最終話 Love me tender


 そこはまさに、戦場だった。



「――くっ、思ったより状況が悪いな」


 いたるうめき声を上げたのも、無理はない。ようやく地上に出れたと思ったら、周囲は混乱も混乱……、大混乱の真っ最中だったのだから。


「な、なんじゃこりゃー! っていうか、どこだここ!」


 至に続いて、小さな扉から地上への帰還を果たした菅田かんだが、異様なテンションで雄叫びを上げた。どうやら、見事脱出に成功したことに、興奮しているらしい。


「落ち着け。ここは天道ヶ峰てんどうがみね高校の新校舎……、中央階段の裏側だ」


 さらに菅田に続いて、ぞろぞろと出てくるモヒカンたちのために道を開けながら、至は注意深く辺りの様子を探る。


 とはいえ、探るもなにも、全ては見ただけで、一目瞭然なのだが。



「ひ、ひゃっはー! お、俺たち地獄谷じごくだにの意地を……、ぐべえ!」

「がはっ! 負けるか! 我ら天道ヶ峰が貴様らなんぞに……! がはあ!」


 至が身を隠してる階段の上から、地獄谷の標準的な生徒らしいモヒカン男子と、天道ヶ峰らしく校則をキッチリと守った格好の男子生徒が揉み合いながら、激しく転げ落ちてきて、仲良く断末魔の悲鳴を上げている。


「いやー! 誰か、誰かあの人を―!」

「ピーピー悲鳴がうるせえぞ! 今すぐ黙りやがらねえと……、どべ!」

「ぬうううん! これ以上の狼藉ろうぜきは、剣道部主将であるこのワシが……、べへっ!」


 その場にへたり込み、絶叫している天道ヶ峰女子生徒の頭上で、得物を振り上げた二人の男が相打ちとなり、派手な音を立てて崩れ落ちた。


「へ、へへへ……、地獄が、地獄が見えるぜ……」

「衛生兵! 衛生兵ー!」

「だ、誰か、誰か助けてくれー! 俺は死にたくない! 死にたくないんだー!」


 もはや、誰が悲鳴を上げているのかすら分からない。


 天道ヶ峰と地獄谷の生徒たちが入り混じり、激しい戦いを繰り広げているせいで、辺りは怒号と絶叫と慟哭が渦巻き、まるで地獄の釜が開いたような有様だ。



「オイオイオイオイ! なんで地獄谷の連中が、ここで暴れてるんだよ!」


 自身も地獄谷に属する人間だというのに、菅田は驚きを隠せない。彼の背後に控えている他の者たちも同様だ。


 コキュートスからの脱走自体は、至の計画通り、非常に順調だった。最下層の監獄から出てしまえば、他に稼働していたのは、最上層のリンボのみ。しかも、なぜかそのリンボにすら、看守どころか警備員……、どころか、誰もいなかったため、地上に出るのに、それほど時間もかからなかった。


 ……のはいいのだが、ようやく帰還を果たしたと思ったら、いきなり暴力が全てを支配しているような状況に放り込まれるとは、流石に予想外だったのだろう。


「……宇良うらが仕掛けたな」


 そんな中で、至だけは冷静に、この状況の裏に潜む悪意に気が付いたようだ。


「宇良って……、お前を裏切ったって副会長か? おいおい、そいつだって天道ヶ峰の一員なんだろ? それなのにそいつは、自分たちの学校が、こんな状況になるように自分で仕組んだっていうのかよ。マジで? なんのために?」


 単純に、自分で自分の学校に害をなすような真似をするという無法を信じられない菅田が、至に説明を求める。


 無法といえば地獄谷の専売特許なのだが、今はそれどころではなかった。それに、いくら自分たちの利益のためなら、文字通り地獄谷でも、仲間にまで手を出すのは、ご法度だ。


「状況を混乱させるためだ」

「いやだから、混乱ってなんでよ?」


 純粋な菅田の疑問に、至は推測で答える。


 そう、こんなものはただの推測で、本当は当たっていない方がいいのだと、至は考えていた。なぜなら、規律を重んじる天道ヶ峰もまた、身内を陥れるような行為は、全面的に禁止されている。


