4章

「今から言うところに、車を回して。急いで」

 電話に出ると、応答を待たずに風岡の声が響いた。まくし立てるような早口で繰り出させる住所を、砂原は正確に覚えた。

 風岡からの電話を切ると、すぐに友禅と共に風岡のもとへ発つ。

「外に出るのは、久しぶりですね」

状況にそぐわない友禅の言葉を無視して、砂原が質問する。

「どのくらいで着く?」

「10分程度で」

「急げ」

「はい」

既に深夜と呼べる時間帯だ。連日の雪で路面状況は悪いが、交通量が少ない。友禅の言うとおり、まもなく風岡の示した場所へ着くだろう。

 大通りへ出ると、大きな交差点で赤信号に捕まった。焦りを落ち着かせるため、窓の外を見ると、歩行者が目に着いた。誰しも愉快そうな顔をして、頬を赤らめて歩いている。仕事を終え、飲み歩きでもしていたのだろう。

 懐かしさを覚える。眠さと共に、奪われたものだ。戻ってこないものをまざまざと見せつけられているような心持ちになり、胸の奥にどろりとした感情が宿る。しかし、すぐにそれを忘れる。今は風岡の身を案じるのが先だ。そう思い歩道から目を離して、横断歩道を見る。二人の女が見える。大柄な女が、黒い外套を羽織った女を背負っている。風岡の外套だ。

「車を止めていろ」

友禅に短く叫ぶと。砂原は車から降り、大柄な女の元へ走った。おい、と声をかけると大柄な女が振り向いた。

「砂原じゃん。驚いた」

大柄な女は風岡だった。

「この子を保護したくてね。バカどもが追ってるし、寒くてしょうがないから車を頼んだんだ。どこに止めてる?」

よく見ると今朝、外套の下に着ていた服装をしていた。自分の外套を背負っている女に着せている。女は顔を砂原へ向けてはいるが、何も眼に移していないように見えた。

 車に戻ると、風岡は後部座席で安堵したように息を吐いた。背負っていた女は、頭を風岡の膝に乗るように横になっている。

「友禅、もうちょいエアコンの温度あげてくれる。凍えちゃっててさ」

砂原は助手席から振り向き、女を見る。顔は殴られたように腫れており、風岡の外套の下は何も身に着けていなかった。

「あんま見てあげないでよ。話なら後でするから」

信号が変わり、車が発進する。柄の悪そうな男が5、6人走ってくるのが見える。何かを探す彼らを尻目に、帰路につく。

 ホテルに戻ると開いている部屋に怪我人を寝かせた。

「見た目ほど怪我はひどくないようです。ただ熱を出しているようです」

風岡の服を着せられた女を見ながら、友禅が言った。元の人相がわからないほど顔が腫れ上がっているが、すぐに引くらしい。

「あの女は誰だ」

万が一に備えて介抱を申し出た友禅を残し、砂原と風岡はスタッフルームで向かい合うように座っている。

風岡はつまらなさそうに煙草を吸っている。口にせずとも、少し待てと言っている気がした。煙草に視線を移すと、手の甲にかすり傷がある。砂原が薬を取り出すために立ち上がると、風岡はそれを手で制した。

「あの子は浅田葵よ、たぶん」

煙草を吸っていたのは、確信が持てないことをごまかすためか。珍しく自信なさげにつぶやく風岡の姿が砂原をそう思わせた。

「夕方にここを出てから、高校生ぐらいの子が行きそうな場所を虱潰しに探したわ。クラブとかゲーセンとか、若者が群れてそうなところを中心にね。でも見つからなくて、手詰まりになったから、手帳を使った。結構な人数の子が、浅田葵が5〜6人に連れられてカラオケボックスに入っていくのを見たって」

