悪夢はまだ終わらない

山本弘

第1話



「那須沢。那須沢照樹」

 誰かが名前を呼んだ。壁ぎわの狭いベッドで、壁に向いてうずくまるような姿勢で寝ていた男は、「ううん?」とうなりながら扉の方を振り向き、目をこすった。歳は三十代後半。髪はぼさぼさで、顔色も良くない。名前を呼んだ相手を、不機嫌そうににらみつける。

 廊下に面した鉄格子の扉。その外に、制服を着た三人の男性が並んで立っている。

「……今日か? RDか?」

「そうだ。準備をしろ」

「やれやれ、やっとかよ。待ちくたびれたぜ」

 那須沢は毛布をめくり、ベッドの上にのろのろと起き上がった。下着姿で寝ていた。背は高く、体格もいい。

 着がえをする。灰色の上着と灰色のズボン。男たちをいらいらさせようというのか、ひどくゆっくりした動作だ。しかし、制服の男たちは急かさない。鉄格子の外に無言で立って、しんぼう強く待っている。

 着がえを終えると、那須沢は鉄格子の扉にぶらぶらと歩み寄った。並んだ鉄棒の間から、両手を縦に重ねるように差し出す。その手首に手錠がかけられた。

 扉が開かれた。男たちが牢からひきずり出そうと肩に手をかけるが、那須沢は「いらねえよ。一人で歩けるよ」と、うるさそうに振り払った。

 男たちに連行され、彼は殺風景な廊下を歩いた。やはりゆっくりとした足取りだった。

「昨日はよく眠れたか?」

 男の一人がたずねた。心配しているわけではなく、形式的な質問だった。

「いやあ。ここんとこ、どうも睡眠不足ぎみでなあ」那須沢は苦笑して、手錠をはめた手で頬をなでた。「やっぱ、あのベッド、おれには合わねえわ」

「これから眠れるぞ」

「そいつぁ楽しみだ」

 那須沢はへらへらと笑った。

「確かに、よく眠れるだろうなあ。四人分だからなあ」


「行ってらっしゃーい」

 八月の陽射しの下、パパとママの乗った水色の電気自動車が走り出すのを、あたしは手を振って見送った。車は住宅街の角を曲がって、見えなくなった。

 となりの県に住んでいる遠い親戚の人が亡くなって、二人はこれからお通夜に行くのだ。あたしも行った方がいいのかと思ったんだけど、ママが反対した。「あなたは模試のお勉強があるでしょ」って。

 来年、あたしは名門の中学を受ける。ものすごく偏差値が高いところ。だから今から猛勉強が必要なの。この夏休みもスケジュールがびっしり。特に九月に入ってすぐに模試があるから、しっかり勉強しとかないと。

 今度の模試の成績が良かったら、ごほうびとして、旅行に連れてってもらえることになっている。関西にできた新しいテーマパーク。BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)を使ったリアルな疑似体験ができるのが売り物。「さすがに勉強ばっかりじゃ真衣がかわいそうだからな。息抜きが必要だろう」って、パパが言ってくれたの。娘思いのいい父親じゃん。大好き。

 そんなわけで、今日は一人でお留守番。ちょっと不安はあるけど、ま、どうにかなるでしょ。お料理は──うん、作るの面倒だから、レトルトでいいよね。

 家の方を振り返る。一戸建て、青い太陽電池の屋根。庭にはヒマワリが咲いている。あたしの背よりも高い。五月にあたしが自分で種をまいたやつ。大きくなったなあ。

 ヒマワリに水をやり、ついでに家の前のアスファルトにもホースで水をまく。この暑さじゃ、あっというまに乾いちゃうだろうけど、それでもちょっとは涼しくなるでしょ。気化熱ってやつで。

 家の中に入って、玄関に鍵をかける。リビングでミイが鳴いていた。いけない、パパとママを送り出すのに忙しくて、朝ごはんあげるの忘れてた。

 キャットフードをざらざらとお皿に入れてあげると、ミイはがつがつと食べだした。小さい体なのに、すごい食欲。子猫でこれなら、おとなになったらどんだけ食べるんだろ。

 ミイの食事をながめながら、あたしはほほえましい気分にひたっていた。本当にミイには癒される。あんまり大きくなってほしくないなあ。猫はこれぐらいの大きさがかわいくて、ちょうどいいよ。

