3章

ホテルから原付きで30分ほど走ると、繁華街に出る。

あえて調べる必要も無いが、風岡は裏手に停めている自動二輪に跨り、道順をスマートフォンで確認していた。

 画面をなぞる指が寒さで震える。冬の道路も連日の寒さで凍っており、平時よりも速度を抑えなければならないだろう。

そう心に留め、エンジンキーを捻ると二輪の鼓動が響く。公道に走り出し、速度を上げていくと寒さが身体の全身を貫いた。

この寒空の中、子どもに金を集めに行かせたのというのだから、砂原も大概な人格をしている。

だが、砂原が患者にこのような形で肩入れするのは、風岡が知る限り初めてだ。

それだけ、砂原は浅田に対して思うところがあるのかもしれない。

 中高生がこの街で溜まりそうな場所など、多くはない。

40分程の時間を掛けて繁華街に着いたのち、風岡は砂原に言った言葉通り、繁華街のゲームセンタ、カラオケボックス、クラブなどを巡る。

学校で浅田のクラスメイトに行ったように、適当な学生服を捕まえて話しを聞こうかとも思ったが、人の多さを理由に避けた。

そのため、一人ひとりの顔を確認し、浅田葵を探したが見つけることはできなかった。

「まずいな。もう探すあてがなさそうだ」

 5箇所目の駅から離れたゲームセンタの調査を空振りに終えた風岡は、喫茶店で独り言をこぼしていた。

看板も出ていないその喫茶店は、繁華街の中央に位置するビルの2階にある。

風岡の同期が営んでいる店だ。気心の知れた、風岡や砂原の事情を知っている人間ばかりなので、風岡は重宝していた。

特に今日のような人通りが多い日であっても、この喫茶店は風岡以外の客は居なかった。

「写真も無いのに探そうなんて無茶なんだよ」

 そう言って風岡の空になったカップに珈琲を注ぐのは、店長の宮下だ。長い髪を中央で纏めエプロンをつけた姿は、かつての警察官の面影はない。

「それでも、見つけないと。砂原の仕事でミスはしたくないからね」

砂原という名前を出した時、それまで笑顔だった宮下の表情が曇る。

「あのさ。やっぱり私は風岡は真っ当な仕事に戻ったほうがいいと思うよ。砂原君は不憫だったけど、こんなとこまで付き合う義理はないって」

宮下の目は真剣に風岡を見つめている。

「風岡さ。前から言おうと思っていたけど、なんでそこまで付き合っちゃうの」

「私はただ、あいつに対して責任を取りたいだけだよ」

 砂原が麻薬取締官をやめるきっかけの現場に、風岡はいた。

「無茶な潜入捜査で、薬を盛られちゃったんでしょ」

砂原は当時、麻薬取締官としてスモークを使っている集会に潜入した。このとき潜入場所に詳しい現場の警察官として、風岡が選ばれた。

繁華街の警察署に勤め、少年犯罪に関わる機会が多かったことが選ばれた理由だった。

スモークの利用者の多くが若い学生であることは、風岡自身がよく分かっていた。

その元凶を断つ仕事に指名されたことは、光栄という他ない。二つ返事で砂原と行動を共にする選択をした。

「あのパーティ会場は異常な空間だった。重度の中毒患者のみが集まって高濃度のドラッグを浴びる。

誰かが面白半分にドラッグを混ぜたジュースを砂原に渡し、あいつは飲み干した」

砂原が中毒者であれば、笑い話で済む。だがそうでない人間にとっては、致命的な身体の変化を呼び起こす。

