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「1950年代末に中央アジアのとある小国で進められてきた宇宙開発は、呪術的な方法論をもち、あまりにも当時の科学とかけはなれていたため、しばしば地球外の知性体による活動と誤解されることになりました。これが当該国家の政府によってなされた活動ではなかったことが、事態の解明をさらに困難なものにしました。


 宇宙船に相当するものは、羊の革、ナイロンの糸、錆びた軽車両の部品などから作られていると思われ、地表から400キロメートル程度の低軌道を4~5周することが可能でした。再突入は観測できず、どのようにして地上に戻っていたのかは謎のままです。


 一切が極秘のうちに、目撃情報だけが各国の諜報機関のあいだで共有され、積みあがっていき、対立する大国の間に疑心暗鬼が育っていきました。ついに全面戦争の一歩手前まできたところで、ようやく真相の一部があきらかになったのです。


 やがて、きわめて不可解な形で、それらの呪的な宇宙技術はすべて失われてしまいました。

 諜報機関が収集したわずかな資料は、いまも某国の知られざる地下サイロに保管されています。

 そのなかに、黄ばんだノートの小さな切れ端があります。いまは話す者もほとんどない言語の、さらに使う者のない筆記体で、『信じることは、かつてはあれほど簡単だった』と記されています。

 『簡単』を意味する単語は、もしかすると別の言葉かもしれません。筆記体であるため判別が困難なのです。『信じる』も、ほかの言葉かもしれません」


 呪いによって記憶が奪われているのだとしたら。

 そうあなたは考えてしまい、相手の語りからなんらかのヒントを得ようとしていることに気づき、あわててその考えを退ける。


「1960年代には、たくさんのアプローチが地球外からありながら、接触を行った人間がその影響によって人間でなくなってしまうために、いつまでもファーストコンタクトが成立しないという状況がありました。

 人間でなくなるに留まらず、生物ですらなくなります。たんすや薬缶になってしまうのです。さらに、少しばかり時間を遡ってそうなるので、コンタクトそのものが存在しないも同然になりました。接触が、両者を物体に変えてしまうのです。

 主観的にも、客観的にも、それは単なる物体のぶつかり合いになります。テーブルの上で軽く打ちあわされるふたつのグラス、しかしそれがじつは、根本的に異質なふたつの文明のあいだに生じる斥力によってその瞬間だけ存在の様態を脇へずらされた地球外の存在とあなたなのです。

 このころ、そのような形をとらなければ世界はみずからの破滅を防ぐことができませんでした。その後の数十年をかけて、世界は洗練された振る舞いを身に着け、かような不作法は過去のものになりました」


 やはりすべては誰かのいたずらなのかもしれない、とあなたはすがるように考える。


「冗談ならそろそろやめてほしい」とあなたはいう。


「もちろん冗談ですが、それを受けとる相手の感情を操作するためのものではありませんから、あなたの価値観に照らせば冗談とは呼べないかもしれません。

 あなたがたのほとんどが理解していないことですが、本来、冗談によって操作できるのは感情だけではありません。表面的な感情しか操作の対象にならない、侵襲度のきわめて低いものは、冗談の第一種に属します。冗談は三六種に分類でき、もっとも侵襲度の高いものは生物の門を一つ増やします」


「冗談なら本当にやめてほしい」


「冗談である関係上、それを止める手段はありません。

 あなたも、これまでに何度も、友人知人とふたりきりでいるときに『宇宙人はいると思うか』という問いかけをしてきたことでしょう。拡張されたフェルミ推定によれば、それは73回です。

 実際のところ、『宇宙人はいると思うか』という問いかけの瞬間に、宇宙人はそう問うた者の背後にひそかに立っているのです。もうおわかりかと思いますが、宇宙人があなたをあやつり、この言葉を発するように仕向けているのです。もし、こう問われた相手が『いるとは思わない』と答えたら、宇宙人は『いるよ』と声をあげて姿をあらわし、あなたがたの脳から出来事の記憶を消去して去ります。『いると思う』という返答を得られたら、それだけで深く満足し、姿をみせずに去ります。つまり、わたしたちはみな言及によって生かされているのだと言ってもいいでしょう」