そしてそのカラオケボックスで、暴行を受けている浅田葵を発見した。

「手帳を見せてカラオケボックスに突っ込んじゃったから、警察は呼べなかったんだ」

行方不明のはずの元警察官が警察手帳を見せて捜査まがいのことをしていたら、そちらのほうが問題になっただろう。

「それで、なんであの女が暴行を受けていたんだ」

「わかんない。知らない間柄ではなさそうだったけど。顔があんなんだから、浅田葵なのか自信がないけど」

スモーク関係でトラブルを起こしたのだろうか。

「あと多分、あの子かなりクスリやってるよ。私が飛び込んだ時、殴られてたのに全然反応なかったし」

「それは、わかってる」

浅田葵は相当な量のスモークを吸引していたのだろう。重度の中毒者特有の濁り焦点の合わない眼をしていた。

「どういう事情か知らないけど、浅田葵から話が聞ければあなたの不安も払拭するでしょ。じゃあこれで依頼完了でいい?」

風岡の言うとおり、砂原の不安は浅田緑が砂原の薬を、誰に使うかという点だけだ。状況だけに浅田葵が何故暴行を受けていたか気にはなったが、深入りすることに意味はないだろう。

 疲れたから寝るっと言い自室に戻る風岡を見送ると、砂原は浅田葵のいる部屋へ向かった。友禅が傷の治療をしたのだろう、浅田葵は身体中にガーゼをしていてベッドの上にいた。眠りこそしていないが、意識がここにあるとも思えない。その様はこのホテルの多くの客がそうであるように、薬物の重度の中毒者の症状の一種だった。

「浅田緑は、お前のために俺のところへ来たのか」

浅田葵は答えない。だが緑、という名前が砂原の口から出た瞬間、ほんの少し反応したのを見逃さなかった。

「元の身体に戻りたいか」

答えられないことを知りながら、砂原は曖昧に問う。

 浅田葵がなぜこれほどの中毒になってしまったのか、砂原は知らない。

だがこのホテルに居て、治りたいという意思があるというのに、捨て置けるはずがなかった。かつての砂原もこの少女の様に拾われ、同じことを問われた。言葉が口から出ない、身体が満足に動かない、だが意思を示した。目の前の少女の様に、涙を流すことで。