「私が聞きたいのはさ、何であんたが砂原君に付き合う必要があるのかってことよ。砂原君が何で中毒になったのか、じゃなくてさ」

「砂原が水を受け取った時、私も隣に居た。ウェイターが差し出したジュースを私が受け取らなかったから、砂原が代わりに受け取った。

そうしないと、不審に思われかねないからね」

そして、あの結果につながった。つまり、砂原は風岡の代わりに中毒になった。風岡はそう思っている。

「その責任を取るために?わざわざ『自分も中毒になった』とか嘘ついて、警察に辞表も出さずに砂原君のところに転がり込んで。本当にそんなこと、彼は望んでいるの?」

本当に望んでいるかなど、わからない。だが彼や体調を診る限り、長くは無いだろう。それは医師である友禅も確信を持って断言していることだ。

その間だけ、わがままを押し通そうと思った。すべてを失った彼を、孤独に追い込むことはしたくなかった。

 話し過ぎた。すべきことを棚に上げていることに気が付き、席から立ち上がる。椅子に掛けた黒い外套を羽織ると、気持ちが切り替わる気がした。

「答えないで、行っちゃうの?」

宮下は意地の悪い笑顔を浮かべている。警察官時代から、こんな風に風岡を追い込むのが好きなのだ。無視しようかと思ったが、一言だけ残していくことにした。

「私の恋路に、口を挟まないで」


*****

 喫茶店を出ても、風岡に浅田葵を探す手がかりはなかった。

思いの他長い時間、宮下と話込んでしまった。厚手の外套に触れる外気が身体を冷やす。大通りを早足で歩き始めると、首元を冷たい空気が通り過ぎる。時刻は17時を周っている。

 砂原にはすぐに見つけられると啖呵を切ったが、葵が友人の家などに転がり込んでいた場合、見つけるのは困難になる。

遊び場で見つけられない以上、その可能性が高い。葵を見つけることは緑を調査する上で重要であるが、緊急度は高くないはずだ。

そもそも砂原の疑念を払拭することだけが目的なのだ。根を詰めて調査することはないだろう。

 宮下の店から原付きを置いた駐輪場までの道中、風岡は自分の任務を切り上げる理由を作り終える。

妥当な理由だと思う。反面、身を切るような寒さが退却する意思に拍車をかけたことに、風岡は気が付かないことにした。

 警察官を辞めて以来、責任感が欠如している。いや、責任感のバランスを見失っているのか。犯罪者を追うことに責任のすべてを傾けていた過去を懐かしむ。

 今はその情熱的な警察官の残骸が、かつての経験を使った真似事をしているに過ぎない。

砂原が薬物中毒になってから、風岡は変わった。犯罪者を憎み、被害者に寄り添い、平穏を保つ。

警察官として当たり前の行動に、砂原という存在が疑問を投げかけるのだ。

違法薬物摂取の犯罪者であり、無理やり摂取された被害者でもある人間。

模範的な警察官であった風岡には、砂原をどう扱うべきか判定できなかった。

 そして風岡は、当たり前の警察官の行動がわからなくなった。砂原を治療した三代や友禅も警察官の倫理では捕まえるべき存在である。

だが風岡は、砂原を治療する彼らにそのような態度を取ることができなかった。それどころか、砂原の容体が安定すると、当たり前の様に感謝し、逮捕するという考えすら浮かばなかったのだ。

