紺色の灰
@waritomu
1章
震える携帯電話を懐から取り出すと、不愉快な名前が目に入った。
携帯電話にかけてくる人間など、一人しか思い浮かばないが、思わず液晶画面を確認してしまうのは習慣か。
砂原は仕事部屋の大きなオフィスチェアに身体を預けながら、通話アイコンをタップした。時刻は丁度、午後3時を過ぎたところだ。
「この時間に電話に出てくれるとは思わなかったよ。今は客の世話の時間じゃなかった?」
男性にしては高い声が耳に届く。電話越しの声だけでも沖矢のにやけた笑い顔が想像出来た。
作業机の奥には大きめのモニタがいくつか壁に掛けられている。
その全ては砂原の客人を写しており、個室で銘々にくつろいでいるのが分かる。
「最近は手が掛からなくなっているからな」
「それは僥倖。商売上がったりなのかと心配したよ。ところでなんだか機嫌が悪い?」
「不愉快な男の声を聞いてるからな。要件がないなら切るぞ」
沖矢の話はいつも、本題に入るまでが長い。それが、砂原の機嫌が悪くなっていく様子を楽しむためだとわかったのは、5回ほど取引をしたときだった。
「そういう時は緑色のモノをオフィスに置くといいらしいぜ。心がすごくリラックスするらしい。昨日テレビで胡散臭い風水師が言ってたよ。
おっと、要件のことだった。今から一人、お客さんをお願いしたいんだけど、いいかな」
お願い、と言いながら既にそのお客さんとやらはこちらに向かっているのだろう。
沖矢のこういうところが、砂原は嫌いだった。
「わかった。どうせ使い終わって興味がなくなったんだろう」
「使い終わったというか、勝手に終わってしまってたんだよね。興味はもうないから、好きにしていいよ」
その言葉の最後に、電話は一方的に切られた。
沖矢から紹介される客は大抵、碌な状態ではない。
生活費を使い込み,帰る家さえ失った元エリートビジネスマン。中毒症状で歩くことさえできなくなった成金の令嬢。薬遊びにのめり込み過ぎた教師と生徒。
自分の仕事とはいえ、ゴミ掃除をしているような感慨に陥る。仕事部屋のラップトップの中には、それらのゴミがいかに回復していったのか、その記録が刻々と記されている。
砂原は記録を意味もなく見返す。時折囚われる無力感を打ち消すためには、自身の成果物を眺めることが薬になると、長い経験から学んでいた。
*****
沖矢の電話から1時間ほど経った頃、砂原の仕事部屋に警報の音が鳴った。監視カメラいずれかが、人影を捉えたらしい。
仕事部屋に並んだ12枚のモニタはそれぞれの監視カメラの映像を映している。縦に三段、各列に四枚づつ。几帳面に整頓されたモニタの最上段の左から二枚目。エントランスの映像を映すモニタの左隅に、メッセージダイアログが浮かんでいる。異常検知のサイン。
監視カメラの映像を見ると、背の低い少女が所在なさ気に立っているのが見える。沖矢の紹介の客だろう。
「エレベータの右手にある、スタッフルームに入って来なさい」
備え付けのマイクでそう言うと、モニタの中の少女は驚いたように小さな声を上げた。
声と背格好から察して、十代中頃。沖矢の客としてならともかく、砂原の客としては若い部類になる。
また、一人で来たというのも珍しい。
少女が移動していくのを横目に、移動するために砂原も立ち上がる。椅子から身体を持ち上げた瞬間、視界が遠のくような錯覚に陥った。立ちくらみ。頭から血が失われるような感覚。倒れないよう机に手を付き、身体を支える。ほんの少しの時間そのままの姿勢でいると、徐々に感覚が元に戻ってきた。
体重をゆっくり両足に戻し、手を机から離す。躓かないように気を使いながら、ゆっくりと部屋を出た。
スタッフルームに入ると、既に少女は室内に立っていた。
「あの、えっと」
モニタの中と変わらない印象。落ち着きがなく、砂原と目を合わせようとしない。