*****

 浅田緑が砂原達のホテルに現れたのは、正午を過ぎた時刻だった。

「遅かったな」

浅田緑は何も言わずに、食事を取る砂原の前に立っている。

「姉のことか」

砂原の言葉に浅田緑は眼を見開く。

「なんで、私、言ってないのに」

浅田緑は食いかかるように聞くが、砂原は無視した。

「昨日保護した。そして今は本人の意思でここで治療中だ」

「ここに、いるの」

浅田緑の声が震えていた。すべてが彼女の知らないうちに進んでいる。そのことに恐ろしさを感じたのか。

「昨晩、俺達が保護をした。今は上の階で眠っているよ」

 砂原は既に、浅田緑は浅田葵の治療をするために、砂原達のホテルを訪れたのだと断定していた。

「浅田葵は重度の中毒症状が見られた。仲間と共に楽しんでいたんだろう」

 風岡が言うには、複数人の男が浅田葵を取り囲んでいた。状況的に、考えられる結論だった。そして、浅田緑が砂原を訪れた理由も、自然と理解出来る。

「もう面倒なことはしたくない。率直に聞きたい」

浅田緑が誰に緩和剤を渡そうとしていたのか。もはやここに浅田葵がいる以上、緑が嘘をつく必要はないはずだった。

「誰のために、俺のところへ来た」

浅田緑は、震えを抑える様に両手で身体を抱いている。

「…ねえ、葵はどこまで治るの」

それが答えだった。緑は、葵を治すためにここまで来たのだ。

「始めに言ったよな、本人以外の人間に俺の薬を使うことは許さないって」

なんで、浅田緑がそう口にするが砂原は答えない。代わりにさらに言葉を続ける。

「これはお前用の緩和剤だ。浅田葵が自宅でスモークを摂取していたのなら、受動吸引している可能性がある」

 砂原はテーブルに2つの錠剤を置く。

「この場で飲め。それで受動吸引くらいの摂取量なら検査をパスできる」

「…わかった」

浅田緑は質問することを諦めたようだ。砂原の差し出した錠剤を含み、ペットボトルの水で流し込んだ。

「薬代は、既に払った金と昨日のバイト代でいい。だからもう、ここには来るな」

その言葉に、浅田緑は目に涙を浮かばせた。ここに来ることがそれほど大切なことだったのか。

「私、初めて必要って言われたの、友禅さんに。ありがとうって。本当に助かりますって」

言葉を紡ぎ出しながら、浅田緑は泣き出した。その姿を見ながら、砂原は淡々と言葉を吐き出す。

「それでもダメだ。一度嘘をついた人間を信用することはできない」

住所を誤魔化し、姉の存在を隠した。そして、何より、自分のためではなく姉のために緩和剤を得ようとした。ルールに、抵触した。

「浅田葵は必ず俺達が治す」

 それでも、涙を流す緑に何か言葉を掛けたかった。姉のために危険を冒した少女に対して、冷徹に成り切れなかった。

 緑の泣き声が、一段と大きくなった。幼い子どもの様に泣きじゃくる。

砂原は部屋を出る。扉越しに聞こえる浅田緑の嗚咽を背に、仕事部屋へと戻っていった。


*****

浅田緑がいなくなったことを一番悲しんだのは友禅だった。

「ただでさえ面倒な患者が増えてしまったので、いなくなったのは本当に痛手です」

スタッフルームで休憩をしている友禅はため息混じりにつぶやいた。

「子供の手でも借りたかったか?」

「子供なんかじゃないですよ。緑さんは、必死で真剣でした」

浅田緑は友禅と働くことに、意味を見出していたのだろうか。

「必要とされるという経験が初めてだったのではないでしょうか」

浅田緑の環境を思う。両親はめったに帰らず、唯一身の回りにいる肉親である姉は非行で家にいない。彼女の孤独な環境は、彼女を必要という言葉に敏感にさせたのだろう。

「いない人間のことはいい。それより、葵のことだ」

葵という名前に、友禅は先ほどとは違う、悲しげな表情をした。

「状況は良くないです。外部の傷は癒えているはずですが、禁断症状による自傷行動がひどい」

 浅田葵は、ホテルに運ばれた時点で大量の薬物を摂取した状態だった。それも、長期的に摂取を繰り返したのではなく、一度に多量の薬を摂取したようだ。

すでに浅田葵の身体は、薬物が存在している状態が普通であると認識してしまうほど、悪化していた。

水分不足になると喉が乾くように、浅田葵は脳内刺激が不足し、渇望状態となっている。

そのストレスからか、あるいは苦しみをごまかすためか、自傷行為に及んでいた。

「それでも、特効薬はない。せめて15歳検査をパスさせたいが…」

 浅田葵の誕生日まで残り3ヶ月あまりしかない。このままでは検査にパスさせるどころか、検査会場に自力で辿り着くことすらできないだろう。

「砂原さん、彼女は諦めましょう。私達の手にはあまります。彼女が警察に捕まったとしても、ここで手遅れになるより、余程良い」

自分たちの手に余る患者を沖矢に預け、警察に引き渡すこともできる。

「今回は時間もありません。さらに葵さんから治療費を取れるとは限らない。いや、その可能性は低いでしょう」

