第3話
一台の古い型の黒のゴルフが、早朝の高速道路を凄まじい勢いで飛ばしていた。淡い靄がかった碧空、光線となって流れる灰色の景色、切り裂かれる空気、甲高く吠えるエンジン。ゴルフは本来のポテンシャルを無視して、ゆうに二百キロは越していた。
ゴルフの運転席には、車体と同じ黒のポロシャツを着た長身で痩せぎすの、髪の毛をざんばらにしている男の姿があった。
「……急がなきゃ」
ジーンズの尻ポケットからは、濃紺の携帯電話が覗いている。それががたがたと揺れる車に翻弄されるように、少しずつ、少しずつ男のポケットから顔を出してきている。そして、ゴルフが前方の大型トラックを抜くべく右車線に移った、その時――。
――ボンッ
遂に、男がハンドルを切るのと同時に、携帯は左のドアの下に吸い込まれるように落ちて、直にドアに当たって鈍い音を立てた。
「あっ……」
男はアクセルを緩め、長い手を伸ばして携帯電話を取った。そして、暫くそれを見つめる――。男には、今携帯電話が落ちたことが不吉でしょうがなかった(心を揺さぶられるような、この……)。まだ何も起きていないのに、不安になってしまう。
窓から白い業務用のライトバンが左後方に流されていくのが視界に映る。――理由のない、不安(……涼香は、一体……)。
やがて男は、何か見えない力に観念したように、また導かれるようにして、携帯電話を開いた。――ディスプレイには、彼女・・からのメッセージ。
ごめん、もう耐え切れない。やっぱりもう云っちゃうね、カジ〓〓
機種の違いで、変換化けしてしまった無機質な記号を見て、ため息をつく。無事、なのだろうか……。
男――梶本広志は、濃紺の携帯電話を勢いよく閉じ、ジーンズの尻ポケットに入れた。鹿爪らしい顔をしてちっ、と舌打ちをする。
本当なら、最初の一日だけは我慢して、翌日――つまり今日――に告白する筈だったのだ。そういうことになっていた。なのに――。
広志は太朗の、冷静な中に時折見せる短気な一面を知っているからこそ、怖かった。特に太朗の場合、色事が関わってくるとそれが顕著に現れてくる。突然の別れ話に太朗が黙っているとは考えにくい。ましてや夜遅くで人気のない場所だ、太朗が何か良からぬ行動にでない訳がないのだ。
(畜生、やっぱりもっと強く云っておけばよかった……)
ガコン、とシフトを一速分下げる。唸りを上げるエンジン。そのままインターに入った。目的地まで、あと少しだ。
◇◆◇◆◇◆
あの塚井という老人と会ってすぐに、太朗は敬二からの着信を受けていた。別荘に忘れ物があったらしく、正午までにミカエルに届けてほしいとのことだった。太朗は、生きているか死んでいるかもわからない涼香を別荘に残していくのに少し躊躇いながらも、迷ったあげく愛車のシビックに乗ってミカエルまで届けることにした。別荘まで戻ってきた時、太朗は岬に設置されている白いベンチに座ってうたた寝をしている塚井老人を見た。
獣道を抜け、じゃり道を抜け、舗装道路を走る。そして、すこし洋風被れした町並みへ――。
暫く潮風の吹く明るい海岸沿いを走り、目的地、ミカエルに着いた。
イタリアの国旗を模した洒落た看板。流れるような筆記体で、黄色のネオンで「Michael」と書いてある。硝子張りのドアの側には黒板が立て掛けられていて、丸っこい文字で「本日のお薦め」と書かれている。
シビックを路駐して、太朗が店に入ろうとした時、ポケットの携帯電話が鳴った。――敬二からだ。
『もしもし、太朗か。そろそろ着く頃だよな』
「今着きました」
『おぅ、そうか。じゃ、すまんけど、脇に入ると裏口があるからそこから入って、そこに机がある筈だからそこに置いといてくれんか』
「はい」
太朗は携帯電話を耳に当てたまま、首だけ動かす。脇道は、ミカエルと隣の建物との間にあった。
『折角来てもらったのに、顔も見せられんで悪いな。よかったら何か奢ろうか』
「いえ、結構です。……涼香もいるんで」
『そうか。じゃあよろしくな』
はい、と云って電話を切った。同時にふぅ、とため息をつく。
正直、下手に顔を合わせたりせずに済んでよかった、と太朗は思った。どこからボロが出るかわからない。
幸い一人の人間にも出くわすことなく忘れ物を届け終えると、太朗はシビックに飛び乗って別荘まで急いだ。海岸沿いを走り、町並みを駆け抜け、舗装道路から外れ、じゃり道を走った。
約二十分掛けて、太朗は普段では考えられない程の猛スピードで別荘へ到着した。じっとりと汗ばんだ手で鍵を掛け、車を降りる。と、太朗の視界の端に、白い杖を突いた塚井の姿が映った。太朗が戻ってくるまでの間、ずっとうたた寝をしていたのだろうか、塚井は丁度ベンチから立ち上がり、獣道を引き返していくところだった。何故か、どことなくいそいそとしているような歩き方だった。気のせいだろうか……。
ログハウス調の玄関扉を開ける。太朗は理由もなく微かに震える手で木製の取っ手を回して引いた。――清々しい朝の空気から、屍のいる陰湿な空気へ。別荘の中は、予想以上の異臭で満ち溢れていた。濃厚な(……しつこく身体に纏わり付く……)、下手をすれば自分もその臭いに溶け込んでしまいそうな、死の臭い(涼香の、屍……)。
頭の中に薄白い靄が掛かっているような浮遊感を覚えながら、扉を後ろ手に閉め、部屋の奥へと進む。
正面奥に見える、薄茶色のカーテン。そこから微かに漏れる外界からの光。レポート用紙の散らばった勉強机。その少し奥には硝子の小テーブル。どす黒い血痕の付着した銀の灰皿。純白のベッド。――涼香。
ふぅ、と息を吐く太朗。――と、太朗は今見た風景に、何か異常を感じた(――何かいびつな……?)。何だ?