 『つまり』の意味するところがまったくわからないし、わたしたち、という言葉によっていったい何を指しているのか、あなたにはほとんどわからない。


「むかし、ある男が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。男はそれが月面であることに気づかぬまま、アジアの北部もしくは中央、あるいは東端の農村で幸せに一生を終えました。きわめて柔軟な精神を持っていたので、巧みに現実をしりぞけ、人が目覚めの瞬間に長大な夢の記憶を無から編み上げるように、ほんの数秒のうちに人生の記憶を上書きしたものと考えられます。この架空の人生のなかで、男は二度妻をめとり、35人の孫に囲まれ、772頭の牛を飼っていました。


 むかし、ある男が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。人は死ぬと月へ送られる、という言い伝えのある村で育ったので、男は自分が死んでしまったのだと思い込みます。亡くなった両親もどこかにいるはずだと考えて月面をさまよいはじめますが、そこへたまたま調査に訪れていた異星人と出くわし、5本の移動肢と3本の操作肢と13本の眼柄をもつその相手を、自分の遠い祖先に違いないと考えます。祖先とは多くを持つものだからです。そのような認識を心に据えることによって、相手のとても複雑なボディランゲージから理解可能な要素を抽出することができ、『おまえはまだここに来てはいけない、すぐに帰りなさい』という切迫したメッセージを受け取ります。そのメッセージが帰巣本能を刺激するのに十分なだけの強さを持っていたので、男は無事に自宅の寝床に帰還することができました。月日が流れ、子供たちに男は自分の体験を幾度となく話してきかせました。


 むかし、ある男が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。男はただちに呪文をとなえ、月をチーズの塊に変えます。呪文の効果はおよそ7マイクロ秒のあいだ続き、たくさんの観測に異常値が記録されましたが、いずれも機器の一時的不調と解釈され、忘却されました。禁断の呪文を使ったことにより、男はひどい腹痛に襲われます。良心の呵責が消化器官に不調を生じさせたのです。禁断の呪文を監視する極秘機関からは懲罰のために刺客が送られますが、こちらの到着は四年後になる見込みでした。男はなぜ自分がその呪文をつかうべきだと考えたのか、まったくわからなくなっていました。けれど、そのことを思い出すたびになんだか愉快な気持ちにもなったのです。ちなみに、助けは電話ですぐ呼ぶことができました。


 むかし、ある男が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。男のまわりには、いくつもの酸素ボンベが塵になかばまで埋まって墓標のように立ち並んでいました。しかし、それらのうち一つに、仲間の奸計によって致死性の気体が入っていることを、男は精霊の忠告をうけて悟ります。ほんの一瞬だけ接続バルブを開き、死なない程度の量だけを吸うことで毒であるかどうかを確かめられると考え、男は実行に移しますが、最初の一本目で毒にあたってしまい、ごく微量でも死に至らしめるような気体だったためにあっさりと死んでしまいました。男を殺すことに成功した人物は、さっそく保存されているクローンを目覚めさせようとします。ある不都合な事実を男に知られてしまったので、事故を装って殺害し、定められた手続きに従って当該の記憶を持つまえのバックアップを復活させようという目論見だったのです。男のクローンは、冗長性確保のために5体が用意されていました。復活操作用のコントロールパネルには付箋が貼られていて、そこには、殺された男の筆跡で『このうちの一体が脳に異常をきたしているらしく、無差別殺人を行う可能性があるので注意されたい、どれかはわからない』と書かれていました。そのあとは連鎖的にさまざまな出来事があり、爆発の閃光は地球からでも観測できたということです。


 むかし、ある男が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。そのころの月面はとても滑らかだったので、男は立とうとするたびに滑って転びました。月面ですから、転んでもさほど痛くはありません。しかし、男は気づいていませんでしたが、転ぶたびに記憶が少しずつ失われていたのです。ついにすべての記憶を失ってしまっても、立ち上がらなければいけないという切迫した意思だけが精神に残留し、男はくりかえし立ち上がろうとしては転び続けました。無限に近いその繰り返しの結果、月面がすり減ってちょうど男の身長と同じだけの深さの穴が生じるまでにかかった時間が、きわめて長い時間を表す単位として名づけられることになり、後に、とある落語に登場する長大な人名の一部に組み込まれたとされています。