金銭的にメリットのない患者を抱え込むことに意味はない。浅田葵は自らの手でドラッグに手を出したのだ。正当に責任を負うべきなのかもしれない。

砂原は決断を求める友禅に背を向け、扉へ手をかける。浅田葵を見て、そして決めようと思った。

「ここに置いておくことで、一番傷つくのは葵さんですよ」

「他人のために、こんなことをしてるわけじゃない」

背中に投げられた言葉に答え、浅田葵の眠る部屋に向かった。

 浅田葵は彼女が運ばれてきた日と同じように、ベッドの上で眠っていた。運ばれてきた日の傷は癒えているが、自らつけた傷がその上に刻まれ、痛ましさを際立たせている。

 だが本当に痛ましいのは外見よりも中身だ。彼女が砂原によって治療を受け続けようと、公的な医療機関によって治療を受けようと、健康といえる状態になることはないだろう。

 友禅の言うことは全くの正論だった。浅田葵がここにいる意味はなく、砂原たちも浅田葵のためにできることは何もない。

それが分かっていながら、友禅の言葉に反発するような感情が湧いたのは、自分のことであるが意外だった。


浅田葵の部屋は、すべてが開かれていた。

 備え付けのクローゼットやトイレの扉、またテレビはセットのDVDプレーヤで叩き割られて中が露見している。

窓を塞ぐようにはめ込められた扉は鍵が掛けられていたが、無理矢理開こうとしたのだろう、ひっかき傷が大量に残っている。

そしてその傷をつけた本人である浅田葵は、自らの手で破いたソファの上で丸くなるように眠っている。

病衣から覗く白い腕には、掻き毟りの跡の赤い線が見えた。治りかけの上に新たな傷が付けられ、えぐられたような跡を残している。

いくつかの傷跡は、一生残るかもしれない。傷つくのは葵さんですよ。友禅の言葉が思い出された。

「答えがわかりきってることをどうこう考えるのって、そんなに楽しい?」

 思案している砂原に声を掛けたのは、風岡だった。

「この子、ここにいるのはもういいでしょ」

友禅と同じ言葉だ。理性は賛成していても、そうじゃない部分が砂原の決断を妨げている。それが何なのか、靄がかかっている様に認識できないでいた。

「もう少し、ここに置いていたらだめか」

「ふざけないでよ」

風岡が怒気の篭った声を上げる。静かな部屋に響き、浅田葵が起きるのではないかと思ったが、何事もなかったかのように眠り続けている。

「この子のことをどんな風に思ってるのか知らないけどね、あんたが思ってるほどいい子じゃないよ。薬物に手を出したのだってこの子の意志だ。

こんなんになるまで薬物を使い続けたのも、この子の意志だ。同情の余地なんて、少しもないんだよ」

「それでも、後悔してる。助かりたがっている」

「これだけ中毒になって苦しんだら、誰だったそう思うよ。いい加減、薬で苦しむ奴全員に、過去の自分を投影するなよ。無理矢理中毒にされたあんたとは似ても似つかない」

そんなことはない、そう言葉にしようとしたが、口から出ることはなかった。自分の感情を読み解かれたことへの驚きか、否定の余地がないことをわかっていたからか。

「麻薬取締官が捕まって、追っていた薬を全部打ち込まれて、廃人になりかけてた。傍目にも助けないとって思うくらい不憫だったよ。

三代さんがあんたを救ったのは、そういう感情なんだ。今のあんたとは、全く違う」

 年老いた医師が気まぐれに可哀想な男を救った。医師は三代という定年退職した悪党で、可哀想な男は砂原だ。

老後の趣味代わりに砂原の治療をしたと嘯いていたのは、もうずっと前だ。いまはもういない。

「この子を救っても、三代さんにはなれない」

砂原の中毒症状が緩和し、少しだけ意識が戻った頃に三代は砂原に問うた。

『自分のような中毒者を救いたいなら、やり方を教えてやる。外に出ても、何にもなれないぞ。どうする?』

その問に是と答え、三代からあらゆる治療法や薬物の知識を仕込まれ、このホテルを継ぐことになった。友禅は三代のアシスタントとしてすでにホテルで生活していた。

「三代さんだって、見限った患者はいた」

 眠る浅田葵の顔を見る。この子が警察に連れて行かれると、浅田緑は悲しむだろう。だからもう少し、限界までやりたいと声にしかけたとき、砂原の身体が暖かさに包まれた。

それが風岡に抱きしめられていると気付いたのは、彼女の煙草の匂いがしたからだ。

「この子がここに来てから、もうずっと寝てないでしょ。このままだと、あんたが先に倒れちゃうよ」

浅田葵が来てから3日ほど、自傷行為を防ぐために友禅とかかりきりになっていたのは確かだ。その間、睡眠導入剤を摂り忘れていたことに気がついた。

「私達は聖人じゃない。救いたい奴だけ救えばいい」

 三代の跡を継いで、このホテルで高額の治療を続けていても、薬物中毒者は減らないだろう。むしろ、砂原達のせいで薬物を売り払う人間が潤い、さらなる被害者が増えるだろう。

