経緯案内人
荒咲琉星
ようこそ。
1
一五万人。この数字が何を意味するのか、お分かりでしょうか。それは、死亡者の数です。
一日に、約一五万人の人が、この世界から旅立たれています。死とは必然であり、それを超越した者は誰一人としておりません。
アナタ方は、『死』というものをどのようにお考えでしょうか。私は今まで、数多くの人にこの質問をして、数多くの答えを頂きました。そして分かったことは、全ての解答はたったひとつの感情に集約されるということです。
それは、『恐怖』でした。
どうやら、人間の皆さんは死ぬことに対して異常なまでの恐怖を感じるようです。かく言う私も、以前は人間でしたので、その気持ちは痛いほどよく分かります。しかしその恐怖は、死という概念が完全なる未知の領域であるからこそ、その不安から生まれた感情でしかありません。
しかし、実際に死んでみればどうということのない新たな日常が始まるだけです。まあ、少しだけ勝手は違いますが。
死とは本来美しいものです。今まで培ってきた生涯に明確なピリオドを打つことで、『一人の人間の歩んだ人生』という『唯一無二の芸術』の完成を意味するのです。
おや。私が話をしている間にもその生涯に幕を下ろし、美しき作品をまた一つ完成させた芸術家達がしばしの休息を求めてこの地へと参られたようです。
さて、無駄話はこのくらいにしておきましょうか。そろそろお仕事の時間です。それでは皆さん、またどこかで。
2
ここは、世界のどこでもない空間。
淡く儚い、幻影に似た空間に、俺は佇んでいた。
「ここは…、一体、どこだ……?」
俺は、そんな問いかけに誰かが答えてくれるはずもないと理解しつつも言葉を漏らした。
見渡せば、どこまでも広く続く終わりのない空間が鎮座していて、まるで雲の中にいるかのようにも思える……、雲の中? そうか、これは夢だ。そうじゃなきゃこんな摩訶不思議な空間が存在する説明がつかない。
しかし……、夢とはここまで意識がハッキリしたものだっただろうか。思わず右手で自らの頬を叩くが、ただ痛いだけだった。しかし、その衝撃で俺の頭はスッキリと冴え渡り、さっきよりは物事を慎重に考えることができるようになった。ありがとう俺。
それにしても、俺もおかしな夢を見るものだ。明日は大事な会議があるんだから、早く現実の世界で目を覚ましてくれることを祈ろう。
そんなことを考えて、俺はその場にただ立ち尽くしていたが、なにやら白い空間にひとつの人影が見える。あれはなんだ? 雲に映し出されたようなその人影は、その雲を振り払うように俺の元へと近づいてきた。
近くに来れば来るほどその人影がハッキリするのが分かる。どうやら、俺よりもはるかに身長の低い人間のようだおかっぱの髪型で、小学生が身に付けるようなフリフリのスカートを履いていた。
おっと、もっとハッキリと姿が見えてきたぞ。確かにその人影は少女のものだ。本当に小学生のような容姿の少女が、なにやら名簿のようなものを見ながら近づいてくる。
「えーっと。次は……、
「…、こんな空間でまさか他の人に会えるとは思っていなかったよ。というか、なんでそんなに俺のことを事細かに知っているんだい? そもそも、キミはどちら様で?」
「はぁ。この仕事の一番辛いところはコレよね。今日だけでもう五〇〇件よ五〇〇件。何度もなんどもナンドモ何度も同じ説明の繰り返し……、まぁいいんだけどさ。慣れてるし」
「あ、あの……?」
「あーはいはい。んじゃ、単刀直入に言いますね。青柳徹さん、アナタは本日午後九時四三分に、自宅前にて死亡しました」
「し、死亡……? は、はははは。奇妙な夢をみるものだな俺も。最近は残業続きて疲れていたのかもな」
夢の中の少女とまともにやりとりするなんておかしな話かもしれないが、どうもこの世界は鮮明すぎてただの夢だとは思えなかった。そんな俺に対して、少女は感情のこもっていない目をこちらへ向ける。