 むかし、ある男が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。男は立ち上がり、立ったまま死にました。少なくともましな眺望を得ることはできた、と男は考えました。


 むかし、ある男が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。男はすぐに何がまずかったのかを察します。ありふれた向精神薬とアルコールの組み合わせがまた悪さをしでかしたのです。男はウサギの姿を探しました。このような状態におちいったときに必ず見るものだからです。そして、およそ数千のそれらに取り囲まれていることに気づいて、大きな悲鳴をあげました。赤い目を光らせたウサギたちは、みな手に抱えた柔らかく白い物体を巧みに小さくちぎり、丸めては口に運んでいましたが、一斉にそれを男に投げつけ始めました。白いものは男の宇宙服に次々と張り付き、全体を覆い尽くして固くなり、彫像のようにしてしまいます。そのポーズは深い思索を感じさせるものでした。


 むかし、ある女が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。女はすぐさま塵に穴を掘り、身を隠そうとしました。その瞬間にも周回軌道上から月面を精査していたはずの探査機に発見されたら、地球へ連れ戻されてしまうからです。塵は柔らかく、穴はすぐに深くなりました。掘り進む指先がなにか固いものに触れ、小さな扉であるとわかった瞬間、それが反対側から引き開けられ、女は穴の中に落ちていきました。まっすぐ真下へ続いていく穴のところどころに古めかしく小さな液晶ディスプレイが置かれ、そこに表示されていた静止画や動画は、どれも、女がこれまでの人生で飼ってきた動物と女自身の交流を記録したものでした。――そうだ、私は、月の獣を飼いたい。この場所へやってきた理由をあらためて確認し、女は期待とともに深い穴をくだっていきました。


 むかし、ある女が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。遠方にはふたつの基地が見えましたが、女は自分の国籍を思いだすことができず、どちらへ戻ればいいかわからなくなっていました。ふたつの基地は、対立するふたつの大国が建てたものでした。それぞれからひとりずつのクルーが姿をあらわし、駆け寄ってきて、女にはわからない仕草をします。女は、なにを言っているのかわからない、と、彼女が知っている唯一の身振り言語で答えます。しかし、どちらからも応答がありません。そこで女は、どちらの相手も、自分とはひとつの言葉も共有していないことに気づいたのです。女は基地とは逆の方向に歩きだし、その行く手には象の骨でつくられた壮麗な宮殿がありました。


 むかし、ある女が、やはりあなたのように、自分が月面にひとりで倒れていることに気づきました。女は倒れたまま夜明けを待ち、やがてあらわれた太陽を偏光バイザーごしに眺めながら、『どこでも鳥を聴くことができる(You can hear birds anywhere)』という言葉を音声レコーダーに残しました」



 助けを呼ばなければいけない。

 誰かを呼ぶべきであるとあなたは考える、が、誰を呼べばいいのかわからない。自分が何に属しているのかを思いだすことができない。

 両腕を身体の下に引き込み、上体を持ち上げようとする。それだけで眩暈をおぼえる。力をふりしぼり、身体を引き起こす。


 あなたは、ようやく立ち上がることができた。


 すでに体力が底をついたように感じる。頭がはげしく痛む。


 SOSを書くのだ。


 重い身体をひきずるようにして、前のめりの一歩を踏みだす。

 太い線を引かなければいけない、遠くから見えるように。なんの道具もない。自分の足を使うしかないだろう。さいわい、地表に積もった塵は柔らかい。


 また一歩すすむ。


 身体はとても重い。宇宙服の質量があるとしても、地球の六分の一しかないはずの引力が、なぜこんなにも苛烈にのしかかるのか。


 さらに一歩。


 後ろへ振り向いて、なぜ足が重かったのかがわかる。さきほどまでの自分と同じように月面に倒れている誰かと、長い紐でつながれていたのだ。なぜ今までこのことに気づかなかったのだろうか。