それでも続けるのは、目の前で苦しむ人を救いたいという漠然とした希望を叶えるためだ。中毒になっても多くを失っても、消えずに残っていた希望だ。

その希望を叶える手段が目の前にあったから、このホテルで治療をしてる。そうしないと、何もなくなったことが受け入れられないからだ。

「正気になるなよ。私達は自分を誤魔化すためにここで治療してるんだ」

「…わかった。浅田葵の治療は諦める」

そう決めると、ふっと身体に力が入らなくなった。倒れるように体重を風岡に預けると、思考がぼやけるのを感じた。これが眠気だと気がつくと、安堵ともに瞼を閉じた。


*****

「眠れるようになってよかったですね」

 薬に頼らない眠りから目が覚めると、自分の仕事部屋にいた。風岡が運んだのだろう。礼を言おうスタッフルームへ行くと、友禅が出迎えた。

「身体が限界だったのかもしれん。3日は寝ていなかったからな。それで、患者はどうなっている?」

友禅が簡潔に患者の様子を話すと、話題は浅田葵に移った。

「浅田さんは砂原さんが眠ってから、また自傷行為を行おうとしましたので鎮静剤で抑えました」

「友禅、浅田葵は諦めることにした」

そう伝えると、友禅は少し安心したような表情をした。彼も激しく暴れる浅田葵を抑えるのを、大きな負担だと思っていたのかもしれない。

「沖矢さんのところへ運ぶのなら、鎮静剤が効いている間がいいですね。それとも、眠っている間に運びますか」

砂原が浅田葵の治療を諦めたことを、友禅はどう思ったいるのだろう。

ずっとこのホテルという特殊な環境で治療を続けてきた友禅にとっては、患者を切り捨てることなどすでに経験していることなのだろうか。

「三代といたときには、治療を諦めた患者はいたか」

 三代という単語に、友禅は驚いたようだ。思えば友禅に仕事とは関係のない話題を切り出すのは珍しいことだ。

「懐かしいですね。三代さんは患者の治療を盆栽を育てるようなものだと言ってました。だから、形にならない木があるのは自然だとも」

三代も自分のために治療という行為を行っていた。その事実がなぜか安心したような感情をもたらした。

「なら、俺も盆栽のひとつか」

「そんなことないですよ。『こいつは救う』とつぶやいて治療していましたよ。どういう意図かは、三代さんにしかわからないことですが」

いない人間の心中など察しても何にもならないだろう。浅田葵のことについて話を戻す。

「なるべく早くに運んでしまおう。今日の夕方くらいに車を出す」

わかりました、と友禅は頷いて、疑問を口にした。

「緑さんは、葵さんがここにいることを知っていますよね。どうしますか」

 浅田緑を追い返した日、確かに葵がいることを話した。このまま葵を警察に渡すことは緑への筋が通らないだろう。

砂原達に嘘をついてまで治そうとした姉を砂原達は諦めるのだ。到底許してもらえるとは思えないが、一言だけ詫びたい。

「では、風岡さんにも手伝ってもらって、少しだけ葵さんを緑さんと会わせましょう」

浅田緑と会うことで浅田葵が少しでも回復するといい。そんな考えが頭を過った。

 浅田葵が比較的落ち着きを見せた17時頃、砂原は浅田緑にこれから行くと連絡を入れた。

「すぐに済ませて」

短く答えるだけで、感情を読み取ることはできなかった。砂原も、長く話しをさせるつもりはなかった。

 友禅の運転する車には助手席に砂原が座り、後ろには風岡と浅田葵が座った。浅田葵は鎮静剤を打ってはいないが、落ち着いているようだ。

ホテルを出る前に警察へいくと説明をしたが、なんの反応も見られなかった。今も心ここに在らずといった様子だ。

浅田緑はこの様子を見てどのような反応をするのだろうか。

「そろそろ着きますね」

「家の前に車をつけよう。この時間なら住宅街の真ん中は人通りが少ないから都合がいいよ」

 一度、浅田邸を訪れている風岡が細かい指示を出している。そして、数分で一際大きな一軒家の前で車は止まった。確かに風岡が写真で見せた家だ。

門扉から玄関口までが広く、庭があるが手入れを怠っているのだろう、雑草で台無しになっていた。

「まずは浅田緑を呼びだす」

砂原は携帯電話で浅田緑の連絡先にかける。数コールの後に電話越しの声が聞こえた。

「見えてるよ。もういけばいい?」

「玄関まで出てきてくれ」