「夢…、夢、ねえ。それも何度も聞いたわ。死んだ人間の大抵は、素直にその状況を受け入れようとはしない。特に、アナタのようなちょっと他と違う死に方をした人は。まぁいいんですけどね。高名な精神科医であるエリザベス・キューブラー・ロス曰く、人間の死の受容プロセスの第一段階は『否認』から入るようですから。これも無駄に精神の発達した愚かな人間の性ってやつですかね」
「…、キミは難しいことを知っているんだね。なんだか頭が痛くなってきたよ。結局、キミは何者なんだい?」
「私には人間のように固有の名前がないの。でも、そうね……、『レディ』とでも呼んでちょうだい」
「レディ…? これはまた可愛らしい見た目に反した呼び名だね。どうしてレディなんだい?」
「アナタ達人間の世界には『レディ・ファースト』という言葉があるでしょう? 何事も、女性が優先されるべきという意味の。私は、何者よりも優先され、この世界で最も優遇されるべき存在なの。だから、レディ」
「ま、ますますおかしな子だなあ。それで結局、俺になんの用なんだい? こんな意識のハッキリした夢は初めてなんだ。覚めるまでは付き合ってあげるよ、その俺が死んだとかいう設定に」
「そう。それは話が早くて助かるわ。まず、私の仕事を端的に説明するわ。私は、シニガミと呼ばれる者達をまとめているの。そいつらの仕事は…、まあ人間のアナタなら説明せずとも分かるでしょう。でも、私が担当するのは少し変わった部署でね。真っ当な死を遂げた人間には縁が無いのだけど、私が扱うのは『無自覚の死』を遂げた人間に、その死の経緯を告げる仕事。人間の知る権利というのは、あの世でもこの世でも大して変わらないってことね」
「ま、待ってくれよ。『無自覚の死』? 確かに俺は健康体そのものだったし、突然死ぬなんて考えたこともないけど、今までまともに生きてきたこの俺が、真っ当に死ねなかったっていうのか?」
「そうよ。しかもアナタさっきからこれは夢だと思っているみたいだけれど、それじゃあ今日の夜のことを最後まで覚えているの? 家に帰って、ベッドに入るまでのことを、詳細に」
「当たり前だろ。この前、小学校の同窓会で久々に再会した友達と今日から旅行に出かけるとかで妻が家を空けると言っていたんだ。だから、今日は残業を早めに切り上げて真っ直ぐ家に帰った。そして………」
……、あれ? 俺は確かに、会社を出てどこにも寄らずに家に帰ったはずだ。そこまでは思い出せる。家の前までたどり着いて、ポケットの鍵を取り出して、鍵穴に挿入しようとしていたところまでは、しっかりと覚えているんだ。
でも……、その先が、どうしても思い出せない。俺は……、俺は、どうしたんだ?
「言ったでしょう?」
一向に次の言葉を言い出さない俺に対して、そのモヤモヤを振り払うように、レディはその感情のない視線を俺へと向けてくる。そして、まるで全て知っているかのような口ぶりで、残酷にも『現実』を俺へと突きつけてきた。
「アナタは今日、自宅前にて死亡したの」
「自宅…、前? なぜ、だ…? なぜ、俺が死ななきゃならないんだ!? やっと仕事も安定して、これからが大事な時だってのに…、なんで!!」
俺は思わず頭を抱えた。
今まで聞き流していた夢の中の少女の言葉に、信ぴょう性が生まれてきたからだ。
「だから、その死の過程を説明するのが、私たちの仕事なの」
「そ、そんなことはどうでもいい!!」
俺は、気がついたらレディに掴みかかっていた。しかし、そのジットリとした目はどこまでも俺を捉え、俺でさえ知りえない、記憶の深淵さえも見据えているようだった。そんな少女に気圧されながらも、俺は必死に叫んだ。
「頼む、お願いだ……!! アンタの力で俺を生き返らせてくれ! 俺にできることならなんでもする。金なら、いくらでも用意してやる!! 今まで全てを捨ててここまできたんだ。まだやり残したことがたくさんあるんだッ!!」
大の大人が小学生の少女に掴みかかってこんなことを懇願している。滑稽だと嗤ってくれて構わない。人間、例えその立場が危うくなったとしても、自分が生きるか死ぬかの瀬戸際になればどんなに哀れな行動をとるか分かったものではないのだ。
実際、こんなプライドを投げ捨てるようなことをしているなんて、俺自身が一番びっくりしている。
