2章

 砂原が目覚めたのは、眠りに落ちてから3時間後だった。直前まで考えていたことが反映されたのか、懐かしい悪夢を見た。汗で変色した下着を洗濯機に入れるとシャワーを浴び、仕事部屋に戻る。

 モニタを覗くと4階の一室で部屋で患者が自分の爪を食いちぎろうとしているのが見えた。自傷行為で中毒症状を紛らわそうとしたのだろう。右手の親指が血で真っ赤になっている。エントランスホールで浅田と掃き掃除をしている友禅に、すぐに4階に向かうように伝える。この程度なら、友禅に任せておいて大丈夫だろう。むしろ非力な砂原は邪魔にしかならない。モニタに映しだされた浅田は、手持ち無沙汰になったのか、スタッフルームに入っていった。

 この建物で浅田を一人にしたくなかったため、砂原もスタッフルームに移動する。

大きめのソファに座る浅田は、退屈そうに窓から外を眺めている。砂原は浅田と正面になるように、机を挟んだ向かいのソファに腰掛けた。

「ねえ、おじさん、こんな時間に寝てるの」

窓から目を離し、砂原の顔を見るなり、浅田はそんな疑問を口にした。

「俺には、睡眠欲ってものが欠落してるんだ」

「眠たくならないってこと」

「そうだ。夜になっても、何日間起き続けても、一向に眠くならない。だから36時間ごとに睡眠薬を飲んで、無理やり寝てるんだ」

「なにそれすごい。生まれつきなの」

浅田は好奇心に満ちた声で質問した。

「薬のやり過ぎで、こうなっちまったのさ」

わざとらしく、嫌味な言い方をした。浅田はすぐに申し訳無さそうに俯く。全く想定していない答えだったのだろう。

「気にするな。けど覚えておけ、この中にいる人間は全員ジャンキーか、元ジャンキーかのどちらかだ。普通に見えても、どこかしら壊れちまっているんだ。なあ、友禅のこと、どう見えた」

浅田は突然友禅のことを聞かれ驚いたようだが、すぐに答えを口にした。

「優しい人。すごく。あんなに優しくて丁寧に接してくれる大人と、どう話せばいいかわからない」

優しい。友禅を指し示すのにこれほど的確で残酷な言葉はない。

「あいつが元ジャンキーだって信じられるか」

浅田は首を横に振る。

「そうだろう。優しくていい人。でもな、元薬物中毒者ってのは、この国では犯罪者だ。それは当然のことで、なにがあろうとひっくり返ることはない。クズ扱いされ、ゴミ扱いされ、社会の隅を申し訳無さそうに歩くしか、生きる道がない。そういう存在なんだ」