「座って」
ぶっきらぼうに砂原が言い捨てると、砂原と少女はスタッフルームのソファに向かい合うように腰を掛けた。
「まず確認したいんだけど、ここがどういうところかわかってる?」
「いやらしいことをするところ…ではないのですよね」
沖矢からどこまで聞いているのかわからないため、確認の質問であったが、少女は異空間に気を取られているらしい。
砂原の仕事場は、廃業したラブホテルを利用している。
目の前の十代そこそこの子共にとっては、落ち着きを失うには十分な場所のようだった。
「そうじゃなくて、何がほしいかってこと」
「あ、はい、えっと」
おずおずと少女は、砂原に求めることを話し始める。
*****
「私から、スモークの痕跡を消してほしいんです」
少しだけ落ち着いた様子で、少女は言った。
スモーク。若い人間の間で流行しているドラッグの一つだ。
注射器で静脈から注入したり、鼻から吸引する旧来のドラッグと違い、スモークは名の通り、煙を吸う。
液体状のスモークを紙に吸い込ませ、それを燃やした際に発生する煙を吸引し、高揚感と多幸感を得る。
手軽に摂取できることと、一度に大勢の人間が煙を吸うことができるため、パーティドラッグとして使われている。
「いつ手を出した」
「一年くらい前です。街で知り合った人と遊んだ時に、誰かがスモークを使って。そこから勉強で集中できないときとか、やなことあった時とかに使って…」
煙を吸い込むことで多幸感を得るスモークは、受動的な摂取がきっかけでハマっていくことが多い。偶然知ってしまった格段の多幸感、充足感は簡単に忘れられるものではない。悪いことだと知っていても幸福に浸るために、自らスモークに手を出していく。購入先は"街で知り合った人"とやらだろう。
砂原を訪れるということは、自分がのめり込んでいたものが人生を引き換えにする幸福だと気づいたのか。
「まだ15歳じゃないのか」
砂原の問いに、少女は小さくはい、と答えた。
スモークが大きく問題視されたのは、簡単に大勢が吸引できることに加え、強い中毒症状を持っているためだ。
幾度かの吸引の後は、動悸や息切れ、悪化すると幻覚を見る場合もある。
特に中毒症状は身体が出来上がっていない若者には顕著で、回復も難しい。
警察は、スモークを始めとする若者のドラッグの流行を食い止めるために、15歳を迎えた男女に対して、その月に身体検査を行うことを義務付けた。
昨年、何人かの少年少女から薬物反応が検出され話題になった。
この15歳の誕生月に行う検査を砂原達のような一部の人間は、15歳検査と呼んでいた。
「身体検査の結果は親や警察の目にも止まります。どうにかして、スモークを吸ったことをバレないようにしないと」
スモークは分類上、向精神薬とされ、所持していた場合は罰則が与えられる。それだけでなく、中毒症状を回復させるために警察の管理下である治療施設に入院させられる。中毒性の高いスモークから完全に回復するには長い時間がかかるだろう。その間、患者は外界とのつながりを持つことはできない。そして回復後は犯罪者として少年院にいれられる。
そうなってしまえば、人並みの明るい人生は望むべくもないだろう。
まともな教育も受けられないまま、治療施設で長い時間を過ごし、社会復帰をしても前科者としての社会的ビハインドを負っている。
もっとも、人並みの人生を望む人間ははじめから違法薬物などに関わらないとも思えるが。
「薬から足を洗うために、中毒を回復したいのか。それとも一時的に検査を誤魔化したいのか。どちらがいいんだ?スモークならどちらでも用意できる」
「本当ですか」
今まで伏し目がちだった少女がようやく顔を上げた。
茶色がかった瞳が、期待を込めて砂原を見つめている。