 その何者かもあなた自身とおなじ宇宙服を着て、うつぶせに倒れたまま、あなたの進んだ歩数のぶんだけ塵のうえを移動していた。塵の上に、あなたからまっすぐ遠ざかる方向へ、引きずられたあとが筋になって残されている。身体はぴくりとも動かない。

 あなたは相手を凝視したまま、苦しい一歩を進む。考えてそうしたのではなく、さきほどまでの行動を無意識に繰り返してしまったのだ。紐はまっすぐに張られ、その先でずるりと身元不明の宇宙服が動いた。自発的な動きはやはりない。意識を失っているのか、それともすでに死んでいるのか。減圧の気配はないが、硬質のスーツなので、穴が開いているとしてもどこかがしぼんだりするわけではない。


 あなたは相手へ近づいていこうとする。一歩をふみだしたところで、突然あることに気づく。


 あなたは宇宙服を着ていない。


 インナースーツが全身を締め付ける感覚が、いまはまったく失せている。室内に裸でいるときのように、なんの拘束感もない。


 自分自身の身体を見まわそうとした瞬間、身体がぐいと引かれた。


 見知らぬ誰かの宇宙服とあなたを繋いでいた紐が急激に縮んで、あなたの身体が相手にむかって飛ぶように接近する。


 視界が暗転し、あなたの身体が何かに強引にはめ込まれるのを感じる。


 あなたは宇宙服のなかにいる。

 あなたは月面に倒れている。




 あなたはまだ月面に倒れている。


 月は次第に熱くなる。黒い天蓋を太陽がめぐるにつれて、長かったあなたの影は、水溜りが蒸発するように縮み、横たわる宇宙服の下へ引き込まれていく。


 あなたの身体を包んでいるささやかなシステムが、次第に唸りを高めていくように感じられる。事態は切迫しつつあるように思える。あなたの生存を許す局地的な異常を、宇宙服がもはや維持できなくなっているのかもしれない。


「まったく問題はないのです。物理定数がすべてを許しています。物理定数を許さないものは、物理定数が影響を及ぼしうる領域の中にも外にも存在しますが、物理定数そのものは、その力のおよぶ範囲において、全てを許しているのです」


 声は変わらない。

 いったいどれほどの間、ここに倒れているのだろう。すでに酸素は底を尽きつつあるのではないか。あなたは急に息苦しさを感じ始めた。

 酸素の残量を確かめる手段がなにかあるはずだ。あなたは探すが、ヘルメットの内側には、なんの表示機構も見つけられない。


 そのとき、あなたの焦りに応えるように、バイザーの向こう側、目の前の真空に、色とりどりに光る小さな物体が現れ、ヘルメットの上方へむけて泡がたちのぼるようにくるくるとまわりながら上昇し、大きくなると、平面上に整然と並び、静止した。


 面食らったあなたが鋭く顎を引くと、一瞬、物体たちは二重にぶれて立体感を失うが、すぐにまたひとつに収束し、立体になる。


 網膜への投影だとあなたは気づく。

 これが宇宙服のシステム画面なのだ。


 直観が揺るぎない確信に変わる。色めきたったあなたは、記憶の復活を求めてその確信のまわりを必死でまさぐる。しかしそれ以上はなにも心に浮かんでこない。

 そして、どのアイコンにもあなたの記憶野は反応しなかった。


 どういうわけか、文字はひとつも表示されていない。あなたはまた恐慌に陥りかける。自分がふだん使っている言語がどんな文字で書かれているか、まったく思いだせなかったからだ。


 あなたがアイコンと見なしたものは、どれも動物を思わせる形をしている。胴体があり、4本の足があり、頭や尻尾らしきものがある。すこしずつ形は違い、しかしあなたには、それらがなんと呼ばれる動物なのかまったくわからない。