「そんなひどい言い方」

「でもな、薬物検査に引っかからなければ俺達みたいな扱いにはならない。だから、お前は俺のところに来たんだろ」

浅田は俯いたまま、答えない。

「それでいいのさ。だから俺は商売になる。それが普通なんだ」

話し終えたところで、沈黙が響いた。浅田は気まずそうな、申し訳なさそうな顔をテーブルに移し込んでいる。

何か話題を変えようか、そう思い口を開きかけたところで、甲高い電子音が響いた。それが砂原の懐の携帯電話から響いていることに気が付くのに、一瞬の時間を要した。

取り出し、画面を確認すると『起床時間 見回りせよ』と簡潔な文面が表示されている。砂原が眠る前にセットしたアラームだ。

「ねえ、どうしたの」

携帯を見つめたままの砂原を、不思議そうな面持ちで浅田は見つめている。

「これから患者の見回りにいく」

「そう、いってらっしゃい」

砂原が立ち去ることで、空気が変わることを期待してるのだろう。早く出て行けと言わんばかりの素っ気なさで浅田は答える。

「そういうわけにもいかない。このホテルでお前を一人にするわけには行かないからな」

百聞は一見に如かず。浅田を一人にしないためということもあるが、薬物中毒の行く末がどうなるのか実際に見てみるのがいいだろう。

軽率に薬物に手を出す愚かさを知ればいい。立ち上がり、浅田の不思議そうな顔に砂原は言葉を投げ下ろした。

「一緒に来い。後ろに立って、見てるだけでいい」


*****

「この建物は2階から5階が患者の病室だ。大雑把にだが、症状の重い患者ほど、上の階に収容している」

2階の病室へ続く階段を登りながら、砂原は浅田にこのホテルについて説明をする。

「彼らは自分の意志で収容された者がほとんどだが、薬の禁断症状で被害妄想に取り憑かれたり、暴力衝動が芽生えることがある」

砂原のついて来い、という命令を浅田は意外なほど素直に受け入れた。今は砂原の話しを黙って聞きながら、後ろを付いて来ている。

「ちょうど今、4階で友禅が成人男性の自傷行為を止めているところだろう。そういった、目に見える行動は俺の仕事部屋から監視して、止めさせることができる。

だが、彼らがどのような精神状態でいるかは、直に相対しなければわからない」

「もしかして医者なの?」

階段を登り切り、2階のエントランスに入ったところで、浅田は砂原に聞く。

「違う。だが、薬物に関する基本的な知識と経験はある。治療に関してはそこらの医師よりもずっと詳しい」

問いを聞きながら、エントランスを抜け、目的の部屋へ歩を進める。

 薬物の知識について砂原はこのホテルに来る前から知っていた。そしてこのホテルで、三代という医師から治療のノウハウを授けられた。

 砂原の答えを聞いた浅田は、眉を顰める。心配半分、納得半分といった表情だ。

「信用ができなくなったか」

「あやしいもの。わたし、あなたは薬を配るだけの人だと思ってた。治療とか、そういうちゃんとしたことは、友禅さんがやっていると思ってた」

その言葉が言い終わる程度のタイミングで、砂原は一つの部屋の前で立ち止まる。その部屋の上部は211と書かれたプレートが貼り付けられている。

「友禅は医者だよ。医師免許を持ったな。

 さて、今から開ける扉の先には、20代の女がいる。ちょうど、お前より一回りくらいか。浅田、これから言うことは守らなければ、患者だけでなく、お前の身が危なくなることだ。よく聞け。

部屋の中で大きな声を出すな。患者を指さしたり、触れるようなことをするな。つまり、患者を刺激するなということだ」

「患者さんが、暴れちゃうから?」

「そういうことだ。扉を開けるぞ」

砂原は返答を待たず、211の扉を開く。軋む音すらしない。ただ、後ろに立つ浅田が息を飲む音が、聞こえた気がした。


*****

 狭い部屋だ。

面積は一般的な独り身のワンルーム程度はあるだろう。

しかし、この部屋の本来の用途を思い出させるように中央に鎮座する、大きなダブルサイズのベッドが狭さを強調させている。

 そして彼女はそのベッドの中央にいた。つまり、この部屋のまさしく中央にいることになる。真っ白なドレスを身に纏い、オペラに陶酔するように虚空に目を向けている。

「お加減は如何ですか。美和さん」

先ほど浅田と話していたときと、違う口調だ。医師のように、患者を刺激することのないよう気遣う。しかし、純白の女性は問いに答えることなく、虚空を見つめている。これが彼女の正常な状態だ。何も答えず、何も反応しない。

「今日はめずらしく温かい、いい天気ですよ。外を歩いてみませんか」

砂原は扉の反対側にある、窓を開ける。途端、冷たい空気が部屋を覆い始めた。扉の側に立つ浅田が冷たい、と小さくつぶやく。

「失礼しますよ」

砂原は美和の鎮座するベッドに上がり、その手を取る。枯れ木を連想させるほど細く、茶色がかった左腕から、外気より冷たい温度が伝わる。その腕には、夥しい数の切り傷がある。

