第4話
車のエンジン音はまもなく止み、誰が何をしに来たのだろう、と太朗が戸惑う暇もなく、扉は叩かれた。
コン、コン――
扉を叩いた人物は無言だった。それが太朗の不安を掻き立て(誰だ……)、そこから事態は何も進展していないのに心が圧迫されるようにどんどん追い詰められていく(誰だ…!)。
「だれ……誰だ!」
殆どがむしゃらに太朗はそう叫んでいた。さっきまで電話で人と会話をしていたとは思えない程、その叫びは野性的であり、冷静さを欠いており、また悲痛でもあった。
自分の背後には、自分が殺害した人間がいる――。
扉の前に無言で佇む誰かと、すぐ後ろで事切れている涼香とが、まるで早瀬太朗という存在を両方向から圧迫して押し潰してしまうような錯覚に捕われる。
扉を叩く何者かは、やがて鍵が掛かっていないことを気取り、中へ侵入し、――そして部屋に転がっている屍に気付くだろう。ほぼ完全に思考に異常をきたしてしまった太朗の
何やら異様で巨大な圧力のようなものをたたえた扉を見つめる内に、寒気を感じ始め、同時に熱狂的とも云えるある想い・・・・が太朗の心を満たしていった。
扉の向こうに・・・・・・いる人物こそ・・・・・・、涼香を包丁で・・・・・・刺した犯人では・・・・・・・ないだろうか・・・・・・。
そうだ、そうに違いない、と太朗は血走った眼で扉の向こうの見えない敵を睨みつけた。敵・は、涼香を刺し終え、帰ろうとした矢先に別荘に戻る自分のシビックを目撃し、死体発見を遅らせたい一心で涼香の刺殺体を確実に発見したであろう自分を殺しに来たのだ。そうだ、そうに違いない……。
最早太朗の頭の中は目茶苦茶だった。大体涼香を殺したのは太朗自身なのだ。それに凶器の包丁は涼香の身体に刺さったままだ。別荘を去ってすぐにここを訪れたのなら凶器を持っているわけがない。
コン、コン――
敵・からの二度目のノック。場を支配していた数秒間の静寂間を破壊し、太朗の心にもその二回のノック音は鋭く響いた。
太朗は何を思ったか、不敵ににやりと笑った。
「待っていろよ……」
そう云って太朗は、ごく自然な動作で涼香の身体から包丁を引き抜いた。臙脂色の乾いた血が全体にこびりついていた。
包丁を握りしめてひたりひたりと扉に向かって歩き出す。太朗の不安や恐怖は最高潮に達し、足は小刻みに震えている。そして――
カチャリ……
扉が開かれた。僅かな隙間からは早くも朝の健康的な日差しが差し込み、その日差しは太朗の身体に一筋の白い線を作った。
太朗は素早く扉を開け放ち、目の前に突っ立っていた黒いポロシャツ・・・・・・・を着た長身の男・・・・・・・に向かって包丁を突き立てた。ぐしゅり、という奇妙な音がした。男――梶本広志は、驚愕の表情を顔に形作りながら、真後ろに崩れ落ちた。
「は……早瀬、お前……」
太朗は広志を見下しながら、その台詞を聞いてやっとそれが誰だったかを理解した。
「梶本? お前、梶本広志か? まさか、お前が涼香を……」
涼香、と聞いて広志はびくり、と反応した。
「涼香? 涼香に何かあったのか? ……うっ」
上半身を起こしたのが悪かったのだろう、広志は激痛を感じて悶えた。その憐あわれな姿を見ている内に太朗の心の中では何故か、広志は犯人ではないのではないか、という想いがじわじわと浸透し始めていた。同時に、血走っていた眼は正常に戻り、段々と今自分が何をしてしまったかを客観的に捉えることが出来るようになっていった。
太朗は手短に涼香が何者かによって刺殺・・されたことを話した。ただし自分が昨夜撲殺してしまったことは全面的に伏せて、だ。
話しを聞き終えた広志は、険しい表情をして、痛みに喘ぎながらもこう云った。
「それは、――犯人はお前だろう、早瀬」
――時が止まる。全ての動きはその瞬間で固定され、全ての音は止み、その瞬間を境に今まで太朗がもがき苦しんできた世界は瓦解することになる。
「は……な、何を云っているのか、わからない」
太朗は、全身から力がしゅうしゅうと抜けていくのを感じた。地面にへたりこみ、広志の顔を見る。広志は痛みに耐えながらも、太朗をしっかりと見つめ返していた。
「太朗、……もしかして気付いていないのか?」
「な、何を」
自分の話のどこかに、自分が犯人だと示唆するような発言はあっただろうか。太朗が必死に思い出していると、広志は腕をゆっくりと上げて、太朗を――いや、太朗のシャツを・・・・・・・指差した・・・・。
「そのシャツに・・・・・・付いている血の染み・・・・・・・・・はなんだ・・・・。俺には、人を刺した時に浴びる返り血・・・にしか見えないが」
太朗は驚いて自分のシャツを見た。白いシャツに付いた、それは紛れも無い血痕だった。一体、こんなものいつから――? 涼香を殴り殺した後は、確かな記憶はないが、服が変わっていたので自分で着替えたのだろうと思った。では、血痕はいつ付いたのか――?
「……あっ」
太朗は朝からの記憶を辿って、ようやく答え・・に気付いた。――涼香を刺した時・・・・・・・? それしか考えられない。よく考えたら、台所にいる時にあの物音を聞いてから外に出る直前までの間、非常に記憶が曖昧であることに気付いた。ではまさか、涼香は太朗の外出中に刺されたのではなく、太朗の外出前、太朗自身の手によって殺されたのか――? そこまで考えて、太朗はある一つの要素・・・・・・・に思い当たった。――包丁だ・・・。太朗がいるかもしれない侵入者に怯え、台所から取り出した包丁。あれは、あの後結局どこへやった――?