「中毒の回復なら300万。それから完全に回復するまで、期間は一ヶ月以上かかるだろう。それと中毒はなくなるが、それ以外の副作用は回復しない。
一時的に検査をごまかすなら20万。こちらの出す薬を検査の2週間程度前から飲んでもらう」
砂原の仕事は、警察の厄介になることなく薬から足を洗わせることだ。
中毒症状を緩和させる薬を処方し、必要であれば入院をさせる。
社会に薬物使用が判明しないよう、体内の後片付けして対価を得ている。
砂原の言葉を聞くと、少女はまた俯くように下を向き始めた。そして少しの逡巡の後、ためらいがちに疑問を口にした。
「あの…お金取るんですか?」
「当然だ。誰であろうと金額は変わらん。払えないなら、帰れ」
15に満たない少女に払えるような金額ではない。相場通りの金額を提示しただけだが、本心ではこの少女に諦めさせる心づもりがあった。
砂原の予想とは裏腹に、少女は悩んでいるようだった。少女と言えども、20万程度で人生の危機を乗り越えられるなら安いものだったか。
馬鹿正直に相場通りの値段を言わなければよかったと反省をしていると、少女が意を決したように砂原を見つめているのに気づいた。
「20万の薬でお願いします。お金はすぐに持ってきます」
そう言うと、すぐに少女は立ち上がって部屋を出ようとした。そこに至って、砂原は大事なことを聞き忘れていることに思い至った。
「出て行く前に、2つ言うことがある。お前がもし、俺から買った薬を自分以外の人間に使ったり、売ったりした場合、
俺はお前に薬を売らない。だからここに入院しないのなら、定期的に薬を買いに来て貰う」
強い語気に、少女は少しだけ驚いた様だ。砂原の返答を求める視線に押されるように、返事をする。
「私は、自分のために薬を買います。もうひとつは何ですか」
「出て行く前に、名前を教えてくれ」
「浅田緑です」
緑。先ほどの沖矢との電話を思い出す。浅田緑は砂原の心に安らぎを与えるだろうか。
一人になったスタッフルームでそんなことに思いを巡らすが、なけなしの金を集めて戻ってくるであろう少女を想像すると、安堵とは程遠い感情が去来した。
*****
戻ってこない可能性について思い案じていたが、しかし杞憂であった。
既に日は落ちきり、冬の夜を象徴するように寒さが身に響く。浅田が砂原の元を出て行ってから、3時間ほど経過していた。
「遅かったな」
「お金を持ってきました。約束通り、薬を下さい」
浅田は小さめの学生鞄から、封筒を取り出した。突き出された小さな右手を見ると、所々にあかぎれができている。大方金集めのために、方々を走り回ったのだろう。そう思うと、この小さな客に少しだけ憐憫の念が湧いた。
受け取った封筒の中身を数えると、一万円札が17枚、5千円札が1枚入っていた。
「20万には足りないようだが」
「…それ以上は、誰も貸してくれませんでした」
この少女は砂原が封筒の中身を確認せずに薬を渡すと思ったのだろうか。弱々しい見た目に反して、ふてぶてしい性格をしている。
浅田は両手を前で重ね、背を丸めて小さくなり、俯いている。
お手本通りというような申し訳ないという態度だ。
その姿を見て気づく。これは彼女の処世術なのだ。申し訳無さそうな小さな態度で、相手の同情を誘い自分の要求を通そうとする。
自分の弱さとその有用性を自覚している。もしかすれば、このような手段でスモークを手に入れていたのかもしれない。
砂原はこの浅田についてあやふやな印象を持っていた。
砂原の元を訪れる人間はおおよそふた通りに分類できる。金銭的に余裕があり、遊び半分で手を出したドラッグで中毒症状が出てしまった者。ドラッグの中毒症状から回復しなければ、社会的に大きな不利益を被る者。前者は砂原と自身を対等もしくは砂原を下に扱う。そのため、期間の短縮や薬の配達など、奥目もなく要求する。一方、後者は異なる。追い詰められ、砂原をまるで救いの神のように扱う。深々と頭を下げ懇願し、砂原の言ったことを神の啓示のように盲信する。治療代が足りず、娘を置いて行った男もいた。