 二階の勉強部屋から、参考書とノートと筆記用具を、まとめてリビングまで持って降りる。自分の部屋で勉強するより、リビングでやる方がはかどるんだよね。静かな方が勉強できるって人が多いけど、あたしの場合、適度に音があった方が落ち着くタイプ。イヤホンで音楽を聞きながら勉強することも多い。

 今日はテレビをつけることにした。おもしろそうな番組はやってなかった。これは逆に好都合。おもしろい番組だとそっちを見ちゃって、勉強にならないものね。

 ワイドショーにチャンネルを合わせた。出演者のトークを聞きながら、算数の問題集に取りかかる。単純な計算問題ばかりだから、話を聞きながらでもできる。

『……反社会性パーソナリティ障害、いわゆるAPDと呼ばれる者の特徴として、他人の心理になって考えることができない、ということがあげられます。そのため、他人に平気で迷惑をかけます』

 ゲストの学者らしい人が、何かむずかしそうな話をしていた。

『自分のやっていることで、他人が迷惑していることがわからない……ということでしょうか?』

 司会者が質問する。

『いえ、迷惑をかけていることは、ちゃんと理解しています。ただ、その苦しみを味わっている者の立場になって考えられないんです。どれほど他人を苦しめても、自分の胸は痛まない。まさに“他人事”なんです』

『やっかいな話ですね』

『注意していただきたいのは、APDはいわゆる精神病ではないということ、また、APDの人がすべて犯罪者になるわけではないことです。ほとんどのAPDの人はふつうの日常生活を送っています。それどころか、社会の中で高い地位についている人もいます』

『その中に、たまに犯罪に走る者がいる……ということですね?』

『はい。APDの人が犯罪者になった場合、歯どめがきかなくなります。罪の意識をいだかないわけですから。自分の楽しみのために平気で他人を殺傷する、いわゆる“快楽殺人者”になる可能性があるわけです』

 ああ、ママがいつもうるさく言ってるなあ。「怪しい人に気をつけなさい」「玄関には必ず鍵をかけなさい」って。心配しすぎだって思うんだけどね。

『そういう殺人者に、罪を悔いあらためさせ、反省させることは可能なんでしょうか?』

『むずかしいですね。彼らは被害者の受けた苦しみを理解できない。自分のやったことが凶悪な犯罪であることはわかっていても、そのことで胸が痛まないんです。むしろ楽しんでいるんですから。実際、死刑判決を受けても平然としていて、「もっと殺したかった」とか「生まれ変わったらまたやる」とか言う者もいるぐらいです』

 あー、やだやだ。こわいこわい。そんな人もいるんだなあ。

 その点、うちのパパやママはいい人たちだよ。あたしにとてもやさしいし。世の中にはこどもを殺す親だっているのに、あたしはめぐまれてるなあ。ほんと、パパとママのこどもで良かったよ。

 インターホンが鳴った。テレビのリモコンのボタンを押すと、3Dテレビの画面が、玄関の防犯カメラの映像に切りかわった。

『湯野さん、宅配便です』

 宅配便の制服を着て、マークのついた帽子をかぶった人が、うつむきかげんでぼそぼそと言った。白い箱を持っている。

「はーい、今行きまーす」

 あたしは玄関に駆けていった。げた箱の上に、受け取りのハンコが置いてある。それを手に取って、玄関の鍵をはずした。

「はい」

 ドアをわずかに開ける。すぐ外に、すごく背の高い男の人が立っていた。

 一瞬、変な感じがした。あたしを見下ろしてにやにやしているその人の顔、どこかで見たことがある気がしたのだ。どこで会ったっけ……?

 突然、その男はドアを大きく開けて、家の中に押し入ってきた。あたしはびっくりして立ちすくんでしまった。男は白い箱を投げ捨てる。箱の下には、大きくて鋭そうな包丁を隠していた。

 逃げるひまなんかなかった。男はいきなり、あたしのおなかを膝で蹴ってきたのだ。あたしは廊下に後ろ向きに倒れた。

 ものすごい痛み。苦しい。息もできない。さけべない。動くこともできない。

 男は土足で上がりこんでくると、左手であたしの右腕をつかんで、ずるずると廊下の奥へひきずっていった。あたしはリビングルームのカーペットの上に転がされた。男はあたしをうつぶせにして、腰の上にお尻でどすんとのしかかった。

