バイトの掟その1:手は洗うな
どんな職場にもワナがある。
職場にひそむいろいろな危険、
それは気難しい上司のぶち切れポイントであったり、危険な加工機械であったり、下半身のクセが悪い異性の同僚であったり、残業に関する謎の社内ルールであったりする。
とにかく職場というのはワナだらけ、トラップだらけなものだ。
そのような意味で、ラーメン屋『獄卒軒』ほど多数のトラップがあるところはなかった。
バイト初日は、いきなりハートマン店主の怒号から始まった。
「貴様! 何をやっているんだッ!」
まだ開店していない店内に怒鳴り声がひびく。
仕事をはじめたばかりでいきなり怒鳴られてびびるおれ。
「えっ、手を洗ったんですけど」
「そのあとどうした?」
「そこのタオルで拭きました」
おれは厨房の、流しの後ろにあったタオルを指さした。
ふつう、流しの後ろにタオルがクギで留めてあったら、
手を拭くためにあると思うじゃないですか。
だって、タオルって拭くためのものでしょう。
そう思いますよね。
それがトラップだったのだ。
おれがタオルで手を拭いたので、店主大激怒。
「それで手を拭くな!」
「えっ」
「タオルが濡れるだろう!」
店主はそう言って激高するのだった。
そう、『獄卒軒』のルールでは、そのタオルは水で濡れているとダメなのだ。
なぜなら、そのタオルは、チャーシューを手づかみしたときに手についた油をぬぐうためのものだからである。
***
もちろん、なんの説明もなかった。
べつにタオルがちょっと湿っていたって問題なく油ぐらいぬぐえるのだが、
ハートマン店主はそういうのが気に入らない(たんに手触りがイヤ)なので怒鳴ったのであった。
怒鳴られて俺はようやく
『ルール:流しにいちばん近いタオルで手を拭いてはいけない』
を認識した。
ちなみに「水に濡れた手を拭いていいタオル」はそこから2メートルほど離れたところにあった。
トラップである。
何も知らなければ絶対引っかかる系のトラップ。
ゲーム用語で言うところのいわゆる初見殺しである。
ハートマン店主は、このようにして、
店内に無数の「俺ルール」をはりめぐらしていた。
異様なまでに「俺のやり方」にこだわるタイプの人なのだった。
そして「俺ルール」に触ると激怒する。
そういうタイプの人だった。
しかし、ルールの説明はいっさいしない。
だから「俺ルール」を理解する方法は基本ひとつしか無い。
「空気を読む」
である。
当時のおれは世間知らずだったので、
「こ、これが社会の厳しさなのか?」とか思った。
だが、いまならはっきりわかる。
た だ の コ ミ ュ 障 で あ る 。
そう、ハートマン店主は人を使うのにあまり向いていないタイプなのだった。
その証拠に、入ったバイトの大半はすぐやめるかばっくれていて、
求人雑誌に広告を打ち続けていた。
***
飲食店であるからには、とうぜん手は洗わなければいけない。
そう思いませんか?
食品に関わる以上、従業員はなるべくこまめに手洗いなどすべきである。
そう思っていませんか?
おれも思っていた。
だが、獄卒軒はちがった。
暗黙のルールとして、手は洗ってはいけないのだった。
獄卒軒において、手洗いは「悪」であった。
なるべく手は洗うべきではなかった。
なぜなら店主の「俺ルール」でそう決まっていたからだ
「タオルがこんなに濡れている。何回手を洗っているんだ!」
店主はタオルの濡れ具合をたしかめ、おれをなじる。
そりゃあ、手を洗ってタオルで拭くのを数回くり返せばタオルは濡れてくる。
だが、店主はそれが気に入らなかった。
「そんなに手ばっか洗うな!」
「えええ……」
「なぜそんなに手を洗う必要がある!」
「だってぞうきんが」
客が帰ったあと、当然テーブルは雑巾で拭く。
床に何かこぼれたら、それも拭く。
その雑巾は、厨房に置かれたバケツで洗う。
当然、バケツの中の水(ぞうきんウォーター)はどんどん汚くなる。
水を替えればいい?