 その瞬間、風岡という警察官は死んだのだ。

一人の男が助かったことに心から喜び、それに感謝する。

正義より、平穏より、自分本位の感情を優先した風岡に、警察官でいる資格はない。

 正式な退職手続きをしなかったのは、一度砂原の元を離れるともう二度と会えなくなると思ったからだ。

実際のところ、風岡は砂原が目覚めてから今まで、あのホテル以外で寝泊まりをしたことはない。

警察官の頃の情熱は、風岡が納得した上で責任を全うするという形で転化されている。

 駅の近くの駐輪場に着く頃には、風岡は浅田のことなどほとんど頭から消してしまっていた。

だからだろうか。風岡の黄色の自動二輪に跨る男を見ても、とっさに誰か気が付かなかった。

その男は器用に携帯電話を片手で操作し、反対の手でサイドミラーの位置を操作している。

持ち主である風岡でさえ、まるでその自動二輪が男の物であるかと思えてしまうほど、その様子が様になっている。

 男が手元の携帯電話から、視線を風岡に移す。大きな瞳の、少年の様な目と視線が合う。

「遅かったね。風岡ちゃん」

「何の用だ、沖矢」

にこやかに笑って挨拶をする沖矢が、そこにいた。


「可愛い原付きだね。自分の給料で買ったの?」

軽口を叩きながら沖矢は自動二輪から降りる。立って向かい合うと身長は風岡と同じ程度だ。つまり、平均的な男性の身長より、少し高いことになる。

「用が無いなら帰れ。その前に、ミラーを元に戻せ」

「ミラーなら元に戻ってるよ。あと、ちょっとした用があるんだよね」

適当に弄んでいたサイドミラーが元通りの位置に戻っているとは到底思えなかったが、追求することはしなかった。

少しでも、この男と会話をしたくないからだ。沖矢の成人した男性とは思えない高い声を聞くと、風岡は無性に苛立ちを覚える。

「風岡さんさ、いま葵ちゃんを探してるでしょ。それをさ、やめて欲しいんだよね」

風岡は、沖矢の言葉に耳を疑った。浅田の身の上を調査することは、砂原が自発的に行っていることだ。

調査していることを沖矢は知るはずもない。

「あの子は僕が紹介したからね。あんな怪しい子が来たら、砂原は絶対に調べるでしょ」

それでもおかしい。砂原が浅田の調査をしているのは、浅田が浅田本人以外の人間に薬を使用しないか確認するためだ。

そうして緩和剤が砂原の元から広がらないように、堰き止める。

それは違法薬物の元締めであり、この街の薬の流通を一手に預かる沖矢にとってプラスのはずだ。

止める理由はない。

「浅田を調べることは、お前に不都合なのか」

風岡は思ったままを伝える。

「ストレートに聞くね。それに正直に答えると思ってる?」

沖矢は風岡を小馬鹿にしたように笑った。沖矢がなんと答えても信用に足らないことは確かだ。

間の抜けたことを質問をしたことに、風岡は赤面しそうになる。

 その表情を沖矢が覗きこんでいることに気がつく。先程と違い、ニヤついた顔つきではない、真剣な目をしている。

その目が覗きこむことになぜか耐え切れず、風岡は一歩後ろに下がった。日が落ちた駐輪場には、風岡と沖矢以外、誰もいない。

「今の反応が可愛かったから、少しだけ教えてあげよう。別に信じなくてもいいけど、聞く?」

沖矢はまた、軽薄な笑みをして風岡に提案した。

「嘘かもしれないことを聞いても、時間の無駄だろう」

「そうかもね。でも本当のことを言うかもよ。それに砂原に『沖矢にあったけど、特に話しもせずに、耳も貸さず帰ってきました』って言うの?砂原はきっと落胆するだろうね」

砂原はそんなことを言わないだろう。だが街で接触することのない沖矢が、わざわざ風岡一人に会いに来た。

何か意味があるのかもしれない。砂原には隠しておきたい、だが風岡には伝えておきたい様なことが。

「じゃあ話し始めていいかな」

沖矢は風岡の沈黙を肯定と受け取った。風岡の自動二輪のサドルに腰掛けて、口を開いた。

「全く、本題に入るまでが長くて嫌になるよ」


*****

「浅田ちゃんと砂原って、壊滅的に合わないなって気がついたんだよね」