「はーい、静かにしようね」男はやけにうれしそうな声で言った。「騒いだら刺しちゃうかもしれないよ?」

 あたしは抵抗しなかった。できなかった。腹を蹴られた痛み、それにのしかかられている苦しさで、身動きもできなかったから。

 男はどこかからビニールテープを取り出して、それであたしの足首をぐるぐる縛った。さらに手を背中に回され、手首も縛られる。

 あたしは恐怖にふるえていた。こんなこと、現実であるはずがない。きっと夢だ。あたし、悪夢を見てるんだ……。

『愛する人を殺されたご遺族の方々も、納得できないでしょうね』

 テレビは防犯カメラの映像から切りかわり、元のワイドショーが映っていた。

『そうですね。特に無残な殺され方をした方のご遺族は、加害者に対して極刑以上の刑を求めます。被害者の受けたのと同じ苦しみを味わわせろと』

『でも、それはできないんでしょう?』

『はい。たとえば加害者が被害者をバットでめった打ちにして殺害したとしても、加害者を同じようにバットでなぐることは許されません。加害者にも人権というものがありますから、不必要な苦痛を与えてはいけないことになっているんです』

 男はあたしを縛り終えると、またごろんと転がして、仰向けにした。あたしはもがいたけど、何重にも巻きつけられたテープは、こどもの力じゃほどけそうにない。

「よしよし」男は立ち上がってあたしを見下ろし、満足そうに言った。「いい子だねえ。おとなしくしてくれるとうれしいなあ。そうしたら刺さないから」

 嘘だ──あたしは直感した。この人はあたしを殺す気だ。あたしはこの人に殺されるんだ……。

『そこでRDというものが提案されたわけですね?』

 テレビの中の二人は、まだしゃべり続けていた。

『はい。Rというのはリベンジ(復讐)の略だと思っている人がいますが、実際はリグレット──後悔という意味です。犯罪者に自分の罪を後悔させることが目的です』

 男はかがみこんできて、あたしに顔を近づけた。得意そうに、顔の前で包丁をちらつかせている。

「ほら、ドラマなんかだと、よく捕まえた人間の口にテープ貼るよねえ? 声が出せないように」男はやさしそうな声で言った。「でも、君の口には貼らなかった──どうしてだかわかる?」

 あたしは首を横に振った。

「君のきれいな顔を見ていたいからだよ」男は楽しそうに目を細めた。「テープなんか貼ったら、君の美しさがだいなしになっちゃうからね──ああ、大声は出さないでね? 小声ならいいけど。大きな声出したら、刺すよ?」

 あたしはようやく声が出せた。

「ち……父や母が、じきに帰ってきます」

 とてもか細い声。それはあたしの精いっぱいの抵抗だった。でも男は、「見えすいてるねえ」と笑った。

「君のパパとママが、喪服を着て出かけたの、見ていたよ。どこかのお葬式に行ったんだろ? しばらく帰ってこないよね」

 あたしは絶望におそわれた。

 助けは来ないんだ。もう、パパやママに会えないんだ。模試も受けられないんだ。テーマパークにも行けないんだ。中学に進学することもできないんだ……。

 あたしの人生は、ここで終わっちゃうんだ。

「君のことはよく見てたんだよ。もうずいぶん前からチャンスをうかがってたんだ。宅配便の服を用意して、いつでも押し入れるように……」

『凶悪な犯罪者であっても、肉体的な苦痛を与えることは許されません』テレビの中の学者が言った。『しかし、肉体を傷つけなければいいのではないか。自分の罪の重さを自覚していない死刑囚に、死の直前、どれほど残酷なことをやったのかを理解させ、反省させるのは、正義の精神にかなうことではないか──そういう声が高まり、RD法が成立したのです』

 ミイの鳴き声がした。見ると、男の足にじゃれついていた。

「おやあ、かわいい猫だねえ」

 男は左手でミイの首をつまんで、持ち上げた。ミイはかわいらしくもがいている。

「君の猫なんだ?」

 あたしはかくかくとうなずいた。お願い、ミイにはひどいことしないで……。

「そうかあ……」

 男はそっと、ミイをテーブルの上に下ろした。そのままはなしてあげるのかな、と思ったら──

「でもねえ」

 男は笑って、ミイの頭をぎゅっと押さえつけた。ミイは苦しそうに鳴いた。

「おれ、猫、あんまり好きじゃないんだよね」

 そう言って、包丁を振り下ろした。

「!」

 あたしはショックのあまり、気が遠くなりかけた。

 男はミイの小さな頭を、ぽいっとゴミ箱に投げこんだ。包丁は血で汚れていた。

「やっぱ猫より、人間の女の子の方が好きだなあ」

 あたしを見下ろし、にたりと笑う。

「あんまり大きくなってほしくないなあ。女の子は君ぐらいの大きさがかわいくて、ちょうどいいよ」

『この目的のために、最新型のBMI――ブレイン・マシン・インターフェース技術が応用されることになりました。人間の脳に電気信号を送りこんで、感覚や感情を疑似体験させるというものです。