 ひとつを凝視し、まばたきすると、そのひとつを残してほかがすべて消え失せ、残されたものがふくらみ、分裂して、さきほどと同じ数になり、同じように整列する。


 わからなさに気が狂いそうになりながら、あなたはそれらを仔細にながめる。形はやはりそれぞれ異なり、べつの種であることを示しているように思える。角を生やしたものがあり、頭の両脇に大きなひらひらした部位をつけ、口のあたりから長い管を伸ばしたものがある。首と足が極端に長いものもある。このシステムのなかで、それらがどういう意味を担っているのか、まったく見当がつかない。


 またひとつを凝視し、それが新たなバリエーションを展開するのを見る。足が四本あるということではどれも共通している。そのうちのひとつをまた凝視し、同じことが繰り返されるのを見る。自分はメニューの階層を下っているのだとあなたは考える。だが、そうだとして、どうやったらまた上の階層へ戻ることができるのか。


 整列したアイコンの上方に、べつの物体があらわれた。


 それは左から右へゆっくりと進み、右端に達するとこんどは右から左へゆっくりと進む。伏せた皿のような形をして、下にはいくつかの半球がある。全体が回転し、わずかに明滅する。

 それが静止し、真下にむけて円錐形の光がするすると伸びた。


 四つ足のアイコンがひとつ、円錐のなかをゆっくりと上昇する。物体の下部中央に丸い開口部が生じ、そこへアイコンは吸い込まれていった。開口部が閉じ、正体不明の物体は回転しながら視界の端へ消える。一部始終をぼんやりと眺めたあとで我に返ったあなたは、なにか重要なものが失われてしまったような気がして、必死に記憶をさぐる。いまの四つ足はどんな形をしていた? 角はあったか? 尻尾の形は? もうなにも思いだせない。


「はじめて太陽系外への進出をはたした地球由来の機械は、『パイオニア』と呼ばれる小さな探査機でした。発見されたとき、機体は無数の微小天体の通過によって穴だらけになっており、送信用のパラボラアンテナは3分の2ほどを喪失していました。また、原子力電池ユニットの周囲には、およそ30億年前に滅びた星間文明の名残である放浪性の自己増殖機械がとりつき、深海の熱水源にたむろする生物のように豊かな生態系をつくりあげていました。


 パイオニアには、一枚の金属板が固定されていました。表面に、当時の関係者が地球外の存在に伝達すべきと考えた各種の情報が刻印されたものです。この金属板も、微小天体の衝突によって少なからぬ損傷を被り、たとえば、人類をあらわした線画は、男女いずれも顔の中心におおきな穴が穿たれていました。


 パイオニアを発見した存在は、この金属板に興味をひかれます。全体としてきわめて稚拙ではあるものの、機体のそれ以外の部位には構造上の合理性を認めることができました。しかし、この金属板にだけはそれがまったくなく、表面の刻印にもこれといった論理的一貫性を見いだせなかったのです。


 およそ100年の議論ののちに、これは機を製造した文明が付け加えた技術的韜晦であろうという結論になりました。それが、発見者たちにとって唯一理解できる考え方でした。高度な技術を誇ることは星間文明にとって必ずしも賢明な選択ではありません。不合理の痕跡を残すことによって高度技術の捕食者から逃れようとしたのだろう、と彼らは考え、納得したのでした。


 その後、彼らは、機体を製造した種族を探してみるというアイデアに達し、想定の飛行経路を逆にたどって、安定期にある平均的な恒星系を発見しました。しかし、とくに知的存在らしきものは発見できなかったということです」


 パイオニアには10号と11号があったはずだ。いったいどちらの話をしているのか。気まぐれな記憶の噴出があなたをまたしても不安に陥れる。


「おなじ時期にやはり太陽系外へ進出した『ヴォイジャー』と呼ばれる探査機は、『レコード』と呼ばれる当時の音声記録媒体を内部に保管していました。こちらは、ヴォイジャーを発見した存在によってジオメトリカルな美しさを認められた結果、立方晶構造の炭素結晶でつくられた直径約3パーセクの精密な複製がアンドロメダ星雲の外縁ちかくに存在します。この程度の大きさにすることで、電子の分布確率を示す等高面に始まる微視的構造から巨視的な形状まで、すべての形がおりなすハーモニーを楽しむことができるのだということです。微小天体の通過で出来た大きな穴が盤面にひとつあり、もちろんこれも複製に精確に再現されています」