しかし、俺の必死の懇願も虚しく、レディはただ淡々と俺の手を解き、シワのついた肩を払う。そして、再びその目をこちらへと向けてきた。
「見苦しいわね。いくらシニガミって言っても、そんな自然の摂理に反することはできないの。アナタの懺悔なら、事が済んだ後に閻魔様が親身になって聞いてくれるわ。今ここでアナタがすることは、アナタがどうやって死んだか。どうして私の世話にならなきゃいけないのか、その真相をいち早く知ることよ」
そう言うと、レディはパチンと指を鳴らした。まるで、この白く淡く儚い空間の中に潜む何者かに呼びかけるよに。すると、それに応じるようにもうひとつの人影が雲の中から現れた。今度は長身で、細身の男性…、というよりは少年に近い感じの男が出てきた。
その男はなにやら仮面のようなもので顔を覆っている、非常に奇妙な風貌をしていた。
「お仕事ですか?」
少し高めの声で、仮面の少年はレディへ問いかけた。
「そ。青柳徹よ。資料はこの前わたしたから大丈夫ね?」
「ええ。もちろんです」
「それじゃ、私は次のお客のところにいくから」
「お、おい待ってくれよ! アンタがどうにかしてくれるんじゃないのか?」
「私はあくまで仲介人。あとはこのシニガミに任せるわ。それじゃ、またどこかで」
言うだけ言うと、レディはそそくさと雲の中へと消えていった。
初めて対面する仮面をつけた長身の男と二人きりにさせられるとは、これほど気まずいこともないだろう。
「始めまして、青柳サマ。私『
胡散臭いその少年は、何も喋らない俺に対して愛想笑いを交えて話しかけてきた。どうもこの男は気味が悪い。
「死神…、か。もうどうでもいい。サッサと俺をあの世へ連れて行ってくれ」
「そうはいきません。アナタには自らの死の経緯を知る義務がございます。こればかりは省略する訳にはいかないので」
「ああそうかよ!! 俺は真っ当に死を遂げられなかった挙句、あの世にも真っ直ぐいけねえのか。だったらいい。サッサと俺の死の訳ってやつを説明してくれ」
「はい早急に。しかしその前にひとつ、アナタに言っておかなければならないことがあります」
「……、なんだよ」
「結論から言いますと、アナタは第三者の手によってその生涯を終えました」
「…、第三者、だと? 待てよ。ってことは、俺は誰かに殺されたってことか?」
「その通りでございます。そして、この真相は、アナタにとってかなり応えるものになるかもしれません。それでも、構いませんか?」
「かなり応える真相……? なんだ、そりゃ。俺の身近なやつによる犯行ってことか?」
俺に恨みがあるやつ……、なんて考えたらキリがない。何人たりとも蹴落としてこの地位までのし上がったんだ。そもそも、そんな奴らに殺されても応えるどころか怒りを覚えるだけだ。コイツの口ぶりからして俺と親しい人間……、となると、まさか………。
「此処から先は、アナタ自身の目で確かめていただく他ありません」
「……、分かった。頼む」
「承知致しました。それでは、ご案内致します」
シニガミは、両手を叩く。
すると、この白く淡く儚い空間がみるみるその姿を変質させ、とある光景を映し出し始めた。
俺とシニガミの奇妙な旅路が、始まろうとしていた。
3
俺の名前は
俺は高校を卒業してから就職し、それから六年間、変わらず退屈な毎日を送っている。企画書を提出すれば上司に怒鳴られ、そのくせ残業してまで仕事を仕上げたと思えば次から次へと別の仕事を回される。俺は、上司にいいように使われているだけだ。こんなことを繰り返していて、俺になんの得があるのだろうか。
しかし、こんな日常でも、昔と比べたらかなりマシになったほうだ。
俺は幼い頃に父を亡くし、父の残した二階建ての一軒家で母と二人だけで暮らしてきたが、母は父が亡くなる前から様々な男と不倫をしていて、それは今でも続いている。小中高と進学はしたが、それも祖父母から金をもらって学費を払っていただけだし、俺は幼い頃から母と家で食事を取ることが滅多になく、ただ寂しく一人でコンビニの弁当を食べていた。
