少年の日の想い出
蜷川二奈
第1話 車輪の下
「そうかそうか。つまり君はそういう奴だったんだな」
蝶を盗み、謝りにきた少年を、エーミールは許さなかった。怒りもせず、ただ冷ややかに侮蔑の目を向けた。その早熟な少年は、そうすることが人の心に最もダメージを与えることを知っていた。
それから数年、少年たちは14歳になっていた。思春期のエーミールはと言えば、相も変わらず優秀で、同学年の子供達を見下す厭な少年だった。それ故に、周囲からも浮いていたし、友人と呼べる友人は殆ど居なかった。しかし、彼も年相応の男子である。陰ながら想う女の子の一人はいた。名をエミリーと言う彼女は、ある時、本を読む彼に気さくに話しかけた。
「貴方は優秀で真面目で、将来きっと大臣になるわね!」
明るく、誰にでも善意を振りまく彼女にとって、その言葉はそれ以上でもそれ以下でも、何の意味も持たなかっただろう。暑い夏の昼下がりに外に出て、暑いな、と言うのと何も変わらない。そこに特別な意図は無く、ただ思ったことを口に出しただけ。彼女にとって、その言葉はきっとそういう類のものなのだ。本来人間の心に備わっているべき「弁」のようなものを、生まれる時に神様から貰い忘れているような、恥ずかしいことでも何でも照れずに口に出してしまうような、エミリーとはそういう女の子だった。
しかしそれでも、皆に疎まれ、成績優秀を鼻にかけているといつも陰口を叩かれ、女の子とも録に話したことがないエーミールにとっては、そのささやかな賞賛は天使のささやきに近かった。ただそれだけの言葉を、中毒みたいに何度も何度も頭の中で思い出しては、自分の支えにした。便所に行く時に、廊下の隅で男子達にニキビのある顔が気持ち悪いと笑われようが、記録会で幅跳びする横で、ヒキガエルが無様に跳ぶよと女子達に歌われようが、彼にはどうでも良かった。自分はエミリーという天使に祝福された存在なのだから。
それでいながら、聖なる存在の彼女で毎晩妄想を繰り広げた。天使のように白いレースで着飾った彼女が、理知的な男の子が好き、だとか、貴方はこんな世界にはふさわしくないわ、だとか、あれやこれやと甘い言葉を自分の耳元で囁く。優しく指を背中に這わせ、脚を絡ませ、そのまま包み込むように、小柄な身体を密着させて自分を抱き締めてくれる。体温が伝わる身体と身体を、お互いに擦り付けて、鼻の頭と頭をぶつけ合って、エミリーの身体と顔の形を確認する。そうして、少し気にしているその金髪を撫でると、照れながらも、エミリーが柔らかな唇でキスをしてくれるのだ。その女性的で艶やかな表情に、彼は興奮していき、呼応するように、エミリーの奉仕が始まっていく。そんな想像を日々巡らせた。
しかし、自我を取り戻すその度に、エーミールはそんな自分が嫌で嫌で堪らなくなるのだった。何故なら、彼は知っていたからである。エミリーが好きなのは、貧乏だが、サッカーが上手く、友人も多いアダムだった。ああエミリー!そんな男は辞めるんだ。君は一番自分を愛してくれる僕の許に来るべきだ。君なら分かる、分かるだろう。 彼女への想いが毎晩毎晩膨らむ度に、それは烈火の如き嫉妬に変わっていった。
パアン!