 気が付くと、アイコンはもう一つしか残っていなかった。

 さきほどからずっと、おなじ形をした正体不明の物体が、一つまた一つとアイコンを吸い上げては去り、数を減らしていったのだ。あなたはなすすべもなくそれを目で追い続けていた。


 最後に残ったひとつも、あなたのすがるような凝視になんの反応もしめさない。だが、ふと視線をはずした瞬間にそれは二本足で立ち上がり、人間のような身のこなしですばやく走り出した。あわてて追う二つの眼がついに焦点を合わせられぬうちに、輪郭がぼやけて靄のようになり、視界から消え去った。


 あとには、しらじらと月面の光景だけがある。


「じつに安易に、完全に異質な存在であるはずの対象にあなたたちは歩み寄りを求めます。自分たちが知性体としてどれほど未熟であるか、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか」


 いま、あなたにとっては、すべてが異質だった。


「なぜあなたはここが月面だと信じ込んでいるのですか?」


 ここが月面であることは間違いなく、自分がなんらかの使命をおびてここに来たことにも確信がある。しなければいけないことがあるという強烈な切迫が、あなたの後頭部を焦がすように感じられる。この確信こそが異常であると考えるべきなのか。ともかく、間違いなくここは月なのだ。月でなければならない。なぜなら、月こそが……。


 月こそが、なんなのか?


 自分にとって、月とはなんなのか。


 自分がもっている月についての知識を、あなたはあわてて心の中にかき集める。そうする間にもそれがどんどん消えてしまうように思え、恐怖がこみあげる。


 月は、丸い。


 月は、岩で出来ている。


 月は、潮汐力によって、見上げる者の身長をわずかに伸長させる。そのために精神に変調をきたし、幻聴をきく者もあるという。


「2047年に、国際月面ステーションから一四人のクルー全員が忽然と消え失せるという事件がありました。施設内のカメラが記録した映像のなかで、クルーたちはデリートキーを押されたかのように前触れなく姿を消し、計器にはなんの異常も現れませんでした。気圧すらまったく変化しなかったのです。


 基地にただひとつ残された呪いの人形は、原因をつきとめるために、四つのしもべを目覚めさせます。それは、呪いの人形がクルーを操って密かに月面ステーションへ持ち込ませていた数百グラムの土を苗床に、きのこのように育った疑似生物でした。四つのうち、ひとつは物体の内部を見通すことができ、ひとつはどんな動物でも殺してしまう毒をもち、ひとつは歌をうたうことで人を操ることができ、ひとつは法律を熟知していました。


 呪いの人形とそのしもべたちは乏しい物資をやりくりして呪力を保ちながら地道な調査をつづけ、ついに、基地から7キロ離れたクレーターの影で7体の人骨を発見します。


 人骨はどれも死後2000年以上が経過していました。疫病の年の共同墓地のように大きく深く掘られた穴の底で、どこかに苦悶の痕跡をとどめているような骨たちが太陽の光に照らされた瞬間、呪いの人形は、自分がなにを呪うための人形であったかを思い出したのです。


 骨はいずれも、人形が呪力をもって誘拐し、ここまで連れてきて死に至らしめた、地方領主の敵対者でした。クルーも、基地も、すべては呪いの人形が自らつくりだした幻でした。はるかな昔に月面をおとずれ、使命を果たしたあとは眠りつづけていた人形が、電波を通じて現代の宇宙開発計画を刷り込まれ、自分がその計画の一部であると信じ込んでしまっていたのです。


 そのような混同が生じたのは呪いの効力が失われつつあるからだということにも、人形は気づきます。残り時間はほんのわずかでした。星空をあおぎ見る人形の眼に――それは水銀を封じた手吹きガラスの球でした――本物の月面探査船の姿が映ります。着陸する船の噴射炎に吹き飛ばされ、呪いの人形としもべたちはたちまち形をうしなって、月面の塵にまぎれていきました。