カーテン、勉強机、硝子のテーブル、ベッド、涼香。――――涼香?
あ、と声を漏らした。同時に、太朗の身体は震え始め、止まらなくなってしまった。顔からは血の気が引いていく。そんな、まさか――!
ベッドに寄り掛かるようにして崩れ落ちた涼香。その顔は血で塗れていて、……胸には覚えのない包丁・・・・・・・が突き刺さっていた・・・・・・・・・。
包丁は、まるで涼香の身体の一部であるかのようにしっかりと突き刺さっている。紅黒い染みのついた血の中心に、包丁の黒い柄の部分が突っ立っている。
「あ……あぁ……」
太朗は震える両手を頬に当てた。目の前の現実が、円を描くように徐々に徐々に捩曲がっていく。死んでいたはずの涼香は太朗の外出中に、包丁で殺され直されていた・・・・・・・・・。
「そんな、まさか……」
太朗はよろよろと涼香の死体(もう今度こそ間違いようもなく……)に近づき、包丁の突き刺さった胸の辺りに触れた。そして、しばし黙考する。
まず第一に、犯人は誰なのか・・・・・・・。この別荘周辺には、殆ほとんど人は見当たらなかった。それに塚井はずっと岬のベンチでうたた寝をしていただろうし、何よりも盲目の人間に人を一人殺害するのは不可能だろう。とすると、犯人は別の誰か――? いや、と太朗は先程の場面を思い返す。太朗が別荘に帰ってきた時の塚井のことだ。彼は入れ違いで戻っていった時、妙におどおどした感じではなかったか? あれは、涼香を殺害した後、ベンチで一息ついている時に自分が帰ってきたからなのではないだろうか?
纏まらない思考に苛立つのと同時に太朗は、段々と頭の中に妙にふわふわとした掴みどころのない戦慄感が広がっていくのを感じた。それは多分、涼香の姿が・・・・・少なくとも一人の・・・・・・・・人間に見られたから・・・・・・・・・だろう。即ち、自分が「犯罪者」である証を、涼香を殺害した犯人に見られたからである。明らかな撲殺の痕あと。もしかしたら涼香はやはり生き返っていて、全てをばらされたかもしれない。そう考えて、太朗は姿の見えない真犯人に得体のしれない恐怖心を抱くのだった。
とりあえず、太朗は塚井に自分の留守中に岬までやってきた人物を聞き出すことにした。幸い塚井の電話番号はさっき教えられた。太朗はポケットに手を突っ込み、塚井から渡された紙切れを取り出す。粗い紙質の薄っぺらいメモ切れだ。
太朗は出来るだけ涼香を見ないようにして、純白のベッドの端に腰掛け携帯電話を手に取り、メモに書かれた番号に掛けた。コール音が何回か鳴ってから電話は繋がった。
『もしもし、塚井ですが』
電話から聞こえてくる塚井の声は、妙におどおどとしていた。少し焦っているようにも聞こえる。
「どうも、早瀬です。先程はどうも」
『あぁ。どうかしましたか』
何か、早くこの会話を終わらせたいとでもいうような、せかせかした感じがする。――やはりこの老人が涼香を? 実は何かの理由で盲目だと偽っていて、実際には目は見えていた?
「いや――塚井さんが岬にいる間、誰かここへ来ませんでしたか?」
『ここ、というとあの別荘ですかな? 何故そんなことを?』
「どうも、空き巣でも入ったようで別荘の様子がおかしいんですよ。ずっとあそこにいた塚井さんなら何か知っているかなと思って」
もちろん嘘だった。ただ、塚井が何か知っていればいいと思ってのことだった。
『そう云われますと中々応えにくいですが……。一度、波多江はたえさんが来られましたかな』
「はたえ? 誰です、それ」
『私と一緒で、毎朝あの岬まで散歩に来る男の方です。確か大学生だと云っておられましたな。今日もあなたが出ていって少ししてから来たようですな。まぁ、私は寝ていたので話してもいませんし、何をしていたかも知りませんでしたが』
波多江……。
「――そうですか。わかりました、ありがとうございます」
それから適当に二、三言礼を述べてから、太朗は電話を切った。これで犯人候補が一人増えたわけだ。塚井か、波多江――。
と、それまで静寂に包まれていた部屋の外から、何かの排気音が聞こえてきた。中型くらいの車だろうか。甲高い音を聞く限りでは、かなりのスピードで走っているらしい。その排気音は段々と大きくなってくる。太朗は戸惑いを隠せずベッドから腰を浮かす。次第にスピードは減速していき、別荘のかなり近くで停まった。
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