おれもそう思った。
だが、バケツの水を勝手に変えると、店主が激怒するのだった。
「ルール:バケツのぞうきん水は捨ててはいけない」
「ルール:ぞうきん水の量はバケツに半分まで」
これが店主のぞうきん洗いに関する「俺ルール」だった。
理由は訊けなかったが、たぶん「水がもったいないから」だ。
小学校のころにぞうきん掛けをした方はご存じだろうが、
最終的に、ぞうきんを洗い続けて汚れまくったぞうきんウォーターは、
黒曜石のように黒光りしてくる。
ぞうきんを洗えば、とうぜんそのエキスが手につく。
だが手を洗えば、店主がキレる。
なら、どうすればいいのか?
***
「話は聞かせてもらった」
「Tさん」
先輩バイトのTさんがおれに声をかけた。
Tさんは、もう何年も獄卒軒で働いているベテランだ。
飲食店や販売系によくいる「仕事ができる系のフリーター」みたいなタイプである。たまにいるでしょ。もう正社員じゃん、みたいな人。
Tさんは女性で、しかもかなり美人であった。
モデル系の顔だちで、だいたいどんな服でも着こなせるタイプというか、そういう系だった。
なぜ、わざわざこんなクソ汚いラーメン屋で働いていたのかわからなかった。
「あれ見てみ」
Tさんはハートマン店主を示す。
それは、ハートマン店主が珍しくぞうきんをかけたところだった。
普段はバイトか奥さんにやらせて絶対にぞうきんは触らないのだが、
そのときはたまたまぞうきんを洗っていた。
そして店主は作業を終え、
ぞうきん汁まみれになった手でラーメンを作りにかかった。
そして、チャーシューを手でわしづかみにしてラーメンに乗せ始めた……!
「げ、げえっ……手を洗っていない!」
「あれでいいの」
「で、でも、床拭いた雑巾で……」
「いいの」
「雑巾の汁がついて」
「いいんだってば」
「チャーシュー手づかみじゃ」
「いいの」
このようにして、Tさんはおれに教えてくれたのだ。
「ルール:手を洗うな」
が存在することを
ハートマン店主がタオルが濡れたのをいちいちなじったのは、
「手を洗うな」というメッセージだったのである。
怒鳴らなかったのは、たぶん、さすがに明言はしづらいルールだったからだろう。
「あんたも、手、洗わなくていいから」
Tさんはそう断言した。
「手に灯油がついたとき以外は洗わなくても何も言わない」
彼女はそう言った。
「でも……」
「やれ」
「で、でも……」
「やれ」
初めはおれもためらった。
人としてどうかと思ったからだ。
だがけっきょく、おれも言われたとおりにした。
ぞうきん汁のついた手で、チャーシューを手づかみし、ラーメンの上にのせた。
そしてそれを黙って客に供し続けた。
最初は心が痛んだが、すぐに平気になった。
数回やったら、なんの苦しみもなく雑巾チャーシューを出せるようになった。
人はなんにでも慣れてゆくことができる。
そして食中毒は起きなかった。
危険な菌による食中毒は、おおむね細菌の繁殖したものを食べておこる。
つまり、細菌が繁殖してなければ大丈夫。
チャーシューに雑巾汁がついたとしても、菌が繁殖するまえにそれを客が食べれば、別に食中毒にはならない。胃酸で菌は死ぬ。
「本当にこれでいいのかなあ」
「いいでしょ別に、男のくせにガタガタ言わない!」
「うへえ」
「今日の仕事は終わり!」
そういって、先輩バイト氏は、
まかないで自分が食べるラーメンを作りはじめた。
彼女はもちろん、きっちり手を洗っていた。
***
余談だが、獄卒軒にはちゃんと
「衛生状態のチェックを受けましたよ by保健所」
という内容の認定書が張られていた。
しばしば飲食店の壁に掲示されているあれである。
あの保健所が発行してるヤツ。
おれはあの紙をいっさい信用しない。
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