 ところで、あなたは何かを思いだすことができましたか?」


 あなたはやはり肝心なことを思いだせずにいる。あなた自身に関する情報がなにひとつない。

 横たわり、指の先には掴むものもなく、脳裏にはてしなくひらけた漆黒の虚無をなすすべもなくただ眺める。


 突然、あなたの頭のなかに冷たいものが拡がる。


 湖面の薄氷が朝の光に融けるように、精神の天蓋に穴があき、ひとつの現実が姿をあらわす。


 あなたの片手は操縦桿を握りしめている。

 もうひとつの手では、ずり落ちそうな酸素マスクを必死で支えている。

 鋭い速さで雲がかたわらをよぎる。ときおり、空全体が大きく傾く。


 これは本当のことなのか。


 あたらしく頭のなかによみがえったものには、いままでの断片とはまったく違う鮮明さが、体験の圧とでもいうべきものがあった。


「いま、あなたの頭の中に偽の記憶を送り込みました」


 あなたはその言葉を無視する。

 記憶の断片をしっかりと握りしめ、すこしずつ慎重に手元へたぐり寄せようとする。細い糸のような連想につながれて、大きな実体がひそんでいる気配が感じられる。


「偽の記憶が害をなすのは、あなたがなんらかの現実的な認識の基盤をもち、偽りの情報がそれとの間にコンフリクトを生じさせるときだけです。あなたには今なんの基盤もありません。ですから、もっと楽しんでいいのですよ」


 この記憶を手放してはいけない。思い出せ。思い出すんだ。自分は誰だ?

 今度は、たしかな手ごたえがある。なにかがあらわれる。かぼそい記憶の連接が、ひとつまたひとつと頭の中に像をむすび、ついに、海面を割って鯨の体が現れるように、ひとかたまりの大きな過去が姿をみせた。




 あなたは思いだした。自分がどうやってここへ来たかを。

 そして思いだした。すでに地球が滅びていることを。




 侵略はほとんど一瞬で完了した。


 異星からの侵略者が地球に対してふるった力は、高度に発達した科学技術が成立の根拠を忘却されて呪術そのものになり、それが手なずけられて科学技術の装いを得た先でふたたび呪術化する、ということをかぎりなく繰り返して成熟を極めた、高度であることにおいては比類なきもので、きわめて高い操作性と可搬性をそなえ、その影響範囲は完全に予測不能だった。この力によって、人類のほとんどが無害な有袋類に姿を変えられ、あらゆる社会的インフラがやわらかい草になってしまったのだ。


 あなたは、その恐るべき力が行使された瞬間に、偶然ある特殊な姿勢をとっていたおかげで変身を免れることができた。掃討をからくも逃れ、あなたは近くにあった空軍の基地から最新のジェット戦闘機で脱出する。


 救難信号に答えたのは、太平洋の小島に隠された国際的な救助隊の秘密基地だった。燃料の尽きる寸前で、あなたの機はその滑走路にへたりこむように着陸し、たくさんの有袋類に取り囲まれた。この場所にも人間はひとりも残っていなかった。応答は自動的なものだったのだ。だが、幸運なことに、島の片隅には発射台があり、整備済みのロケットが係留されていた。いちかばちかのチャンスに賭けて、あなたはロケットに乗り込み、強烈な加速に押しつぶされながら大気圏を飛び出した。軌道上には、救助隊が極秘に運用していた宇宙ステーションがあるはずなのだ。


 はたして、ステーションは確かに存在した。減速しつつ接近するロケットのモニタ上で、一条の光線がそれを火の玉に変えるまでは。


 あなたは必死でロケットのコンソールに武装を探し、起動する。ステーションを破壊した異星の宇宙機があなたのロケットに矛先を向け、短く激しい戦闘はあなたが操縦するロケットの体当たりで終わった。ふたつの機体は致命的な損傷を被るが、生存を求めるあなたと敵である異星人は、一時的な休戦協定をむすび、協力して寄せ集めの救命艇をどうにか作り上げる。