会話をしながら玄関を見ると浅田緑が出てくるのが見えた。

「じゃあ、行ってくる。二人は車で待っていてくれ」

「一緒に行かなくていい?」

「外に注意してくれてる方が大事だ。何かあったらすぐ知らせてくれ」

 そして浅田葵の手を引いて車を降りる。自分の家を見ても浅田葵は何も反応を見せない。門扉を抜けると、浅田緑がこちらに歩いて来た。

 妹がいるぞ、そう声をかけようとしたとき浅田葵は緑に向かって駆けていく。一瞬、再会の喜びに駆けていったと思ったが、それは違った。

 葵は緑を駆け寄ると、勢いのまま押し倒した。

葵の細い腕が緑の首に伸びる。それが何を意味するか、思い至った時、砂原は駈け出した。

だが、足が思うように動かない。自分に、取締官だった頃の体力はないということを、痛感させられる。

風岡が、もたついている砂原を追い抜いた。葵と緑に近づき、引き剥がそうとする。だが葵の力に手こずっているようだ。

「離しなさい。姉妹じゃないの」

ようやく砂原が3人に追いついた時、風岡は葵を引き剥がし、緑の様子を見ていた。

「どうだ」

「だめ。息してない」

 その言葉を聞くと、砂原は人工呼吸を始めた。捜査官時代に教えられたことを、忠実に実行していく。

風岡は浅田緑の携帯電話を抜き取り、救急車を呼んだようだ。

「5分で来るって」

「くそ、なんでこんなことに」

浅田葵が緑に危害を加えるとは思っても見なかった。油断した、砂原の落ち度と言う他ない。何度かの人工呼吸と胸骨圧迫を繰り返したとき、風岡が声を上げた。

「砂原、だめだ」

風岡の視線の先には、車の窓から友禅が合図をしているのが見えた。警察が来ている。一刻も早く、この場を離れなければならない。

「砂原、ダメだ。警察が来る」

「畜生、畜生」

繰り返し人工呼吸をしようとしたところで、風岡に阻まれた。

「車に戻ろう」

そして腕を捕まれ、引かれるように後部座席に乗り込むと、車が発進した。浅田邸を見ると、緑も葵も倒れこんだままだった。砂原の両手には鼓動の無い虚しさが残っていた。


*****

 ホテルに戻ると、何も言わずに仕事部屋の作業椅子に腰掛けた。

 なぜ葵は緑を殺そうとしたのだろうか。

そして、緑は無事なのだろうか。疑問が頭から離れない。しかし答えを出せないのは、また救えなかもしれないという恐怖に支配されているからだ。

葵を警察に引き渡すと決めた時とは全く異なる感情だ。砂原のミスで、なんの落ち度もない人間が死ぬことになったのだ。

「あんたのせいじゃない」

車から降りるとき、風岡から言われた。そうとは思えず、返す言葉が見つからなかった。

 浅田緑が死ぬかもしれないと思うと、彼女がホテルにいたときの様子が思い出された。友禅と掃除する姿、必要だと言われ嬉しかったと涙ながらに訴える姿。

自分たちのような、真っ当じゃない人間によって歪められていいはずがない。こんな形で終わらせていい人生じゃないはずだ。

「すまない、すまない」

上を向き、どこでもない方に謝罪の言葉を口にする。それでも、許された気持ちにはならない。

 せめて無事を知りたい。そう思った時、砂原の携帯電話が震えた。画面を確認すると、沖矢の名前が表示されている。話しをしたいとは思わなかったが、自然と手が通話を選ぶ。

「やあ、大変だったみたいだね」

「何の用だ」

軽薄な沖矢の声が一層不愉快に響く。一秒も聞いていたくない。

「何の用って、葵って子を預かってほしいから来いっていったのはそっちじゃん。約束の時間になっても来ないから、ちょっと調べたんだよ。

そしたら大変なことになってるからさ、すごく心配で電話しちゃった」

沖矢に引き渡す時間はとうに過ぎていた。連絡の不備を詫びる気にはならなかった。

「俺には心配いらない。用がそれだけならもう切るぞ」

「あの子達、どうなったか気にならない?」

「知っているのか」

 沖矢は砂原と違い情報を目ざとく仕入れる能力を持っている。救急搬送された中学生の状態など、幾度か電話すれば簡単に手に入れられるだろう。

「やっぱり知らなかったんだ。そんなに教えてほしい?」

「頼む、教えてくれ」

沖矢に対して懇願する屈辱よりも、今は緑のことが気になった。

「緑ちゃんは、死んだよ」

声が出ない。引き合わせるべきじゃなかった。警察が来た時も、構わず応急処置を続けていればよかった。後悔の言葉が頭から離れない。

