理想の自己と現実
ドストエフスキー×ウラジーミル・ナボコフ 1/2
大学で、ドストエフスキーの『二重人格』を読んだときの感想は、率直に言って、”もっとマシな書き方があるのではないか”、だった。
だが実際、人生に破綻を迎える主人公の視点なんて、どう見繕っても、楽しいものでも、面白いものでもない。作者のアイロニカルな描写によって軽減できる現実の悲惨さにも、当然、限界がある。
"どう努力したところで、救われない人生がある"
"己の望む姿が、目前に顕現したとして、それに敵う「現実」の自分など、ありはしない"
『二重人格』の主要な価値観は、こういうところなのではないだろうか。そう思えば、書き方の注文など、到底無理なことなのかもしれない。しかし、扱われているテーマの普遍性は、この描き方ではどこか、”もったいない”。そんな感想が尾を引いた。
人間の「こうありたい」と、「実際はこうである」、現実の姿との隔たり。
極端な言い方を辞さなければ、これが小さいほど、その人は幸福であり、大きければ大きいほど、”不幸”な人生に成りうる。主人公のゴリャートキン氏は、その刻苦の例の一つなのだ。
彼の望む『理想の自分』は、あろうことか、『別の自分』として社会的地位を得る。そして、彼の目の前に現れては、そのささやかな平穏を端から奪って行くのだが、その”悪意”とは、他ならならぬ、彼自身の『自己憎悪』の裏返しに過ぎない。主人公に、こうしたメタ的視点が欠如し、彼と私、という二人の自分が別々の言動をとり始めた時点で、既に彼の中で、取り返しのつかない錯乱が生じている。
しかし作者は、徹頭徹尾、話の視点と進行役を、この狂っていく主人公から取りあげてしまわない。彼が、現実のルールを無視し、自棄的な暴走に向かおうと、放っておくのだ。
したがって読者は、主人公と一緒に狂気に満ちた感覚に堕ちていかざるを得ない。そうでなければ、彼を見下すもう一人の理想人格に倣って、まるで”他人事のように”彼を眺めるしかない。
ドストエフスキーは、どんな読者にも、悪魔的な素養を自覚させてしまう才能のある作家だと、個人的には思っているが、この作品ではずば抜けて、過酷な読書を強いる訳である。
彼が絶えず問題にしているのは、話の登場人物たちではなく、そうしたアクター達が演じる話を読み、感じる読者の方である。
だから『どう思うか、どう考えるか?』と、彼の話のどれをどう読んでも、常に試されているような気分になるのである。
つまり、彼の取り上げたテーマを引き継ぎ、それを”面白く”描くということは、こうした彼の読者への態度に倣わない、別の価値観を持った作家でないといけない。ただ、それがどういうものか、私は長く思いもよらないでいた。―ナボコフの『プニン』を読むまでは。
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