 はじめて目にする異星人は、有袋類によく似た姿だった。実際のところ、あなたの目にはまったく見分けがつかなかった。


 その時点で与えられていたベクトルと燃料の残量から、救命艇は不可避的に月を目指すことになった。月面には人類の拠点がいくつかある。それらが無傷であることをあなたはまったく期待していなかったが、地球へ戻るのは自殺行為だ。いざとなったら、異星人を人質にとるつもりでもいた。相手も同様のことを考えている気配があった。狭い空間で敵と対峙し続けることは神経を削る苦行だったが、しだいに緊張はゆるんでいき、あなたと異星人のあいだには交流と呼んでもよさそうなやりとりが生まれつつあった。


 しかし、いよいよ月の周回軌道に達しようかというところで、あなたは全身に謎の幾何学図形を浮かび上がらせ、原因不明の高熱にうなされるようになってしまう。異星人の病原体に感染したのではないかと、朦朧とした意識であなたは考える。異星人はあなたにさまざまな機器を接続し、なにかの操作を行い、その大半があなたに激しい苦痛をもたらすが、治療なのか、とどめを刺そうとしているのか、判別できない。ただ、自分がどんどん弱っていくのだけがわかった。


 ついに、断末魔としか呼びようのない苦痛にあなたはみまわれる。遠ざかる意識のなか、異星人があなたの頭部に何かをするのを感じる。あなたの頭部は無造作に切り離され、異星人の腹の袋に強引に押し込まれる。次の瞬間、袋のなかであなたの記憶がすべて吸いだされ、異星人の精神に流れ込んでいった。


 それ以降の記憶は、あなたではなく、あなたの属性を受け継いだ異星人のものだ。姿もあなたと同じになった異星人は、宇宙服を着こみ、不時着に備えた。月面にはなんの人工物も存在しなかった。破壊されてしまったのか、もともとなにも無かったのか、異星人にはなんの知識もなく、あなたの記憶との不整合にもまるで頓着しなかった。


 救命艇は墜落の直前に分解霧消し、宇宙服を着た異星人は、無傷のまま塵のうえに倒れこむ。それは、異星人がそのわずかに残った力を行使した結果だった。こうして、あなたの記憶と姿をもつ異星人は月面に横たわった。


 だが、それはとても不安定な状態だった。


 記憶への接続がすこしずつ途切れてゆき、やがて全てが失われ、あなたは白紙の状態になった。


 同じころ、地球では有袋類が有袋類の袋のなかにしまわれつつあった。

 あらゆる大陸にひしめいていた――その数は明らかにかつての総人口よりも多かった――有袋類のおよそ半数が、かたわらの有袋類をつまみあげ、自分の袋に押し込んだ。とくに抵抗もなく有袋類は有袋類の袋にしまいこまれ、半数になった有袋類はしばらく目的のない行動にふけったあと、またそのうちの半数がほかの有袋類を自分の袋に詰め込んだ。この繰り返しによって、有袋類の総数は劇的に減少しはじめた。

 しまいこむたびに、しまったほうの有袋類は少しずつ大きくなっているようだった。


 その一方で、地球はしだいに小さくなっていった。


 有限の時間が経過したあと、最後の一頭になった有袋類は、地球を自分の袋に押し込んだ。有袋類はさらに袋を裏返し、宇宙全体を袋のなかに入れたと見立てるお馴染みのとんちを披露したが、すぐに飽きたようで、また元に戻した。


 あなたは月面に倒れていた。


 声が聞こえる。


「わたしは不十分に楽しみました。あなたも不十分に楽しんだことでしょう。不十分であることがいいのです。十分になるということは、存在の理由を失うことです。わたしは存在の理由を失わぬまま存在をやめることができます。物理定数が許す範囲においても、許さぬ範囲においても、許され、祝福されて、去ることができます」


 あなたはまた長い影を曳いている。


 太陽は地平線のむこうに沈もうとしている。


 時間の進み方がおかしいことにあなたは気づいたようでもあり、気づいていないようでもある。


 もう声は聞こえない。


 なにひとつ思いだすことができない。



 あなたは月面に倒れている。

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作者

倉田タカシ @deadpop

同人誌で発表した短篇や、未発表の小品を公開します。 twitter: @deadpop 発売中: 「母になる、石の礫で」(早川書房)もっと見る

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