美和がこのホテルに来る前から持っていたものだ。これは利き手の右腕以外の身体の至るところに存在する。砂原は、美和が新しい傷を作っていないか確かめる。

両足を改めるために、ドレスのスカートたくし上げたが、その間も美和は反応を見せなかった。

 浅田が何か言うかと思ったが、部屋に入る前に話したことを気にしているのか、何も言わなかった。

「新しい傷がなくて安心しました」

そして窓を閉めようと、ベッドから降りる。その時、大きな風が、部屋を通り抜けた。美和の長い髪がたなびき、銀色の髪飾りが外れる。それがベッドを落ち、扉の前に立つ、浅田の足元に転がった。

浅田は髪飾りを拾い上げようと、その場で屈み、手を伸ばす。やめろ、と砂原が言いかけたが、既に遅かった。髪飾りに触れようとする浅田を、美和は見つめていた。

浅田は美和が自分を見つめていることに気が付き、目が合ったまま動かない。砂原は浅田と美和の間に入るように駆け寄る。浅田の腕の先にある、銀の髪飾りを拾い上げ、美和の手の中に握り込ませた。

「大丈夫ですよ」

その言葉を聞くと、美和はまた、虚空に目線を向ける。それを確認すると、砂原は浅田の手を取り、部屋を出た。その手が少し、震えている。


*****

 美和の部屋を出た後、砂原は他の部屋を簡単に見て周った。どの患者も普段と変わらない様子で、特別な措置が必要でないことを確かめる。

砂原は浅田を患者の部屋に入れなかった。むしろ、美和の部屋に入れたことが間違いだったと、他の患者を見て回りながら悔いていた。

 2階のすべての部屋を見て回ると、スタッフルームに戻る。美和の部屋に行く前の様に、向かい合うようにソファに腰掛けた。

「美和を、211の患者をどう思った」

浅田は美和の部屋を出てから、ずっと俯き、押し黙っていた。15に満たない少女であろうと、実際の薬物中毒患者を見れば、思うところがあるのだろうか。

「あの人、なにがあったの。あんなに傷だらけで」

美和が砂原の元へ運ばれてきた時、既にその身体は利き腕である右手と背中を除いて、ほぼ全身に切り傷があった。

長期間、薬物を使用してくことで、使用者は外界からの刺激に対して鈍磨していく。

鈍くなった身体が刺激を取り戻すには、薬物を摂取し、興奮状態になる必要がある。

それが制限されたとき、常人が耐えられないような方法で刺激を得ようとする。

「美和はね。自分を傷つけるしか、生きる方法がなかったんだ」

 美和の様に感覚が擦り切れた場合、痛みか快楽しか脳が認識しなくなる。

「もう、美和はベッドの上で一日中、どこでもないところを見つめているだけだ。記憶も混濁しているし、自分がどこにいるかも分かっていないだろう。

だけど、それでも反応を見せる瞬間がある」

美和は、髪飾りを拾い上げようとした浅田に反応した。これは、彼女が唯一、愛した人からもらったものだと覚えているからだ。

「どれだけ薬物で摩耗していってもな、残るものがあるんだ。本当に強く思っているものは、忘れない」

浅田は美和の姿を思い出しているようだった。最後に強く思っているものが彼女の純白のドレスと美しい銀の髪飾りなのだとしたら、浅田の目には傷だらけの美和でさえロマンチックに見えるのかもしれない。