では浅田はどうか。終始おどおどしているだが、焦りというより、不慣れな環境に落ち着かないという様子だ。危機に直面している一方で、どこか余裕のようなものが感じられる。薬代に足りない2万5千円。たったこれだけの金額がなぜ集められない。手を尽くしてしまったとしても、砂原に懇願するくらいのことはしそうなものだ。仮に砂原に治療を拒否されても、あっさりと引き下がってしまいそうだ。
目の前の小動物の様な少女は、見るからに普通の、どこにでもいる中学生だ。薬物遊びを覚えているような、スレた印象はない。本当に、治療を求めているのか。
「あと一週間待ってやる。それで足りない金を作れるか」
「多分、無理です。一週間じゃ働いても足りないし、そもそも働ける場所がありません。もうスモークを買うためにお金借りまくってて、貸してくれる人いないし」
「わかった。ならお前は明日から三日間、ここで働け。それで足りない2万5千円は目をつぶってやる」
浅田は目を見張った。想定外、といった顔をしている。
「え、でも…」
しどろもどろで言葉になっていない。砂原は畳かかるように言う。
「いやならそれでいい。俺は別に、どうしてもお前に薬を買って欲しいわけじゃない」
嘘だ。沖矢との関係を保つために、浅田に薬を買ってもらう必要がある。しかし、簡単に金額を下げることはできない。
それに、浅田には選択肢がないはずだ。本心から、治療を望むのであれば。
「わかりました。働きます」
渋面を作りながらも、浅田は承諾した。
浅田が出て行った後、砂原は彼女に対して考えを巡らしたが、腑に落ちる結論はでなかった。
やはり調べる必要がある。浅田に対して3日の労働を求めたのは、砂原が浅田について調査する時間を設けるためでもあった。薬を渡すだけなら簡単なことだ。しかし事情のしれない人間に薬を渡すことは、砂原にとってリスキーな行為だ。特に浅田のように引っかかる印象を持った時は、念入りに、その目的がはっきりわかるまで調査したい。
「はいはい、沖矢です」
まず、砂原は報告を兼ね沖矢から探ってみることにした。
「砂原だ。お前の紹介した客が来たぞ」
「ああ、緑ちゃん?フェレットみたいでかわいいでしょ。眺めてるとリラックスできるよね、おどおどしてて。ちゃんと薬あげた?」
緑ちゃん。名前は偽っていないようだった。
「浅田は本当に薬を求めているのか」
「さあ?ただ検査に引っかからないようにしてくださいって言われたから紹介しただけだよ。本心なんて知らないし、知ったことじゃないかな」
「浅田はいままでどのくらいのスモークを購入していった?」
「お客さんのことだから秘密って言いたいけど、治療に必要な情報?」
「摂取したスモークの量が知りたい。彼女が本当の量を話しているとは思えない」
「ちょっと待っててね。」
電話越しにキーボードを叩く音が聞こえる。顧客データベースから浅田の購入履歴を遡っているのだろう。
「ちょうど3ヶ月前に、20gだね」
3ヶ月前。浅田は一年前から頻繁に摂取しているといったはずだ。20gなら少しずつの摂取で1年間使い続けることができる。しかし、三ヶ月前に購入というのは、明らかに浅田本人の話しと食い違っている。
「お前の息がかかったとこ以外から購入した可能性はあるか」
「スモークは僕が全部管理してるから、ありえない」
つまり浅田は砂原に対して嘘をついていたことになる。しかし、摂取期間を多く申告することに意味があるのだろうか。
「もしもーし、電話で無言にならないでよ。とにかく緑ちゃんをよろしくね。助けなくていいけど、薬物中毒者として世の中に知られないようにね」
わかっている、と短く返して通話を終えた。