だから、放課後、赤く染まった夕暮れの教室で、エーミールは微笑んでいた。アダムが何よりも大切にするサッカーボールに、針を刺して破裂させたのである。
小さな罪悪感が、チクリとエーミールの胸を突く。それでも、彼は大した問題ではないと思った。もし騒ぎになっても、エーミールは金持ちの家の子だ、こんな薄汚れたボールではなく、新品のボールを親に買って貰い、こっそりアダムの机に置けば良い。そうすれば帳消しどころか得じゃないか。だから良いのだ。これは自分の中の鬱憤を少しでも晴らす為のもの。どうせ想いが叶わぬならば、この小さな抵抗に悲しむ彼の顔を、一瞬でも見られればそれで良い、それだけで、心の中でいつまでも嗤っていられる。大切なものを失って悲しんで、また手に入って喜んで、何も知らないお前は僕の手の上で転がされるに過ぎない愚か者だ。
鳴って響いた音は、もはや塗り替えられぬ罪にふさわしく、渇いた音で高く大きく、一瞬鼓膜に傷をつけて、そのままずっと、小さな痛みを残すことになる。
明くる日、彼の予想通り、学級会議が開かれた。誰がやったのか、あれは彼の大切なボールで云々、下らない定型句がエーミールの耳に入る。こんなものは予想通りだ。自分の中では全くもって大した問題ではない。僕が見たいもの、聞きたいものはそんなものではない。アダム、アダム、その悲しい顔が見たいのだ。授業を潰してまで開かれたこの学級会議で、この空虚に続く時間で、誰もがお前を好いている訳ではないと痛感し続けろ! さて、当のアダムはと言えば、ついぞ泣き出してしまったではないか。最初は堪えた泣き方だったのが、段々大きくなって、次第にはわんわん泣き出した。皆もその様子に驚き、黙ってしまう。
エーミールは心の中で嗤った。 っふん、何だ何だ、男たる者が! ボールを破裂させられたくらいで女子の様に泣くのか! 全くこれは良い。愉快極まりない見世物だ。とんでもない強敵と思っていた男も、ただの小物ではないか! アダムがこのまま醜態を晒すことでエミリ-が彼に失望し、自分を見てくれるならば、これはとんだ副産物になるぞ、などと想像しては良い気分になった。
が、いつもは喋らない、でくの坊の様な女が、空虚に泣き声が叫ぶ教室で、弱弱しく手を挙げた。何だ、貴様もこの男に惚れていて、窮地の奴に励ましの言葉でもかけようというのか。普段なら他の女に勝ち目がない貴様が、そうすることで自分の好感度が最大限高まるとでも思っているなら、それほど滑稽なこともない!アダム、アダム!貴様にはこの女がお似合いだ!エミリーは貴様には高尚に過ぎる!
「昨日の放課後、エーミール君がアダム君のボールを破裂させていたのを…私見ました。」
泣き声が止むと、クラスは途端に静かになり、80の目玉がエーミールを一斉に睨み付けた。何だ?何が起きている? この女、今何を言った? 教室の端から、アダムの親友がこちらに来るのが見える。
「エーミール…!あのボールはドイツ代表からアダムが貰った唯一無二のボールだったんだぞ!」
ぐるんと視界が回る。何が起きた? 未だにエーミールは事態を把握できていない。
頬が地面に着いている。痛み? 血…その先の白い物体は、歯…? 僕は殴られたのか? 罵声が遠くに聞こえる。自分の椅子が蹴られて飛ぶ。先生が止めようとする中、複数の男たちが袖を掴み、脇を持ち上げ、エーミールを廊下に引っ張り出そうとしている。相変わらず、皆は僕を見ている。そうだ、君は。エミリー。いつも可憐に笑う僕の聖女は。
「最低」
目が合った彼女はただ一言、そう吐き捨てた。
それからのことを僕は良く覚えていない。気付けば、家の、自分の部屋のベッドに一人座っていた。
…そうだ。
僕の行いは見られていて、告発されたのだ…。一心の憎悪を込めて殴られたのだ。そして、エミリーの目が脳裏に焼き付いている…細められ、ひらすらに冷たく、道端を走るドブネズミでも見る様に、ただ嫌悪と軽蔑を僕の心臓に突き刺す為だけに存在していた…。まぶたを閉じると、その二つの目が僕を捉えて離さない。焼き尽くすように燃え盛りながら僕を見つめている…熱い…熱い!!! やめてくれ…!!! さげすまれている…汚らわしいと思われている。そうだ、きっと、恐らくきっと…エミリーは二度と、僕に話しかけてくれない。
「そうかそうか。つまり君はそういう奴だったんだな」
うわあああああああああああああああああああああああ!!!
エーミールは顔を枕に押し付けて咽び泣いた。彼の背にとてつもない重りのように乗って、腰を頭を上げさせまいとする意識はひたすらに「罪」と「恥」だった。漸く彼は自らの過ちを漸く理解したのだ。彼が想像したような補償など出来もせぬ。もう関係はすべて壊れてしまった。真っ白くてふわふわのシーツに、黒いインクを乱暴にぶちまけた。後は周囲に見下され、打ち捨てられるしかない。彼女の目に永遠に苦しめられるのだ。
更に彼ははっきりと理解した。自分にも責められることになることを。かつて、人の気持ちなど想像もせずに賢しらに取った軽蔑が今、その身体に跳ね返った。クジャクヤママユの少年。昨日自分が取った行いの、数年前近所の少年に行った行為の、その浅はかさよ!
ひたすらに自らを呪いながら、枕を濡らして彼は眠った。
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