「あの人は私に髪飾りを取られると思ったのかな」

「そうかもな。それにしても、呑気なもんだな」

急に刺のある言い回しに驚いたのか、浅田は目を見開いて砂原を見つめる。

「お前、スモークを使い続けていたら、美和の様になっていたかもしれないんだぞ」

砂原の言葉を聞き、不意を打たれたかのように浅田は深刻な顔つきになった。

「お前がここに来たのが早くてよかったな。美和みたいにならなくてよ」

砂原は、浅田の態度に微かな苛立ちを感じていた。

それは多分、必死さや危機感が欠けているためだろう。

砂原の下を訪れる人間の、誰とも似つかない緊張感のなさ。

子どもゆえの呑気さかもしれないが、そのお態度が砂原の嗜虐心をくすぐった。

言わなくても良い言葉。だが、自然と口からこぼれていた。

「お前が中毒になったら、お前の中に、何が残るのかな」


 この会話を皮切りに、二人の間に会話はなくなった。

浅田は今にも泣きそうな顔で、テーブルを覗きこんでいる。

いらないことをしてしまったという後悔があった。そもそも浅田を病室に入れることなどしなければよかった。

このホテルに浅田のような存在を招き入れた事自体が、間違いだったとも言えるが。

 柄にもないことをしたと砂原が思っていると、友禅がスタッフルームに入ってきた。

「砂原さん。410号室終わりましたよ。成人男性は力強くて怖いですね」

「彼ももうすぐ退院だ。もう少しの辛抱だ」

改めて友禅の顔を見ると、柔和で穏やかな人格が伺えた。まじまじと見つめていると、友禅は何かを察したように浅田に声を掛けた。

「お昼ごはんがまだでしたね。患者さんの分も作るついでに、私達もご飯にしましょう」

そういうと友禅は立ち上がり、浅田に声を掛ける。

「浅田さん、手伝ってください」

浅田は友禅に連れられて、キッチンへ消えていった。

 砂原は二人の用意した食事を取ると、仕事部屋へ戻った。

ラップトップには、新着メールの通知が映しだされている。新規に預かって欲しい患者、薬の仕入先からの案内、入院患者の経過報告の要求。するべきことが急に増えたようだ。砂原は一度浅田のことを忘れ、本来の仕事に没入していった。


*****

 17時、スタッフルームで休憩している浅田に帰宅させた。明日も来るように念を押しておいたが、何も答えることなく、元のセーラー服に着替えて帰っていった。エントランスホールを出て行く浅田をモニタから見届けると、砂原は携帯電話を取り出し、電話を掛ける。

「取り込み中なんだけど、お急ぎ?」

風岡だ。

「念の為。浅田は今、ホテルから帰ったぞ」

「そ。問題ないよ。もう家の中でわかることは大方調べ終えたから。いろいろ知りたいだろうから、今から戻る」

頼んだ仕事は進展を見せているらしい。しばらくすると風岡が仕事部屋に現れた。

「まったく、寒くて嫌になる。なんでこんな日に、足を使う仕事させるのよ」

乱雑に外套を脱ぎ捨てながら、風岡は吐き捨てた。窓の外では、葉をつけていない木々が風に揺れている。

「ご苦労様。何かわかったか」

「いろいろよ。とりあえず、もらった住所には浅田の家はなかった」

虚偽の住所。砂原の浅田に対する疑念が強くなった。そうなると、砂原が浅田から聞いた情報のすべてが、本当かどうか怪しい。

「正直もらった資料はあんまり期待してなかった。生徒手帳と送ってきた資料、全然違ったしね」

「生徒手帳?浅田の生徒手帳か。いつの間に見たんだ」

「あれ。あの子を着替えさせたのって、鞄とか服とか私に物色させるためじゃないの?」

確かに今朝、浅田に着替えさせた。それは、清掃のためだけだったが。

「まあいいや。資料の住所に浅田の家がないことを確認したら、次は生徒手帳の住所にいった。すぐ近くだったわ」

風岡はスマートフォンに保存された一枚の写真を差し出す。そこには、大きな一軒家が映しだされている。表札は確かに浅田であった。

「中には入ったか」

「玄関口に防犯シールが見えたから、やめておいた。ハッタリかもしれないけど、空き巣なんて専門外だしね。家の前の駐車場に雪が積もってたから、両親は長い間帰っていないみたいだったわ」

大きな家に、長く帰らない両親。思春期に十分に愛情を与えられない子供が非行に走ることは、不自然でない。

「2階の部屋のカーテンが開いていたから、ドローンで上から撮影してみた。寒くて人通りがすくないから、簡単だったわ。その画像がこれだけど、なかなかのものよ」

差し出された画像は子供部屋だろうか。床が見えないほど服が散乱しており、そのいくつかは破れているように見える。壁際のテレビには美容師が使うような銀色のハサミが突き立てられ、用を成さなくなっている。よく見てみると、部屋のすべてのものが開いている。クローゼットも引き出しも。まるで中身を吐き出すように。

