ドストエフスキー×ウラジーミル・ナボコフ 2/2
『プニン』とは、プニン教授の日常と非日常を、彼の生涯を見渡す第三者的視点で描いた、物語である。
読者は、語り手と一緒にプニン教授を観察している、もしくは見守っているような気分でいられるのが、『二重人格』とは異なる距離感である。そして、その距離が話の最後では、曰く、”明確に”なるのだが、それこそが、構成の骨子であったと気付かされる見事さで、思わず息を止めてしまった。
間違ってはいけないのは、ドストエフスキーにおいて、現実の”脅威”として顕現した「より良い自己」は、やはりナボコフにおいても、”好ましからざる”ものとして、近似的な価値付けがされていることである。
そして両者の相違点とはつまるところ、己の生み出した”哀れな”主人公たちを、彼らの”理想”という影の存在、すなわち、ひとたび形を帯びれば敵わない、絶対的強者の前に、進んで突き出したか(ドストエフスキー)、それ以外の方法を願ったか(ナボコフ)、なのである。
あくまで人間の現実を描くのならば、その理想と現実とは、まさしく彼の内面世界のイマジナリーな相克関係にしかない。
すなわち社会という位相で、現実の第三者がそこに介入することは、まずありえない。それが『二重人格』の描くリアル、すなわち、狂気に陥るゴリャートキン氏を、まるで異質なものとして遠ざける周囲の人々の視線に感じる、「私」と「それ以外」の断絶なのである。
ドストエフスキーの描く風景は、どれも私たちの見ている社会にある本質的不安にほかならず、だからこそ多くの読者の「共感」を呼ぶのである。
だが、ここで私は考えてしまう。一つの作品が共感を呼び、「あぁ、確かにこういうものだ」と、どれだけ多くの人が頷いても、その”先”に在るのは一体、何であり得るか?と。
―『二重人格』という作品自体が、現実的な”問題提起”だとすると、
それに対する一つの答えが、『プニン』でありうるのではないか―
それがこの二つの作品を並べて推したい、私の理由である。
また、両作品の主人公たちが体現する”ロシア的平凡さ”、もしくは、”残念なロシア人”のエッセンスを、これほどはっきりと理解できる作品は他に無い。それが二番目の推薦理由である。
善良さが過ぎて、自身の利益を闘って守ることが不得手な精神的脆弱さ、加えて、芸術的繊細さが有り余っているか、もしくは反対に、世俗的な欲得にばかり目が行くという両極端。裏を返せば、この2パターンさえ揃わなければ、”大した問題”ではない、こうした性格。
実際、ロシア的価値観では、そうした凡庸さを、一個のキャラクターとして愛する、いわゆる”ベタな可笑しみ”というものが存在する。
だが、ことドストエフスキーという作家の生きた時代と価値観においては、主人公が木端役人であるという時点で、そうした社会的身分の人間に対する”お約束の態度”がある。つまりは、『二重人格』におけるゴリャートキン氏が、端から”皆の嫌われ者”という立ち位置から自由になることはない、ということである。
そしてその彼が、他の誰でもない、己の自意識によって社会から退場するという容赦のない筋書きは、あまりに現実肯定的、すなわち読者にとってひどく虫のいい展開に外ならない。善悪の問題や、希望の余地を残さず、「こういうものだ」と受け入れてしまうべきか、否か。寂寞とした読後感がもたらすのは、ただ一つ、この問いだけなのではないだろうか。
一方、『プニン』においては、主人公であるプニン教授とは、冴えない容姿の文学講師であり、ただ一つ特筆すべき特徴と言えば、彼が、強い憧憬をもってアメリカへ帰化し、英語と静かに奮闘しつつ、ロシア文学を講じている、その一点のみである。
彼は決してその分野の第一人者でもなく、講義で取り上げる文学作品に、ひとり感情移入しては陶酔のあまり、学生たちの物笑いの種になっていることにも気づかない、極めて”ソフトな”御仁である。
総じてそんな教授が、一部に疎ましく思われこそすれ、無害であるがゆえに、ほどほどに“好かれている”、という感想は、読みはじめればすぐに分かることで、当の本人が、そうした好意に安んじない態度も含めて、微笑ましい。