 沖矢はそう言って説明を始めた。

「紹介するときに気がつけばよかったんだけどね。砂原には浅田ちゃんは普通過ぎるかなって」

普通過ぎる。風岡は浅田と直接の面識はない。

砂原や友禅から聞く限りは、確かに普通の女の子だろう。

少なくとも、砂原達のホテルを訪れるような人種ではない。

「真面目に毎日学校に通って、たまに休んで。両親が不仲なのは普通じゃないかもしれないけど、それは家族が変わっているだけで本人とは関係がない。

むしろ、あんな家庭にいたらお姉ちゃんみたいに不良になっていそうなものだけれどね。彼女はそんな風に脇にそれることはなかった。

どこまでも普通で、どこにでもいる女の子なのさ」

今、沖矢はお姉ちゃんと言った。それは風岡が探しだそうとしている浅田緑の姉、葵に他ならない。なぜその子の名前がここで出てくるのか。

「お前、浅田葵を知ってるの」

「知ってるよ。浅田姉妹は二人揃って僕のお客様だよ」

沖矢の言葉は風岡にとって、そこまで衝撃的なものではなかった。浅田邸を覗いた時、そして浅田緑のお友達から姉の話しを聞いた時に思い至ったことだ。

「もしかして知ってた?全然驚いてないけど」

「あんたが言うとおり、緑が普通過ぎるからね。お姉ちゃんを疑うのは普通でしょ」

「そっか、やっぱり緑ちゃんは疑われないのか」

沖矢はなぜか楽しそうに笑った。口を大きく開けて笑う姿が、何かに似ていると思った。そうだ、昔見た取調室の暴行犯に似ているのだ。

「まあいいや。知っているなら分かるでしょ。僕も緑ちゃんから話しを聞いてわかったんだよ。砂原くんと緑ちゃんは壊滅的に合わせちゃいけないって」

沖矢はすべて説明する気はないようだった。わかっているかのように扱われたが、風岡には砂原と浅田緑の相性が悪い理由が分からなかった。

砂原の口ぶりからは、嫌っていることは感じられなかったが。

 押し黙る風岡を見て、呆れた様に沖矢は口を開いた。

「なんだ、わかってないの」

「うるさい。馬鹿にするだけなら、もういくぞ」

「冗談だよ。不憫だから教えてあげよう。調査をやめてもらわないといけないしね」

頼み込む様な言葉を発しておきながら、上からの物言いをやめようとしない。

普段ならば、相手が沖矢のような、砂原をよく知る人間でなければ、風岡は無視して立ち去っていただろう。

 しかし、砂原を知ったような口を聞く、目の前の男の話す内容が気になった。

浅田緑と砂原の間に問題はあるように思えない。むしろ、砂原にとって合わないのは、沖矢本人だろう。

「今まで、砂原くんのホテルに来た客にさ、こんなに砂原くんが入れ込んだことってある?」

 唐突な質問だったが、風岡も同じ疑問を抱いていた。思いついた回答は、「沖矢。あんたの管理の外に、薬を持ち出さないようにするためだ」

「そうだね。でもね、それは緑ちゃんが怪しいっていう前提があったからでしょ。『あんな普通な子が、俺の緩和剤を欲しがるなんておかしい』っていう前提。

 砂原くんはね、そういう前提を見つけてしまうくらい緑ちゃんの存在に着目していたんだよ」

「それはちがう。浅田緑が金を容易できなかったから、あいつは浅田緑の内情を調査する気になったんだ」

 沖矢は笑う。そして生徒の間違いを正す教師の様に、ゆっくりと説明を始める。

「あのね、金を持ってこれない奴なんて、端っから相手にしないでしょ。まして子どもだ。追い返す理由は十分ある。

仮に僕の紹介だからという理由で話しを聞いたとしてもさ、僕に連絡すればすぐに解決するでしょ。『金を持ってきてないから、追い返すぞ。問題があるなら、お前が用意しろ』

 こんな感じでさ」

 報告書によれば、砂原は金を用意できない浅田緑に金を集めてくる様に一度、追い返した。

砂原にしては優しい対応だが、相手が子どもだということを考えたら、そこまで不自然を感じない。

 不自然なのは金を集めてくるまでに沖矢に連絡をしなかったこと。そして何より、言い値を用意できなかった浅田緑を、ホテルで働かせ、不足金を補填しようとしていることだ。