 まあ、宇良はすでに、身内というか上役うわやくであったはずの至を、思い切り、それこそ地の底にまで、陥れているのだが。


「一つは、演出だろう。状況が混乱していればいるほど、それを収めた人間の功績は大きく見え、英雄扱いする者も増える」


 要するに、自作自演なのだが、実害を考えれば、外道の極みのような目論見だ。


 だが至には、宇良なら平気でそれくらいするだろうという、嫌な確信があった。


「もう一つは、自分の謀略を隠蔽するのが目的だろうな」


 なぜなら彼女は、冷静で頭も良いが、野心が強く、計算高い女なのだから。


「天道ヶ峰は地獄谷との抗争において、専守防衛を絶対の掟にしていた。それを無断で破り、意図的に状況を悪化させたのが宇良であることがバレれば、どうしても彼女の対外的なイメージは、悪くなってしまう」


 宇良の目的が生徒会長の座である以上、それを選ぶ立場である天道ヶ峰の生徒たちから、不信を買うような事態が望ましくないのは、当然だった。


「それを避けるために、宇良の用意したシナリオが、おそらくこの状況なんだろう」


 だから、そんな事態にならないように、宇良が謀略を巡らせるのは、もはや当然と通り越して、必然であるといえる。


「地獄谷を叩き潰して、確固たる地位さえ手にしてしまえば、敗者の証言を揉み消すなんて簡単だ。向こうがどれだけ、天道ヶ峰の方が先に手を出してきたと、真実を主張したとしても、簡単に事実を捻じ曲げることができる」


 かなり強引、かつ非人道的な手法だが、そんなことに構う宇良ではない。目的のために手段を選ばない彼女なら、それくらいはするだろうという至の確信は、妙な信頼すら伴っていた。


「そのために、宇良は一刻でも早く地獄谷を倒してしまいたい……、しかし、だからといって自分が先制攻撃を仕掛けたことがバレると、後で面倒になる。だから、宇良は自らリンボを解放して、捕らえていた地獄谷の生徒を暴れさせることで、大義名分を強引に捏造したんだ」


 不満を貯め込んだまま、強制的に収容施設であるリンボに閉じ込められた地獄谷の生徒が、状況も分からず突然解放されてしまえば、訳が分からずとも暴れ出すのは、誰の目から見ても明らかだ。


 そして、引き金さえ引いてしまえば、後は簡単だった。


「その混乱に乗じて、自らが先頭に立って地獄谷に攻め込み、颯爽と相手を倒してしまうことで、劇的な勝利を飾ってみせるのが目的……、ってところか」


 だとすれば、至の推測とも呼べない憶測が正しいのならば……。


「自らが先頭に立ってって……、おい、それってつまり……」

「ああ、もう時間がない」


 この状況はすでに、クライマックスというわけだ。


「なるほど! だったら俺の出番だな!」


 地上に戻って来てから、妙にテンションが上がっている菅田が、大袈裟な仕草で、自らの胸を叩いてみせる。どうやら、なにか考えがありそうだ。


「天道ヶ峰で暴れてる地獄谷の奴らは、俺がぶん殴ってでも止めて、さっさと自分たちの学校に戻すから、ここは俺に……、ハッ!」


 確かに宇良の手の平の上とはいえ、自分の身内が、怨敵の本拠地で暴れることに成功しているというのに、菅田は自分の所属に構わず、至に対して友情すら感じさせる熱い提案をしていたのだが、突然なにかに気付いたような声を上げると、一瞬その動きを止めてしまう。


 そして、ごくりと大きく唾を飲み込むと、震える声で、その続きを口にする。


「こ、ここは俺に任せて、先に行け! うおー! まさか一生のうちに一度は言ってみたいと思っていた台詞を、こんなバッチリ言えるなんて! うおー! ここは俺に任せて、先に行け! 先に行けー!」


 どうやら、びっくりするくらいどうでもいいところで、無性に感動している様子の菅田が、驚くほど見事なガッツポーズを決めたのだった。


「……分かった! ここはお前に、全て任せる!」


 興奮のあまり、同じ台詞を繰り返す菅田に向けて、至は大きく頷いてみせる。


 なんとも奇怪な動きで、しゃにむに喜びを表現している菅田の様子だけ見れば、彼の提案が上手くいくのか、疑問に感じる者もいるかもしれないが、ああ見えて、菅田忠雄ただおの統率力は、本物だ。