「救急車がついた時には、すでに手遅れだったって。ものすごい力で首を締められたみたい」

葵が暴れた跡の部屋を思い出す。何かリミッタが外れた様な、そう感じさせるほどの力だった。女子供を絞め殺すには十分だろう。

「あと、お姉ちゃんの葵ちゃんは警察に連れてかれたよ」

「なぜ、葵は緑を殺したんだ」

「なんでそんなことが気になるの?中毒者が錯乱して誰かを襲うなんて、珍しくないじゃない。他に理由があると思う?」

今まで多くの中毒者を見てきた。だから、沖矢の言う様に錯乱、禁断症状で誰かを襲うことなんて珍しくない。

事実、葵も友禅に対して暴力を振るっていた。

「緑ちゃんが死んだのは、ただのよくある中毒者の犯罪だよ。仲がいい妹でさえ、傷つけるほどの魔力。そういうものだって知ってたでしょ」

そうだ。浅田緑は姉の葵を中毒から救うため、砂原を頼って来たのだ。

そして嘘をついてまで治療薬を施そうとした彼女が、こんな結末を迎えるのは間違ってる。

「ほんとにさ、緑ちゃんはいい子だったよね。葵ちゃんがクスリなんてやらなきゃこんなことにならなかったのにね」

「その葵にクスリを売りつけたのは、お前だろう」

「そうだよ。でもね、僕が売りつけなくても、誰かが葵ちゃんを貶めていた。僕らの生きてる世界はそういうところだよ」

麻薬取締官になってから、散々見せつけられた世界だ。普通の人間がクスリによって周りを巻き込みながら沈んでいく。

「僕はクスリを売ってる屑だ。でもね、君に売った相手の情報を渡して、中毒にならないようマネイジメントしている。

他の屑みたいに人の人生を潰したりしない。だから砂原君も俺とだけ取引をしているんだろう?」

麻薬取締官でなくなり、外側から薬物の被害者を救えなくなった。

でも、このホテルで治療を続けることは、麻薬取締官とは違ったアプローチで被害者をなくせるのではないか。

初めて沖矢と出会ったとき、そんな言葉を投げかけられた。

『こんな人を壊すような商売、誰だってしたくないよ。僕だって、上の人に言われているからやってるだけだ。

それにクスリだって、付き合い方を間違えなければ身を滅ぼすこともない。

疑問に思ったことはない?酒だって、煙草だって、なんなら珈琲だって中毒があるのに、なぜクスリだけダメなんだって』

三代に連れられていった沖矢の事務所は、きらびやかでは無いが洗練されていたのを覚えている。

大きなオフィスチェアに背を預ける沖矢自身も彼の部屋を構成する一つの様に見えたことも。

『使うことを自分がやめられないなら、誰かが止めてやればいい。それが三代さんと君ならできる。

僕は自分のクスリの常用者で、ブレーキが効かなくなった奴を紹介しよう。その人たちを君達が治療する。

中毒さえなくなれば、クスリは煙草と変わらない嗜好品だ。高額だけどね。そして僕は僕以外のクスリの流通ルートの情報を増やしていく。

君に紹介するために。いつか、だれも中毒にならなくなるだろう。君がすべての歯止めをするからね』

妄想だと思った。だが、何もなくなった男には歩き出す道標のように思えた。

『協力しよう。僕らで、内側から変えていこう。これは僕らの約束だ』

「このくらいで約束は終わらないよ。いや、終わらせない」

沖矢の声で砂原は過去から意識を取り戻す。寒気がするほど、冷たい声だ。

「砂原君のホテルを求めている人は、多く存在している。君は、多くの中毒者を救う希望なんだ。簡単にやめるなんて、言わせない」

そう沖矢は言い切ると、少しの沈黙が支配した。砂原はやめようと思っていたつもりはない。しかし、緑と葵のことで、自分の行為に虚しさのようなものを感じていたのは事実だ。それを見抜かれ、嗜められた。

「やめないさ。俺の命が続くまで」

「その言葉が聞けて安心したよ」

 その言葉を最後に、話題は切り替わった。次の患者の紹介、現在受け入れている患者の状況報告。いつもと変わらない業務報告を行い、通話を終えた。その後、ホテルの部屋を移すモニタに目をやると、多くの患者が思い思いに行動しているのが見えた。彼らの状況をまとめる。緑のことも、葵のことも、なかったかのように、砂原はいつもの夜に没頭していった。

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