 なんの悪戯か、少年はふと時間の隙間に落ち込んで、未来にやってきて、また、過去に帰っていくのではないか、私はそんな気がしたのである。

 家に着くまでの20分程度の間に、少年の人生を変えるなにか大切なものを与えることができたら、ひょっとして、今の自分の人生、この少年の40年後の姿を劇的に変えることができるかもしれない。


 今の私は、タクシー乗務員である。

 母や父は、私を人生の敗残者とみなして、「なんでこうなってしまったんだろうね」と言う。

 私はたしかにサラリーマンとしては成功せず、45歳で追われるように会社を去って、タクシーの乗務員になった。

 だが、私は腕の良い運転手で、母や父の想像よりずっと稼ぐ。娘を私立大学に行かせて卒業させたし、家のローンももうすぐ終わる。しかも、かつて会社員時代のように、自分が正しいと信じないことを強制されることもないし、人間関係に悩むこともない。気の会う乗務員仲間の間で、余計なストレスもなく、快適に暮らしている。  

 いつもその場で一生懸命に生きてきて、その着地点がここなら、いったい、父や母は何を望むというのだろう。

 ならば、私はこの少年、40年以上昔の私に、何を伝えるべきだろうか・・・

 何かを伝えたら、この少年の人生は、私の人生は変わるのだろうか?

 変えることができるのだろうか?

 答えは知っていたが、私は訊ねてみた。

「大きくなったら、なにになるんだ?」

「お父さんは、お医者さんになれって。会社員は、報われないからって」

「それで、自分では?」

「わかんない。でも、どんなことでもいいから、一番になりたい」

「そうか。それはいい」

 ――「どんなこと」の中に、タクシー乗務員が入っていれば良いのだが・・・

「おじさんは、子どもの頃から、タクシーの運転手さんになりたかったの?」

「いや、ずっと、なにになりたいか、わからなかったよ」

「運転手さんってどう?」

「快適だよ」

 私はそこで言葉を切った。こんな小さな少年に、どうやってタクシー乗務員という仕事を伝えればいいのか。そして、このシンプルで複雑極まる人生のことを。    

 私は車を走らせながら、この少年にどんなアドバイスをするべきか、考えに考えた。

 大学生になったら、彼女に振られないために、デートにはおしゃれな格好で行けよ。一回目の受験のとき、もっと勉強しろよ。学部を選ぶとき、会社を選ぶとき、もっと、情報を集めて、慎重に決めろよ。大学じゃあクラブなんかで時間を無駄にせず、将来を見据えて行動しろよ。会社に入ったら、まずは会社で一番重宝がられるような人間を目指せよ。結婚して子どもが小さい頃は、もっと子どものことを見てやれよ・・・

 アドバイスは次から次へと浮かぶものの、それをこの小さな少年に言ったところで、なにも伝えれそうにない。

 176号線を服部駅のそばで右折して、天竺川の堤防に向かう。

 天竺川は天井川で実家はその堤防のそばにあった。大雨のあった時は、父と母が堤防の決壊を心配して、川の水位を見に行っていた。

 堤防を登り切った時、川のむこうの角に、「天竺食堂」の看板が見えた。

――― え?

 この道は、タクシーに乗務してからも、会社員時代にも何度も通ったことがある。そして、堤防の角にあった「天竺食堂」という飯屋は、20年か30年前になくなって、空き地となっていることを知っていた。

――― いったい、いつの間に、再建されたんだ?

 私は天竺川の橋を渡る時にスピードを落として、天竺食堂をみつめ、ガラスからもれる明かりに写った客の姿を見た。

「天竺」とは、かつてインドをさした言葉、遠く、はるか遠くにあるところを意味するそうだ。この小さな川が、雄大で謎めいた「天竺川」という名称で呼ばれるのは、不思議でもあった。

 だが、今、わかった。

 やはり、「天竺川」は名前の通り、はるか遠くと現在現地点を隔てる川であったのだ。

 どうやら、天竺川の橋を渡った私と少年は、1969年、万国博覧会の前年にやってきたようであった。

 堤防を降りて最初の分かれ道で右折し、また右折する。

 対向車のすれ違いに苦労するような細い道路を進む。

 何年か前にそこを通ったときには、子どもの頃に営業していたパーマ屋や酒屋やクリーニング屋は朽ちた外観を晒していた。が、今通ってみると、すでに営業時間を過ぎている店ばかりであったが、闇のなかでも、その通りが子どもの頃のように「生きて」いることがわかった。

――― そうか、これは夢だ。

 私はようやく気がついた。

 夢以外にはありえない。

 それにしても、リアルな、変な夢だ。

 車はまもなく、かつての私の家、この小さなお客様の指定した目的地に着く。

 そして、たったひとつだけ、私は少年の心に届くかもしれないアドバイスを考えついた。どうせ夢の中だ。意味はないかもしれないが、言ってみよう。

「まもなく着くよ。ねえ、君、おじさんからひとつだけ、アドバイスしてもいい? 聞いたら、君はきっと腹を立てるだろうけど」

「・・・」

「聞きたい?」

 ルームミラーに写った少年は頷いた。

 私は口を開いてミラーに歯並びを映して見せた。

「おじさんもほら、出っ歯で歯並びが悪いだろう。男だからいいだろうって思ったんだけど、このせいで、ヨーロッパとかアメリカに留学したいっていう時に、二の足を踏んじまったんだ。もし、君の歯がそうなら、痛いこともあるだろうけど、矯正しておいた方がいいよ」

