第2話 その罪は許されるか

翌日エーミールは学校に現れなかった。当然のことだろう。もはや、彼には聖女の加護も無く、むしろ呪縛が彼の胸の奥にはあるのだから。彼にとってのエミリーはもはや、痛みの代名詞でしかなくなった。

それでも、エーミールの陰として、その事件は校内と村中を駆け巡り、金持ちで嫌味な優等生の失態と罪として、これでもかという程に人々の笑い話になって、優越感を満たした。彼不在の村にあって、それほどに彼が存在感を発揮したのはこれが初めてのことだった。


翌朝はいつも通りの熱い夏日だった。

建物と木々の隙間からこぼれる光が常に形を変えて、かつてエーミールの蝶を盗んだ少年の家にも降り注ぐ。その扉が開き、学校に向かう少年が現れることも、何の変哲もない日常の一風景だった。

ただ一つおかしなことがあるとすれば、門の前に座る少年がいたことだ。目元を大きく腫らしたその少年は、一瞬分からずとも、間違い無く件のエーミールだった。

少年は未だ、エーミールが苦手だった。クラスが変わろうと、廊下や帰り道で彼を見るたびに、自分の罪悪を思い出させられる気分だったからである。その彼が今、自分の家の前に、恐らく何らかの意図を持って訪れている。それは彼にとって嬉しいことでは決してなかった。それでも、少年は心を強く持つことが出来た。彼は今までの様な暗い気持ちで、エーミールと対峙することはもはやないのだ。そこに恥を感じることはない。と言うのも、目の前にいるこの少年もまた、罪人であり、同類だからである。少年には彼を馬鹿にし、非難し、糾弾する権利があった。君はかつて僕を存分に軽蔑したが、それがどうだ、君も同じじゃないか、と。

拳を握り、少年はエーミールに向かって歩みを進める。それに気づいたエーミールは、立ち上がる。


「すまなかった」


そうして、短い、明らかに言葉足らずな一言を発して、彼は頭を下げた。その道を通る者がいても、何のことなのかは想像もつかぬ程に、それは文脈と呼べるものの中に無かった。それなのに、少年は一瞬でエーミールが言わんとしていることを理解出来てしまった。

その時に彼が感じたのは、間違いなく、戸惑いと、小さな喜びと怒りであった。長年の罪が本人によって、今この瞬間、許された。そのことは、彼の心の重荷を下ろすことに確かに、確かに、繋がった。彼は安堵し、気付かずとも、肩を降ろし、小さく息を吐いた程である。自然と笑みがこぼれそうになる。しかしながら同時に、言いたい言葉が口に出せない不快感のように、どこかで何かがひっかっかている。そうだ、彼はこうも思ったのだ。

自分も同じ側に回って、初めてこの苦しみを理解し、それまでに僕が感じ、幾百日も耐えた辛ささえも、その一言と行為で許されようという浅はかさよ、僕が今ここで、君を軽蔑し、更なるどん底に突き落としてやってもいいんだぞ。言葉の槍は既に口の中に装填され、後は突き出すのみである。この目の前に立つ風船を、今その先端で破裂させることが出来る! そう、確かに、強く、彼は思った。実際に彼はそれが出来たし、そうすることによって彼もまた、巷に溢れる大衆の如く、この罪を犯した一人の少年を、大義の元に共通敵と狂喜乱舞して非難することが出来た。仲間と共感をし、怒り、嘲り、優越を感じ、仲を深めることが出来た。確かに、彼にはそれが可能だったのだ。


だが、顔を上げたエーミールの顔を見て、彼はもう一歩が踏み出せなくなった。痛ましく、苦虫を噛み潰したような、どこにも行けず今にも泣いてしまいそうなその表情は、かつて鏡に見た自分と疑いようもなく同じものだったからだ。その悲しみの激流が、一瞬で、胸に流れ込んでしまう。許されるまで出ることの叶わないあの閉塞。寝ても覚めても胸の奥に残るような異物感と不快感。夢の中にも現れ、罪人よ!罪人よ死ね!と自らを責め続ける幻影。そうして誰にも言えず、共感もして貰えぬ感情。それらは、そうなった者にしか分からない苦しみだった。

詰まる所、少年は、この仇敵とも言える男に同情してしまえたのだった。その顔を見ているだけで、こちらまで悲しくなってくるようであるのだ。

彼には、心の奥で湧き出る喜びと同情を、この男に伝えたい気持ちがある。だが、貴様も苦しめと、心中ほくそ笑みたい気持ちもある。

彼をどうする。弾劾するか、手を差し伸べるか、それによって彼が今後背負うことになる苦痛が少年には想像出来た。だからこそ同感も出来るのだ。そして、彼は今それを自由に選択することが出来る。手の中でエーミールの心臓を握りつぶすことも出来るのだ!

それでも、それだからこそ、クジャクヤママユを盗んだ少年は、考えることを放棄した。どの道、理性でどうにかなる物ではないと彼は直感していた。そういう物がこの世の中にはある、彼がそれを分かっていたこと、それだけが、恐らくエーミールという少年にとって唯一の幸運であり、チャンスだった。彼は目を閉じて、エーミールと同じ感情の奔流に流されながら、流木に掴まり、目を閉じ、自らの声帯を震わせることにだけに神経を集中した。


「…いいんだ」


そうして、ようやく絞り出した音は、許しを意味する言葉になっていた。

ああ…良かった。少年は心からそう思う。何故そう思ったのか、彼にも説明が出来ない。ただ、二人の間にこれ以上の禍根は残らなかったし、多分、この世でエーミールを最も理解できるのは、その少年だったし、逆もまた然りだった。

泣き出し、眼鏡ごと顔を擦るエーミールの傍で、彼は何も言わずに、その背に手をあてて、そっと前に押した。


そうして、今日も馬鹿みたいに暑いこの田舎道を、並ぶことの無かった二人が歩き出す。

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少年の日の想い出 蜷川二奈 @Ninomiya0000

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