 彼が伊達や酔狂で、地獄谷の裏番なんて名乗っているわけではないことを、これまでの脱走劇で、至は十分に理解していた。


 少なくとも、あれだけの極限状態にも関わらず、特に内紛もなく地上に出ることができたのは、菅田が地獄谷の生徒たちを、見事にまとめ上げてくれていたからだ。


 だから至は、そんな菅田に敬意を表して、むしろ彼のやる気を上げてやろうと、自らも芝居がった仕草と口調で、ドラマチックに決めてやる。


「菅田……、死ぬなよ!」

「うおー! うおー! ……お前もな! うわー! まるで映画だろ、これ!」


 まさに効果てきめん。気合十分となった菅田が、勢いよく振り返り、後ろに控えていたモヒカンたちに、発破をかける。


「おっしゃー! 行くぜ、野郎ども! 地獄谷の漢気……、見せたらんかい!」

「うおおおおおおおおおお! カンダタさーん!」


 頼れる兄貴分のテンションに呼応するように、気勢を上げた後輩共が、早馬のように先頭を駆ける菅田に続いて、次々と戦場へと向けて、飛び出して行った。


「本当に……、後は頼んだぞ、菅田忠雄!」


 如何なる運命の悪戯か、本来なら敵として相対していてもおかしくない相手に、母校の運命を託して、至は走り出す。



 ただ、愛する者を守るため、全てを振り切り、真っ直ぐに。



「えーっと、失礼ですが、ちょっとお邪魔しますよと……」


 などと、ちょっと感動的な感じで菅田と別れてから、僅か数分後には、至は特に苦労するようなこともなく、あっさりと地獄谷高校へと到着していた。


 どこもかしこも混乱していたので、その隙を縫うように進み、誰にとがめられることなく目的地へと向かうなんて、至にとっては簡単なことだったし、そもそも天道ヶ峰と地獄谷は、道路一本挟んだ位置で向かい合っているという、超至近距離な立地なのだから、のんびり歩いたところで、それほど時間がかかるわけではない。


 ちなみに、異常なくらい両校が近い場所にあるのは、エリートづらした天道ヶ峰が気に食わないと、地獄谷の創立者が目の前の土地を強引に買収し、嫌がらせのために学校を創立したからだという説もあるが、真相はやぶの中である。


「……あっちか!」


 とはいえ、出自に謎があるとは言っても、私立地獄谷高等学校の外観は、いたって普通の近代的な学校と変わらない。


 至が正門から突入を果たし、コンクリード造りの校舎を横目に、聞こえてくる喧騒を目指して駆け出せば、その現場である校庭までは、あっという間の到着だ。


「――りんね!」


 そして、着いてさえしまえば、そこでなにが起きているのかは、一目瞭然。



 本当に、一目見ただけで、明らかだった。



「おらおらおらおらおら! ボケカス! カスコラ! あんま調子こいてると、先祖代々の墓に埋めんぞ! このクソアマ!」

「フフフッ。 随分と余裕がないようですが、どうかしました? お顔が真っ赤で可愛いですよ? 地獄谷の修羅姫さん?」


 土煙が舞う校庭の中央で、二人の女性が、激しい戦闘を繰り広げている。


 修羅堂しゅらどうりんねは、その長すぎる黒のロングスカートをひるがえし、スカジャンの背中で睨みを効かせている般若もかくやという有様で、折角染めているのに根本が伸びて、プリンのようになってしまっている金髪のロングヘアを振り乱しながら、滅茶苦茶に錆びた金属バットを振り回す。


 宇良きりは、完璧に校則を順守した、実に天道ヶ峰生徒らしい清楚なセーラー服姿には似つかわしくない、物騒な荒縄を取り回しながら、冷たいメタルフレームの眼鏡の奥で、静かに瞳をギラつかせ、相手に致命的な隙を生じさせようと、口の端を凶悪に吊り上げながら、挑発を繰り返す。


「その生意気な口を黙らせてやるから、死ねや! オラアアアアアアア!」

「残念ですが、死ぬのはあなたです! フフフフフフッ!」


 りんねも宇良も、一歩も引くことなく、互いを殲滅せんと死力を尽くしている。


 その戦いの様相は、もうすでに、悪鬼か羅刹といった有様だ。


「そ……、総長! クソ! 近づけねえ!」

「生徒会長代理! ぐおおっ! 援護もできんとは!」


 まるで悪夢のように、激しい戦闘を繰り広げている二人に対して、あるじを守るべき地獄谷の生徒たちも、敵を討ち取るために来たはず天道ヶ峰の者たちも、手も足も出すことができずにいる。ただ情けなく、校庭の中央で巻き起こる死闘を、ぐるりと囲んで見守ることが、精一杯のようだ。


