追想


 冬になると大気を支配する冷気に、かの地の匂いを感じて胸が熱くなる。まるですべてが夢現のようだと思う。わずかな幼少期を過ごした、思い出の中のあの国は、政治的にはもうこの世に存在しない。ウラジオストク港の発展により、ずっと寂れてしまったというナホトカに今戻っても、きっと悲しいだけだろうと分かっている。


あのとき一緒だった父も母もとうに離婚し、「家族」自体との関わりを絶ってしまって久しい。何が懐かしいのか。それは、そこにあった全てのことなのだと、本心から言える。


自分の人生が、傍から見たとき何であったのか。大事な場所や人を想って、大事にしてきたはずだったのに、いつからこんなに、失うのが容易くなってしまったのか。何を捧げて、何を譲らなければ、現在を変えられたのか。あまりに必死な瞬間の連続を、ただ前を向くことでしか、超えてこられなかった自分自身が、周囲にとっての災禍だったのか。


たとえ人の心が透けて見えても、その人と自分との関りは、そんな”非常識”を拠り所にはできない。そんな簡単なことが分からないから、家族にも非情に映った自分。嘘を吐かず、強く、守れる存在でいたかった。病院と縁の切れない家族の中で、ただひとりの健康が励ましになればいいと、何かにつけて”自信家”の自分を強調した。本当は何一つ、根拠など無くただ、この仮面が役に立つことだけが、切実に必要だったのだ。


 人生とは演じることの連続だと言われる。しかし、何を、どれだけの顔を演じる必要があるのか。そしてその事実を、どこまで自分が受け入れ、「生きられるか」は誰も知らない。結果として、頭の中のあらゆる感情が細分化されて小箱に納まるように、解体された自己像の、とりつくしまのない「海」に溺れるだけ。


いったい自分はなんなのか?何を望んで、何をしたくないのか? もしかしたら息の仕方まで、さっきと今では、変える必要があったのかもしれないと考えだす。演じる自分も、装う仮面も、きっとできるだけ少ない方が幸福なのだ。こんなことになるくらいなら、周囲との衝突や、不具合、関係の儘ならなさに、憤りを持つべきなのだ。


そういえば自分は、そうした悩みを抱えたことがない。顧みられない愛情に傷つき、または失望しても、理由は自分自身に求めればよかったのだから、誰を責める必要も持たなかった。


ここではない、どこか。


その場所を探している限り、自分は自由だった。友人や理解者を求めなくとも、自分が「変われる」なら、きっとどこまでも自由なはずだ。心も記憶も、それが自分のものなら、いくらでも切り刻んで、捨てられるんじゃないか。そうしたら、バラバラに捩れていく自分を顧みることも、そんな「自分」たちが銘々に考えることも、何一つ、統一する必要がない。こんなに自由なことは他にない。


嘘をついているのではない。すべてが魂の叫びだった。思考がまとまらないのだから、できることは、獣のように叫ぶことだけ。なりふり構わず、ただ、この身に纏わりつくものを削ぎ払い、どこか別の場所を追い求める。


重要なのは、その移動の根拠であって、目的地は限りなくイマジナリーな理想郷でしかない。そんなことは自覚している。間違いない。その場所へ行くには、”現実の喪失”こそが、手段なのだ。いつしか自分は、そんな風に”独り”になっていた気がするのである。


エンデの「遠い旅路の目的地」の主人公が、いったい何を、とうの昔に失っていたのか。そして彼がその喪失ゆえに、「ここではないどこか」を求めるとき、現実に何を失うことを選んだのか。


もしくは、失うもの自体が既に、彼には無かったのか。イマジナリーな喪失と、現実の喪失が交錯、そして混乱し、喪失の”時点”が、深く覆い隠される。だからこそ、彼が望む”故郷”に辿りついたのだ、という結論自体が、表象世界に結びつき、現実世界に在るカタルシスさえ、永遠に遠ざけてしまう。


 人生の苦痛を、いっそのこと限界レベルまで引き上げ、飽和させようとする「無呼吸」の思想。それは耐えがたい現実の前に、より過酷な仮想の檻を設けて、そこに住まうこと。


ここには住めない、この場所にはいられない。ここは自分の故郷ではない。


それがたとえ自身の真実であっても、イコール、呼応する「ここではないどこか」が存在するわけではないのだ。それでも、そのまだ見ぬ場所を追い求めて生きていくのは、何故なのか。


現実に、いま自分の手の中に在るものを犠牲にしてまで、何が欲しいのか?


希望に生きているのだというのは、あまりにたやすい。彼の希望の為に、いったいどれだけの、誰が、犠牲になったのかを正確に知る必要がある。そして、それに比して彼の希望のあまりの根拠のなさを、明らかにしなくてはならない。そのときに初めて、この作品のもつ本当の惨たらしさが理解できるはずだ。そしてまた、かの主人公に共感してしまった自身の狂気と罪業を、認めることができる様にも感じる。



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