死体は二度殺される
田邊 圭吾
第1話
早瀬太朗は、部屋の薄茶色のカーテンを少し開けた。完全な暗闇だった空間に鋭い光が射す。眼前に広がる岬の先端に、ちょうど太陽が重なって見える。夜明けだった。
彼は清々しい朝の陽射しが自分の罪深さ、後ろ暗さをシルエットのように浮き彫りにしているように感じ、云い様のないだるさもあって、部屋の中から外界を疎むように睨んだ。そして、岬の先から一直線に眩しい光を投げつけてくる太陽から身を守るように、太朗は一度開けたカーテンを閉め、少し迷ってから部屋の電気を付けた。――あまり、部屋の中の現実を認めたくはなかった。
太朗は軽く息を吐いてから、無感情な眼差しで部屋を見回した。
隅に置かれた机の上には書きかけのレポートと鉛筆。机上には大量の消しゴムのかすが散らされている。明後日までに書き終えなければならなかった筈のものだ。本当なら、徹夜であと十枚は埋めるつもりだった。
皺の多い純白のベッドには、太朗の外出用のリュックサックが無造作に放り投げられている。今日はあと二時間は寝て、それから外出するつもりだった。
そして――そのベッドの下、木で出来た床に敷かれた鼠色のカーペットにあるもの。
それこそが、太朗が一夜にして背負うこととなった「犯罪者」の証――。
ベッドに寄り掛かるようにして、四肢を投げ出している一人の女性。整った顔立ちに負けないくらい綺麗な形をした口には、口紅の上から、更に血で化粧が施されている。それと対照的に、肌は剥製のように青白い。目はあらぬ方向を向いており、さながら糸の切れた操り人形のようだった。
「……涼香」
渇き切った唇を時々思い出したように舐めながら、太朗は呟いた。
「……お前が、あんなことを云わなければ……」
身体中の水分が削ぎ取られたように干からびた眼差し、干からびた唇、干からびた台詞。最早太朗は正気ではなかった。ふらふらと備え付けの冷蔵庫の前まで足を運び、コーラのペットボトルを取り出し、酒乱のように豪快に、しかし不気味な程静かにそれを飲み干した。
ワタシ……私…… カジト……カジと……
付き合う……ことに……
太朗の頭の中で、昨夜の涼香の言葉が再生される。
今まで……
ありがとう……
忘れ……ない……
涙を見せながら、涼香はそう云ったのだ。形のいい頬には涙の跡がついていた。でも――そう(……そうだ)、彼女は、笑っていたのだ。それは、太朗には長い間の自分という呪縛から介抱された、満面の笑みにしか見えなかった(……満面の、笑み)。
――俺と付き合ってきたのは、何だったんだ。
――俺は本気だったんだ。
――俺のことを、今までどういう目で見ていたんだ。
――俺からずっと逃げたいと思っていたのか。
太朗は、感情の篭っていない眼差しと言葉で彼女を責めた。そうでもしないと、今まで過ごしてきた涼香との時間が掻き消えてしまうような気がした。最初彼女は戸惑い、次第に慌て始め、必死に弁明するような口調になっていった。それらは太朗の耳には言葉として受けとられず、ただ彼女の必死の声音を全身で浴びていることしか出来なかった。そして、気がつくと太朗は、後ろ手で硝子の小さなテーブルにあった銀の灰皿を手にしていた――。
ガツンッ
ベッドシーツには綺麗な紅の血飛沫が飛んだ。崩れ落ちる涼香。メロドラマでよくやるような、派手な悲鳴は上げなかった。始終流していた涙は、最後まで途絶えることはなかった。
だが、太朗は結局気付くことはなかった。涼香が流し続けていた涙は、最初は太朗を裏切ってしまったことに対する悔しさ、申し訳なさによるものだったのだが、途中から、それを受け入れてもらえない悔しさに変わっていったことに。――だからといって何が変わる訳でもないのだが。
太朗は台所に向かった。小さな別荘の台所なので、猫の額程の、ついでのような場所だ。ログハウス調なのが唯一の救いだが、機能性に優れている訳でもなく、ごてごてとしたアンティークが散らばっている訳でもない。しまいには巨大な蜘蛛にちょくちょく出くわすような始末だった。
太朗は黄色のやかんに湯を入れ、沸かす。そして床に置かれた籠から、ごそごそとカップラーメンを取り出した。太朗は昨夜から悲しみ、怒り、狂い、呆然とし、あらゆる感情を凝縮し爆発させたようで、食事のことをすっかり忘れてしまっていた。相変わらず目は虚ろで空中をさ迷っているが、空腹を感じられるくらいには自我が戻ってきていた。
カップラーメンに湯を注ぐ。固まっていた麺の隙間を埋めるように水位が上がっていく。湯気と一緒に濃い汁の臭いが台所に立ち込めて、太朗の食欲をそそらせた、その時――。
ガタッ
突然部屋の方から物音がした。
それまで泥水に浸かり切ったように濁っていた太朗の目は瞬時に鋭くなった。台所からは直接部屋を見ることは出来ない。また、この建物には、この小さな台所と、玄関やバスルーム以外には涼香のいるあの部屋しかない。
侵入者だろうか、という考えが太朗の頭をよぎる。実はこの別荘の玄関扉の鍵、昨日太朗が誤って壊してしまっていた。こんな辺鄙な場所には賊も現れないだろうと思ってその状態のままにしておいたのだが……。
忍び足で台所から顔を出す。薄茶色のカーテンを背景に、勉強机、ベッドと視界に入り、そしてそれに隠れるようにして涼香の頭部と投げ出された左手足が見られた。そしてそれら以外には、何もなかった(……誰も、いない……)。
今の音は、では、一体――?
太朗は鋭い目付きで部屋の隅から隅までを見回した。机の下にもベッドの下にも、人間一人が隠れられるような空間はない。窓も開いていない。では……侵入者などは初めから入ってきていないということだろうか? だがそうすると今の物音の正体は――。
そうだ、バスルームはどうだろう。そう太朗は考え、台所と玄関を挟んで反対側のバスルームに向かった。しかし磨り硝子の扉の前で太朗は奥に潜んでいるかもしれない侵入者に怖くなり、台所から包丁を一本持ってきてから再びバスルームの前に立った。そして、力任せに扉を横に引いた。がらがら、という硝子戸特有の音がする。そして――。
そこにもやはり、侵入者の姿は認められなかった。ただ黒々と湿った闇が広がっているだけの薄寒い空間である。太朗は刺すような目付きのままで表情は全く変わらなかったが、内心は安堵の気持ちでいっぱいだった。――侵入者は、いなかった。
しかしそうとわかると、同時に別の疑問が頭をもたげてくる。
物音の正体は何だったのか。そして、誰がどのようにして音を発したのか。
そう考えた時(……「誰が」)、太朗は目を見開き、表情を凍らせた。
「誰」がやったのか。この別荘には、自分と、死んだ(確かに、そう、死んだ筈……)涼香だけしかいない。自分ではあり得ないのだから、音を発したのは――。
ごめんね
ほんとうに、
ごめん……たろう…
ごめん……
涼香は生きている? そう考えた途端、太朗は昨日の涼香の弁明の台詞の数々が濁流の如く頭に溢れ出てくるのを感じた。
たろうのことは……
すき……………
だった でも……
目の前が、真っ白になっていった。光は皆同じ色に溶け、太朗の視界に、想いに、その光は入り込んでいった。
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