彼の日々の気のやり方、ちょっとした混乱と失敗、涙さえも、一切隠されることなく、淡々と語られるそのやり口が、本当に色彩豊かで、読む者の心を揺さぶって来る。まるで、夜に開けてはいけないと言われている小動物のケージを、カサコソと聞こえてくる運動音の為に、開けたくなって仕方がなくなる、あの”たまらない感じ”なのである。
「プニン教授は、まさかここまで、自身の喜怒哀楽と一生を観察され、分析されているとは思うまい―しかし、私たち(=語り手および読者)は知っているのだ」という、観劇的満足を覚える読書が用意されている。
これは、古典的な演出方法であるものの、通常、幕間という物理的空間に引かれる境界線が、小説の語り手と主人公の間という、何とも曖昧な領域に及んでいる点で、新鮮かつよりスリリングである。しかし、ナボコフは見事に仕切って見せた。これが感嘆無くして読めない、『プニン』の魅力である。
ここでようやく、最初の問いに答えられる。ナボコフはいかにして、人間の理想と現実との間の”距離”を、図ったか。ドストエフスキーが突き付けたものを、彼はどうしたのか。それは、彼の現実への態度、彼自身の、生活に対する解釈の差と言える。
ありのままの自分。それは救いようのない性格、報われないことの多さ。苛立ちに始まり、次第に心が冷え切るような怒り、憎しみにまで転じるかもしれない。『二重人格』が見せる光景は、まさにその極端な例なのだ。そして、それは、どうしてそうなるのか。何故なら、彼自身が今ここにない自分の姿を、求めるあまりにである。
ここから語ることは、ともすれば称賛されない考え方である。一つ間違えば、人生の選択を間違うかもしれない。
ただ、人間が己の理想と向き合い、そことの距離を縮めて”追いつく”ことができるかどうか。これだけは、本当のところ、確率ではなく、可能性でしかない。努力の多寡に見合う結果は、決して約束されない。そして、それをすべて分かった上で、踏み込むかどうかを決めなければならない、それほどの責任と、伴う価値のある行為ともいえる。
だからこの自覚のないまま、焦燥に駆られて己の今を否定し、理想に吞まれると、その熱量の分だけ、自身を破壊することにもなる。もし、このリスクを取れないならば、と、ナボコフはある選択肢を示してくれる。「理想なんてものからは、逃げればいい。そんな怖いものには追いつかれないように、必死に逃げればいい」と。
プニンは逃げた。
『プニン』という作品、その語り手の前から姿を消した。その逃走自体が、物語の「終わり」を意味したのである。彼の理想がいったいどこに居たのか、それは言わずともわかるだろう。彼の現実をつぶさに眺め、評価していたのは”誰”だったのか。
生きている間に、見つめなければならないのは、本当は何であろうか。己の望む姿、欲望、理想、ここにないもの。そうしたものは望んで得るものと同じだけか、それ以上に失うものを要求する。その恐怖を知らずに、望んではいけないはずのものなのに、あまりに人の社会は、これを勧める。
なぜ?…
ここにあるものを、今の自分を見つめて、より精細に、そして”公平に”評価してはいけない? 変わることは、何も、常に大きな契機でなくていい。現実の自分の生活の見直し、ほんの少しの気付きでも、得られる変化は、予想以上に大きいかもしれないのに。
皆が望むものを、同じように望む必要はない。それは常にここにはなく、永遠に手に入らない物かもしれないから。自分にしか望めないもの、自分しか、自身に与えられないもの。それは苛立ちや悲しみではなく、喜びであって欲しい。
プニン教授の人生は、世間的に見れば、辛いことの方が多く、幸福なのは瞬間ばかり、成功とは無縁。それでも、彼自身は自分を貶めず、日々を生き、他者との穏やかな交友を求める努力を惜しまなかった。
想い一つが、理想と現実に己を引き裂くなら、そうでない生き方も当然にある。
そう思えた作品との出逢いだった。
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