 そう、この地獄谷高校もまた、天道ヶ峰と同じように、混乱の極みにあった。



 いや、事態はすでに混乱を飛び越して、混沌と形容した方が相応しい。



「――そこまでだ!」


 そして、その無用な混沌を切り裂くように、一人の男が……、極楽院ごくらくいん至が声を上げると共に、まるで壁のように棒立ちしていた両校の生徒たちを見事に飛び越え、今まさに互いを討たんと激突しようとしていた二人の刹那に滑り込む。


「――至! てめえ! よくもノコノコと!」


 突然の乱入者に、片手で金属バットを抑え込まれたりんねが、獰猛に目を見開いたと思った瞬間、激しく牙を剥きだした。


「……あらあら、極楽院会長ではないですか」


 一方こちらも、至によって獲物である荒縄を掴み取られた宇良が、それでもなにかを狙うように、一瞬目を細めてみせる。


「……よかった。ご無事でなによりです、会長。地獄谷の汚い罠によって討たれたとの噂を聞いた時は、まったく肝が冷えましたよ?」

「……ああ、どうやら心配をかけたようだな、宇良副会長。だが、僕はこうして無事そのものだ。どうか安心してくれていい」


 白々しくすっとぼけてみせる宇良を、至も深く追求するようなことはしない。


 宇良の裏切りについては、客観的な証拠はなにもないのだ。下手に突いても水掛け論が精々で、無駄に混乱を引き延ばすだけだろう。


 今はそれよりも、よほど大事なことがある。


「りんね! 無事でよかった! 会いたかったぞ……、って、うわっ!」

「クソ至が……! なれなれしいんだよ! 八つ裂きにすんぞ! カスが!」


 万感の思いを込めた至に対して、りんねは獣のように威嚇しながら、掴まれていた金属バットを素早くひねり、そのまま突き出す。


 その一撃を慌てて避けた至と距離を取りながら、りんねはさらに、語気を強めた。


「悪びれもせず、ヌケヌケとしやがって! ねじ回しでじ切るぞ! ゴラア!」

「い、いや、待て! 落ち着け! 落ち着くんだ、りんね!」


 まるで手負いの肉食獣のように、ギラギラとした殺気をにじませた最愛の女性からの金属バットをギリギリで回避しながら、至は困惑を隠しきれない。


 確かに、これまでの至とりんねの関係は、決して友好とは言えないものだったが、それでも、ここまで露骨に殺意を向けられるほどでは、なかったはずだ。


「な、なんだよ! 一体突然、どうしたんだよ!」

「どうしただとぅ……?」


 悲鳴にも似た至の叫びに、りんねは凶悪に眉毛を吊り上げながら、怒りに任せて乱暴に、スカジャンのポケットに手を突っ込んで、その中身を憎々し気に、思い切り地面へと叩きつけた。


「これを見ても、まだそんな誤魔化しができると思ってんのか! ロケットにくくり付けて成層圏まで打ち上げんぞ! ゴラアア!」


 りんねの様子は、尋常ではない。その場で子供みたいに地団駄を踏んでいる彼女に細心の注意を払いながら、至はりんねが投げ捨てたモノの正体を見極める。


「これを見てもって……、なんだ? 写真?」


 りんねがゴミのように捨てたモノ……、それは、確かに写真だ。まるで何度も握り潰そうとしたかのように、しわくちゃになってしまっているが、間違いない。


「……いや、だから一体、なんなんだ?」


 そしてそれは、少なくとも至にとっては、まったく見知らぬ写真だった。


「しらばっくれてんじゃねえ! もっとよく見やがれ! 虫眼鏡で燃やすぞボケ!」

「いや、そんなこと言われても……」


 激昂しているりんねには悪いが、至には本当に、身に覚えがない。そもそも写真に撮られて困るようなことが、あるわけでもないので、例えそこになにが写っていたとしても、問題ない……、はずだったのだが……。


「な、なんじゃこりゃあああ!」


 はずだったのだが、その写真の詳細を把握した瞬間、至は思わず、どこかのジーパンがトレードマークな刑事が殉職したときのような叫び声を上げてしまった。


「はっ! ようやく気が付きやがったのか! この男のクズ野郎が!」

「ま、待て! 知らない! 僕は本当に、身に覚えがない! 誤解だ!」


 烈火の如き怒りを吐き出すりんねとは対照的に、至はオロオロとするばかりだが、それも当然か。その写真が証明しているのは、それだけ衝撃的、かつ破廉恥はれんちな内容だったのだから。


