第2話
太朗は鍵のかからない扉に若干の不安を残しながらも、別荘を出た。外は溢れんばかり太陽光で輝いている。遠くの水平線はぎらぎらと煌めき、遠くに立つ広葉樹も葉に光を受けて生き生きとしている。――今まで外はこんなにも素晴らしい光景になっていたのか、と太朗はぼんやりと思った。
舗装されたコンクリートの道はどこにもない。ただ、別荘から林まで一本の獣道が伸びているだけだ。太朗はその道を歩き出した。
太朗は頭の中で、何度も自問する。――涼香は生きているのか、死んでいるのか。昨日自分は確かに灰皿で彼女の頭を殴った筈なのだ。そして、彼女は声もなく倒れ、目を見開いてベッドしな垂れかかるようになり、そして、死んだ、……筈。彼女の肌も冷たくなっていたし、そうだ、色だって――。そこまで考えて、太朗は昨日から今日に至るまでの経緯を、もう一度しっかりと思い返すことにした。
早瀬太朗と美武涼香が深い仲になったのは、今年の春からだった。そして夏休みとなった今、避暑でこの太朗の叔父のものだという別荘にやって来たのだった。しかし、別荘についた初日の夜、彼女はとんでもないことを云った。
「私、カジと付き合うことにしたの」
午後八時半。涼香の作った夕食が終わり、一段落した頃である。突然彼女はなんでもないことのようにそう切り出した。
カジ、とは二人の共通の友人である梶本広志のことだ。
太朗はしばらく何も云えなかった。時間が止まったように感じた。そんな太朗の反応は彼女の予想の内だったらしく、次々と謝りと云い訳の言葉を重ねてくる。
そして、――――。
実は、太朗は灰皿を手にとってから朝までの記憶が非常に曖昧で、その間のことを明確には思い出すことが出来なかった。だが、どちらにしろ殺した後である。それにどうせただ呆けたように佇んでいただけだろう。そこについては太朗は深く考えなかった。
しかしやはり、あの時の、涼香を撲殺した時のあの(……あの、鈍い……)感触は、本能的に殺した、と太朗は直感していた。生きている筈がない、とも。
だが現実問題、高々小さな銀の灰皿一枚の一撃なんかで、人は殺せるものなのだろうか。命中したのは頭だったが、果たしてそれは人の命を奪い去るのに足る威力だったのか。――そう考え始めると、太朗の頭は最早パニック寸前だった。
獣道の両側に針葉樹が並ぶ林に入る。木々に囲まれているせいで日光はあまり入ってこないが、自然の作り出す妙な涼しさがあった。普通は心地よさを感じるものだが、今の太朗には薄寒いものでしかなかった。
ふらふらと頼りない足取りで、はち切れんばかりの瑞々しい自然に囲まれながら、太朗は道を進んでいく。――と、前方に黒い人影が見えた(……誰だ?)。反対方向から、こちらに向かってきているらしい。段々その人影は大きくなってくる。顔を認識出来る程度にその人物に近づいた時、その人物が男性の老人であること、そして右手で白い杖を突いていることがわかった。――盲目らしい。
彼は太朗の気配を感じ取ったらしく、ぴたりと足を止めて、太朗の方を見た。それに合わせて太朗も足を止める。
「おや、珍しい。こんにちは」
老人は男性にしては高めの声でそう呼び掛けた。目を細めて笑っているが、もしかしたら元々目を閉じているのかもしれない。
「……どうも」
突然のことに、何と云えばいいのかわからず、とりあえず太朗はそう返した。しかし、今のこの精神状態で極力人と接したくなかった。出来るだけ手短に済まそうと思った。
「あなたは――そうか、あの『家』の人ですか。岬に建つ綺麗な」
「……はぁ、まぁ、そうですけど。あなたは?こんなところまで、何をしに?」
太朗としては「殺害現場」の持ち主であることを告白するのは多少気が引けたが、云わなければ不自然だろうと考え、多少淀みながらもそう告げる。――太朗は、この黒の革ジャンを羽織って白い杖を突いた小柄な男性を見る。人の良さそうな顔、柔らかそうな白髪。彼は何者なのだろうか。見当もつかない。
「あぁ、毎日の日課なんです。散歩ですよ。私の家から、あの岬まで。ここは空気が綺麗ですからな、こうしてわざわざ足を運ぶ訳です」