 まず、加害者の供述、および犯行現場の状況を元に、犯行時に何が起きたかがコンピューターの中で再現されます。一回のRDは一時間です。被害者の死の一時間前から、死の瞬間まで。その一時間に起きたことが、可能な限り正確にシミュレートされるんです。映像や音だけでなく、被害者の考えたことや感じたことなども、「きっとこうだったに違いない」という推測にもとづいて再構成されます。死刑の直前、電気イスに座った死刑囚の脳に、そのシミュレーションが送りこまれます。加害者は自分が行なった犯罪を、再び体験するわけです』

『つまり、夢を見るわけですね?』

『ひらたく言えばそうなります。RDのDはドリームの略です。夢と言っても、とてもリアルで、現実と区別がつきません』

『でも、加害者の立場ではなく……』

『はい、被害者の立場から体験します。犯行時、被害者がどんな恐怖や絶望を覚えたか、どんな苦痛を味わったか──それを自分自身で疑似体験するんです』

『でも、夢を見ている間、ずっと被害者になりきっているのなら、単に悪夢を見たというにすぎないんじゃないですか? 自分がそれをやったと自覚しないと、本当に後悔したことにはならないのでは?』

『そうです。ですからRDの途中、必ず、それが夢であることを死刑囚に知らせることになっています──今、まさにこうしているように』

 あたしはぎょっとした。首を曲げ、テレビの方を見る。

 テレビの中から、学者と司会者があたしを冷たい目で見下ろしていた。

『わかりますか? 那須沢照樹くん。あなたのことですよ』

 それで思い出した。みんな思い出した。

 ドアを開けた瞬間、男の顔に見覚えがあったのは当然だった。それはあたしの顔だったんだ。

 あたし、那須沢照樹の顔だったんだ。

『他人の恐怖や痛みを感じられないあなたに、自分の罪の深さを思い知らせるには、これ以上の方法はないのです。あなた自身に、被害者である湯野真衣さんが味わったことを、そっくり体験してもらうしか。

 もちろん、今あなたが体験しているのは、実際に真衣さんが味わったこと、考えたこと、そのままではありません。遺族の方々の証言と、事件の記録を元に、想像をまじえて再現したものにすぎません。しかし、事実と少しばかりちがっていても問題はない。あなたに罪の深さを自覚させ、悔いあらためさせることが目的なんですから』

 わかった! わかったからもうやめて! こんな残酷なことやめて! この悪夢を終わらせて!

 そうさけびたかった。でも、できなかった。だって、本物の湯野真衣はさけんだりしなかったから。

 夢を見ているあたしには、これから起きることを変えられない。この夢は、あたしの供述した通りに作られている。映画のように、結末まで決まってる。今のあたしは、そのストーリーを忠実になぞることしかできない。

 自分のことを「おれ」と考えることもできなかった。この夢の中にいるかぎり、あたしは身も心も小学六年生の女の子なのだ。本物の女の子のようにしか考えられない。

 ああ、どうしよう、あたし、くわしくしゃべっちゃったよ! 取り調べ室で、精神鑑定をした医師の前で、法廷で。どんな風に湯野真衣という女の子をおそったか。どんな風に、どんな風に……。

 あたしこれから、自分のやったことのすべてを、リアルに体験させられるんだ。

 男の手があたしのタンクトップにかかった。めくり上げはじめた。

 お願いお願いお願いお願い、許して許して許して許して、もうしません、こんなことしません。悪かったと思ってます。悔いあらためます。反省します。いくらでもおわびします。だからもうやめて! こんなのもう終わらせて! 早く死なせて! お願い!

 でも、いくら願ってもむだだ。夢がはじまったのは、あたしが両親の車が出発したのを見送ったところからだった。それが湯野真衣が殺される、ちょうど一時間前だったんだ。

 あれから今まで、まだ十分かそこらしかたっていない。つまり、この悪夢はまだ五十分も続くんだ。あたしは湯野真衣として、これからまだ五十分間も自分に──那須沢照樹に苦しめられ続けるんだ。そして殺される。

 それでも終わりじゃない。ここにいる湯野真衣が死んでも、悪夢はまだ終わらない。

 思い出したんだ。あたしが──那須沢照樹が殺した少女は、湯野真衣をふくめて四人いるということを。

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