バイトの掟その2:ゴキブリと友だちになれ

 タイトルでおわかりのように、今回はラーメン屋にいるゴキブリの話です。


 さいきんはブログのタイトルなんかに「〇〇注意」とか書くのがすっかり定着してきたわけでありますが。

 しかし筆者は、ああいうタイプの配慮はキリがないと思うので、ハードなエロとグロ以外はあんまり注意書きはやらないことにしています。

 だから「虫注意」とかは書かない。

 タイトルで分かるようにしておけばそれで充分だと思っています。


 そんなわけで、今回はゴキブリの話です。


 ***


 飲食店に虫がいるのはしかたのないこと。

 よっぽど管理が行き届いたところ以外は、ゴキブリぐらいはいる。

 しかしラーメン屋「獄卒軒」のゴキブリはひと味違った。

 簡単に言うと、多かった。

 数が多かった。


 バイトを始めて三日目ぐらいのころ。

 おれは洗った食器を食洗機(食器洗浄機のこと)にぶち込んでいた。

 作業しながら、ふと前のカベのスキマを見る。

 スキマが、動いた。


 「えっ……?」


 獄卒軒の洗い場の前には、胸ぐらいまでの高さのカウンターのようなものがあって、上には焼酎のビンなどが並べられていた。

 カベのスキマというのは、そのカウンターと、洗い場のシンクの段差のようなところである。お客さんからだと絶対見えない位置にある、カマボコ板の半分ぐらいの幅の浅いスキマを想像していただきたい。

 そのスキマは茶色いカベだったので、すすけた木が見えているのだと思っていた。

 その木だと思ったものが、動いたのである。


 目を近づけてよく見てみると。


 それはいちめんのゴキブリであった。

 ギッチギチに身を寄せ合う、細いゴキブリの群れであった。


 「げえっ! 多い!」


 おれは虫が平気な人間である。

 刺す虫とかでないかぎり、とくに見てもイヤだとかは思わない。

 そんなおれでもちょっと引いた。

 なぜなら、多かったのだ。


 「100は超えてるな……」


 そう思った。

 それは、大きさで言うとだいたい小指の爪ぐらいのサイズだった。

 つまりアダルトなゴキブリでなく、まだ小さいやつであった。それがマスゲームみたいに身を寄せ合っているので、茶色く均一に見えたのである。


 「いくらなんでも、店なんだから駆除しろよ……」


 そう思ってふと上に目をやる。

 並べられた焼酎のビンに隠されるように、ゴキブリのホイホイが置かれていた。


 「あっ、ホイホイがあるじゃん。効果は?」

 

 おれはふと、ホイホイの中をのぞきこんで見た。


 そこには……

 

 「げっ……攻略されてる」


 ホイホイは、攻略されていた。

 攻略……すなわち。

 踏破されていた。

 埋まっていた。

 埋まっていたのである。おわかりだろうか。


 ホイホイの粘着シートは、黒い兄弟たちの死体で埋まっていた。

 捕まって死んだゴキブリを踏み台に、さらに奥に行ってまた粘着シートに捕まったゴキブリを踏み台に……とくり返したことは想像に難くない。

 そして中央のエサ袋にかじられたあとがあった。

 

 「攻略されたホイホイ、初めて見た」


 そう、獄卒軒にはものすごくいっぱい黒い兄弟たちがいたのである。

 


 ***



 おれはゴキブリのことは言わず、作業に戻った。

 よけいなことは言わないようにしよう。

 そう思った。


 うっかり妙なことを言って店主の地雷を踏んでしまうと、

 店主が激怒して奇声を発する可能性があったからである。


 実際にハートマン店主は、おれが仕事上わからない事を聞いただけで、


 「んのおおおおおおおおおおおお!」


 などと奇声をあげてこちらを威嚇するので、なるべく触らない方がよかった。

 機嫌がいいときだとふつうに教えてくれるが、機嫌が悪いときだとそんな感じであった。

 しかも、店主はいちばん立場の弱い新入りのおれにだけそうして、先輩バイトのTさんとかにはふつうに接するので、明らかに人を選んで嫌がらせしているのであった。


 人としてどうかと思うし、名古屋の封建的な常識から言っても微妙であったが、自営業の経営者にはときどきそういう人はいる。

 儲かっている自営業の経営者というのは王様なので、多少の異常行動は誰からも何も言われないのである。


 そんなわけで、

 おれは何も言わないことにした。


 いわば、おれはゴキブリの味方についたのであった。

 


 ***



 さて、ゴキブリの生態についてお話ししよう。

 ゴキブリは「集合フェロモン」というにおい物質を出す。

 これは「みんなあつまれー」という指示をほかのゴキブリに出すにおい物質で、これによってほかのゴキブリを引きよせる。

 この物質はおもにふんに含まれているようだ。

 

 さて、これがくせものである。

 ゴキブリは巣を作る生態はない。

 だが、巣に近いものを結果的にこの集合フェロモンで作ってしまうのだ。

 具体的には、ゴキブリが気に入った場所でふんをして、そこに引きよせられた別のゴキブリもふん、においはさらに強まり……という過程をくり返すことで、ナワバリみたいなものができる。

 ナワバリというか、安全地帯みたいなものだと思う。安全にふんができるエリア=安全みたいな。とにかくゴキブリはそこを集会所にする。


 よく「一匹見たら十匹いると思え」という。

 あなたがもし定期的に黒い兄弟たちと会うなら、それは家の中に上記の「集会所」ができていることを意味する。

 集会所を発見し、破壊し、たまったふんを取りのぞくと長期的には出現率すごく下がるからオススメだ。というかそうでもしないと駆除は無理。

 だが、巣を破壊するとよくない場合もある。

 それを今から説明する。

 