「散歩……」
「ん、いやぁ、この目でも案外に歩けるものなんですよ。普通の方はそうやって思い違いをしておりますがな」
太朗がとった間をどう勘違いしたか、老人はそう云った。
「あぁ、そうだ。名前を云うのを忘れとりました。私は塚井つかいと申します。これから、毎日ここで会うかもしれません」
「早瀬です。……よろしくお願いします」
「早瀬……。はて。……もしかして、いや、違っていたら失礼、シェフの早瀬敬二氏と関係がありますかな?」
「あっ……叔父です。ご存知でしたか」
「ほぉ、甥っ子さん。――いやね、料理にはうるさい方で、『ミカエル』にもよく行かせてもらっているんですよ」
ミカエル、とは叔父敬二の経営するレストランの名前だ。
盲目な人が他の感性を存分に発揮するという話はよく耳にするが、この塚井という老人は味覚にこだわるらしい。
「こんなところで早瀬さんの甥っ子さんに出会えるなんて。これも何かの縁だ、電話番号を渡しておきます、いつか『ミカエル』で会いましょう」
そう云ってポケットからボールペンとメモを取り出し、くしゃくしゃと自分の電話番号を流し書きして、戸惑う太朗に一方的にそれを渡した。
「では」
そして塚井は去っていこうとしたが、太朗は半ば強引に「待って下さい」と引き止めた。
「何ですかな?」
目を糸のように細めたままきょとんとした表情をする塚井に、太朗は尋ねた。
「失礼ですが、盲目になられたのはいつ頃から?それと、あの岬への散歩が日課になったのは、いつから?」
大分不自然な云い方になってしまったが、切羽詰まっていて太朗はそれどころではなかった。案の定塚井は訝しげな表情を見せたが、すぐに元の顔に戻り、云った。
「……ええと、目を悪くしたのはごく最近でしてね、確か二年前ぐらいでしたかな。それから、散歩は定年退職した五年前から」
「そうですか。ありがとうございます。では」
それだけ云って、太朗は頭を小さく下げてそそくさとその場を離れた。塚井は、狐につままれたような表情をしていたが、やがてこつ、こつ、という杖の音と共に歩き出した。
太朗がそれらの質問をしたのは、涼香の死体を・・・・・・発見されるの・・・・・・を恐れて・・・・のことだった。塚井は最初、あの別荘のことを「綺麗な」と形容したのだ。見えていないのに・・・・・・・・そう云える筈がない・・・・・・・・・。もし塚井が何らかの理由で自らを盲目だと偽っている場合、別荘の異変に気付かれる可能性が高いのだ。まぁしかし、盲目になる前・からこの散歩コースを毎日辿っていたのなら、不自然な点はない。つまり太朗の不安は杞憂に終わった訳だが……。
杉やもみに囲まれた獣道は、次第に狭くなってきた。この先にもっと太いじゃり道と合体するのだ。
太朗は頭を冷やす為、文字通り「散歩」をしにきていた。突発的に彼女を殺してしまったものの、これからどう行動するべきか。まさかこんなことになるとは思いもよらなかったので、友人達にも自慢気にここに二人きりで来ることを話してしまっていた。だから、彼女の死体が発見されれば真っ先に疑われるのは自分だ。仮に法的に無実になっても周りから白い目で見られることは確実なのだ。
それから、もう一つの問題点。それは云うまでもなく涼香の生死だ。「絶対に死んでいる」と強引に、自分に云い聞かすようにして、別荘を出てきたが……。もし彼女が生きていて、偶然やって来た塚井に助けでも求められたら……。
そこまで考えて、太朗は小さくかぶりをふった。深く考え過ぎるな、「もし」を云い続けていたらきりがないぞ、とまた自分に活を入れるように云い聞かせた。
たろう……
わたし……は……
ずっとすき……だった……
ずっと……
「止めろぉ!」
頭の中を、自分の意思と無関係に流れる涼香の言葉を振り払うように、太朗は叫んだ。その咆哮は木々の中でこだまし、震わし、消えていった。
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