「私の前に、丁度空き巣がはいったのかも。

 とりあえず、なにもしないで戻ったわ。その後は、親戚のふりをして、学校帰りの子に話を聞いた。3人くらい聞いたところで、浅田緑の姉と中のいい子と話が聞けたわ。『緑ちゃんは普通の大人しい子。家出するなんて信じられない。葵ならともかく』。この葵ってのは姉のことね。どうもこのお姉ちゃんは学校では有名人らしいわ。素行の悪さでね」

「姉?そんなこと、聞いてないぞ」

「もらった資料には、両親と3人暮らしって書いてある。だからあの子が意図的に姉のことを隠したのよ」

非行の姉。非行に走るように見えない妹。薬物中毒。そしてここにいる理由。浅田緑の目的と密に関わっている気がした。

「その姉、葵については?」

多分、浅田緑が砂原のところに来た理由は、姉の葵が原因だろう。確信に近い思いがあったが、確かめるように質問をする。

「わたしもお姉ちゃんのことは気になった。だから、その子からもう少し話を聞いたわ。年上の高校生とよく遊んでて、あんまり学校には来てないみたいね。一年くらい前から連絡も返ってこなくなったって」

「その姉、今はどこにいる」

「わからないけど、すぐに見つけられると思うわ。この街で高校生くらいの子供が行きそうな場所なんて、多くないんだから」

 風岡は砂原と今後の調査について話をすると、次の調査に向けて出て行った。風岡と入れ替わるように、友禅が報告に現れた。

「お疲れ様です。今日はもう上がろうと思います」

「浅田はどうだった」

「素直で飲み込みが早いですね。3日と言わずに、ずっといて欲しいですよ」

そして、再度お疲れ様です、と会釈をして友禅は5階にある自室へと戻っていった。

 素直でいい子。普通の大人しい子。どちらも浅田緑を指す言葉だ。そんな性格の少女が薬物に手を出すこと自体は疑問ではなかった。子供は誰しも正直で、目の前の快楽に抗えるほどの強さもない。ただそれは、目の前に快楽が存在した場合だ。多くの子供にとって、薬物など存在すら感じないだろう。せいぜい、教科書に乗っているくらいだ。だが、浅田緑はどうか。近くにその存在を感じていたのではないか。非行の姉、葵。

 浅田緑がスモークを使ったのならば、問題はなかった。なぜ浅田緑が嘘をついたのかはわからない。だが、緑が回復するために、砂原に助けを求めているのならば構わない。しかし、そうでないなら。姉の代わりに緑が治療薬を買いに来たのならば。それは砂原たちのルールに触れる。患者本人の依頼で、治療を行う。砂原が実際の目で患者を見て、初めて薬を渡す。砂原の処方した薬で最悪の事態を招かないための最低限のルールだ。そして、砂原と沖矢の与り知らぬところで、薬が使われるのを避ける意図もある。浅田緑がこのルールに触れるのならば、追い返さなくてはならない。

 そう思い悩んでいると、頭の奥に針が刺さるような痛みが走った。疲労が溜まっているか。それとも自分の根城であるこのホテルに異分子を招いたことが、殊の外ストレスになっているのかもしれない。

 オフィスチェアの大きな背もたれに体重を傾け、目を閉じる。眠さはこない。それは、何年も前に砂原から奪われたものだ。きっかけを思い出す。まだ砂原が捜査官として、薬を追っていた日々。大規模なドラッグパーティに侵入し、主催者を捕まえようとしていた。人でごった返す会場。夏の暑さよりも激しい、人の熱気。狂乱する中毒者の群れに、頭が割れるほどの音楽。耐えられなくなり、群れから離れるとグラスに入った水を手渡された。それだった。それがすべてを変えてしまったのだ。飲み干したとき、砂原の記憶は途切れた。

「再生終了」

そう独り言をつぶやき、目を開けると、いつもの仕事場だった。寒々しく、熱気も狂乱もない。頭痛が収まったのを確かめると、砂原は仕事に戻った。

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