前に一度、母が家に連れ込んできた男に何度か暴力を振るわれたことがあるが、母はそれを止めることなく笑ってその様子を眺めていたのだ。正直、あんな女が母親だと思いたくないし、幼い頃から俺に対して何もしてくれなかった人間に感謝なんてできるはずもなかった。
しかしそんな母が去年、交通事故に遭い、下半身付随に陥ってしまった。今は家のベッドで安静にしているが、今まで遊び歩いていただけあって、それがかなりのストレスになったらしく、精神状態が不安定になってしまったのだ。
今はそんな母を、俺が面倒見ながら仕事と両立している。
「ほら母さん。夕飯だよ」
俺は、自ら作ったカレーを母親の元へと運んだ。本当は、こんなことしたくなかった。今まで何もしてくれなかった女のために、なぜ俺がこんな想いをしなければならないのか。
「今夜、俺は出かけるから。何かあったら携帯に電話してくれ」
「アンタ、出かけるの?」
「今朝言ったろ。小学校の同窓会だよ。なるべく早く帰るようにする」
母に背中を向けてスーツを着ていると、後ろからガシャン! と音を立てるのがわかった。俺が振り返ると、俺の持ってきたカレーが無残にもカーペットの上に散らばっていた。
「アンタはいいよねぇ!! 自由に動けるから、好きな時に外に出られてさ! そんなこと言って、私を捨てる気なんでしょう? それならそうと言ったらどうよ!!」
「はぁ…。落ち着いてくれよ。こんなことして、掃除しなきゃいけないじゃないか」
「あぁぁぁぁぁああぁぁああマジでムカつく!! アンタ、どうせ私を精神病院に送りつけるつもりなんでしょう? サッサと私の視界から消えて!! アンタなんて顔も見たくないわ!」
「いい加減にしてくれ!! あの事故からもう一年も経ってるじゃないか!! そろそろまともになってくれよ! こっちだって辛いんだよ!! いつもいつも、母親らしいこと何一つしてくれなかったアンタみたいな人に飯を作って排泄の世話までしてやってるんだ!!」
「きゃあぁぁああぁぁぁぁぁああ!! うるさぁぁぁああぁあぁあぁあぁああぁあぁぁぁあい!!!!!!」
「もう勝手にしろ!!」
俺は、片付けていた食器やタオルを放り捨て、部屋を後にした。
もう、本当にどうでもよかった。
人間とは、ここまで肉親に対して冷酷になれるんだなと感じた。
4
「
俺は、玄関で靴を履きながら後ろに立つ妻に声を放つ。妻は、職場の後輩だった女性だ。二〇歳という若さで俺と結婚を決意してくれた、心優しき女性だ。
「ええ。小学校の同窓会があるの」
「そうか。それじゃ、今日は家のことはいいから楽しんできなさい」
俺が靴を履き終えて、妻からカバンを受け取ると、それはそれは明るい笑みを浮かべてくれた。二〇も年の差があるということで、周りからは大層反対もされたが、五年経った今でも、結婚してよかったと心から思っている。
「ありがとう」
「それじゃ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい、アナタ」
優しい微笑みに見送られ、俺は今日も会社へと出かけて行った。
5
「赤坂くん、変わってないのね」
「
「今は青柳っていうの」
「あー、そういや結婚したって言ってたな。確か、大手ベンチャー企業で働いてるとかって。すげーじゃん。玉の輿ってやつか?」
「肩書きだけよ、そんなの」
「え……?」
「赤坂くんは、結婚はしてないの?」
「今そんな余裕ないからな。母親が去年の夏に交通事故で下半身付随になってから、体だけじゃなくて心までおかしくなっちまってな…」
「赤坂くんのお母さん? 見たことないな。確か、授業参観とかにも来てなかったよね」
「ああ。あの人昔から夜遊びばっかで日中は寝てたからな」
「そうなの」
「あぁぁああぁぁぁ!! ほんっとつらい。一刻も早くこの生活から逃げ出したい。なんで俺があんなやつの面倒みなきゃいけねえんだよ。小さい頃から俺のことなんて微塵も愛してくれずに男遊びばっかしてたような女だぞ」
「ふぅーん……、そんなに辛いならさ、私にいい考えがあるんだけど」
「いい、考え……?」