「明らかにおかしいよね。だって僕の紹介のお客だよ。僕の息がかかった人間を自分の根城に入れたりするかな」

「きっと、砂原にはなにか思惑があって」

「いやいや、単純なことなんだよ」

沖矢は一拍、呼吸を置くように黙った。そして静かに、だがはっきりと通る声で言う。

「砂原くんはね、緑ちゃんが気になってしょうがないのさ」


*****

 手がじっとりと汗ばみ、風岡は掻き毟りたい欲求に駆られた。

「簡単に言えば、本当にそれだけなのさ。子どもの様にさ、気になってしょうがない子っていただろ。

何故か目で追ってしまう。何故かどこにいるか気になる。夢に出てきてしまう夜もある。砂原にとって緑ちゃんがそうなのさ」

「それって、砂原は浅田に恋してるってこと」

「恋以前さ。気になって仕方がない。精々、そのくらい。当たっていると思わない?」

 馬鹿げた妄想だ。そう一蹴しようとしたが、否定し切れない気持ちがある。砂原がホテルで働き初めてから今まで、砂原が誰かに入れ込むことはなかった。

それは、風岡に対してだって。

「砂原くんが緑ちゃんに入れ込む理由は分かるよ。簡単なことさ」

「どういうこと?」

 風岡が咄嗟に口から突いて出た疑問を聞くと、沖矢は嗜虐の顔になる。

「風岡さん、気になるよね」

「うるさい。早く話せ」

「僕の予想だけどさ。砂原くんって今までホテルの外に人間とほとんど関わってないでしょ」

 唐突に、沖矢は話題を変える。だが、この疑問の先にあるのは、きっと風岡の求める答えなのだろう。正直に答える。

「ほとんどどころか、一歩も出てないかもしれない。買い物とかの雑用は、私か友禅がやるから」

「そう。じゃあ改めて納得がいったよ。

 砂原くんはね。麻薬取締官時代を思い出しているのさ。彼は中毒から回復してから、僕が紹介するような屑の相手しかしてこなかった。

それは、取締官の様な正義や、奉仕の精神ではない、むしろ取り締まられる側に周っても、少しでも人を助けたいという儚い希望のためだ。

『こんな人間でも、クスリで人生を潰すことはない』くらいの気持ちさ。

 知ってる?クスリで一度中毒になるとね、自分の一番強い気持ち以外、全部持って行かれてしまうんだよ。砂原くんに残ったのは、『人を救いたい』っていうシンプルな欲望さ」

砂原は中毒から目覚めて以来、一心不乱に中毒者の治療にあたっていた。それ以外のことなど、全く関心がないというかのように振る舞って。

風岡は、死期を悟った砂原が後悔しない様、詮索はしなかった。

「そんな中に現れた、一般人の緑ちゃん。砂原くんにとっては、最も救わなくちゃいけない人間だろう。それこそ、自分の手で、何としてもね。

だから、緑ちゃんのお金が用意できなかったとき、僕に頼らなかった。『やっぱり緩和剤を挙げないくていいよ』って言われかねないからね」

 中毒になっても失われなかった願望。それが目指す方向に居たのが、浅田緑だった。故に、砂原は浅田緑に不自然な程肩入れする。まるで、恋人を気遣うように。

 風岡の頭に、熱のある何かがこみ上げてくる。大きな声を出したい。何故かそう思った。

 冷たい風が一陣、駐輪場を通り抜ける。それが、風岡の熱された頭を冷静に戻した。

「大丈夫?」

「初めの疑問がまだ解けてないわ。何故、浅田葵を調べることをやめてほしいの」

 沖矢の心配そうな声を無視して、風岡は改めて疑問を呈する。この問答のきっかけとなった疑問を。

「仮に、一般人だけれど、薬物を使ってしまった程度の緑ちゃんを、砂原くんが普通に緩和剤で治療するなら、問題は無いよ。

だけど仮に、そうでなかったとしたら。緑ちゃんが自分の意思で中毒になっていなかったとしたら。砂原くんと同じ境遇であったとしたら。

…どうなると思う?」

浅田緑は砂原の元に、自分で吸ったクスリを誤魔化すためにやってきた。しかし、それは事実ではなく、他人によって中毒にさせられたならどうなる。

それを知った砂原は、どうする?