「ああ……」
腑抜けたような表情で、投げやりに思った。あの後、あの包丁で自分は涼香を刺したのではないだろうか? そう考えても記憶は依然としてないままだが。
たろう――
ごめん……
ごめんね……
またしても涼香の台詞が太朗の頭の中を満たしていく。太朗はそれを振り払うようにゆるゆると首を力無く振ると、更に考えた。――動機は? 他の者には、死んだ人間に包丁を突き立てる理由なんてあるはずもないが、自分にはある・・・・・・。自分が一度殺害してしまった人間が、実はまだ生きているかもしれない、と思わざるをえない事態になっていたのだ。死んだふりをしているかもしれない涼香に怖くなり、自分の記憶のない間に念押し・・・の意味を持って刺したのではないだろうか。
そう考えると、外出中に出会った人間が盲目な塚井一人でよかった。彼は、目の前にいる人間が、まさか人を刺殺した直後で血まみれであるなんて、思いもよらなかっただろう。
「梶本、俺は――」
何と言葉を掛ければよいか、模索しながら顔をふっと上げた。
ぐしゅっ――
「え……?」
不意に、背中を理不尽な激痛が襲った。何かを埋め込まれたかのような、えぐられるような痛み。
「か……は……」
首だけを後ろに向けて、そこにいる誰かの姿を見ようとした。
そこには、一人の男が仁王立ちしていた。逆光になって、その姿は見えない。ただの暗い影にしか、太朗の目には映らない。さながら、死神のようでもあった。
「誰だ……?」
「俺か? この家にいたお姫様を刺し殺した犯人さ・・・・・・・・」
男は何でもないことのように、そう云った。
犯人――? 犯人は、自分ではないのか? 太朗は混乱した。自分が犯人ではないのか? 涼香の影に怯え、包丁をその身体に突き刺し、忌まわしい記憶を都合よく消し去ったのではないのか――?
「う、嘘だ……犯人は、俺だ」
「なぁ、俺さ、さっきからの会話をずっと聞いていたんだが――。お前、自分が既にあの女の子――『りょうか』って云ったっけか――を殺していたことを話していなかっただろう。だからこの男がそう推理するのもわかるんだが……」
男は少し躊躇うようなそぶりを見せた後、云った。
「既に死んでいて死後硬直が始まっていて、血流が完全に止まっている人間を刺して、返り血を浴びるはずがないだろう」
ごめん
ごめんね
ゆるし、て――
今度こそ、太朗は力無く地面に横たわった。そうだ、もうあんなに冷たくなってしまった涼香……彼女には、とうに人間の温かさは消えていたのだ。返り血なんて出るわけがなかったのだ。
ではこのシャツに付いた血は? これは多分、記憶のない、物音を聞いてからの間に、涼香が生きているかどうかを確かめるために身体に触れたり揺さぶったりした時に付いたのだろう――。そう考えた瞬間、今までどうにもぴったりと合わなかった記憶のかけらが、しっかりと嵌め込まれた。そうだ、自分は、涼香のことが不安でもあり恐怖でもあり……心配だったのだ。もしかしたらまだ生きているかもしれない、そうしたら土下座をしてでも、どんな手を使ってでも涼香に謝ろう、と。もし生きていたらまた殺す気全くなんてなかった、すぐにでも救急車を呼んで、命を守ろうとしたのだ。……でも、どんなに揺さぶっても、どんなに声を掛けても、もう涼香は戻ってこなかった。動かなかった。涼香の目は意思を持って自分を見ることはなく、涼香の口はどんなに酷い罵りでさえも発さなかった。もう、涼香は、死んでしまったのだ。そう気付くまでに、時間は要らなかった――。
「ぅわぁぁぁあぁぁああぁ!」
太朗の目からは涙が次々と流れ落ちていった。自分が、涼香を、殺してしまったのだ。今更ながらに太朗はその紛れも無い事実を再認識した。
「畜生!畜生!うぅぅうぅうぅぅぅ!」
そして今、自分の命もまもなく消えてしまうだろう。あと、梶本広志の命も。この非情な殺人鬼と、そう、太朗自身の手によって。
「それにしても、この家、あまりにも不衛生だぜ。扉を開けたらまず出会ったのはでかい蜘蛛だ。机の上を這っていて、鉛筆を落として音を立てるもんだから驚いたぜ」
蜘蛛……音……。
そうだ、自分が聞いた物音は蜘蛛が何かを落としたりでもした拍子に出た音なのかもしれない。薄れゆく意識の中で太朗は思った。
そういえば、広志の声が聞こえない。気配が、ない。――まさか、もう事切れてしまったのか。それを確認すべく、太朗は広志の方を見ようとした。が、その前に、太朗の意識は、終焉の闇に吸い込まれていた。…………。
ごめん
ごめんな ……かじもと
ごめん
でも、おれ……
また、じぶんでかくにん、できなかっ、……た
しぬほど、くやしいよ……
じぶんで、ころしておいて、……ふたりも……
ごめん、ごめん、ごめん――
と、不意に携帯電話の甲高い着信音が鳴り響いた。男がポケットから携帯電話を取り出して、応答する。
「はい、波多江です。あ、
通話を終える。もう太朗も広志もぴくりとも動かない。男――波多江は暫くすると、隅に隠しておいたジャンパーを羽織り、獣道を引き返していった。朝日がまだまだ眩しい。陽の光を受けて瑞々しさの耐えない岬の地面には、ただ二つの無惨な死体が転がっていた。
死体は二度殺される 田邊 圭吾 @tanabe_k
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