 では、その内容とは……。


「あらあら、これは大変です。どうやら私と生徒会長の危険な密会が、何者かにより隠し撮りされていたようですね。わー、恐い恐い」


 そう、それは端的に言ってしまえば、極楽院至と宇良霧の二人が、まるで寄り添うようにしながら、どう見てもいかがわしい、もしくはホテルから、並んで出てきている……、ように見える瞬間だった。


「ですが、天道ヶ峰の校則では、異性交遊は特に禁じられておりませんことですし、私と会長の愛の秘密も、別に無関係のあなたにとやかく言われるいわれは、ございませんよね? この負け犬」

「こ、この馬鹿女があああ! 除雪車で轢いて鹿と思い込んでやるぞ、ダボが!」


 露骨すぎる宇良の煽りに、見事なまでに反応してしまったりんねは、驚くくらいに自分を見失ってしまう。


 その構図を見れば、一体誰がこの状況を仕組んだのかは、誰の目にも明らかだ。


「う、宇良副会長……、ここまでやるか……?」

「あら? やるとはなんのことでしょう? ……まあ、会長ったら、お・下・品」

「二人とも、ぶっ殺す!」


 恐怖にも似た驚愕の呻きを漏らした至の言葉尻さえ捕まえて、宇良はりんねを煽りに煽り、その冷静さを削いでいく。


 そう、それこそが彼女の、宇良霧の狙いだった。


 修羅堂りんねと自らの戦力差を客観的に判断した宇良は、正面からまともにやりあうのは自分に不利とみて、策をろうしたのだ。単純に、まともにやりあうのが不利なのならば、相手をまともじゃなくしてしまおう、と。


 宇良霧が、極楽院至と修羅堂りんねの関係について、どこで知ったのかは想像の域を出ることはないが、至の副官として、常に彼の隣でりんねと対峙していた彼女からしてみれば、実はそれは、非常に分かりやすい事実だったのかもしれない。


 今はどれだけ仲が悪く見えても、至とりんねを繋げている運命の糸は、まだ切れてはいないのだから。


「うわっ! 止せ、りんね! 全てはこの宇良の虚言だ! 嘘だ! 策略だ! その写真だって、よく見れば合成だって分かるだろ!」

「うるせーボケ! 見苦しい言い訳しやがって、溶岩を口から流し込んでやる!」


 仲が悪いどころか、殺意すら感じる一撃を避けながら、至は弁明を続ける。


 いや、弁明というと語弊があるか。そもそも至と宇良は、微塵もそんな関係ではないのだし、例の写真にしても、実はよく見なくても偽物だと分かるくらい、荒い技術で作られた粗悪な偽造品でしかない。


 ただ、それに気が付けないくらい、修羅堂りんねが動揺しているというだけで。


「くそっ! 宇良も! もう少し手段は選べ!」

「ふふふっ。極楽院会長も、随分と甘いことをおっしゃるのですね?」


 必死になってりんねからの追撃を避け続ける至の悲鳴を聞きながら、今回の騒動の張本人である宇良が、にこやかに微笑んだ。


「手段なんて選んでいたら、欲しいものは手に入らない。これが私の人生哲学です」

「限度と周囲への迷惑くらい考えろ!」


 超然と、あるいは軽薄に微笑する裏切り者に向けて、至は彼にしては珍しく、怒気を隠そうともせず叫び声を上げると共に、先ほど宇良から奪った荒縄を巧みに操り、まるで意思を持った蛇のように、放つ。


「むがっ!」

「よし! 邪魔者は片付いた!」


 その見事な捕縛術によって、一瞬で芋虫のように拘束された宇良が、絶対に自力では抜け出せないことと、彼女の口を、荒縄の猿ぐつわによってしっかりと封じ込めたことを確認してから、至はようやく、本命と向かいあう。