「きっと、今の患者すべてを捨てて、緑ちゃんのために行動するよね。中毒を治すだけじゃなくて、追いやった犯人達も全員捕まえてさ」

人を救う。単純なこの希望が燃え上がるのは、被害者の声を聞いた時だ。それは、警察官であった風岡がよくわかっている。

そして、砂原がすべてを投げ打って浅田緑のために行動するであろう。砂原を追いかけた、風岡のように。

「それは困るよね。砂原くんには、まだあのホテルで仕事をしてもらわないといけないからね。

風岡さんも、仕事をやめてまでついてきた男が、誰かもわからない子どもに取られるなんて、嫌だろう」

「お前には、関係ない」

怒気を孕んだ言葉に、沖矢は軽口をやめた。だが、説明は続ける。

「葵ちゃんを調べていくとね、きっと緑ちゃんを中毒にした奴らが見つかる。だから、やめてほしいんだよね。わかるだろう?」

沖矢の言う通りに浅田緑を中毒にした連中を捕まえなかった場合、浅田緑が全快になっても救われたことにはならないだろう。

その連中が何故浅田緑を中毒にしたのか知らないが、碌でもない想像しか思いつかない。

そんな奴らを、生かしておく理由はない。なら、取るべき方法は一つだ。

「そんな方法よりもさ、もっとすっきりする方法があるわ。私が、浅田緑を中毒にしたやつを捕まえる。そうすれば、名実ともに、浅田緑は救われるでしょう」

「そんなことをしても、君にはなんの特にもならないでしょ」

呆れた声を出す沖矢をにらみつける。この状況に至って、沖矢という男が何を目的に風岡を尋ねたのか、合点がいった。

 風岡は大股で沖矢の元まで歩み寄ると、右の拳をにやけた顔面に目掛けて勢い良く付き出した。

腰を回転させた、容赦のない一撃。肉の潰れる感触と、拳が軋む痛みが伝わる。

風岡の自動二輪から転げ落ちた沖矢は、地面に頭を打ち付け、蜥蜴のようなうめき声を上げた。

「なにを…」

「初めから、私にそいつらを始末させるつもりだったろう」

痛みをこらえ、風岡を見上げる沖矢の声を遮って断定する。

 浅田緑を中毒にした奴らを風岡が始末しなかった場合、どうなるか。浅田緑はまた中毒になるか、もしくはよりひどい状況になるだろう。

彼女がそういう状況にいるであろうことは、想像に固くない。

 そうなると、砂原はどうなるか。『人を救う』という希望が叶わなかった砂原はきっと、精神に大きな傷を受けるだろう。

精神は肉体に影響を与える。弱り切った砂原は、更に残りの時間を縮めるだろう。絶対に、避けなければならない。

「そいつらの居場所、教えなさい」

風岡は沖矢の胸ぐらを掴み上げる。沖矢の細い身体は、簡単に締め上がった。おずおずといった様子で、沖矢はバーの名前を言った。風岡の調査範囲からはずれた、学生がおいそれと入れるような店ではない。大人数を覚悟しなければならないか。最悪の事態には、手帳を使おうか。

「乱暴だね。本当に。精々、砂原くんのために頑張りなよ。頑張れば、緑ちゃんから振り向いてくれるかもしれないよ。

もしかしたら、抱いてくれるかもな。砂原くんの子どもでも孕んだら、彼も思い残すことはないだろう」

座り込み大声を出す沖矢の顎を蹴り上げ、黙らせる。天井を見上げる沖矢を尻目に、風岡は自動二輪に跨る。癇に障るが、行くしかない。

 エンジンキーを捻り、サイドミラーの位置を見る。沖矢のいじっていたサイドミラーは、風岡が降りた時と全く同じ位置になっていた。

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