「そう。今の生活から解放される、とても良い考え」
そこで、時間が止まったかのように全てが静止する。それも無理はない。俺がシニガミに止めさせたからだ。
「おいおい、なんだよこれは!?」
「と、言いますと?」
「俺の死の経緯を説明するとか言っておいて、さっきから俺の妻のことばかりじゃないか。一体お前は俺になにを見せたいんだ? しかも誰だこの赤坂って男。こんな男、俺は知らんぞ」
「まあそう声を荒げないでください。これも、アナタの死の経緯を説明するうえで極めて重要なシーンを区切ってお見せしていますので」
「…、ということは、やっぱり俺を殺したのは妻なのか? クソッ!! あんなにも愛し合っていたのに…、どうしてッ!? 俺の何が不満だったんだ……、年収もそこらの連中よりはるかに高いし、妻が欲しいと言ったものはなんでも買い与えてやった。それなのに、なんでッ!!」
「果たして、そうでしょうか」
「…、なんだと?」
「人の心、というのは複雑怪奇な代物です。神の端くれである私でさえ、その真髄に触れることは容易ではございません。確かに、アナタと奥様の間に愛はあったのかもしれません。しかし、それを越える何かが、確実にそこにはあったのです」
「愛を越える何か、だと? もういい加減にしてくれ! 覚悟は出来てるんだ。こんな遠まわしな光景を延々と見せられるのはもうたくさんだ。サッサと俺が誰にどういった理由で殺されたのかを説明しろ!」
「言葉を紡ぐ際には、必ず私情が含まれてしまいます。本当の意味で真実をお伝えするのが我々の役目です。論より証拠とはよく言ったもので、人間、耳で聞いた情報よりも目で見た情報の方が、数倍も信ぴょう性に溢れているのだとか」
「それなら早く見せろ。もう、俺の最愛の妻が他の男と話しているところなんて見たくない」
「いいでしょう。本題に入るための情報は、整いました。それでは、ご案内致します」
シニガミがそう言うと、周りの景色は一変し、再び新たな景色が組み上げられていった。
6
夜も二二時前になった。閑静な住宅街を歩く青柳徹は、自らの腕時計から目を離し何気なく空を見上げる。
まるで都会とは思えないほど星が広がっており、そのせいか多少の肌寒さを感じた。
今日は妻の青柳加奈子が、数日前に行われた同窓会で久々に会った友達と数日間旅行に出かけるため家を空けるとのことだったので、早めに仕事を切り上げて帰路に着いたところだ。
自宅の玄関が見えてくると、徹はポケットの中に手をいれ、自宅の鍵を取り出す。
晩ご飯を作るための材料が冷蔵庫に残っていたかを心配しながら、その鍵を扉に近づけようとしたその時。
近くの電信柱で息を潜めていた赤坂幸太が飛び出し、徹の頭を思い切り大きな石で殴りつけたのだ。
あまりの衝撃に卒倒する徹。まだ息があると感じた赤坂は、二、三度とその頭に石を叩きつけた。確実に息の根を止めるために。
そして、手袋をはめた両手で持つ、血にまみれた石をそこらへ乱雑に放ると、鞄を漁って財布を抜き取って、足早にその場から立ち去っていく。
7
青柳徹の死後数日が経ったある日の夜。赤坂幸太は、夜勤のため家をあけて会社に出ていた。そのため、家には母の
そんな、静かな赤坂家の庭から、一階のリビングに侵入する人影がひとつ。
それは、数日前に夫を亡くした黒沼加奈子だった。
加奈子は、台所から一本の包丁を抜き取ると、そのまま二階へと上がっていく。ひとつの扉の前で静止し、そっとその扉を開けた。
その部屋には、ひどく悪臭が漂っていた。思わず顔を引きつらせる加奈子。おそらく、ベッドに横たわる赤坂綾乃が、糞尿を垂れ流しているのだろう。最近では息子である幸太も完全に愛想を尽かしたせいで、ろくにトイレの世話もしてもらえていないのだろうか。
「幸太!? アンタなの!? 早くご飯を頂戴! おなかペコペコなの!! 早く!!」
電気もついていない暗い部屋から、そんな声が聞こえる。しかし、それに答えることはなく、加奈子は電気のスイッチを入れた。
「だ、誰? 誰よアンタ!! 人の家に勝手に上がり込んで!! 助けて!! 泥ぼッ」