 そう、ここからが、至にとって本番だった。


「ああ~ん? なんだあ? 痴話喧嘩かあ? ケッ! お熱いことで!」

「だから、全部誤解だって……」


 憎々し気に自分を睨むりんねと対峙しながら、至はどこかで安堵する。


 修羅堂りんねは、怒っている。激怒している。憤怒してる。

 その事実が、極楽院至にとっては、まずなによりも重要だった。


 なぜなら……。


「なあ、りんね。りんねは僕のこと、好きか?」

「なっ! なななななななっ……!」


 なぜなら、どうでもいいと思っている相手の、あんな写真如きで、ここまで動揺するなんて、ありえないからだ。


「い、いきなり……! いきなりなに言ってやがるんだ、このゲス野郎!」


 突然すぎる質問に、声が詰まってしまった少女の頬は、一瞬で真っ赤に染まり、リンゴも裸足で逃げ出すような有様だ。


 そして。その様子こそがなによりも、修羅堂りんねの本心を表している。


「……嫌いか?」

「あ、ああ! きっ、嫌いだね! くそ! くそ! だいっ嫌いだ!」


 悲しそうで、泣きそうな顔をしながら、滅茶苦茶に錆びたバットを振り回すりんねの猛攻をかいくぐり、至は落ち着いた声で、自分の気持ちを口にする。


 そう、答えなんて、最初から決まっていたのだ。


 ただ少し、口に出すのが、恥ずかしかったというだけで。


「僕は、りんねのことが……、好きだよ。大好きだ」

「――っ!」


 真っ直ぐな告白に、嘘偽りのない眼差しに、その顔を紅潮させて、完全に硬直したりんねの手から、至は優しくバットを取り上げて、投げ捨てる。


 そしてそのまま、思うがままに、至はりんねを、正面から抱きしめた。


「い、至! な、なにを、いっ、いきなり、なに……、するんだよ……」


 ありえない距離で、もうありえないと思い込んでいた相手のぬくもりに包み込まれてしまった、泣く子も黙る地獄谷の総長は、あっという間にただの少女に……、ただの恋する乙女に戻ってしまう。


 拒絶は、しない。するはずがない。

 拒絶する理由など、あるはずがないのだから。


「りんね……、君が好きだ」

「あっ……」


 二人の体温が混ざり合い、二人の鼓動が重なり合う。

 繋いだ心と心が溶け合って、泣きたくなるほどの暖かさに包まれる。


 それを幸せというのだと、至は知った。

 ようやく、本当にようやく、知ることができたのだ。


「だから……、りんね! 結婚しよう! これからずっと、一緒にいよう!」

「なっ……! な なななっ! いきなりなにを……!


 少年が提案した、突然すぎる提案に、少女は不良の演技も忘れて素に戻り、大きな瞳を白黒させるばかりだ。


 幼い頃とは違う。結婚がどういうものか、至にだって、もうよく分かっていた。

 分かっているからこそ、少年は少女と一緒になりたいと、思っているのだから。


「そ、そんなの無理に決まってるじゃない! あなただって分かってるでしょ! 私たちの家は……!」


 極楽院一族は、戦前から常に国に対して有用な人材を輩出し続けてきた、驚嘆に値するエリートの家系である。


 それに引き換え修羅堂一家は、戦後の混乱期に成り上がった極道の血筋であり、いまやこの国の裏社会を牛耳っているような集団だ。


 まさに水と油……、いやそれ以上の、それはそれは、超高級ミネラルウォーターとボロボロの工場から出た廃棄油くらいのへだたりがある。


 そんな現実に気が付いたからこそ、あれだけ近しいはずだった至とりんねの関係さえも、気が付けばどちらともなく、離れてしまっていたのだろう。


「分かってる! 分かってるけど、関係ない!」


 それでも、至は断言する。真っ直ぐに、怯むことなく。


 なぜなら、彼はようやく、のだから。


「約束しただろ! ずっとずっと昔に、大きくなったら結婚しようって!」

「あっ……」


 それは、幼い子供同士が交わした、ただのつなたい口約束にすぎない。


 しかしそれでも、あの時結んだ小指と小指の間には、互いを想う赤い糸が、確かに繋がっていたと、今もまだ、至は信じている。


 そう、信じている。

 現在進行形だ。


 至の中に灯り続けている恋心は、決して過去の思い出などでは、ないのだから。


「だから、結婚しよう! 家や立場なんて、関係あるもんか! 大事なのは、僕たちの気持ちだけだ! 誰に反対されてもかまわない! 立場が邪魔なら、そんなもの捨てていいんだ! 僕たち二人なら、どんな困難だって乗り越えられる!」