 ***



 おれのいたラーメン屋にも、それはあるはずだった。

 つまり、ゴキブリの集会所。

 おれは業務中、心を健全に保つためのちょっとした遊びとして、ゴキブリの巣をさがすことにした。


 ここでゴキブリのもうひとつの生態が関係してくる。

 ゴキブリは熱帯産の生物である。

 暖かいところが好きだ。

 温度が高いところで活性化する。とくに冬場はそうだ。


 ゴキブリが集会所を作る可能性の高い要チェックポイント。

 たとえば冷蔵庫のウラである。

 冷蔵庫の裏側は、熱を放出するために暖かい。だから、冷蔵庫の位置がたまたまゴキブリの移動ルート上にあったりすると、わりと彼らにとっては暖房設備つきのステキなエリアとなる。

 あとは、天井裏があれば天井裏は可能性が高い。熱がこもって全体がなんとなく暖かいケースがある。

 あとは、ガスコンロの下のスキマにたまっていて、ひさびさに魚焼き器を使ったら熱でゴキブリが大量脱出して反乱みたいになったというファンタジックなケースもある。

 

 話が逸れた。

 

 とにかく冷蔵庫のウラは怪しかった。

 だが、獄卒軒の冷蔵庫は業務用のやつである。だいたい普通の冷蔵庫の五倍ぐらいのサイズ。もうひとつ冷凍庫がべつにあり、こちらはコンビニのアイス売り場ぐらい。どちらもちょっと裏側を見られるような代物ではない。

 どちらも裏側はかなり汚そうで、いる確率は高いと思われたが、確証はなかった。



 ***



 そんなある日、おれは意外なところに「それ」を発見した。

 意外というか、よく考えると自然だったが、あまり考えたくない場所だった。

 衛生観念上わりとまずい場所ということだ。


 食器洗浄機の下である。


 その業務用食器洗浄機は、水を熱くして熱湯で消毒するようなしくみになっていた。百度まで行くかはともかく、じゅうぶん火傷するぐらいの熱になる。

 だからして、自然、あたりに熱が発散される。

 しかも、獄卒軒は夜のかなり遅い時間まで営業し、クローズ時にも食器洗浄機を使う。だから、夜のいちばん寒い時間帯に強力な暖房が入るのに近い。

 しかも洗い場の近くだから、エサは豊富、水も豊富である。

 黒い兄弟たちにとってはもうリゾートだろう。


 兄弟たちの住みかは、食器洗浄機のおさまっている空間の奥にあった。たぶんほかにも住みかはあるのだろうが、実際に目にしたのはそこだけだ。

 せまいすき間をのぞきこんでみると、黒いものがべっとりとこびりついていて、兄弟たちがぽつぽつといるのがみえた。見通しはよくないので、何匹いるかはわからなかった。

 「…………」

 食器を消毒するための重要な設備のうらっかわがゴキブリのサンクチュアリ、まずいのでは? そんな風に思った。

 だがもちろん、接触するわけじゃないから気分的なものともいえる。

 少し考えて、おれは結論をだした。


 「……………………黙っとこ」

 おれは報告しないことにした。

 べつにゴキブリに協力したかったのではない。

 報告したら、店主がぶちぎれることは間違いなかったからである。

 ゴキブリの巣を発見したと報告したら、店主は、まるでおれがゴキブリを呼びよせたかのように怒るのに決まっている。

 そのうえ、たぶん「お前が見つけたんだから掃除しろ」とかいう超ロジックでおれに掃除させるに決まっている。掃除用具はぞうきんだ。

 重たい業務用食器洗浄機をどかし、かたまったゴキブリのふんをぞうきんでもみほぐすようにふき取る自分を想像し「そこまでのカネはもらってない」とおれは思った。


 それに、掃除しない方がいいと思う理由もある。

 もしゴキブリの巣を破壊したら、行き場を失ったゴキブリが客席のほうに侵入する可能性があったからだ。

 観察していてわかったのだが、獄卒軒のキッチンには当たり前のようにゴキブリがいるのに、客席のほうにはいない。ゴキブリ関係のクレームもなかった。

 理由はわからないが、キッチンのいくつかのエリアにゴキブリの集合フェロモン発生源が集中しているため、彼らがそこに安住してキッチンに出て行かないのではというのがおれの仮説だった。

 だとすると、このゴキブリのふんが固まってできた地層のようなものは、結界なのだ。

 ゴキブリを客席に行かせないための結界なのだ。

 そう思うと、これを破壊するのは愚かなのかもしれないのだった。


 ゴキブリが出たら、客に怒られるのはおれだ。

 わざわざ安定している場を壊す必要はない。

 掃除してもだれも幸せにならない。

 それがおれの判断だった。



 ***



 このようにして、獄卒軒は黒い兄弟たちとともにあった。

 おれもその関係性をなるべく維持した。

 じっさい、おれが獄卒軒にいた一年以上の期間で、ゴキブリが客席に出たことは知るかぎり一度もなかった。

 ここには無言の協定のようななにかがあったのだ。


 これをお読みのみなさん。


 もし職場で「ゴキブリの巣」を発見しても、壊すべきかは考えた方がいい。

 行き場を失ったゴキブリが流浪してしまう可能性はじゅうぶんある。

 その場合、遭遇率はむしろ上がる。


 まあ、おれは自宅にあったら掃除しますけど。

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ラーメンに殺されないために ~ブラックラーメン屋バイトの掟~ まくるめ(枕目) @macrame

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