沖矢からわかったことは、浅田が何かを隠しているということを確信させただけだ。まだ目的がわからない。そう考えると、砂原は仕事部屋に備え付けられた電話機を手に取る。よどみなく部屋番号を入力する。
「はーい。なにか御用、砂原」
間延びした声が砂原の耳に届く。思えば深夜0時を回りかけているこの時間帯に電話するのだから尤もだろうが、このホテルの住人に遠慮することはない。
「仕事を頼みたい。簡単な身辺調査だ」
「えー面倒くさいな。今月もう仕事したじゃん」
「薬代には程遠いな。追い出されたくなかったら働け風岡」
「厳しいなあ大家さんは。わかったから資料送っといて」
これでもう少しは浅田に関する情報が集まるだろう。砂原は浅田から聞いた個人情報をまとめ、風岡にメールした。
この件は明日以降に考えることにして、砂原は思考を切り替えた。まだ治療中の客の相手をしなくては。壁一面に並べられたモニタは各部屋の様子を示している。幸い、すべての部屋の住人は穏やかに寝息を立てている。だが、いつ禁断症状で暴れだすかわからない。各住人の経過をまとめ、朝までモニタを見張り続ける。これが砂原の仕事の薬物依存治療の主であり、毎日の日課でもあった。
*****
浅田がホテルにやってきたのは午前9時に差し掛かり、砂原が朝の仕事を始めようと、仕事部屋を出ようとしたときだった。
「ちゃんと来たか」
「来ないと、薬くれないでしょう」
非難がましく浅田は答える。昨日と同じようにエントランスの浅田に、スタッフルームへ入るよう案内を出そうとしたが、勝手を知ったようにスタッフルームへ入っていった。砂原が仕事部屋からスタッフルームに移動すると、浅田はソファに腰掛けていた。薬をもらう約束を取り付け終えたためか、昨日より落ち着きがあるように見える。
「どんな仕事をすればいいんです?」
「ちゃんと説明はする。まずは着替えろ」
浅田は中学校の制服を着ていた。考えてみれば今日は平日の水曜日だから、彼女は登校日のはずだ。学校に行くと偽って家を出たのかもしれない。
「この服じゃだめですか」
「だめだ」
理由を欲したのだろうが、応える気などなかった。
スタッフルームの奥にある衣装室には、かつてこのホテルが本来の利用をされていたときの備品がそのまま残っている。砂原は一番手前のハンガーにかかっていた服を手に取る。本来は違う用途のコスチュームだが、浅田が今着ている服でなければ何でもいい。浅田は砂原から手に取ると怪訝そうに顔をしかめた。
「なんで、セーラー服からセーラー服に着替えるの?」
「黙って着替えろ」
そう言って砂原は衣装室を指差した。浅田は渋々といった様子で、衣装室に入っていった。
5分ほどで浅田は着替え終わり、衣装室から出てきた。先ほどのセーラー服と少しだけデザインが異なっていること以外、何の変化もなかった。
「これ、ゴワゴワする。しかも奥にやらしい衣装いっぱいあったし。ねえ、仕事ってそういうことなの」
茶化すように浅田が聞く。いつの間にか浅田は敬語をやめており、まるで態度が変わっている。昨日のようにおどおどとした態度は、意図的に行っていたのだろうか。
「だっておじさんには、ああいう態度とっても意味ないでしょ」
疑問が顔に出ていたのだろう。浅田は当然と言った風に答える。
「おどおどしておとなしい感じにしてると、大人の男って優しくしてくれるんだよね。沖矢のお兄さんもスモークちょっとおまけしてくれたし」
沖矢のことだ、わかっていて付き合ったのだろう。
「ねえ、やらしい仕事なの」
いたずらっぽく笑う顔は、まんざらでもないような浅田の意思を表しているのだろう。
「お前にはただの清掃をやってもらう。着替えさせたのは、持ってきた服が汚さないためだ」
「そう。この服は汚れていいの? 安っぽいけどかわいいのに。もったいない」