 なんてことはない。気が付いてしまえば、簡単だった。


 極楽院至は、宇良霧の手によって、コキュートスに落とされるまでもなく、とっくの昔に自分から、地獄の底で生きていたのだ。


 家の事情を、今の立場を、他人の目を言い訳に、自らの気持ちに蓋をして、大切なモノを遠ざけて、ずっとずっと、ことを正当化してきた。


 それがどれだけの苦痛でも、見て見ぬふりを繰り返しながら。


 だけど、それは間違いだった。

 間違いだったと、気が付けたのだ。


「りんね! 僕は君を……、君だけを、愛してる!」


 晴れ晴れとした気持ちで、至は自分の気持ちを口にする。


 それがどれほどの幸せか、歓喜と共に噛みしめながら。


「――っ! わ、わたしも……」


 そして、ずっとずっと、自分の想いを押し殺してきたのは、彼女も同じだ。


 至の想いに応えるように、りんねは自分の顔を覆い隠していた黒いマスクを脱ぎ捨てて、本当の自分をさらけ出し、潤む瞳で、震える声で、愛する者を抱きしめる。


「私も、あなたが好き! 大好きなの! あなたとずっと一緒にいたい! あなたを愛したい! あなたに愛されたい! 」


 ただ純粋に、好きあっていただけなのに、長い長い時を経て、気の遠くなるような遠回りをした上に、こじれにこじれはしたけれど、ようやく、本当にようやく……。


「りんね……!」

「至……!」


 二人の唇が、重なった。


「おっ! なんだなんだ! ハッピーエンドか!」

「……もがもが」


 天道ヶ峰の混乱を収め、自分の高校に帰ってきた菅田忠雄に、荒縄で縛られて芋虫のように校庭に転がっている宇良霧に、そして、この二人以外にも、多くの学生たちに見守られながら、至とりんねは、愛を交わす。


「これから二人で、幸せになろう!」

「うん……!」


 こうして、ハチャメチャな騒動の果てに、一つの恋が実を結んだのだった……。




 それからしばらく、時は流れて……。




 世の中はまさに、平穏そのものだった。


 天道ヶ峰と地獄谷の抗争も、両校のトップが劇的に和解したということで、今は完全な休戦状態に入っている。身内には手を出さない……、これはどちらの学校にも共通したルールだ。


 もちろん、突然の状況の変化に不満を持つ者もいるだろうが、なにも仲良くしろとまでお触れが出たわけではない。専守防衛を掲げていた天道ヶ峰は大人しくしているだろうし、血気盛んな地獄谷の方は、なぜかノリノリの菅田が抑えてくれている。


 火種らしい火種といえば、あれだけの混乱を引き起こした張本人でありながら、全ての原因が彼女であるとバレてしまえば、また面倒な禍根を残しかねないと、表向きは明確なお咎めを受けず、いまだに天道ヶ峰副生徒会長の地位にいる宇良だろうが、彼女に関しては、その本性を把握した至とりんねが、厳しく監視を続けている。


 だから、この状況は、概ね平和といっても、差し支えないのだろう。


「ほらほら! 急げよ、至! 時間は待っちゃくれねーぞ!」

「りんね、そういう言葉遣いは、あんまり感心しないぞ」


 そんな穏やかな日常の中で、眩しい夕焼けに包まれながら、学校終わりの二人の男女が、仲睦まじく並んで歩く。


「し、仕方ないだ……、でしょ! ずっとあんなだったし、なかなか戻らないの!」

「まあ、少しづつでいいさ。そんなりんねも、最高に可愛いし」


 もう髪の毛も大分伸びて、少し前とは黒髪と金髪の配分が逆転したりんねが、恥ずかしそうに唇を尖らせる。


 そんな彼女の左手を、自分の右手で優しく握り締めながら、至は穏やかで、幸福な笑みを浮かべた。



 極楽院至に、修羅堂りんね。

 確かに、この二人の想いは通じ合い、幸せを手に入れた。


 だけど、まだ全ては解決したわけじゃない。

 結婚だって、まだ正式にはしていない。家のことだってある。

 人生は、そんなに甘くない。


 これからこの二人には、ロミオとジュリエットも裸足で逃げ出す、苦難の連続が待ち受けているのかもしれない。



 だけど、もう大丈夫。



「な、なに見てんのよ!」

「この世界で、僕が一番、愛する女性さ」



 互いが互いを、ちゃんと真っ直ぐ、見てさえいれば。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

なにみーてんだー! 瓜蔓なすび @nasubi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