名刺
群青更紗
2016.01.31
その日、下畑が出社すると、デスクに小さな紙束が置かれていた。前日付で退職した部下の名刺だった。数にして三百枚はありそうだ。
「何だよ、俺に押し付けたのかよ」
下畑は苛立った。本条渚。名刺の上に、忌々しい部下の顔が浮かぶ。
本条は下畑が採用した。転職フェアで募集を見て応募してきた彼を、たまたま面接したのが下畑だった。威勢が良くて目的意識がはっきりしていて、一発で気に入った。彼を採用するには幾つか難所が有ったが、どうしても自分の課に入れたい人材だと思って押し切った。事実、入社してしばらくは、優秀な成績を挙げ、下畑も鼻が高かったものだ。
だがその一方で、本条は何かと下畑に突っ掛かってきた。やれ言い方が気に入らないだの、以前と話が違うだの、入社前と態度が違うだの。そのたび下畑は本条を諌めたが、周囲からは怒鳴り合いにしか見えず、いつしか下畑課の名物だと思われるようになった。
そんな本条が、ストレスによる体調不良だとかで休職し、そのまま退社の運びとなった。どうでもいい、と下畑は思っていた。
「採用は失敗だった。あんな使えない奴になるとは思わなかった」
事務から本条の退職決定が告げられたとき、下畑は吐き捨てた。最後に本条に会ったのも、もういつか思い出せない。
「五代ちゃん、これシュレッダーしといてよ」
言われた部下は露骨にイヤな顔をしたが、溜息混じりに「分かりました」と名刺束を持った。すかさず「何だその態度は」と椅子を蹴る。まったく、どいつもこいつも。
「もっと使える部下が欲しいなあ」
名刺束がシュレッダーに吸い込まれていく音を聞きながら、下畑はパソコンを起動した。
その夜、下里は寝苦しくて目を覚ました。辺りはまだ暗い。何時だよ、とスマートフォンを付ける。二時だ。バカバカしい。そう思って布団に入り直したが、何かがおかしい。視界に妙な違和感がある。しばらく天井を見つめていると、その正体に気付いた。
「うわっ!」
天井だと思っていたそれは、全て名刺だった。ビッシリと、本条の名刺で覆われている。下畑は思わず飛び上がり、名刺を掻き散らした。名刺がバラバラと崩れていく。と、それらは闇に消えた。下畑は暫く肩で息をして、怒りを覚えて本条に電話した。
「こちらの電話番号は、お繋ぎ出来ません」
アナウンスに唖然となる後ろから、「こんな深夜に電話なんて相変わらず非常識ですね」と本条の声がした。ギョッとして振り向くが誰もいない。幻聴か。下畑は一旦落ち着こうと風呂場へ向かった。嫌な汗をかいていた。シャワーでも浴びようと脱衣所で鏡をふと見ると、背後に本条がいた。ギャっと叫んで振り向くが誰もいない。下畑は逃げるように風呂へ入り、滝修行のようにシャワーを浴び始めた。
(何だ、俺が一体何をしたっていうんだ)
「パワハラですよ」
また本条の声がした。ハッと目を開けると、下畑は足元に違和感を覚えた。名刺だ。大量の名刺が、下畑を足元から埋めるようにどんどん溢れてくる。気付けばそれはシャワーから出ていた。下畑は叫び、もがいた。何とか浴室から出ようとしたが、なぜか扉が開かない。
「あなたが今まで潰してきた部下たちですよ」
本条の声。見れば名刺は、本条以外にも、過去に下畑が採用してきた部下たちの名前が見えた。皆、退職していった者たちだ。何が悪い、俺に付いて来られなかったお前らが悪いんだろう、と下畑は叫んだ。
「あなたは上司の器では無かった。あなたに汚された我々の名を、せめてあなたにお返しします」
視界が埋まっていく。息も詰まっていく。下畑は遠のく意識の中で、「それではごきげんよう」という本条の声を聞いた。
「あれ、本条」
五代は向かいから歩いてきた人物に驚いた。かつての後輩は、呼ばれて一瞬顔を曇らせたが、すぐパッと笑った。
「五代さん、お久しぶりです」
「何だよ、元気にしてたのか」
ちょうど昼時だったので、そのまま二人で飯屋に入った。五代は職場について訊かれたので、下畑が突如退職して今は別の上司の課に配属になったことを話した。
「お前が辞めたすぐ後だったな。みんな不思議がってたけど、それきり音信不通になっちゃって」
本条はたいして驚く様子もなく頷いていた。
「ところで、お前今何やってんの?」
すると本条は、ニッコリ笑って答えた。
「名刺屋、です」
名刺 群青更紗 @gunjyo_sarasa
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