何が楽しいのか、浅田はひらひらとセーラー服のリボンを指で弾いて遊んでいる。
「無駄口はおしまいだ。移動するぞ」
砂原と浅田はスタッフルームを出ると、エレベータで2階に向かった。
「ねえ、ここって普通のラブホテルじゃないよね。なんで掃除が必要なの?」
「ひどい中毒症状のやつは自宅じゃ手に負えないから、ここで預かるんだ。だから部屋はすぐに汚れる」
2階には男が掃除道具を携えて待機していた。背が高く、似合わない清掃着を身に着けている。
「おはようございます、砂原さん。となりの方はお客様ですか」
「友禅、この浅田は今日から手伝いだ。好きに使え」
友禅は急な連絡にも当たり前のようにそうですか、と答えた。
「一人では時間がかかったしょうがないですから、お手伝いはありがたいですね。はじめまして、浅田さん。友禅誠一郎です」
慇懃な友禅に、浅田はどう反応していいか困っているようだった。先程までのおどけたような態度は引っ込んでいる。砂原以外の人物が出てくるのが以外だったのだろうか。
「…浅田です」
「浅田さん、お仕事がんばりましょう」
友禅はそう言うと浅田をつれて部屋の中に入っていった。
「また後で見に来る」
廊下から声をかけると、友禅がわかりましたと返し、一礼している。その隣で浅田が不安そうに砂原を見つめていたが、無視した。今からの時間であれば、空いている部屋の掃除だろう。問題が起きる心配はない。
砂原が仕事部屋に戻ると、長い髪の女が椅子に腰掛けていた。
「仕事部屋には来るな、風岡」
「いいじゃない、私だって仕事中よ」
風岡は昨日メールで渡した浅田のプロファイルを印刷して眺めているようだった。
「何か分かったのか」
「冗談。今起きてきたところよ。この資料何時に送ってきたか覚えてる?」
そう言えば深夜だったか。砂原の体感では既に8時間ほど経過していたため、進展を期待してしまった。
「で、私は何をすればいいの?」
「そこに書いてあるだろう。その浅田緑の身辺調査だ」
「そりゃわかってるけどさ。何を中心に、とかあるでしょ。3日しかないんだから全部詳しくなんて期待しないでよ」
風岡は呆れたように笑った。知りたいのはなぜ浅田がスモークの摂取履歴をごまかしたのか。そして、スモークの緩和剤を求める理由だ。
特に浅田の危機感のない様子が気になる。今日もなぜ、態度を翻したのか。浅田は意味がないからと言ったが、緩和剤をもらう前からふざけたような態度を取ることにこそ、意味がない。砂原は気味の悪さを感じていた。
「考え過ぎじゃない?この子がただ行き当りばったりで行動してるだけでしょ。お薬遊びして、検査をパスできないからここにきて、集めただけのお金を渡す。緩和剤をくれればラッキー。じゃなかったら残念だけど警察に行こう、みたいな感じでさ」
一通りの話を聞いた風岡はそんな感想を口にした。
「考え過ぎならそれでいい。一番避けたい自体は、緩和剤が俺の知らないところで広がっていくことだ」
「じゃあ交友関係を中心に。それにしても中学生が薬物中毒なんて、世も末ね」
風岡が出て行くと、仕事部屋にいつもの静寂が戻った。今日は新規の来客の予定もなく、取り急ぎの仕事もない。手持ち無沙汰になって、モニタの画面を見る。浅田が友禅と共にベッドメイキングをしている。懸命にシーツを広げる様は、とても薬物中毒になるような少女には見えない。
砂原の懐に入れた携帯電話が震える。取り出して見ると、丸い文字で就寝時刻と表示されている。砂原は仕事部屋とつながった自室に戻ると、ピルケースから錠剤を取り出し2錠飲み込む。ベッドの上に寝転がると、まもなく眠りが訪れた。その直前まで、なぜ浅田は薬物になど手を出したのか、想像を巡らせていた。
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