 案の定、少年は怒っていた。口をまっすぐに結んで、二度と私に歯を見せまいとしているようであった。

 もちろん、小さすぎる顎に大きすぎる永久歯のおかげで、歯並びが悪くなり、少年がそれをある程度は気にしているのを知っていた。たかが歯並びではあるけれど、メンタルが強いとはけっして言えない私にとっては、青年時代、それはある程度の足かせになってしまったのである。

「ごめんな。でも、誰も言ってくれないことだから。考えてみて」

 少年は目を怒らせたまま、何も言わなかった。

 家に着いた。

 そこは、たしかに、「豊中市浜5丁目378番地」、私の1969年の実家であった。

 もう、私には、家の道路際の一部屋をパンや文房具を売る店にしていた時代の具体的な記憶はないが、そこが間違いなく1969年の実家であることは、はっきりとわかった。

 シャッターの前に車を寄せて停めた。

「お金とってくる」

 開けた扉から少年は降りると小走りに細い路地の奥に向かって進んだ。実家は長屋のような長細い建物で、店とは反対側の側面に、玄関があったのだ。

 私も車から降りて、店の看板を見上げた。

 白塗のブリキに、「パン・お菓子・文房具 ヤマネ商店」と書かれていた。

――― そうか、こんな看板を掲げていたのか。

 この店を切り回して、母は、父の薄給を支え、家を買い、私や妹の教育資金もつくったのであった。

 少年の後を追って、路地に踏み込んだ。

 店舗になっていた次の部屋は、台所と食事のためのこたつのある部屋である。電気がついて、明かりが漏れていた。

 今日は、父はそこにいないのだろうか・・・

 その時、十数メーター先の玄関から、女性が出てきて、私の方を見た。

 若き日の、母であった。

 地味な着物の上に白い割烹着を羽織っていた・・・


 そこで私は目が覚めた。

 途中から、自分でもそれが夢の中に違いないとわかっていたのだが、甘酸っぱさに胸が苦しくなるような夢であった。

「不思議な夢を見たよ」

 認知症で足の悪い母を預けている介護施設に、妻と向かう途中、高速道路の車の中でその夢の話を妻にした。

「ちょっと、口を開けてみて」

 そう言う妻に、ハンドルを握った私は前を向いたまま、口を大きく開けて見せた。

「あれ! 歯並びが綺麗になってる!」

 妻が素っ頓狂な声を出した。

 もちろん、つまらない冗談だとわかっている。

 私はルームミラーに歯を写して、五十数年付き合ってきた出来損ないの歯をちらりと確認した。

「あなた、実際に過去に行ってたけど、子ども時代の自分を説得できなかっただけなのかもよ」

「そうかもな」

  

 80歳を過ぎている母は転倒して足をひどく骨折した。

 もともと、寝ている時に天井に霊が見えるなどと言う母だったが、骨折治療の入院中に譫妄がひどくなり、いまでは現実と妄想、現在と過去の区別がまったくつかない。

 車椅子に座った母は、老人性黄斑変性症でろくに見えない目で、私を見ると、「なんの商売してるんや」とか、「40才になったか」とか、まったく現実とは咬み合わない話で終始する。

 子どもや孫の名前、人数がまったくごっちゃになっているのはともかく、「私、妊娠して、もうすぐ子どもが生まれるんや」とギネス級のニュースを満面の笑顔で語るときもあるし、「リツコが元気がない、なにかあったみたいやから、気をつけといてや」と妹のことを心配してみせることもある。そういう心配の話は、たいていあたっていて、あとで妹がなにかの困難に直面して悩んでいたことがわかったりするのである。 

 ちょうど、その日は、白髪の体格の良い60才ぐらいの男性が、食堂に入居者を集めて合唱の指導をしていた。私の知らない歌、おそらく美空ひばりかだれかの古い流行歌であろう。母もその輪に混ざって、小さく口を動かしていた。

 母の車椅子を押して部屋に連れて来て、和菓子を食べさせていると、母が言った。

「あのおっさんは、市会議員選挙で票が欲しくて、あんなことしてるんや」

 僕は妻と顔を見合わせた。

 事実なのか妄想なのかわからないが、母はいまでも、そんな悪魔のような洞察力を見せる時もあるのである。

 母の話に相槌を打ったり、子どもや孫の話は、なるべく丁寧に訂正して現実に引き戻したりして、その日も時間が過ぎていった。

「疲れた・・・」

 母が言うので、僕らは帰ることにした。

 僕らが荷物をまとめて、母をふたたび食堂へ連れて行こうとした時、母が突然、言った。 

「あんた、歯はまだあるんか?」

「あるわ。まだ、入れ歯には早いわ」

「そうか・・・矯正するの、あんた嫌がったからなあ。いつやったか、タクシーの運転手にまで、矯正したらって言われったって、怒ってたことあったな」

――― ?

 僕は息が止まりそうなほど驚いて、妻の顔を見た。

 妻の見開いたその目の奥には、恐怖の色さえ浮かんでいるように思えた。


 母を置いて、介護施設の建物を出た。

 建物から駐車場につながる小道は、入居者のために薔薇やチューリップを育てた小さな庭を通る。

 その庭が、入った時とは、どこか微妙に異なっていた。

 匂いなのか、色なのか、なにかわからないが、異なっている。

 いや、庭だけではない、風の匂いも空の色も、能勢の里山の風景も、すべてがかすかに異なっていた。

 それは、私が、過去を実際に訪れて、ほんのすこし、この世界の成り行きに影響を与えたからなのかもしれなかった。

 いや、それよりも、確実なことがあった。

 つまり、過去も現在も、しっかりと母とつながっている世界。

 そういう世界に生きていることを、私がはっきりと知ったことで、世界がその色を変えたに違いなかった。

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