助けを呼ぼうとした綾乃から、血の気が引いていく。
それもそのはずだ。
綾乃のか細い喉元に、刃渡り一〇センチメートルほどの包丁が深々と突き刺さっているのだから。
「か、ぁ……ッ!!」
目を見開いて加奈子を睨みつける綾乃。しかし、加奈子はあくまで冷酷に、綾乃へ微笑み返した。
黒沼加奈子は、赤坂綾乃の死を確認すると、その部屋と一階の部屋を一通り荒らし、金目のものを粗方獲って静かに一階のリビングから逃げていった。
8
後の警察の調書によると、青柳徹が殺された事件の当夜、加奈子は友達と旅行に行っていたためアリバイがあり、さらに凶器が大きな石であったため、非力な彼女に犯行は不可能とし、さらに目撃者もいなかったことで今回の事件は通り魔による犯行であるとされた。
赤坂綾乃の事件も、一緒に住んでいる息子の幸太はその夜会社にいたためアリバイがあり、こちらも空き巣による犯行であると判断されてしまった。
今回の冷酷な交換殺人により、黒沼加奈子は莫大な保険金を受け取り、赤坂幸太はその母親から解放されることとなった。
「なん、だよ……、これ」
俺は、思わず声を漏らす。
ここは、元いた真っ白な空間。しかし、俺はしばらくその場に立ち尽くし、ついには膝から崩れ落ちてしまった。
当たり前だ!! 最愛の妻が、十数年ぶりに再会した見ず知らずの男と結託して俺を殺害し、たかだか数千万の保険金を受け取った、なんて話を聴いて不条理だと思わない方がどうかしてる。しかも、その妻も一人の人間を殺めていたなんて……。
もう、俺はなにを信じればいいのかわからない。まあ、でももうどうでもいいことだ。俺は死んでしまったのだから。死人に口なしとはよくいったものだ。この鬱憤をいくらこの何もない空間で叫んだところで、元妻の元に届くわけではない。
シニガミは、最後に『こんなにも素晴らしい一生を有難うございました』とか言っていたが、今となっては嫌味にしか聞こえない。こんなちっぽけな、どうしようもない人生のために、俺は今まであらゆるものを放り出してきたのか?
こんな、滑稽な終焉を迎えるために、俺は妻に尽くしてきたっていうのか!?
クソ…、クソ、クソ、クソォォォォォ!!!!
俺は、妙に硬い地面に拳を叩きつけていた。自分の顔から滴る、あらゆる液体の上から、何度も、何度も。
この世界は、まるで俺をなだめるようにただ儚い白を写していた。
9
これにて、私のお仕事は終了でございます。確かに悲惨な末路ではございましたが、彼らが一つの人生という作品を完成させた偉大なる芸術家であることには変わりありません。この青柳徹と赤坂綾乃の人生は、高値で取引されることでしょう。
はい? 青柳サマですか? そうですね。真相を知った時はさぞショックを受けたご様子で、しばらくは三途の川のほとりで自我を喪失しておられましたが、実はですね………、おっと。そろそろ行かなくてはなりません。それではまたどこかで。
10
「ほら、仕事よ。資料はこの前渡しておいたわよね?」
「は、はいっ。まだまだ全然慣れませんけど、一応一通り頭に叩き込みました」
「それなら良し。ほら、まずは挨拶から」
「初めまして。私『経緯案内人』をしております、シニガミと申します。これから、アナタが死に至ったその経緯をご説明いたしますが、最初に確認しておきたいことがあります。この真相は、アナタにとってかなり応えるものになるかもしれません。それでも、構いませんか? え? 何を言っているのか、ですか? 今まで小説家になろうというサイトで小説を読んでいたはずだ? あ、ああ。そうですね。これは受け入れがたいことかもしれませんが、アナタの死は事実なのです。まあそれも追々慣れていきますよ。人間の死の受容プロセスの第一段階は『否認』から入るようですから、この状況を否定したいのも無理はありません。私もその一人でしたから。それでは、気を取り直して―――」
「―――ご案内致します」
完
経緯案内人 荒咲琉星 @Arasaki_Ryusei
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